窓の外はまだ明るかった。日の傾き方から察するに、恐らく午後3時前。はリビングを見回して壁掛け時計を探しあてると、自分のカンが当たっていたことを確認する。時刻は午後2時43分。自分はほぼ半日近く薬で眠らされていたのだと気付く。どおりで頭痛がした訳だ。
はダイニングテーブルの上を見やると、しばらくそれを見つめてゆっくりと近づいた。綺麗に畳まれた自分の服の上にロザリオが乗っている。今まで散々自分を縛り付けてきたそれを、彼女は憎々し気に眺めた。結局家を出る時に捨てられなかったので今ここで目にしているのだが、教えを破ってしまった今となっては、もうどうでもいい物のように思えた。神に縋る気など起きもしなかった。
はロザリオを手に取ると、ゴミ箱はどこかと、昼食の準備をしようとキッチンに立っていたメローネに尋ねた。メローネはキッチンの隅に置いてある蓋つきのポリバケツを指さした。はメローネの背後まで歩を進め、その中へロザリオを放り込んだ。
「それ、捨てていいのか?」
「……もう見たくないって気分だから」
メローネは彼女を今日まで処女たらしめたそれが放り込まれたゴミ箱を少し眺めて、手元に視線を戻した。声に出さず、グラッツェ、と内心呟く。
「ところで……私、何をしたらいい?一応ひと通りの家事はできるわ」
はダイニングテーブルから、カウンターの向こうで料理をするメローネに話しかけた。金を払えと言われればそれまでで、彼女は恐らく要求される金額を支払うだけの金を引き出せる。それ以上に何か、共同生活を送る上で要求されることがあるならば、何なりと。そう思って言ったことだった。だが、メローネは少し考えるような素振りを見せて、うーんと唸り始めた。
「……まあ、君の手料理が食べられるなら、それでいいかな」
「お金は?」
「金?……特にそれは考えてなかった」
メローネは、料理を頼んで材料が足りなくなったら買い出しを頼むことになるだろうし、金はその時に、たまに出してくれればいいと言った。
「ほかには?もっとこう、洗濯とか掃除とか……」
「。キミはオレの家政婦にでもなりたいのか?」
「だって、タダ同然で住まわせてもらえるなんておかしいわ」
「タダ?とんでもない。キミっていう素敵な女性と一緒に暮らせるってだけでオレは十分だって思っているのに。……ああ、勘違いしないでくれよ。体で支払えって言ってる訳じゃあない」
は何の躊躇いも無く吐かれるそんな言葉に赤面した。は、男性に褒められることに慣れていない。そもそも、男性とふたりきりで同じ部屋に長時間一緒にいること自体が初めてだった。もちろん、男性に素敵だとか綺麗だとか褒められたのも、言わずもがなである。赤面しない訳が無かった。そして、体で、というクダリで、つい先程までメローネとしていたことを思い出す。
「顔がリンゴみたいに真っ赤だ。本当に可愛らしいな、は」
可愛らしいと言われて彼女はますます顔を赤くさせて、窓の外に視線を逃がした。まともにメローネの顔も見ていられない。心臓がどくどくと音を立てて五月蠅かった。
メローネは初々しい反応ばかりを見せるを愛し気に眺めていた。彼は全く信心深くなどなかったが、この時ばかりは、彼女と巡り合えた幸せを神に感謝したいと思った。彼女を殺しの道具とするため檻に閉じ込めたことなど、最早遠い過去の話のように思えていた。依然として彼女が何故自分を受け入れてくれたのかという疑問に対する答えは見つかっていなかったが、今はこの幸せに身を委ねて居よう。そう思った。
こうして、ふたりの奇妙な共同生活が幕を開けた。
遅めの昼食を済ませた後、メローネは仕事をすると言って書斎に籠った。はメローネに夕食の準備を任され、貯蔵されている食品がどれだけあるか、それらで何を作ることができるかと考え、夕食の準備に取り掛かった。
この二人の関係の始まり方さえ無視してしまえば、それはまるで恋人たちの日常を切り取ったワンシーンのようにも見えた。
「。オレの仕事仲間がこれから来るって言ってるんだが、この家に招き入れても大丈夫か?」
は夕食を取った後、食器洗いをしている間にメローネにそう言われて一瞬手を止めた。
確かメローネは暗殺者だ。その仕事仲間も紛れもなく暗殺者なのだろう。そう思うと少し気の進まない話ではあったが、居候の身である自分にはそれを拒否する権限など無い。そう思い、は大丈夫、という意味を込めて首を縦に振った。
メローネは特にを隠そうとすることも無かった。しばらくして、玄関のドアがノックされる。メローネは玄関へ向かい、鍵を開け、客人を招き入れた。その客人は、キッチンに立つの姿を見るなりぎょっとしてその場に立ち止まった。
「どうしたギアッチョ」
ギアッチョ、と呼ばれた男。スカイブルーの酷くうねった髪を頭部に掲げ、赤縁のメガネをかけ、白のジャケットに白黒のストライプパンツを身に着けた男だった。が軽く会釈すると、男はさらに眉を顰め、メローネに顔を向ける。
「何だァ?あの女」
「オレのガールフレンドだ。・。美人だろ?」
「……お前にオンナができるとはな。物好きな女もいたもんだ」
確かに。とメローネは思った。
ガールフレンド、という言葉を聞いては顔を赤くさせた。
ギアッチョは納得がいかない、という怪訝そうな顔のまま、リビングのソファーへと身を預ける。途端に、彼はメローネと仕事の話をし始めた。あまり耳に入れたくないと思いながら、洗い物を済ませたはそそくさとバスルームへと身をくらませた。シャワーを浴びた彼女が髪を乾かしてリビングへと戻ると、メローネの仕事仲間の姿は無く、メローネはソファーに身を預け、ぼうっとテレビ画面を眺めていた。
「お友達、帰ったの?」
がそう尋ねると、メローネはああ。と頷いた。そして、風呂上がりのの姿をじっと見つめて、近くに寄るように手招きをした。はゆっくりとメローネの傍に寄る。
「また同じの着てるのか?」
「……明日、服を買いに行こうかな。ここに住まわせてもらえるなら、圧倒的に色々と足りないから」
「明日は特段用事も無いし、買い物になら付き合うよ」
「ありがとう。……ところで、私、どこで寝たらいい?」
メローネは顎に手を当てて考える。
「二階に寝室がある。そこで寝てくれ」
「……あなたは?あなたはどこで寝るの?」
「オレはここで寝る」
メローネの言った“ここ”、とは、彼が今身を預けているソファーのことだ。は困惑して、メローネに問いただした。
「あなた、さっき仕事仲間に私のことを恋人だって言って紹介していたわよね?」
「ああ」
「あれって、本気なの?」
「本気さ。キミはどうなんだ?」
は改めて、自分が何故このメローネという男を受け入れたのかについて考えた。このことについて考えるのは二度目だが、考えたところでろくな理由が思いつかないことはわかりきっていた。ただ、この男の酷く優しい眼差しに中てられたと言う他無かった。そして彼女は確かに恋に落ちていた。
これまで男性と関係を持つことどころか、自分の周りにいたはずの数多の男性の中から誰かひとりを選び抜こうという意識を持ったことすら無かった彼女には、男性を見る目が養われていない。今彼女の目の前にいる男は、紛れもない人殺しのサディステトで、世間の一般常識などものともしないサイコパスに他ならない。はたまたまそんな男に好かれ、優しくされ、ごく短期間で愛情までも注がれることになっているだけだ。全くもって希有な出来事である。
は当初、それを理解しているつもりだった。しかし、恋に落ちてしまった彼女にとっては、薬を盛られ、檻に入れられ、拘束され、犯されそうになったことなど、遠い昔のことのように思えてしまっていた。彼が人殺しであるということは、自分の目で見て確かめたことではないので実感もわかない。ただ、この男に愛してもらえているという現状だけに身を委ねつつあった。
「私も……あなたを恋人と呼べるなら、それがいい。だから、その……」
は何か続きを言いたそうにもごもごと口を動かすだけ動かして、まごついた様子を見せる。そんな彼女を、メローネは微笑を浮かべて見つめていた。彼には彼女が何を自分に伝えようとしているのか大方検討はついていたが、敢えて見守ることにした。可愛らしいと、昼過ぎに彼女へ伝えた言葉が再度ついて出そうになるのを我慢して。
「一緒にベッドで寝ても……おかしくないわよね?」
「確かに。……でも、今日はよしておこう」
「どうして?」
「キミにはまだ馴染みの無い感覚かもしれないが、オレは好きな子と一緒にベッドで寝て、セックスしないでいられるほど紳士じゃあないんだ」
「そっ……その。私別に、あなたのことを誘ってるわけじゃ……ただ、ひとりで寝るのが寂しいから……その」
「添い寝だけしろって言うのか?」
「……そのつもりだった」
メローネは、高鳴る鼓動を抑えようとして胸に当てられているの手を取って、恭しくその甲にキスを落とす。
欲望のままに彼女を抱いてしまいたいという気持ちは多分にある。しかしそれよりも何よりも、という天からの贈り物を大切にしたいという思いが強い。自分の気持ちをぶつけるだけでは、きっとこの繊細な女性は自分から離れて行ってしまう。叶うことなら永遠に、彼女と人生を共にしたい。そういう愛は育むべきものだ。急いては事を仕損じるとも言う。
「嬉しいお誘いではあるが、疲れてるだろ。明日買い物に行くなら、夜更かしさせるわけにはいかないし。さあ。二階へ行って、ベッドでお休み」
そう言われて、は自分がまるで子供扱いされているように感じた。だからと言って、服を脱いで彼を誘うことなど、羞恥心が勝ってできそうにもない。その点、まだ自分は未熟なのだろう。
はメローネを恋しく思いながら一人寝室へと向かった。
狭い家だ。二階には部屋がふたつと、廊下の突き当りに物置があるだけだった。その物置に向かって右手に寝室があった。部屋に入り明かりを灯す。ベッドと小さなチェスト、その上にナイトランプが置いてあって、クローゼットが壁にはめ込まれている。あとは床に円形のカーペットが敷いてあるだけで、他には何も無い。必要最低限の物しかない寝室だ。几帳面な性格なのか、ベッドはホテルの清掃が入った後のようにきれいに整えられていた。
はナイトランプの明かりを灯すと、壁のスイッチを押して天井の照明を消した。マットレスに身を横たえて、足元のブランケットを引き寄せそれにくるまる。目を瞑って寝ようとすると、洗濯したてシーツやブランケットのいい香りに紛れて、枕のあたりから嗅いだことのある香水の香りが漂ってきた。
ふと、今日の昼過ぎ――おそらく昼過ぎだ。――にメローネに向けられた眼差しを思い出す。そして、その後のことも。目を閉じることで聴覚が研ぎ澄まされて、胸が高鳴っているとよくわかった。
彼女はメローネにどう身体に触れられたかをよく覚えていた。彼の口が、手が、どう移動していったか。その軌跡をたどる様に、まだ鮮明な記憶を辿りながら手を体に這わせた。
首筋、唇、胸の膨らみと、その突端。啄んだり、指で優しく触れたりされた部分。刺激しているのは自分の手で、思い浮かべるのは恋しいメローネの姿。この快感は、彼によって与えられているのだと思い込む。すると自然と吐息が漏れた。しばらく胸を弄っている内に、ショーツに何かじわりと染み出すのを感じた。
はそれを気持ち悪く感じ、ショーツの中に手を入れた。中指で濡れたそこを人撫ですると、さらりとした液体が指に纏わりついた。撫でたそこは熱く、疼いているように感じられた。彼女はそのまま、おもむろに手を動かして愛撫を始めた。指を手前に引くと小さな突起に触れてしまった。それには少し触れただけだと言うのに、ピクリと身体が揺れて反応する。
ここを舐められて、吸い上げられて……と、は思い出す。あの時は頭が真っ白になった。どうやればまた、あの快感を得られるんだろう。力加減も良く分からない。メローネがきっと上手だったのだ。
その後、指を中に突き入れて刺激しても、メローネに男性器を埋められた時ほどの快感を得ることはできなかった。
他人のベッドの中で自慰に耽りながら、が思い浮かべていたのは、階下のソファーで眠るメローネのことだった。近くにいるなら、彼を誘いに行けばいいともは思った。だが、彼を思って自分を自分で慰めていることが何かの拍子でばれてしまったらと考えると、それは彼を誘う以上に恥ずかしい。肉欲の罪に溺れ行きつつある自分を、まだどこかで否定的に俯瞰して見ている自分がいるのも確かだ。
乱れた下着と寝間着を元に戻し、目をぎゅっと瞑る。それでも、胸はまだ高鳴っていたし、脳はメローネの姿を思い描くことをやめない。
……眠れそうにない。
昼まで散々寝ていたせいか23時をまわった今になっても大して眠気は起こらなかった。メローネは疲れているだろうと言ったが、殺されかけたというのに少しも心労が無い。むしろ、彼女が家を出る時よりも幾分心は晴れやかで、満たされていて、生きていることを実感できていた。これが、人を好きになるということなのか。こんなことなら父親の言うことなんて聞かずに、もっと早くに恋をしておくんだった。
しかし、メローネに愛されるまで、彼女はある種父親の呪縛とも呼べてしまうような“教え”に囚われていた。自分はひどく閉鎖的な世界に閉じこもっていたのだ。ロザリオを捨てた時、彼女は初めてそう思えた。そして、ロザリオを捨てようと思ったのは、メローネに会えてからだった。
きっと私は、家を出なかったら……そして彼に会えなかったら、恋を知らないまま死んでいくことになっていたんだわ。そう思うと、とても恐ろしい。
メローネは意図しないところで、極端とも言える彼女の思考を支配しつつあった。
03: Let hope burn in your eyes
の父親はディベロッパーだった。北イタリアの不動産事業を牛耳り、富裕層向けのタワーマンション等を次々と建て、一代で成り上がった実力者。だがその陰で、黒い噂の絶たない男でもあった。父親は富のためならばどんな汚いことも平然とやってのける。そして、その悪事がばれないように猫を被るのもお手の物。結婚を機に洗礼を受けた彼にとって宗教とは外面を良く見せるためのファッションでしかなく、実のところは神など少しも信じてはいなかった。
だが、彼は娘を飼いならすのに宗教を利用していた。には幼い頃から聖書を与え、教会へ行かせ、神に祈りを捧げさせた。彼の目論見通り、娘は従順で、金持ちの家の娘として何の遜色もない、思春期特有の問題行動等は少しも起こさないような娘に育った。神こそが絶対的存在であり、信じれば救われると教え込まれ、聖書に書かれていることはしっかりと守っていた。
その神の教えによると強い欲望――つまり性的な強い欲望を抱くことは七つの罪の内の一つであり、生殖を目的としたものでない限り許されない。しかし、大病を患い長期間入院生活を送る妻がありながら、父親は若い女性を家に連れ込み、セックスに耽っていた。幼い頃から何かと自分の行動を抑制してきた父親のことは嫌いだったが、父親の寝室から女の嬌声が聞こえた時、嫌いだという気持ちは一気に憎しみへと変わっていった。聖書の説く七つの罪のうちの一つであるということ以前に、母親と自分に対する裏切り。それが許せない。そしておぞましいと思った。憎かった。自分のことは散々抑制させておいて、父親は、自分の欲望は野放しにして、少しも抑制していなかったのだ。
それだけでなく父親は、の結婚相手を指定してきた。それは十も年の離れた有名政治家の御曹司だ。は大学に通っていたが、結婚したらその御曹司に尽くせ。仕事などしなくていいと言われた。一体今までの自分の人生は何だったのか?
極めつけに、一週間前に母親が死んだ。下らない父を最後まで愛していたが、それを除けば完璧な母親だった。にとって母親だけが愛すべき人で、その存在だけが癒しだった。癒しも絶たれた。葬儀から戻った父は存外平気な顔をしていた。葬儀中、公衆の面前で何か話していたときは、白々しく泣いていたくせに。
そして父親をどうにかして破滅させてやりたいとは考えた。きっと何か後ろめたいことをしてきたはずだ。あの男が犯しているのが、肉欲の罪だけにとどまるはずはない。そしては父親の書斎を荒らしている内に、彼の秘密を暴いてしまった。彼女の勘はみごとに的中した。
父親は自社で建設中のビルに火を放たせ、多額の保険金をせしめていた。その際、消防が駆け付けるまで必死に消火にあたっていた現場の作業員が2名死亡した。それだけならまだしも、仕事の成功のために人を何人か殺させていた。――父親は紛うことなき悪人だ。彼女は自分の血を呪った。
は、父親の犯した罪を証明する品を手に、家を出た。
彼女の父親は、一人娘であるを愛していた。だが、独りよがりなその愛情は、結局のところ彼女の幸せを望むというよりも、彼自身の幸せを追い求めた結果向けられたものだった。自分は父親の金儲けの道具にすぎないと、が思ってしまうのも仕方が無いようなもの。
そんな道具になりさがるくらいならば死んでやる。恋を知らないまま、好きでもない男の妻として生きるという牢獄で過ごすも同然の人生に、そんな将来には微塵も幸せなど見いだせない。何も知らない母を裏で嘲笑い、他の女と肉欲の罪に溺れたことも許せない。そして何より、今後の人生を、あの悪党の娘と罵られて過ごすのなんてまっぴらだ。
復讐だった。自分の人生を思うように操作してきたろくでなしの父親に対する復讐だ。父親の所為で人が何人か死んでいる。そのことも許せなかったが、母親や自分に対する裏切りが最も許せなかった。そして、自分が今まで生きてこられたのは、父親が稼いだ汚い金のおかげだ。自分の血肉は、これまでの人生は人の死の上に出来上がっている。彼女はそれをどうしようもなく嫌悪した。
死を選ぶ程のことではないと人は言うだろう。他に道があると言う人も。だが、彼女が握る証拠を上手く使い、牢獄にぶち込んでやったところで、外国の隠し口座にでも移している金でも使って保釈金を払い、父親は戻ってくる。後はどこか物価の安い地域にでも移り住んで、悠々自適に余生を過ごすことだろう。もはや公的で真っ当な手段では、あの男を罰せない。彼にはすべてを失ってもらわなければならない。金にも人にも見放され、完全なる孤独の中、苦しんで生きて欲しかった。
人を殺す勇気も自死を選ぶ勇気も無い彼女にとって、父親への復讐を果たすのに、最も簡単で、最も効果的な方法こそ、他者によって殺されることだった。証拠品は、父親の失脚を望む同業者と警察宛に流している。父親の財産はじきに警察に差し押さえられる。金も地位も権力も名声も無くす。あとは自分が死んで、彼を完全に孤独にするだけだ。
は自分を殺してくれる誰かを探して、ナポリの街の裏路地を彷徨っていた。
自分の死で父親への復讐が完了する。彼女は本気でそう思っていた。それは、彼女が父親に完全にコントロールされていて、自分の人生に意味も目的も見いだせていなかったからだ。
生命維持に少しも苦労しなかった、誰もが羨むような裕福な環境。そんな中で、父親の操り人形として時間を浪費する生活の上に醸成されていったのが、自分の命を軽んじ生きる意味を見いだそうとしない、酷く希薄な、・という自己だ。
希薄ではあったが、彼女は今まで自分のことしか考えていなかったことを思い知る。今まで、人に何かを与えたいと思ったことも無ければ、誰かの愛を勝ち取るために、誰かに尽くそうと思ったことも無かった。何もせずとも与えられ、彼女は与えられる物だけで満足していたからだ。
だが、今は違った。メローネに出会ってしまった。
死にたくない……。もっと、彼に……メローネに愛されたい……。もっと彼と生きていたい……もっと、もっと……。
は、自らが犯す大きな矛盾に気付いていない。気づいていないと言うよりも、意図的に目を逸らしていると言ってもいいかもしれない。彼女が愛してしまった男は、彼女の父親よりもはるかに残虐且つ非人道的な行為を幾度となく繰り返している。それが彼の仕事であり、彼が生き抜く術だとしても、世間一般的な常識から考えれば、どちらがより卑劣で罪が重いかは言うまでもない。
“恋は盲目”を地で行く彼女は眠気が襲いくるまで、階下で眠る暗殺者に思いを馳せていた。