Holiday
朝。オレがそろそろ深い眠りに落ちようって時に、向かいのランドリールームから聞こえる鼻歌が好きだった。
まるでレクイエムだ。聞いたことの無い風変わりな曲だったが、まあ、なんだっていい。あいつの歌声は羽のように軽やかで美しかったから。とにかくそれはオレを癒して、深い深い眠りにいざなってくれる。そうしてオレは夕方に目覚める。ひどくいい気分で目覚める。
すると今度は、うまい“朝食”の時間だ。朝食にしろ夜食にしろ夕食にしろ、オレがその前に“うまい”って言葉を付けるのは、オレの人生が始まって以来初めてのことだろう。あいつの作るメシは称賛に値する。チョコラータなんか、会うたびに褒めてる気がする。オレのことをじゃねーよ。あいつのことだ。オレにはそれが面白くないんだが、それが何故かは自分でもよくわからない。
とにかく、オレは朝食のために下へ降りる。オレが例のレクイエムを聞かせてくる女に会える唯一の時間。大抵あいつはひとりで台所に立って、アイツらの言うところの“夕食”の準備をしてる。すると、大抵「朝食にする? 昼食にする? それとも、夕食にする?」って聞いてくる。
最初、オレは訳が分からないまま「朝食」と応えた。すると、あいつは冷蔵庫の中から冷えたメシを取り出して温め始めた。なるほど。奴らの言うところの朝食や昼食――すでに完成してタッパーに詰めたもの――を“今すぐ”食べたいか、それとも奴らの言うところの夕食――手元で今作ってるやつ――が完成するのを待てるか。という問いかけなのだと、賢いオレは理解した。
それにしても、聞き方が下手くそだ。聞くなら、「今すぐ食べたい? それとも、今作ってるのができるまで待つ?」だろうが。まあ確かに、あいつの問いかけに比べれば歯切れよくはないし何だか長ったらしいが、だからって朝食か昼食か夕食かってのはあまりにも乱暴すぎる。そもそも、作った時点がいつかでひとくくりにしようがしまいが、今食うもんなんだからどっちにしろ“朝食”だろうが。……そして厄介なことに、オレとあいつとでは昼夜が逆転しているので、話はまたややこしくなっていく。
オレには夜が朝で朝が夜なんだ。ここまで考えて、オレは気付いた。オレが意固地になって、朝食とは起きてすぐに食うもんだと、夕食とは寝る間際に食うもんだと定義していることこそが問題の根本なのだと。起きる時間がいつだろうと、時間に基づいてそのメシの名を呼んでやればいいんだ。
その日から、オレの世界でも朝が朝で昼が昼で夜が夜になった。メシの力ってのは偉大だ。オレはめったに自分のポリシーとか信じるジンクスとかを変えたりはしないのに、うまいメシにありつくためとあっては、オレはオレの中のそんな類のもんをすぐに捨て去ることができた。だってそんなもん、の作るメシに比べたら、便所の床に付いたクソだかしょんべんだかのシミみてーなもんだからな。……要は比べもんにならねーってことだ。
今日もオレはあいつに「夕食を」と伝えるため、起きてしばらくしてから――包丁の刃がまな板をリズミカルに叩く小気味良い音が聞こえ始めた頃合いに――下へ降りた。ちなみに、出来立ての夕食を食った後、夜食に甘めの朝食を取り、朝寝る前に昼食を食らう。それがオレの毎日の食事だ。
下へ降りてみると、はまだ台所に立っていた。でも、何だかいつもと様子が違ったように見えた。いつもなら、オレが階段から降りてくるのをクソ目ざとく見つけてはすぐに声をかけてくるのに。「おはよう、セッコ君。(にっこり)今日は朝食にする? 昼食にする? それとも夕食にする?」ってな感じでな。だが、今日はそれが無かった。ぼーっとしてやがるんだ。カウンターの向こうを眺めてひたすら、ぼーっとしてやがる。
「おい」
オレがキッチンカウンターから顔を覗かせて睨みつけてやると、その時になって初めて、あいつはハッとして顔を上げた。
「あ、おはよう。セッコ君」
今日は(にっこり)は無しだ。ふむ。やっぱし今日は何か変だ。何か料理に関する困りごとにでもぶち当たったのかと勘ぐって、オレはの手元を見た。すぐに驚いて、声を上げた。
「ち、血ぃッ……!!?」
まな板の上が血だらけだった。血抜きしてない牛肉だか豚肉だかを切ってるってわけでもねーのにだ。まな板のそばの平皿には、切り終えた野菜が並んでいた。まな板の上は、切った野菜のくずみたいなのが隅っこにまばらにあるのと、右端に包丁が乗っかっているだけ。そして、ど真ん中にの手と血溜まり。その血は、まな板の上で下になったの右手の平を中心に、アメーバみたいな形状で広がっていた。そこそこの出血量だ。怪我してる。それなのに、はどうってことないって顔でいた。――いや、どうってこと無いってのは、怪我してることに気付いてるやつの思うことだ。は、気付いてないんだ。
「おい、バカ! おまえ、気付いてねーのかよ!」
オレはつい、素でそう叫んでしまった。はドキッとした顔を見せた後、オレの指差す方に目を落とした。その時に初めて、ヤバそうな顔を見せた。けど、そのヤバそうな顔というのも、ヤバい痛みに今気付いたというより、ヤバいところを見られてしまった、みたいな顔だった。
の右手の平は、親指と人差し指のちょうど中間から小指球――小指球ってのは、チョコラータが言ってたから知ってた。小指の付け根のふくらみのことだ――に向かって斜めにスパッと一直線に、それもまあ見事に深々と切れていた。見ているだけでこっちが痛くなるような傷口だ。それなのに、当の本人は怪我に気付いてもなお慌てる様子を見せない。
「何ぼーっとしてやがる! さっさと手当……そうだ、チョコラータ呼んで――」
「やめて!」
「ああ!?」
オレはキレた。このまま血をだらだら垂れ流しながら料理を続けるつもりかこの女は。
「いいの、自分で手当できるから」
「チョコラータは医者だぞ! しかも、ここに来る前は外科医やってたんだ。素人の手当なんかよりよっぽどいいし、何なら麻酔かけて縫ってもらえる」
「麻酔は、いらない。……痛くないから」
「は??」
はワークトップ下にある抽斗の引手にかかったタオルで滴る血を受けながら、フラフラとキッチンから出てきた。そんなに血をだらだら流すような深い傷口が痛くない訳がねえ。
「救急箱、取ってもらえないかな」
「あ、ああ」
オレは言われるがまま――普段はここまで素直にチョコラータ以外の人間の言う事を聞くことはない。それが、チョコラータ以外の人間の傷の手当のためとなればほとんど初めての経験かもしれない――の指し示すラックの中から立派な救急箱を取り出して、血の気が引いた青っちろい顔をしてソファーに腰掛けたの目の前に置いて、蓋を開けてやった。すると、は左手を伸ばして自分で処置をしようとし始めたもんだから、オレは慌ててそれを阻止して、ピンセットを手に取った。
手順は心得てる。チョコラータがやってたように、やりゃいいんだ。
「セッコ君……」
まさか、オレがこんなことをするなんて思ってもいなかったらしいは、驚いた顔でオレをじっと見つめていた。オレ自身が、なんでこんなことをやっているのかわからないんだから当然だ。
「すぐチョコラータに看てもらえよ」
自分の処置の下手くそさ――止血と消毒はした。その後、傷口に軟膏を塗って、消毒液に浸した脱脂綿を傷口に乗せて包帯を巻く。縫えないオレの精一杯の応急処置だが、包帯の巻き方がひどくテキトーで不格好になってしまった。こんなんじゃろくに家事なんかできないだろう――をごまかすように、オレは言った。
「でも……今日はだめだよ」
「なんで」
「だって、チョコラータさん、体調が悪いって……」
チョコラータの体調が悪い? んなもん、仮病に決まってる。あの男は自分の体調なんて自由自在に操れるんだ。だが、それをに言ったからどうなるって訳でもない。オレは黙って、処置が済んだの手から手を離して、一番気になっていることを聞いてみた。
「痛くないって、どう言うことだ? あんな深々と切れちまったら痛いに決まってるだろうが」
は何か考えるように床へ目を落とし、しばらくしてから口火を切った。
「先天性無痛症」
「……はあ?」
せんてんせい、むつうしょう?
「なんだぁ? そりゃ」
「私、生まれつき……痛みを感じないっていう……神経疾患を持ってるの」
「は?」
痛みを、感じない?
オレはうらやましいと思った。痛みを感じないだって? 致命傷さえ回避できれば、ほぼ無敵じゃないか。なんでそれを隠す必要がある? 痛みから逃れるためにクスリに頼ってきたオレにとっては羨ましいを通り越して妬ましいくらいだ。
「そんな病気があんのか。……なら尚更、チョコラータに看てもら――」
「無いよ、治療法なんて」
ピシャリと、言い切られてしまった。珍しくトゲのある言い方だった。
「……誰に言うつもりも無い。言ってどうにかなったためしなんか、一度もないから」
は無事な方の手でオレの掌を覆って、その後にぎゅっと握った。オレは温かく柔らかなその感触に驚いて自分の手を見て、の顔を見て、それから手を見てまたの顔を見た。そうするしか無かった。心臓の音が体の内側でうるさく響いていて、それで体全体が揺れるみたいな感覚に身を委ねながら、黙ることしかできなかった。
嘘じゃなく、誓って、至極真面目にだ。オレはその時、永遠を感じた。音が消えて、世界がオレたちふたりを浮き彫りにした。
「お願い、セッコ君」
は目を潤ませてオレに訴えかける。時間が止まったような世界の中で、オレととの時間だけが進んでいくみたいだった。ワケがわからず、オレはやっぱり黙ったまま、の顔をじっと見つめるしかなかった。
「このことは、チョコラータさんには言わないで欲しいの」
「なんで、なんだ?」
「普通でいたいの。お荷物になりたくない。傷つけられたくない。私、ここにいたい。だから」
オレは無言で頷いた。するとは涙を滲ませた目を細め笑い、心の底からほっとしたかのような顔をしてありがとうと何度も呟いた。
の過去に興味なんか……ない? いや。この時のオレは、どうしようもなく・という女のことを知りたくなっていた。
“普通”のただの小間使いの女。会った当初はそう思った。しかしどこか、今までの女とは何か雰囲気が違う気はしていた。それが何故か今日分かったわけだ。普通とは言い難い“特性”を持っているからだ。オレに言わせればそれは病気なんかではなく、羨むべき特性だった。そんなだから、はなのだ。知りたい。知りたい。なあ、こんなことって、今まで無かった。まるではじめての経験だ。オレはどうすればいいのか分からず、やっぱり喋ることを忘れていた。オレの向かいで、利き手ではない手でなんとか頑張ってメシを食うをじっと見ながら。
手伝ってやれよと天使が言う。んなことするワケねーだろ、こいつはセッコだぞ。良心なんて1ミリも残さず母親の胎内に置いてきてんだ。悪魔が言う。悪魔が言うことは正しい。オレは――自分で言うのも何だが――他人が苦しんでるのを見てるとひどくいい気分になれるゲスだ。シャーデンフロイデとか何とか、チョコラータがクソ小難しい言葉で言っていたやっかいな感情を、良心の代わりに抱えて生まれてきた。痛みを自分の手で与えないあたり、ひょっとするとチョコラータより性質が悪いかもしれない。そんな人間なんだ。
オレは不意にはっとして手元の料理を残さず掻き込むと、平らげた皿をシンクへ持っていって目は合わせずに向かってカウンター越しに言った。
「皿は置いとけ。あと、メシ食ったら部屋に戻っておとなしく寝てろ。……後はオレがやる」
「セッコ君が……? ありがとう」
顔に嘘でしょ、って書いてあるみたいに言った後、情けなさそうに、けれど嬉しそうに笑うの顔を見て、オレは満足していた。マジで、お前一体誰なんだよ。悪魔が面白くなさそうに呟いたのが聞こえた。自分を見失っちまってる。完全に。それはオレ自身が重々承知してることだ。言われなくたって分かってる。
「本当にごめんなさい。……ありがとう」
「いいから、早く行けよ!」
「うん。わかった」
ふらふらと覚束ない足取りで階段を登っていくの後ろ姿にそわそわイライラしながら、オレは本格的に皿をかたづけはじめた。あいつの姿が2階の腰壁の向こうに消えていくのを見届けてから、やっとオレの精神状態は普通に戻り始めた。そうすると今度は、何だって小間使がいるのにオレは皿を洗っているんだ? と混乱し始めて、最終的にオレが包帯で、まるでボクシンググローブみたいにしたあいつの右手を思い出し、あんなんじゃろくに家事なんかできる訳がねーと納得したところで皿を洗い終わった。そして、作りかけの鍋や奇跡的に血塗れていない切り終えた野菜たちを冷蔵庫の中にぶち込んで、キッチンを綺麗にした。
この程度のこと、どうってことない。女がいなくなった後に、オレがいつもやらされてたことだ。
女が“死んで”いなくなった後に――。
07: Stop the Clocks
朝。オレがそろそろ深い眠りに落ちようって時に、いつも向かいのランドリールームから聞こえる鼻歌は、今日は聞こえなかった。
オレは微睡みの中で、が死んだ後のことを考えた。ちょうど、今日の朝のように、オレを眠りにつかせるレクイエムが聞こえない日々が続くんだ。それはひどくさみしく感じた。そして、起きた後のことを考えた。一階に降りても、キッチンカウンターの向こうから朝食か、昼食か、夕食かって聞いてくる愛らしい女の姿は、いけ好かない態度の知りもしない女に取って代わる。で、メシも大して旨くない。そんな日が続くんだ。
オレはそれをイヤだと思った。
なあ、ひとりくらい、スキップしたって問題ないだろ。は殺さないでくれよ。チョコラータにそう提案してみようかと思った。けど、たぶんそうはならないだろう。チョコラータも不治の病にかかってるみたいなもんなんだ。人を殺さずにはいられないっていう、そういう病気だ。一度ギャングの身に落ちてタガが外れてから、その病気は一層ひどくなった。けど、次々に人を殺しまくるサイコキラーじゃない。まるで、丁寧に肉を寝かせて、丁寧に下味を付けて、最後に丁寧に焼いて食うグルメみたいに、あいつは女の“下ごしらえ”をして、それから“食らう”っていうこだわりがある。のそれも多分、そろそろ終わる。時期的にもう最終段階に来てるはずだ。チョコラータが、を殺さずになんていられるはずがねぇ。
傷つけられたくない。
昨日聞いたの言葉を思い出す。そして、彼女の願いはきっと叶わないと気付く。痛がらないからと乱暴されてきた過去が、あいつにそう言わせるんだろう。痛がらないを、チョコラータはきっと面白く思わないだろう。だが、だからと言ってあの男が女を殺さずにいられるとは到底思えない。面白くなかったな、と吐き捨てた口で次の瞬間にはスクアーロだかティッツァーノだかに“次”の注文をしているはずだ。
オレは夢と現実の狭間で悪魔の足音を聞いた。それはゆっくりとの部屋へ向かっていった。ああ、そうか。今日がきっと、その日なんだな。
この思いは永遠に封印して、全部置き去りにしちまおう。次起きた時にはきっと、世界から音は消えてなくなってる。
オレは珍しく、夢と現実の狭間にとどまり、現実世界の淵ににしがみつくみたいにして眠りにつくことを拒んだ。けど、どうせオレにはどうしようもないという呪文みたいなものが頭に浮かんだあと、淵にかけた手から力が抜けて、オレはとうとう奈落の底へと落ちていった。