一週間の療養を経ては退院することになった。退院したと言っても彼女の病は続いている。だが、帰りがけに紹介されたカウンセラーの連絡先を書いた紙は、病院から出てすぐ道端にあったゴミ箱に丸めて捨てた。彼女にはどうやれば自分の心の病が治るのか分かっているからだ。そして、それが恐らく不治の病であることも。
はギアッチョに連れられて自宅――思い出したくもない恥辱を受けて、捨て置かれて、始終泣き通しだった家――へと戻った。戻ってすぐは寝室に向かった。ギアッチョは彼女が階段から転げやしないだろうかとヒヤヒヤしながら一歩後ろについて一段一段のぼっていった。
時刻は午後五時半。ふたりは黄昏時の暗い部屋を奥に向ってゆっくりと進んだ。窓際に置かれたベッドに腰掛けて一息つくと、はギアッチョを見上げた。夕日に染まる彼の顔には暗い影が落ちている。それじゃあオレはこれでと言って帰る気はなさそうだった。
結局、すべてメローネの仕業だった。
は始終言うのを躊躇ってはいたが、ギアッチョがなかなか引き下がらなかったのでことの顛末をしぶしぶ打ち明けることになった。
メローネのことが好きで、メローネと一緒にいるためには、彼の言うことを聞かざるを得なかった。我ながらバカなことをしたと思う。そう付け足して、彼女は自嘲めいた微笑みを浮かべた。
ギアッチョはやはりな、と合点がいってすっきりとした気分になったのも束の間、すぐにまたもやがかかったような気分になって息を詰まらせた。
「いい加減、目ぇ覚めたかよ」
つい、そう吐き捨ててしまった後にギアッチョは少しばかり後悔した。少し偉そうだった。だが、巻き込まれて傷つけられた身としては吐いて当然とも思った。けれど、拒食して身も心もボロボロになるほどの精神的ダメージを受けたの苦しみに比べれば、自分のそれはまだ軽い方だ。だから、この程度の恨み節でとどめておこう。
そんなギアッチョの思いやりなど意に介さないは、窓の外を見やって呟いた。
「目、覚めなきゃ良かった」
「……まだそんなこと言ってんのか……!」
ギアッチョは、まるで自分がやったことを否定されたような気分になった。殺すことしかできない彼が初めて命を救った。への愛ゆえだったそれを――つまりはその愛そのものを――否定されたのだ。
怒りが溢れてくる。の前ではいつもセーブしていたはずの怒りが止められない。だが、それはいつもに比べれば幾分静かだった。
「どうして、私のことなんか助けたの」
わざわざ聞くことでもない。にはわかっている。ギアッチョ本人から思いを打ち明けられて、嘘で私もと返したのだ。だから、疑問を解消するために尋ねたわけではない。
ギアッチョを前にしていると例の罪悪感で息苦しかった。自分が撒いた種だと分かってはいたが、ただ今は息苦しさから開放されてひとりになりたかった。彼から離れたかった。離れるために、彼にもう付き合いきれない、うんざりだと思わせたかった。だがそれでもギアッチョは引き下がらない。
「お前が必要なんだ」
「どうして。私、あなたにひどいことしたわ」
「お前、メローネに散々酷いことされて、あいつのこと嫌になったかよ」
――あ。
それはが前にも思ったことだった。ギアッチョは自分と似ている。彼の言葉で、改めて気付かされた。
「なってねーから、今もそんな死んだような顔してんだろ。お前が、そんな顔してると気が滅入るんだ」
「なら、私のことなんか放っておけばいいじゃない」
「だから、何度も言わせんなよ!オレには、お前が必要なんだよ!だから、死んだような顔して今にも死んじまいそうなお前から離れらんねーんだろうが!!」
怒りよりも悲しみの方が勝った表情だ。ギアッチョは今にもに掴みかかってしまいそうな手を必死にその場に押し留めようとするように、こぶしを強く握りしめて震わせていた。怒りと悲しみに打ち震える彼の様子を見て、もたまらず声を震わせる。
「ギアッチョ……やめて。やめてよ。そんな、優しくしないで。私、あなたに、甘えちゃダメなの。優しいあなたのこと、好きになっちゃう」
「――っ、オレじゃあダメなのかよ……!」
「ギアッチョじゃダメだって言ってるんじゃないの。違うの。私と、あなたと、ふたりじゃ……メローネが、メローネがっ――」
ボロボロになってもう息もできないというほど胸が苦しいのに、今も尚はメローネのことを諦められずにいる。メローネへの思いが報われることが彼女の望みだ。だが、未来永劫叶うことはない。そうと知っているからこそ、彼女はやはり自分の感情を殺すのだ。今度は自分の幸せのためでなく、メローネの幸せのために。
「――壊れちゃうよ。私が、ひとりぼっちになるのはいいよ。でも、メローネがそうなるのはダメなの!だから、ダメなの……お願い、お願いよギアッチョ。分かって……」
メローネには、あなたが必要なの。メローネが幸せでいるためには、あなたが必要。だから、私はメローネからあなたを奪うようなことはできない。これは私の口からは言えない。気づいて、察して、頼むから。私から離れて、メローネが壊れる前に。早く、彼の元に戻って。そうすれば、きっと上手くいく。
「んなこたあ分かってんだよ……」
メローネが、自分に親愛を抱いていることくらいとうの昔から知っていた。親愛なる友よ、とただ友人に向って言うよりも深いそれに気づいていたのだ。ギアッチョは彼と共にいる時間を心地よく感じていたし、酷く扱いづらい自分をそのまま受け入れてくれる彼の存在には感謝していた。彼がそばにいると、孤独を忘れることができた。
だが、意図してなのか意図せずなのか知らないが、その関係性を壊したのは他でもないメローネだ。彼はメローネにもしっかりと怒っていた。それは、少し精神的に幼いと自分でも自覚できているが、ここ何週間か彼を無視することで表現していたつもりだった。
「分かってるんだよ、あいつの、メローネの気持ちがどうかは分かってる!けど、オレはそれに応えられないんだ。それでも、オレはあいつのことも、大事だから……なのに、全部ぶち壊したのはアイツだろ!?どうすりゃあいい。どうすりゃ、元に戻れるんだ。オレは……オレが落ち着けるのは、お前たちふたりと一緒にいる時だけなんだ……。オレはそれを……大事にしてた。でも壊れちまった。……どうすりゃいいかわかんねーんだよ!!オレには、もうどうすることもできねーんだ!!」
メローネに、のことが好きだと打ち明けてしまったのがこの問題の根源なのかもしれない。だが、例え口で打ち明けていなかったとしても、目は口ほどに物を言うと言うし、こうならなかったと言えるわけでもない。
問題を解決するための具体的かつ現実的な方法などいくら考えても思い浮かばず、現実から目を背けて時間に解決してもらおうと思っていたことが間違いだった。が死にそうになって初めてそう気づいたから、ギアッチョは今、答えを求めて彼女のそばを離れられずにいる。
時を戻して過ちを正す以外に方法は無いんじゃないかと絶望して、ただただにすがっているのだ。情けない。情けなくて仕方がない。
ギアッチョは悔しくなって、溢れてきかけた涙を隠すように壁際にしゃがみこんで頭を抱えた。彼がそうなってしまうのも当然だ。そもそも彼は何も過ちなど犯していないのだから。
「ギアッチョ。あなたは何も悪くない。全部、私のせいよ。私があなた達の間に割って入らなければ、こんなことにはならなかった」
けれど、そんなことを言ったってなんの解決にもならない。起こってしまったことを嘆いても、過去は変えられない。
――じゃあ、どうすればいい?メローネの幸せのために、ギアッチョへの贖罪のために、私は何をすればいい?
はたったひとつだけ答えを見出した。それが最適な方法かどうか確証は無い。それでも彼女は、彼女ができる限りのことを尽くそうと思った。
「ギアッチョ。私、ここで生きてるわ」
はベッドから立ち上がり、壁際にしゃがみこんで丸くなっているギアッチョを抱きしめた。
「ごはんも、頑張って何とか食べる努力をする。仕事もちゃんとやる。だからたまに、ここに私に会いに来て。私、ここであなたを待ってるから」
無い愛を、あると仮定して。
「ギアッチョ。私、あなたのために――」
ひいては、メローネのために。
「――いつだってここにいる。約束する」
この、どうやっても成り立たない関係を、成り立たせられないだろうか。
「そうしたら、また笑ってくれる?いつものあなたで、いてくれる?」
そう言って微笑みを浮かべて、はギアッチョの頬を掌で包み優しく持ち上げた。そして、涙で濡れた唇に優しくキスをした。
残酷だが慈愛に満ちたそれに、ギアッチョは救われたような気がした。
Epilogue
冬がきた。吸い込んだ夜の冴えた空気が鼻腔を撫でるのが痛いような心地いいような、そんな頃。仕事から帰ったメローネとギアッチョのふたりは、彼ら以外に誰もいない静かなダイニングキッチンで、カウンターテーブルの傍に並べられたスツールに腰掛け酒を飲んでいた。夕食も取らず仕事に専念していた彼らは、グラスを満たす赤を見た瞬間に忘れていた食欲を思い出した。
メローネは冷蔵庫の中を漁ってハムやチーズを取り出し、薄くスライスして軽くトーストしたバゲットにそれらを乗せてブルスケッタにした。ギアッチョが美味いといいながらそれを頬張る。ついでに残り物のミネストローネも温めてカップによそってすすり、冷えた体を温めた。メローネはギアッチョと過ごすこの何気ないひと時が戻ってきた幸せを噛み締めていた。
「なあ、メローネ」
美味いブルスケッタのおかげで酒が進んでしまったせいか、顔をほんのりと赤くしたギアッチョが項垂れながらボソボソと相方の名を呼んだ。
「ん?どうしたギアッチョ」
「頼みがあるんだ」
「なんだ。言ってみろよ」
「のことなんだ」
そう言った後、ギアッチョはメローネの顔色を伺った。久方ぶりに聞いたその名前に、メローネは大して動揺する様子は見せない。彼は雑然としたキッチンの棚に並ぶ瓶やなんかを見ながら、もう一度「なんだ」と呟いた。
「あいつ、やっぱダメなんだよ」
「何が」
「オレじゃあ、ダメなんだよ」
そりゃあ、そうだろうな。だって、アイツが好きなのはきっと今も変わらず、性懲りもなく、オレなんだろうから。
そんないけ好かない考えは口にしなかった。彼はギアッチョを怒らせたいわけではない。そうだ。怒らせようとしたわけじゃあ、なかったんだ。彼を――
「オレじゃあ、ダメなんだよ。笑いはするんだ。でもさ、やっぱりどっかから元気みたいな笑い方すんだよな……。元から太っちゃいねーのに、やせっぽちになっちまってよぉ。食いはしても、全然、量を食わねーんだよ。……なあ、メローネ。オレは、お前にはなれねーんだ。こんなに、オレがお前だったらって、毎日毎日考えるのっておかしいよな。きっと、気が違っちまってんだよオレは。なぁ、メローネ。だから、頼むよ……頼むから」
――彼を苦しめたいわけでもなかったはずだった。なのに、オレはいったい、何をやっているんだろう。
まるで子供のように、目を真っ赤にして泣きじゃくりながら、ギアッチョは訴えていた。そんな彼の姿を見ていると胸が締め付けられた。
求めていたふたりきりの日常が、平穏が、戻ってきた。そう思っていた。だがギアッチョは普通通り振る舞う裏でまだを思っていたのだ。
気づいてはいた。たまにギアッチョがを気にかけて、例の家に行っていたのも知っている。だが、あれっきりギアッチョはアジトでを見ても挨拶もそこそこに目で追ったりしなくなったし、仕事を一緒にする機会も無くなった。恐らく、リゾットあたりが気を利かせて他のチームメイトと仕事をするようになったのだろう。もで、目を合わせてもにこりと笑うだけだったし、彼女の態度は関係を持つ前よりもドライだった。とにかく、ギアッチョはの存在や彼女への好意といったものを感じさせなくなったし、は自分への関心を示さなくなっていた。
だから、もとに戻れたような気がしていた。だがそれは幻想でしかなかったのだ。幻想を見せる傍らでギアッチョは苦しんでいたのだろう。どうやっても手に入らないものを求めて足掻いて、そうと悟られぬようにとらしくもなく振る舞ったりして。そして今、溜まりに溜まった苦しみや悲しみが、堰を切ったように溢れ出てきたのだ。
「ギアッチョ……」
「頼むから、あいつを……を、元に、戻してくれよ……オレの日常を、返せ……。お前がぶち壊したんだから、お前が責任もって、元に戻せよ……!」
分かっていたはずだった。欲しい物がどうやっても手に入らないのは、オレだって一緒だ。それが悔しくて、憎らしくて、いつしか自分を見失って。一番大切なものを傷つけていた。大切なものが大切にしているものを、傷つけて。
なら、それを直せば、もとに戻るだろうか。お前はまた、前みたいに笑ってくれるか?
そうメローネが声に出して尋ねる前に、ギアッチョはすすり泣きながらダイニングテーブルに突っ伏して寝入ってしまった。メローネは立ち上がりギアッチョの肩にブランケットをかけた。そして壁掛け時計を見やった。時刻は23時30分。メローネはダウンジャケットを身に纏い、ギアッチョをひとり残してアジトを後にした。
ひとりで活用するにはいささか広い、冬のリビングルームは寒かった。暖房器具を揃えるよりもひとり毛布にくるまっている方が経済的だと判断したは、風呂上がりに例によってアクリル製の毛布にくるまってホットミルクを啜りながらぼうっとテレビを見ていた。とはいえ、もう日を跨ごうという時間にやっている番組なんか大して面白くも無く、とても上品とは言い難いトーク内容でタレントが同士がくっちゃべって盛り上がっているだけで段々と辟易してくる。我慢ならなくなって、とうとうはテレビの電源を落としリモコンをローテーブルの上に放り投げた。
困ったことに、最近は眠るのにも時間がかかった。あれだけつまらない番組を見ていたというのにあくびのひとつも出やしない。こんなことなら、今日の昼に行った本屋でフェルマーの最終定理についてとうとうと語る数学者の書いた学術書でも買って来るんだった。なんてことを考えながらはソファーから立ち上がった。寝れやしないだろうと憂鬱になりながらも、二階の自室に向かおうというのだ。
そうして寝支度を済ませてリビングから出て階段へ向かって歩いている時、背後にある玄関のベルが鳴った。ギアッチョだろうか?こんな時間に訪ねてくるなんて珍しい。そう思って振り返り、は玄関へと向かった。扉の前に立ち、かちゃりと音を立てて鍵を回してドアを開けた。
「やあ、。……なんだか、久しぶりだな」
「っ、メロー、ネ……?」
押し開けた扉の向こうにいたのはメローネだった。眠れない夜にどうしても思い浮かべてしまう彼。きっと今夜もそうなるのだろうと叶わぬ願いに胸を痛めていた矢先のことだ。はあまりに唐突な出来事に、息をするのも忘れてただ茫然とその場に立ち尽くした。
会うこと自体が久しぶりというわけでは無かった。もうメローネへの思いは本人はもとより人の前で表に出さないと心に決めていたので、仕事の都合上どうしても必要という時以外以前にも増してアジトに訪れないようにしていたし、メローネと会ってもアイコンタクト程度に留めて――笑いかけてもメローネはにこりともしなかったが、は少しも気にしていない風を装って――いた。その所為で、最早彼と面と向かった時にどう話し出せばいいのかすら分からない。何といえばいい、とどぎまぎして言葉を詰まらせている間メローネを見つめていたの胸は、しばらく忘れていたときめきに高鳴っていた。
もう忘れるのだと自分に言い聞かせて、彼の幸せを願って押し殺していた感情が溢れ出して、目からぼろぼろと涙が零れ落ちていく。
「入っても、構わないか」
バツが悪そうな顔で、メローネは涙を流すから目を逸らして言った。いつもの横柄な態度は無く、気勢の殺がれた様子の彼の問いにはゆっくりと頷いて、メローネを家の中へ通した。
メローネは着てきたダウンジャケットを脱ぎながら冷え切ったリビングに入ったとたん眉間に皺を寄せた。
「寒いな」
「……ごめん。こんな広いリビング温められるような暖房器具、そろえる余裕、無くてさ」
「ならさっさとこんな家、出て行けばいいだろ」
「そうだね。……その通り、だと思う」
大して思い出があるわけでも無いのに未練たらしく住み続けて、まるで戦争に行って死んだ夫を待ち続ける妻みたいに陰鬱な顔しやがって。お前がそんなだから、ギアッチョが苦しんでるんだ。
憤りに任せてそう吐き捨てそうになるのを、メローネは口を噤んで堪呑み込んだ。そしてソファーに腰掛けて、テレビの暗い画面をじっとみつめた。今しがた気づいたのだった。彼女を陰鬱な顔にしているのは、他でも無い自分だと。それがギアッチョを苦しめているので、結局悪いのは全部自分だ。アジトからこの家に向かうまでに、メローネは珍しく負い目を感じていた。
はメローネをリビングに通した後、戸口から2、3歩進んだ辺りから動こうとしなかった。ソファーに座って背中を丸め手を組んで黙ったままでいるメローネの姿を、目を潤ませて見つめていた。
「メシ、ちゃんと食ってないんだってな。骨と皮だけになったミイラみたいな女なんて誰も抱きたがらないぞ」
「別に……抱かれたい人なんか、いないよ」
大した嘘つきだ。嘘の掃き溜めみたいなこの家にいるから仕方のないことなのかもしれないが、それにしたって出来が悪い。いくら演技が上手かろうと、こればっかりは誤魔化せない。オレを見た途端涙を流しているくせに。辟易してもう二度と会いたくないと思っているなら、わざわざ家に入れたりしないだろうが。
「ギアッチョが心配してる」
「ええ……」
「……君が一度、作ってくれてたあのパスタ、旨かったのにな。自分じゃあ作って食べないのか?」
あの、冷えたパスタのことを言っているんだろうか。たった一度きり作っただけのあれのことを。
胸が締め付けられて息が詰まる。は顔を伏せて、少しばかり声を荒げて言った。
「……っ、メローネ。こんな時間に、どうしたの。私、もう寝ようとしてたとこなの。悪いけど、仕事の話とかじゃあないなら、帰ってくれないかな」
「眠れるのか」
「え?」
「どうせ、眠れないんだろ。だから、そんな不健康そうな顔してるんだ」
「何。……何なの。私の、健康状態がそんなに知りたい?……殺しに、きたのね。私のこと。リゾットに、殺してこいって言われた?それとも、あなたの……あなたの意思?」
声が震えている。メローネはに顔を向けていなかったので、彼女の声しか聞こえなかったが、泣きじゃくりそうになるのを必死にこらえながら話しているように聞こえた。
「リゾットは君を重宝してる。彼に忠実で素行も良くて仕事も失敗知らずだしな。だから彼が君を殺せ、なんて言うはずがない」
「じゃあ、あなたの……意思なのね」
「……まあ、オレが今まで君にしてきたことを考えれば、そう思われたって仕方がないか」
メローネはひとつ溜息をつくと、ソファーに背をもたれて天井を見上げた。
「今日さ、仕事終わりにギアッチョと、ふたりで飲んでたんだ。そしたら……あいつ……、急に泣き出して。初めて見たんだ。アイツが泣くとこなんて、初めてみた。あいつの鬱憤は全部怒りで発散できるものだと思っていたのに。……それで、気づいたんだ」
メローネは立ち上がり、ゆっくりとに向って歩きだした。迎えるはとっさに手の甲で涙を拭い、目を見開いてメローネを見据えた。メローネもまた、顔を上げてを見据える。ふたりの視線がぶつかり合う。
生気を失くした、救いを求めて何かに縋ろうとするような弱々しい表情に、はたまらなくなった。メローネをこうしてしまったのは、私だ。そう思った途端にまた、顔を上げていられなくなって床に視線を落とした。
足元にメローネの影が迫る。メローネになら、何をされてもいい。殺しにきたにしろ、その他の目的があるにしろ、今、メローネは自分の前にいる。そしてメローネの言葉は、自分に向けられている。その事実がただただ嬉しかった。いくら虚勢を張ろうと、メローネを愛していることに変わりは無く、もはやそこに彼がいるだけで満たされるようだった。だが、同時に不安でもあった。
「気づいたんだよ。君が、笑っていてくれないと、ギアッチョは笑ってくれないんだ」
死の覚悟が半分、もう半分はメローネという存在を失うこと――そこに有るものは、いずれ失くなるのだ――への不安。そんな、今にも沈み込んでしまいそうな心を抱きとめるような抱擁。寒いからこそ際立ったそれに、はほっとする前に驚いて、ぴくりと体を揺らした。
強張った体をメローネはきつく抱きしめた。相手を安心させようというよりも、自分が安心するためにそうしていた。
「。許して、くれないか」
は黙って聞いていた。じわじわと広がっていくあたたかさと、その優しさに胸がいっぱいになるようだった。いつだってそうだ。彼を前にすると感情は忙しなく変動する。いいようにも、悪いようにも。だから、生きていると実感できた。久しぶりに得られたこの感覚は嬉しかった。
「今まで、君にしてきたこと。もう、二度と君を、傷つけたりしない。……約束するよ。約束する。だから――」
ギアッチョが、もう泣かないように。そして、幸せに、笑っていられるように。
「――笑っていてくれ。オレがここにいれば、君は笑ってくれるか?元に、戻ってくれるか?」
偽りでもかまわない。愛する人の熱を近くで感じられるのなら、生きていられる。笑っていられる。例え熱の中に潜む真意が、自分に向けられたものでなくても。確かに感じられるものがあるなら。
はメローネの腕の中で頷いた。頷いて、遅れて声を上げた。
「それがあなたのためになるのなら、喜んで」
銘銘のジレンマにたったひとつの最適解を
(無い愛を仮定して成り立つ関係性について)
(fine)