Holiday

 目が覚めたところで早速、は利き手が使えないという不便に悩まされていた。ぐるぐる巻の包帯。まるでボクシンググローブでも嵌めているような手。ああ、しくじった。彼女はベッドに腰掛け不均一な大きさの両手で頭を抱えた。

 こんなヘマをやったのは幼少期以来、久しぶりのことかもしれない。初めて包丁を握って――というよりも、握らされて――それから少し経って慣れ始めた頃に一度大怪我をして大出血をしたことがあった。失血のショックか何かで気を失って倒れたところを、母親が見つけて病院へ連れて行ってくれた。けど、あの女はセッコほど心配していなかったし、なんなら起き抜けに頭を何度も叩かれたくらいだ。このグズ。余計な金かけさせやがって。とかなんとか、母親らしからぬ罵声を浴びせかけられながら。

 とにかく、はそれ以来、包丁を握るときは必要以上に注意するようになった。必要以上の注意を払いながら、スピードは落とさずに刃物を扱うという芸当を身に着けた。そのはずなのに。

 どうして、あんなヘマをやってしまったんだろう。

 昨日のことを思い出す。いや、思い出すまでもなかった。の心に巣食うもやもや、うずうずという感情は今も膨らみ続けていたからだ。

 チョコラータさんは大丈夫かな。頭痛、治ったかな。

 は自分の裂けた掌のことなどそっちのけでチョコラータを思っていた。どう考えても、心配すべきは何針も縫わなければ快方に向かわないであろう裂傷を負ったの方だ。しかし彼女には痛みを感じることができないので、少し貧血気味でふらふらする気持ち悪さと、利き手が使えないという不便しかなかった。世間一般の考えがどうあれ彼女の中では、今心配すべきことは断然チョコラータの頭痛の方だった。

 チョコラータが頭痛で苦しんでいるという事だけなら、それほど動揺することも無かっただろう。頭痛で地下にこもったチョコラータと夕食を共に出来なかったことこそが、不注意の直接的な原因だった。会いたかった。例え同じ屋根の下に住んでいても、いや、だからこそ、会えないというのがには苦痛でしかなかった。切なさが胸を締めつける。

 どうか、チョコラータさんの頭痛が治っていますように。握れない拳をもう片方の手で包んで目をつむり、そう願った。とりあえず下へ降りよう。はひとまず部屋を出ていつもの仕事に取り掛かることにした。朝食を用意して、洗濯物を回して、掃除をして――。

 部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。ベッドから降りて一苦労して衣服を着替え終わった直後だった。は扉へ駆け寄りドアノブを握ろうとしたところで、咄嗟に怪我した手を背後に回し、はいと返事をして扉を開けた。

「朝早くからすまない」

 チョコラータは乾ききっていない髪――彼は朝起きてシャワーを浴びてから朝食をとる習慣があった――をタオルで拭いながら言った。

「姿が見えなかったんで心配したぞ。何かあったのか」
「い、いえ……」

 セッコには“絶対”チョコラータに縫ってもらった方がいいと言われたが、はあまり気がすすまなかった。ただ、開きっぱなしの傷口から血を垂れ流しながらとなると、家事に支障が出る期間が延びてしまうかもしれない。それがかえって迷惑かもしれないし、痛みを我慢できるなんておかしいと思われてしまうかも。がそこまで考えてようやく口を開こうとしたところで、チョコラータは訝しがるような表情を浮べた頭を傾け、の背後に目をやって言った。

「怪我したのか?」

 彼の視線の先――クローゼットのわきに置いてある姿見が、背後に回されたボクシンググローブのような白い固まりを映していた。は驚いて背後を振り向くと、ああ、また失敗した。とがっかりして、しょんぼりしながらしぶしぶ答えた。

「は、はい……。すみません」
「謝らなくて良い」

 チョコラータはの怪我した方の手を取って、それをあまり動かさないようにして見つめながら続けた。

「包丁で切ったのか」
「はい」
「看てやろう。地下室に来なさい」

 そこは立ち入りを禁じられたはずの部屋だ。がその点を指摘すると、チョコラータはああ、そういえばそうだったか、と言った。

「あの部屋は診察や治療そして手術をやるための部屋なんだ。当然、薬局じゃあ手に入らないような薬――麻薬とかな――だって保管してある。以前、それを知って嬉薬を勝手に持ち出した使用人がいてな。以降、使用人には立ち入りをしないように言って、鍵を与えないことにした。。おまえにはそんな悪癖はなさそうだし、針を使わなきゃならないような傷なら、地下室へ来てくれた方が手間が省けていい」
「わかりました。チョコラータさんが、そうおっしゃるなら。本当に……お手間をかけさせてしまって、申し訳ありません」
「なんてことはない。私はこれでもそこそこできた外科医だったんだ。5分とかからずやってのけるさ」

 その立派な外科医様が、どうしてこんな辺鄙な場所で闇医者をやっているのか。はその理由を知らなかったし、訊ねもしなかった。

08: Like I Love You

 が想像していたよりも地下室は広々としていた。この邸宅は石造りで、地上階でさえしんと澄み渡る静けさと冷たさを感じられるが、地下ではそれがさらに深まるような気がした。厳密に言えば半地下で、壁の天井付近に明かり取りがあり、昼間は照明をつけなくてもそこそこ明るい。
 
 部屋は仕切りのない長方形の一室だったが、概ね用途別にエリアが分けられているようだ。扉から中へ入って左手奥は、ソファー、ローテーブル、本棚、テレビなどが置かれた、リビングルームに近い役割を持ったエリアがあった。チェストの上には電気ケトルとマグカップ、インスタントコーヒーなどが揃えられており、そのすぐ横にはこぢんまりとしたデスクもあった。

 残り――右手側は医療エリアだった。エリアのちょうど中央に、モルグにある――検死体を乗せて検死解剖でもする時に使う――ようなステンレス製の台が置いてあり、そのわきにキャスターのついた丸椅子と電動式の手術台が設置されていた。それらを取り囲むように、壁には棚――薬瓶や手術用に使うのであろう大小様々な器具が取り揃えてある――があり、天井には無影灯がぶら下がっていた。

 チョコラータはに手術台へ乗るように言った。背もたれは起きた状態だったので、リクライニングチェアに身を預けるのと同じ要領では手術台に乗った。すると、チョコラータは足元のスイッチを踏んで手術台の背もたれを少しずつ倒し、彼女の体が水平になるようにした。幅広のアームレストに怪我した方の腕をそっと乗せると、チョコラータは彼女から見えない所へ行って何やらカチャカチャといわせ、必要な薬剤や器具をトレーに乗せた後無影灯の明かりを付けた。それが一瞬、の目を眩ませた。

 さあ、ここからが“女優”としての腕の見せ所だ。

 は意気込んだ。それが自然と、包帯を解かれることへの恐怖心をあらわにしたように見えたらしい。

「大丈夫。怖がらなくて良い」

 チョコラータのその穏やかで優しげな声音にまた胸が締め付けられて心臓がどくどくと音を立てる。また血液の巡りが良くなって傷口から血が大量に吹き出やしないかと心配になるほどだった。そんな心配をよそにチョコラータは着々と作業を進め、やがて傷口をあらわにした。別にそれを見たって痛くもないしぞっともしないが、痛みを感じることができる人たちなら、普通は自分の体に開いた大胆な傷口なんか絶対に見たくないはずだ。見れば傷を負った時の恐怖を想起させるだろう。そして今も触られるだけで痛いはず。

 そんなわけで、は傷口からしかめっつらを背けていた。実に上手い演技だった。

「ふむ。止血はきちんと出来てるようだ。まるでボクシンググローブみたいにしつこく包帯を巻いていたからだろうな。……それにしても、深い傷だ。痛むだろう。……今麻酔をかけてやる」

 注射器を取った音に怯える風を装う。ちょっとチクリと痛むからな、なんて医療従事者が注射や献血の前に病院で必ず言うようなことを、何も知らないチョコラータが言った。そして針先を埋ませようという場所を軽く消毒した後、間髪入れずに注射した。はっと息をのむような仕草も完璧なタイミングでできた。は自分の演技のうまさに心のなかで密かに称賛を送った。

「手を動かしてみろ」

 は言われたとおりにしようとした。けれど、当然ながら麻酔を打たれた手はぴくりとも動かなかった。

「……動かせません」
「よし。これから縫っていく。しばらくじっとしていてくれ」

 チョコラータの言った“しばらく”は概ね5分程度だった。終わったぞ、と言われ怪我した手を見ると、そこそこ大きな裂傷がしっかり隙間なく縫い合わされた後だった。

「麻酔が切れるまで、そこでゆっくりしていけばいい。コーヒーでも淹れてやる」
「そ、そんな。チョコラータさんに、そんなこと」
「利き手が使えないおまえがやるより、私がやった方がいいに決まってる。そら、文句を言っていないでさっさと行かないか」

 チョコラータは足元のスイッチを踏んで背もたれを起こすと、まるで悪さをする可愛らしい子猫を追い払うような仕草でを手術台から追い立てた。

 はおずおずとリビングエリアに向かった。そして奥にあるソファーのそばまで寄り座る位置を決めると、ソファーに背を向けて身をかがめた。じわりと体が座面に吸い込まれていく。行くところまで行き着くと、適度な弾力が、体に接している面を優しく包み込んだ。

 なんて座り心地の良いソファーだろう。きっと高級品だ。は腰掛けた後座面を掌で押してみて改めて確信した。沈み込み方と、その反対の反発力のバランスが非常に良い。何時間でも座っていられそうだし、なんならこの上で四半日寝てしまっても体を痛めることがなさそうだ。続けて、辺りを見回して家具を観察する。本棚もローテーブルもデスクもチェストも、シンプルではあるがどれも質の良さそうなものだった。

 きっとチョコラータさんのこだわりの、そしてお気に入りの空間なんだ。そんな秘密基地みたいなところに入れてもらえるなんて、嬉しいな。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか治療後の後片付けを済ませたチョコラータはコーヒーを淹れていて、やがての目の前に湯気を立てるマグカップが置かれた。

「あ、ありがとうございます」
「なんてことはない」

 チョコラータは自分用のマグカップを片手に、の隣に腰掛けた。いつぞや、強姦男たちの魔の手から救われた後と同じだ。沈黙の内にふたりが2,3口ずつコーヒーを飲んだ頃、チョコラータが口火を切った。

「ところで……なんであんなに酷い怪我をした? 何があったんだ」

 は改めて昨夜のことを思い出した。何故、という根本的なところの話をするわけにはいかない。原因となった人物が直ぐ側にいる。いやいや、別にそこまで聞かれちゃいない。冷静になれ。

「ぼうっとしていて。お夕食の準備中だったんです。野菜を切った後、次はお肉を切ろうと思っていて、その前に包丁を洗わなきゃと。……左手で包丁を掴んで、右手にスポンジを掴んで、スポンジの真ん中に刃を置いて挟むようにして……こう」

 はその時の様子を、手を動かして見せた。

「スポンジは真っ二つになって、掌にその傷が出来たってわけか。……。ちょっとぼうっとしすぎなんじゃあないか?」
「すみません」
「私に謝られてもな」
「だって昨晩と今日とって、食事の準備ができませんでしたし。ここのところチョコラータさんにご迷惑をおかけしてばっかりで……なんだか情けなくて」
「迷惑なんかじゃない。ああ、あと、しばらく家事は禁止だ」
「え!?」
「驚きたいのはこっちだ。利き手にそんな深手を負ったおまえに家事なんかさせられるわけがないだろうが。今は麻酔が効いていて痛くないかもしれないが、あと1時間も経てば痛みが戻ってくるんだ。それに、傷口がきれいに合わさってもいないうちから無理に動かすと、かえって治りが遅くなるぞ。そうなるとさすがの私も、そのうち家事を放りだすだろうな。後の掃除が大変になる」
「そ、それは……!」
「最低でも、おまえが痛みを感じなくなって、なおかつ抜糸が済むまではおとなしくしていてもらう」
「そんな」
「医者の言うことは聞いとくもんだ」
「……はい。わかりました。ごめんなさい」

 チョコラータはふっと笑みをこぼすと、の頭にそっと手を乗せて言った。

「痛かったろう。よく辛抱したな」

 頭に乗った手はの髪のほつれを解いたあと、彼女の横顔を隠す髪を耳にかけた。チョコラータの指先が頬を、耳先をかすめる。あらわになった耳が赤くなる。同時に顔面も紅潮しているのだが、それを悟られまいと彼女は頑なにマグカップの中の漆黒を見つめつづけた。

「だが、おまえがつらい思いをしたんだと思うと……何だかな」

 どきどき。相変わらず、心臓は体全体を震わせる勢いで鼓動を打っていた。がごまかすようにコーヒーを一口飲むと、それを見計らったかのようにチョコラータの手が伸びてきた。その大きな手は、マグカップを包むの手の甲をすっぽりと覆い、指先で磁器を掴み、優しく奪い取った。ごまかしが効かなくなり、はとうとう自然に、当惑した顔でチョコラータを見つめることになってしまった。

 チョコラータは少し眉根を寄せ、苦しそうな顔をしていた。どうして、チョコラータさんがそんな顔を? 言うに困り果て口ごもっていると、再び彼の大きなてのひらが頭を覆い、そのまま彼の方へ引き寄せられ、は胸に抱かれた。

「悪かったな。私が頭痛でここにこもっていたから、気を使わせてしまったらしい」
「い、いえ。大丈夫、です」

 それより、この状態の方が大丈夫じゃない。朝、自分の部屋を訪れた時に鼻腔をつついた清潔な石鹸の香りが、消毒液の香りに混じりながらも再度感じられた。今度は至近距離で、チョコラータの肌から揮発したそれを、彼のにおいと共に、確かに感じた。腹の底から込み上げる得体の知れない熱。は自分の体が、そして心が、チョコラータを求めているのだと確信した。

「おまえがひとりで、つらい思いをしていたんだと思うと――」

 苦しそうに、まるで喘ぐように、チョコラータは先ほど言いかけたことを完結させようと、必死に試みているようだった。 

「――ひどく、心が……痛むんだ」

 優しい心遣いと、温かな体温。自分の人生でついぞ与えられることはないだろうと覚悟をしていたものが、にこれ以上ないという幸福を感じさせた。皮膚の傷は痛まない。けれど、心の傷は痛む。長年蓄積してきたそれが瓦解して、粉々になって霧散していくような開放感。もう死んでしまってもいいと思えるほどの幸せが、彼女を包みこんでいた。

「チョコラータさん。私――」

 素直に嬉しいと伝えたい。そう思って、はチョコラータの胸に手をあてて上体を起こし、顔を見上げた。彼は涙を頬に流していた。やはり苦しそうな、そして愛しいものを慈しむような優しい表情で、腕の中にいるを見つめていた。

「どうして、泣いて……」
「言っただろう。……心を痛めてる。しかし、おまえの手を、治してやれて良かった。自分が医者をやってて良かった。心底安心した。……なあ、だが。ひとつ疑問に思うことがある」
「なんでしょう」
「野菜を切った後に肉を切ろうってときに、なんでスポンジで包丁を洗わなきゃならないんだ? 野菜くずを水で洗い流すだけでよかったんじゃないか?」
「そ……それは」

 確かにそうだ。肉を切った後に野菜を、というのなら洗うべきだろう。ただ、衛生的な問題があるので野菜から切るというのは定石で、今までその手順を無視してことを進めたことはない。野菜を切った後の包丁を、何故泡立てたスポンジで洗おうと思ったのか、自分にも謎だった。気が動転していた。その一言でしか言い表せない珍事だ。

「気が……動転していたんだと思います」
「それは何故だ? あの、無礼で卑劣で愚にもつかない汚らしい二人組のせいか?」

 そう言ってしまった方が良いかもしれない。けれど、観察眼に優れたチョコラータのことだ。そんな嘘、すぐに見破られてしまうだろう。

「い、いえ。……あれは未遂に終わったし、怪我もさせられていないので、どうということもなかったんです」
「じゃあなんだ。何が、いつも慎重で丁寧で、何の不備もなく三ツ星レストランのオーナーシェフさながらの料理を作り上げるおまえにそんな大怪我をさせたんだ」
「その、チョコラータさんの……」
「私の、なんだ」
「頭痛は、大丈夫かなって」

 チョコラータは尚も納得のいかないような顔で、じっとの瞳の奥を見つめていた。彼女は観念して、真実を告げることにした。
 
「あの……自分勝手なのは、分かってるんです、その……チョコラータさんと、食事ができるのが……私の、一番の楽しみなので」
「一番の、だって?」
「はい。……変ですよね。お医者さまなら、頭痛の治し方なんて心得てらっしゃるだろうし、そう何日も長引くわけないのに。明日も会えないんだろうかって……勝手に寂しくなってしまって」
「ああ、、おまえってやつは」

 チョコラータは感極まった様子での紅潮した頬をすくい持ち上げ、鼻先がふれあうくらいの距離にで顔を近づけた。

「なんて、愛らしいんだ」

 何も言えなかった。息苦しい。けたたましく鳴り響く鼓動が内圧を高めて熱を上げさせて、それで爆発してしまいそうだった。は、乾いた喉を潤すのにごくりと喉を鳴らすので精一杯だった。

。私は、おまえが愛おしい」

 今にも溢れ出てしまいそうな感情を必死で押し込めるように、チョコラータはゆっくり、ひどく丁寧に言った。

「おまえも、同じ気持ちなのか?」

 抗えない。チョコラータという男に愛されたいという、ふつふつと沸き起こる無限の欲求に。これ以上は。
 
 はチョコラータの瞳を見つめ、頷いた。そして瞼を閉じ、彼から与えられる全てを受け入れ、至上の幸福に身を委ねた。その後、心地よい疲労感に包まれながら深い眠りに落ちた。



 目が覚めると、は検死台の上に乗っていた。無影灯に煌々と照らされて。

 黒い人影は徐々に明瞭になっていく。彼女は、泣き顔とも笑顔ともつかぬ表情を浮べ涙を流すチョコラータに見下ろされて、解剖されるべくそこに拘束されていた。