Holiday

 静寂に包まれた地下の部屋で、チョコラータはデスクの天板に左頬を預け、腕は肩から下へだらりとぶら下げて、目はどこか虚ろに遠くを見つめていた。

 胸の奥底から沸き上がる衝動を抑えるのに必死だった。だから彼は、地下へたどり着いた途端、普段滅多に開けない高級ブランデーを棚から取り出し栓を抜くと、グラスも用意せずに開いた口から2、3口程を飲み下した。

 酔いの内に、の笑顔が、恥じらいに頬を赤くした可愛らしい顔が、自分に背を向け小走りに駆け離れていく後ろ姿が、そして穢らしい男どもに暴かれはだけた美しく軟らかそうな肉が――それら全てが走馬灯のように脳裏に浮かぶ。白い肌に触れ、柔らかな髪に、頬に、唇に、そして乳房にキスをし、彼女の中に自分自身を埋めたい。そうして彼女が快楽によがり、この上ない幸福を感じている顔が見たいという欲望が込み上げる。それは同時に彼女が幸福の絶頂から絶望のどん底へと落ちる様を、その表情を見たいという真反対の欲望を駆り立てた。

「だめだだめだ。まだ、まだだめだ。早い早すぎる」

 チョコラータは小声で呟いた。殺人衝動に抗おうと必死だった。すべてが計画通り。は確実に私に恋している。そんな手応えが彼にはあった。しかし、まだ完璧ではない。もっと、もっとだ。もっと、私という存在に溺れさせなければならない。

 彼は深呼吸をして、震え始めた手を抑え込むようにデスクの上に置いた。脈打つ心臓が異様に大きな音を立てている。いつもならこの後数秒も経てば脈拍は正常に戻る。だが、今回は違った。何時まで経っても胸は早鐘を打つのを止めないし、頭はの笑顔を思い描くことを止めない。

 は私へ真心のこもった笑顔を、疑うことを知らない無垢な愛を私に向けてくる。何処にも行く宛が無く、仕方なくここへ金を稼ぎに来ているだけのはずである彼女が、金なんかいらないからずっとここにいさせて欲しいという。彼女は仕方なく、仕事だからと飯を作っているのではなく、私と、あるいはセッコの為を思って作っている。そんな味がする。単に技術があるというだけでない。真心のこもった愛の味がする。料理以外の家事だって手際よくこなすし、まるで高級ホテルに住んでいるかのように、毎日どこもかしこもピカピカだ。気が利くどころの話では無かった。ただの仕事というだけで、金を稼ぐためというだけでできることでは無い。ああそもそも彼女は、金に執着が無いんだった。なら、そのエネルギーは一体どこから湧いてくる?

 そんなに、私のことが好きなのか?

 ずきりと胸が痛んだ。そして息苦しくなった。彼が30と数年生きてきた中で初めて覚えた感情だった。彼は生まれてこの方恋に落ちたことなどなかったのだ。

 そう努めていた訳でも無いのだが、彼は人を愛するより愛したふりをして裏切り、絶望のどん底に落とすという過程を――他人の感情のジェットコースターを――楽しむことに終始努めていた。その一連の過程が終わると、まるで麻薬のように次の人間を求めるのだ。彼はそうして幾人もの命をもてあそんできた。だが、その対象となった人間を愛したことなど一度も無かった。

 恐らく、一度も心から人に愛されたことが無かったからだ。チョコラータにはそれがすぐにわかってしまった。

 医者だから、金持ちだから。中身を見ようともせずに外面だけで人を判断し、よってたかる連中。疎ましい。ならばこちらも、私が気持ちよくなるために連中を使ってやろう。

 だが、にはそんな気持ちが一切湧いてこない。ただただ美しく、可愛らしく、愛しい。

 ああ、が愛しい。を愛したい。――つまり、殺したい。そんな欲望が頭をもたげるたびに、それと同じくらい強い力で彼女を失いたくないという感情が押し返してくる。

は特別だ。ほかの誰とも違う……。彼女を殺してしまったら、もうあんなできた女には会えなくなるぞ」

 に対する愛着が、単なるいつもの殺人欲求を超えている。チョコラータもまた、を愛しているのだ。彼はそのことに気付いてしまった。

 が優しく微笑むすがたを思い浮かべるたびに、その純粋さに触れたことを思い出すたびに、彼は自分の中にある怪物を抑え込もうとする意志が揺らいでいくのも感じた。訳が分からなかった。途方もなくを殺したいのに、他にどうしようもないくらい彼女を殺したくない。その綱引きで心が引き裂かれそうだった。

「だめだ、落ち着け……落ち着くんだ」

 彼はもう一度深呼吸をし、静かに立ち上がった。窓の外を見る。夜の闇が彼を包み込みはじめていた。彼は冷静になろうと必死に努め、自分に言い聞かせた。この感情の渦に飲み込まれてはならない、と。彼女を失いたくないなら、この欲望を封じ込めなければならない。

 チョコラータはおもむろに部屋の隅の暗がりへ向かい、照明に光を灯した。スタンドランプはぼんやりと暖色で暗がりを照らした。部屋の壁に沿わせた大きな本棚には医学雑誌や専門書が並んでいるが、その下の土台部分――戸棚には彼のコレクションがずらりと並んでいる。

 とても趣味が良いとは言えないコレクションの数々だ。チョコラータが殺したか死へ追いやった人々の今わの際を記録したビデオテープ。それは彼が殺したか死へ追いやられた人々の満面の笑みから始まる。家族と対面し、満面の笑みを浮かべる老人養護施設の老人の。病は快方へ向かっていると告げた時の患者の。そしてチョコラータの愛しているよ、なんていう――彼にとっては――歯の浮くようなセリフに頬を染める女の。

 チョコラータは右端のビデオテープに指をかけ取り出すとそばのビデオデッキに挿入し、小さなテレビの対面に据えた一人掛け用のチェスターフィールドソファに腰かけた。

「名は何と言ったかな」

 チョコラータはビデオを鑑賞し始めてすぐに呟いた。その女はの前にここへ来た。目鼻立ちは整っていて美しいが、いかんせん素行が悪く、生活習慣も褒められたものではなかったからいつもやつれて見えた。彼女の過去に特段の興味は引かれなかったが、彼女に気に入られ警戒を解かせるためには「君のことを知りたい」という素振りを見せなければならなかった。そこから知り得たはずのことも、もう疾うの昔のことのように思い出せない。つい3ヶ月前までここで息をしていたはずなのに。

「そう、モニカ。モニカだ」

 モニカは泣いていた。

『やめて……やめてください、チョコラータさん』

 怯えた声で、半ば泣きながら懇願するモニカの顔。軋みを上げるベッド。彼女の手足を拘束する鎖がカシャカシャと鳴る音。楽しそうに笑うチョコラータの声。

『なあ、モニカ。今でも言えるか? 私のことを愛していると』
『いや、いやいや、やめて……!!』
『そうか。それは、残念だ』

 ちっとも残念そうに聞こえない、弾んだ調子の声音だった。直後、モニカは生きながら肉を割かれる激痛に絶叫した。暴れもがき、チョコラータが腹の上をすべらせる刃物から逃げようとする。カメラはモニカの顔面いっぱいに広がった絶望の形相から片時たりともレンズを離さず映し続けていた。別に、腹を裂いた先のグロテスクな臓物や血が見たい訳では無いからだ。チョコラータが見たいのは、生にしがみつく人間の必死の形相、絶望の色だった。それを見て、絶叫を肌で感じてこそ、自分は生きているのだと感じることができる。だから彼は人を殺すのが好きだった。

『ああ、こらこら。暴れるなよ。手が滑るだろう。おまえがもっと長く生きていられるようにしようとしているのに』

 モニカは泣き叫ぶ。チョコラータは笑っていた。

「ああ。いいな、いい。だが……」

 これはもう終わってしまったことだ。この画面の中であったことは彼が既に体験したことで、その臨場感とか快感といった物までは感じさせてくれない。

 満たされない欲求。を求める体。脳内でモニカの顔をに置き換えるために目を瞑ってみても、声が邪魔をした。こいつはじゃない。じゃないといけない。

 落ち着けるために追体験を始めたのに、への欲求は高ぶるばかりだった。こんなようでは、今が自分の前に姿を現したらすぐに飛びかかってしまうだろう。

 チョコラータはビデオがクライマックスを――つまりモニカが死を――迎える前にぷっつりとテレビの電源を落とし、内線でキッチンへ電話をかけた。

か」
『はい。どうされました?』
「少し、体調が良くない。夕食は――」
『大丈夫ですか? どこが痛むんですか?』

 は心底心配しているようだ。元医者だと伝えたことはあったはずだったが。

「大丈夫。少し頭痛があってな。寝ていればすぐに良くなるよ」
『そうですか。……わかりました。夕食はどうします?』
「セッコのと一緒に冷蔵庫の中へ仕舞っておいてくれ。腹が空いたら自分で用意して食べる」
『わかりました。……それでは、私は先にいただいておきます』
「ああ。今日はおまえも疲れただろうから、ゆっくり休んでくれ」
『チョコラータさんも、お大事に』

 そして心底名残惜しそうにはいつまでも電話を切ろうとしなかった。やむなく、チョコラータの方が先に受話器を置いた。

 チョコラータは心が震えた。寂しそうにひとりで食事をとる彼女の姿を思い浮かべると、胸が苦しくなった。何も知らずにこの殺人鬼に思いやりの言葉を投げかける健気さに感動した。今すぐに彼女を抱きしめたかった。だがそうすれば、彼女は明日の朝には確実に死んでいるだろう。その事を考えると、絶対に嫌だと思った。

 今はひとりでいた方がいい。

 チョコラータが女を殺したくないと思って自制を効かせたのは、が初めてだった。もうすぐ彼女がこの屋敷へきて3か月が経とうとしている。そろそろ殺人衝動が暴れ出す頃だ。それをどうにかして止めなければと考えるのも初めてだった。だが、彼は半ば諦めていた。

 きっと、この衝動は抑えられない。これはが他の誰とも違うからと言って、抑えられるほど後天的な特質ではない。ほどんど遺伝子に刻み込まれたようなもの。他人には無い生理的欲求なのだ。自分が生きていくために必要なことだ。だからきっと、を手にかけてしまった後、酷く後悔するだろう。それでも殺すのだろう。彼女が痛みに悶え、苦しみ、私に裏切られたという屈辱と絶望の中死に向かっていくその過程を楽しむのだろう。そして何度も何度もビデオテープの中にしかいないを見ては、彼女に触れたくて触れたくてたまらなくなって、狂おしい思いに苛まれるのだろう。それでも、生きているという実感は得たかった。

「ああ、。私は、君をどうしたらいい」

 出会わなければ、こんなジレンマで胸を痛めはしなかった。ただ殺して、鮫に食わせて、全てなかったことにして終いだ。いや、は、彼女にだけは墓を作るかもしれない。彼女のことは一生忘れないでいたいし、きっと忘れられないだろう。

 こんなにも彼女の命が惜しいのだから。

06: Dilemma

「最近、チョコラータから連絡はあったか?」

 スクアーロはキッチンに立つティッツァーノへ顔を向けて訊ねた。

「いいえ。……あー、別のおつかいなら頼まれましたよ」
「別のって?」
「ほら、週一の。食材ですよ」
「なんだ。それじゃねーよ。オレが言ってんのは」

 そう。そろそろ、をチョコラータの家へ“組織存続のための礎”として連れて行って3か月が経とうとしている。記録はしていないが、感覚的に最長記録かもしれない、とティッツァーノは思った。

「不思議なことに、来ないんですよ。依頼が。でも、そろそろなんじゃないですかね」

 確かには、これまでチョコラータの家へ連れて行った女とは違った。何が違うのかというとぱっと言葉にはできないが、他の女には無い何かを確かに持っていた。チョコラータもそう思っているのかもしれない。珍しく、女を殺すことに躊躇しているのかもしれない。躊躇して、殺さないでいてくれればいいとティッツァーノは思っていた。けれど、彼の殺人衝動は心がけ程度でどうにかできるようなものではない。

 根っからのサイコパスだからだ。サイコパスでいるようにと遺伝子情報に組み込まれている、血も涙も無い人でなしなのだ。

「ああ。だろうな。あの殺人鬼が、を手にかけないでいられるとは到底思えねぇ」
「このまま連絡がこなければいいのに」
「そりゃ毎回思うことだろ。こっちだって、足がついたらとか考えるのも面倒だしな。あいつが女を求めれば求めるほど、オレたちがしょっ引かれるっていうリスクも増していく。だがそれも含めて、ボスがチョコラータっていう殺人兵器を飼い慣らすために必要な犠牲なんだ。オレ達の使命は、ボスの命令を全うすること。女連中に変に情を抱かないほうがいい」
「分かっています。でも、願わずにいられないんですよ」

 はどこか物悲しそうだった。彼女は愛に、優しさに飢えていた。たったの二日間でそうと分かった。その様が庇護欲を掻き立てる。ティッツァーノに心配させてやまないのだ。

「彼女がチョコラータに残虐非道な殺され方で最期を迎えるなんて、考えたくもなくて。だって、それを私達が片付けることになるんですよ」

 の過去を知りたいとティッツァーノは思っていた。どんな過去がという人間を作り上げてきたのか。もしかするとチョコラータはそれを知ったのかもしれない。そうでなくとも、彼女の存在に狼狽えているのかもしれない。それで殺してしまうのを躊躇っているのかもしれない。

「ねえ、スクアーロ。血も涙もないサイコパスだって、愛は求めるはずでしょう。現に、セッコだけは手放さず、ずっと生かして傍に置いているじゃないですか」
「ありゃ犬か何かと間違えてんだ。ただの愛玩動物さ」
「例えそうでも、には生きていてほしい。セッコみたいに、のことは殺さないでいてくれたらいいのに。そう願わずにいられない何かが、彼女にはあるんですよ」 

 スクアーロは手元で捲っていた雑誌をローテーブルに放り投げるとソファーから立ち上がり、ティッツァーノの背後まで歩いて行って、彼を後ろからぎゅっと抱きしめた。

「おまえは優しいヤツだよな」

 そんなおまえが好きだと言わんばかりに、スクアーロはティッツァーノの首筋に唇を落とした。

「だけどな、おまえが女のことを考えてるのが、オレは酷く気に食わねえ」

 今度はキスを落とした首筋に噛みついた。

「ん……ちょっと、やめてください。料理中です。せっかくのいい食材が焦げてしまいますよ」
「構うもんか。黒焦げでも、おまえが作った料理なら全部平らげてやるさ」
 
 私は幸せ者だ。

 ティッツァーノは思った。願わくば、もこんな幸せに恵まれて欲しかった。しかし、チョコラータの元ではやはり到底無理なこと。ティッツァーノは漠然とした虚無感に苛まれて、それを忘れたいばかりに料理をする手を止め、スクアーロの口づけを受け入れた。

 愛に溺れて酔っていたい。幸せに浸っていたい。生きているという実感を得たい。ただ死に向かうだけの人生なんてまっぴらごめんだ。皆がそう願って生きているのだろう。どうすれば愛を、幸せを得られるのか。どうすれば、自分は生きていると実感できるのか。その方法は人それぞれに違っていて、人それぞれ犠牲にするものも違うのだ。

 何かを得たければ、何かを捨てなければならない。それが世の理であり、皆が抱えるジレンマなのだ。だから、他の誰かの幸せについては祈ることしかできない。自分が心から欲するものを得て、得続けていくためには、全てを守ることはできないのだから。