銘々のジレンマに
たったひとつの最適解を

 あれから二週間が経った。メローネは例の家に帰っていない。と生活を共にしだす前のようにアジトに居候している。そういう訳でギアッチョとメローネのふたりはアジトで居合わせることが多かったが、いつもつるんでいたはずのふたりは互いに口を聞かなかった。

 ギアッチョがメローネに話しかけなかったのだ。メローネから話しかけても彼が一度お前と喋る気分じゃないと断ったので、ならば彼から話しかけてくるまで、とメローネは黙っていた。

 驚くことに、メローネはいつも通りだった。リゾットに言われてリサーチしたり、仕事の計画を立てたりとチームのブレーンとして活躍している。実動部隊のギアッチョは仕事がない間はチームメイトの足になったり、暇を持て余してドライブに出かけたり自室にこもってしこたま寝たり。とりあえず、メローネと会わなくていいようにと考えていた。

 メローネを見ると、彼に陵辱を受けていたの姿しか思い浮かばなかったからだ。そうでなくても、暇な頭で考えるのはのことばかりなのに。

 ギアッチョはリビングの三人がけのソファーに座るメローネの隣――真ん中一人分スペースを空けて――に腰掛けた。これで顔を見ずに済む。ここのところずっともやもやと心が晴れず、何もなくても眉間に皺を寄せている彼は尚更機嫌が悪そうな表情を浮べて背もたれに背中を投げつけた。

「おいメローネ、ギアッチョ。はどうした」

 新しく舞い込んだ仕事を誰がやるか話し合うために、暗殺者チームの面々はリゾットに呼び出されていた。

「さあな」

 メローネは無表情にそう言ってのけた。それを聞いてギアッチョは顔をしかめた。さあな、じゃあねーだろうが。と。顔は見えないが、きっと清々しいほど無関心といった顔で言ってのけたはずだ。ピキ、と音がして額に血管が浮き上がる感覚がした。

 は前から一人暮らしをしていたので、用がなければアジトには顔を出さなかった。その用というのが2週間の間は無かったので気にもならなかったが、定刻を過ぎても彼女は姿を現さない。いつもは最低でも5分前には定められた場所にいるのにだ。ギアッチョはたちまち心許なくなって、さらにイライラを募らせていった。

「誰か知っているヤツはいないのか」

 メローネとギアッチョ以外のチームメイトたちは、ぽかんとした顔を見合わせるだけで口を開こうとはしなかった。

 リゾットは部下が話し合いにすら顔を出さないのであれば報酬を受け取る意思は無いものとして扱う。社会的な規範などもとより意識の外にあるギャングを束ねなければならない彼に慈悲の心などない。それがどんなに麗しい女だろうと関係は無いのだ。

 だが、これまで一度たりとも仕事に遅れたり、ましてやすっぽかすなんてことはしなかったがいないのはおかしい。彼女はギャングと言えどもチーム内ではプロシュートに次いで優等生だ。何かただならない事情でもあるのではないか。

 そうは思っても、リゾットは集まった部下たちを待たせるわけにはいかなかった。話は抜きで進められた。その間、ギアッチョは話に身が入らなかった。メローネは相変わらず、何事も無かったかのような顔でいた。

 やがて話し合いは終わり、チームメイトたちは散り散りになってリビングから居なくなっていく。いつもは一目散に部屋を出るギアッチョはソファーに腰掛けたまま、メローネの動向を目ではなく気配で伺っていた。やはり顔は見たくなかった。メローネは何も言わずにその場でラップトップをいじっている。さっそく先程の話し合いで割り当てられた仕事でもやっているのだろう。

「おいメローネ」

 ギアッチョは顔を正面に向けたまま、声だけをメローネに投げかけた。怒気をはらんだそれを受けて、メローネもまたラップトップPCのモニターに目を向けたまま、なんだ、と声を上げた。メローネの声に取り立てて感情は含まれていないかった。

「てめー、はどうした」
「さっき言ったろう。さあな、って。知らないって意味だよ、ギアッチョ」
「言葉の意味を聞いてるんじゃあねーよ。知らねーのが問題だって言ってるんだ」
「どうして問題なんだ?オレはあの女の保護者でも成年後見人でもなんでもないん――」
「どう考えても!今日がここに顔を出さなかったのはテメーの、あのせいだろうが!!だから!!何も知らないってふうな顔してんじゃあねー!!イラつくんだよ!!」

 ギアッチョはソファーから立ち上がり、メローネの襟首に掴みかかった。メローネはうんざりした顔で言う。

「あのなあギアッチョ。テメーの、とか、あの、とか言われてもよくわからない。お前が言ってるのが二週間前の夜のことなら、かたはついているだろう?お前は彼女を見捨てて逃げ出した。オレは彼女と手を切った。それで終いだ。あのあとがどうなったかなんて知らないし、知っておく義務も興味もオレにはない。以上だ。だから、いい加減手を放してくれないか」
「この野郎ッ――」
「2週間前のことで今更だし記憶も曖昧なんだが、そもそもさ、どうしてお前がオレにキレるんだよ。お門違いって思わないか?確かに、お前が心底惚れ込んでて好きだ好きだと言ってつい最近寝た女で遊んでたのは悪いと思うよ。だが、は何て言った?本当のところはお前に気がない。メローネのことが好きなんだってオレの前で言ってお前のプライドを傷つけた。キレる相手は当然、オレじゃあなくてだろ」

 ビッチに捕まった可愛そうな男たち。ビッチに制裁を加えて男たちがすっとしたところでエンドロール。メローネにとってはそういうシナリオだった。ギアッチョも最初はそう思った。だがどうしても彼はを諦められなかった。きっと何か裏があるんだ。が、あんなことをするはずが無い。そんな憶測を頭の中で並べ立てて彼女を養護する口実にしようとしていた。

 ――どうしてあの時は泣いてたんだ?

 モーテルで迎えた朝に見た彼女の流した涙が、いわば根拠だった。ただの淫乱なら、男と寝た後に泣いたりしないはずだ。自分を受け入れてもらいたいという承認欲求が一時的に満たされて幸福感でいっぱい。泣いている暇などないだろうに。

 ――それに、あの夜もだ。メローネと一緒に住んでいる家にわざわざオレを連れて行って、あんなもん見せつけて。……いや、見せつけていたのはメローネだ。

 すべての意思だとは思えなかった。もしそうなら、彼女はあの忌々しい夜に泣きながら謝ったりしなかっただろう。彼女の思いと行動がちぐはぐなのだ。

「……そもそもよぉ。なんでと同じ家に住んだりしたんだ。あいつと好きで付き合ってたのか」
「まさか。付き合ってなんかない。それに、好きな相手とじゃなきゃ一緒に住んじゃいけないのか?ご存知の通りこの街の賃貸物件ってのは値が張るんだ。若者の大半はルームシェアして生計を立てている。お前がアジトに居候してるのだってそういう理由だろ」
「じゃーなんでテメーは今ここに居候してんだ。家に帰れよ。そしたら、が今どうしてるかなんて嫌でも分かるだろうがよ!」
「なあギアッチョ。のことはもういいだろ。幻滅しただろ。あの女がただのビッチだったって、分かって良かったじゃないか。オレはほとほと呆れたんだよ。もう関わりたくないんだ、ほんと」
「いや……」

 そもそもギアッチョにとっては、の貞操観念がどうとかその結果何人の男と寝たとか、そんなことはどうでも良かった。彼女が仕事で仕方なく男と寝ていたことは前々から知っているし、仕事なら仕方ないと本人が割り切っているなら自分にどうこう言う権利も無い。だから彼女にだらしない女だとかビッチだとか、そんなレッテルを貼るつもりもなかった。レッテルを貼って自分の行動をああだこうだと言ってくるおせっかい野郎は大嫌いで、そんな人間に自分はなりたくない。だからにもそんなことはしないのだ。

 ギアッチョが憤りを覚えたのは、好きでもない相手に好きだと言って嘘をついたこと。嘘をつかれて、天国から地獄に叩き落された気分がした。だから怒った。ただそれだけだ。

 はその嘘に心を痛めて、それで泣いていたのだ。言いたくて言ったわけじゃない。つまり言わされていた。――誰に?

「メローネ。てめー、まだあの家の鍵は持ってんのか」
「いや。リビングに置いてきた」
「じゃあテメーは鍵も何もかけねーで出てきたってのか!?」

 ギアッチョはメローネを突き飛ばして戸口へ向った。

「鍵くらい自分でかけるだろう。訳わかんないところでキレるなよな」

 メローネのボヤキはギアッチョの背に投げかけられるだけだった。代わりにバタン、と荒々しく閉じられた扉の音が返事をした。

 こうして彼はひとりリビングに取り残された。今頃、ギアッチョとは元通り、チームメイトとして仲良くやっているはずだったのに。彼の計画は失敗に終わったのだ。

 あんなことに遭ったのに、ギアッチョはまだを気にかけている。振られて現実を突きつけられたのに、彼はを諦められずにいる。彼はきっとあの家にの様子を伺いに行ったんだろう。

 そして今、オレはここにひとりでいる。

 メローネはソファーに背を預けて天を仰いだ。そしてあの夜のことを思い出した。

 に言ったのだ。お前なんかもういらない。それを聞いた彼女はひどく取り乱していた。だからきっと部屋に引きこもって、およそ人間らしいとは言えないような生活でもしているんじゃないか。心を病んで、食べ物も喉を通らず痩せ細って、肌もボロボロで、最悪酒やクスリに頼って苦しみを紛らわせたりして――。

 行ったって、ギアッチョが好きだった彼女の姿では無いだろうな。

 そんな風に思いながら、どうか今度こそ、ギアッチョが目を覚ましますようにと願い、目をつむった。閉じた目の目尻から涙がこぼれ落ちた。だが、望み薄だ。

 がボロボロなら、ギアッチョも我が身がそうなったように悲しむはずだ。ギアッチョのそういう人間らしいところが、メローネは好きだった。



07:壊れた心と体に気休めを



 ギアッチョの予想通りの家の扉は開いていた。この家に彼女がいてもいなくても、どちらにせよいい結果は期待できないだろう。鍵がかかっていてそのどちらかすら分からないよりましだとも言い難い。つまるところ、ギアッチョが望む明るい未来など期待はできないのだ。

 治安が悪いこの周辺で、人の良心などあてにはできない。ならば空き巣程度撃退するのはワケ無いだろうが、今の彼女は恐らく普段通りの彼女ではない。もしこの家にいるのであれば、鍵もかけずにいるなんて正気の沙汰ではないからだ。不安は募る一方だった。

 ギアッチョは扉を開けるのを躊躇って三十秒程ドアノブに添えたままにしていた手を動かした。軋みを上げて開いた――開いてしまった――扉の向うに見えたのは、前と変わらない薄暗く狭い廊下。だが、少しだけ埃っぽいように思えた。

 ギアッチョはひとまず入ってすぐ左手にあるリビングにつながる扉を開けた。開けた向うにの姿は確認できなかった。部屋に足を踏み入れて、奥のキッチンも見たがやはりいない。シンクを見ても、汚れた皿の類はひとつもなく整然としていた。

 リビングを出て、バスルームや物置など、扉という扉を開けて中を確認した。まるで自分が空き巣にでもなった気分だ。早く寝室に行けと内なるギアッチョは急かすのだが、躊躇いがあった。もしかしたら、と最悪のケースを想像していたのだ。だが、早く見つけてやればまだ間に合うかもしれない。そう考え直してギアッチョは意を決し二階へと向った。

 二階に上がると、右手に開け放たれた扉と、左手に閉じた扉の二つがあった。開け放たれた扉に近寄って中を確認する。メローネが寝床に使っていたらしいベッドがそのままにされているだけで、中に人はいなかった。

 確認していない扉は残りひとつ。ギアッチョはごくりと喉を鳴らしてドアノブに手を置いた。そしてゆっくりと扉を開けた。

……」

 ベッドの上に、こちらに背を向けて寝ている女の姿があった。に違いないのだろう。だが、扉が開いた音や、ギアッチョの声掛けに反応は無い。それが寝ているからなのか、はたまた死んでしまっているからなのかは分からない。

、おい……!」

 ギアッチョはゆっくりとベッドへ近づきながら声をかけ続けた。頼むから起きてくれ。起きて返事をしてくれ。そう願いながら。だがその願いも叶わず、彼女に手が届く距離にまで来てしまう。そしてギアッチョは恐る恐る、彼女の肩に手を当てた。外気にさらされていた冷たいそれを掴んで揺らした。それでも彼女は起きない。

 ギアッチョは息が詰まるような感覚に苛まれた。そして下唇を噛みながら、掴んだ肩を手前に引いてを仰向けにした。

 げっそりとして落ちくぼんだ目元、艶の失われた藁のような髪、ハリツヤを失くしがさがさした印象の肌。完全にやさぐれた姿だった。やせ細って今にも折れてしまいそうに見える腕がベッドからだらりと垂れる。

 ギアッチョはその腕をとっさに取って、手首のあたりの脈を探った。かすかな脈拍があった。少しほっとして、彼は耳をの鼻のあたりに近づけて、胸元を見やった。かすかに鼻から息が抜けていく音がした。胸もわずかに上下している。

 生きている。だが、このままだと危ないかもしれない。ベッドの辺りを見回して、酒瓶や精神安定剤の類が無いかと探った。幸い最悪の飲み合わせのせいで生死の境をさまよっているわけではなさそうだ。そこらに注射器が転がっている訳でも、白い粉が微かに残った薬包紙が散らばっている訳でもないので、薬物に頼っていたようにも見えない。きっと、食べ物が喉を通らなかっただけなのだろう。

 ギアッチョはの頬に手を添えて、未だに眉一つ動かさずに寝ているを見つめた。

 こんなになるほど、メローネのことが好きだったのか。お前も、好きなヤツのことを諦めきれなかったんだな。オレもそうなんだ、

「……ん」

 ギアッチョが内に秘めた思いを心の中で呟いてすぐに、がゆっくりと瞼を持ち上げはじめた。眉を顰めて目を細め、窓から射し込む光に照らされた人間に焦点を合わせる。

「ギアッチョ……どう、したの……」

 かすれた声で、は問いかけた。

「どうしたの、じゃあねーよ……バカ野郎……!」

 ギアッチョは起きたばかりのを抱き上げた。驚きこそしたものの、抵抗する余力も何をするんだと文句を言う気力も無いは、ただ黙ってギアッチョの顔を下から眺めるだけだった。抱きかかえられたまま家の外に出ることになって、自分は酷い格好でいるんじゃないかと心配になった。

 あの夜、メローネに別れを切り出された。否、同居を止め、言うことを何でも聞けという例の取り決めも解消する、と言われたのだ。はあの夜、メローネの所有物でいることすら許されなくなった。

 翌朝早々に荷物を持って出て行くメローネの後姿を黙って眺め、彼が扉の向こうに消えた後、はむせび泣いた。狭い廊下に頽れて、何時間か扉を前にして泣き続けた。

 酒を飲んで気を紛らわそうともした。だが、そうやってリビングで酒を呷っていても、思い出すのはあの夜のことだった。次第に食べ物が喉を通らなくなった。無理に噛み砕いて飲み下しても、胃がそれを押し戻した。は、食事と呼べるような食事を二週間の間ほとんどしていなかったのだ。

「どこ、いくの……?」
「病院だよ!の前に、アジトに戻って車に乗っけるんだ!」
「やだ、こんな……酷い格好で、行けないよ……」
「そんなこと気にしてる場合じゃあねーだろうが!!今にも死にそうな顔しやがっていい加減にしろよ!!」
「……どうして……」

 私、あなたに酷いことをした。なのにどうして私のことなんか気にかけるの?そう思ったが、あの日のことはもう思い出したくなかった。は言いかけたを呑み込んで押し黙った。そして久しぶりの人の体温に少しだけほっとした。ほっとすると、彼女はまた眠ってしまった。

 その後、は夜にどこだかの病院の病室で目を覚ました。ナースコールのボタンから発される橙色の明かりと、窓から差し込む月明かりを頼りに見た限りだとそうだった。クレゾール消毒液の匂いが鼻を突く。さらされた腕には点滴の針が刺さっていた。そこでやっと、自分は今病院にいるのだという確信が持てた。

 なぜ自分は病院にいるのか。端的に言えば、鬱を発症して拒食気味になって栄養失調を起こしているからだ。死にたかった訳ではないが、死んだって構わないし、死んだところで誰も悲しまない。そう思っていた。だが現状に鑑みるに、そうではなかったらしい。

 は自分の足元に突っ伏して寝ているギアッチョを見やった。

 彼が死にかけた私を見つけて、ここまで運んでくれた。そして恐らく、目を覚ますまで自分が安心できないからと側にいてくれているのだ。

 ――ごめんね、ギアッチョ。本当に、ごめんなさい。そして、助けてくれてありがとう。

 久しぶりに心臓が動いていると認識できた。胸が熱くなって、感情がこみ上げてきて息苦しくなる。そして自然と涙がこぼれてくる。嬉しいんだか悲しいんだかよくわからない。

 確かに、嬉しいには違いなかった。自滅していく自分を必死に引き止めようとしてくれる人がまだひとりはいる。いや、そもそも、最初からそれはギアッチョただひとりだったのではないか。ここにきて初めて、は気づいたのだ。

 途端に喉の奥の締付けが強くなった。自分はなんて愚かで、自分勝手で、浅ましいんだろう。

 自己嫌悪に囚われたは、やっぱりなにも食べられそうにないと思った。喉の奥が息もできないくらいに狭まっている気がするのだ。だが、今のところ点滴のおかげで空腹感とは無縁で死ぬことすらできない。

 これから先仕事に復帰できるくらいに体が回復したとしても、生きていたいという欲が湧かない気がした。

 何せ、メローネにもう要らないと言われてしまった。きっと彼はもう、私の顔すら見たくないと思っているはず。棄てられた物に存在価値などない。

 だが、必ずしもそうとは言えない。棄てた本人にとってぼろくず同然の不要品でも、その他の人間にとっては必要なものであったりするものだ。

 ギアッチョにとっては、がそうなのだ。

「…………」

 ギアッチョが、寝言での名前を呼んだ。その声が、絶望と孤独感、自己嫌悪に囚われていたを現在に連れ戻した。




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