Holiday

 は過去を振り返っていた。
 
 記憶が確かなら、今まで一度も自分が作った料理を美味しいと誰かに言ってもらったことは無かった。

 これは、何故かここへ来る前よりも鮮明に思い出すことが出来る幼い頃のことだ。

 自分のこどもに神経疾患があることを知っていて、尚且つ子供を大切に思っている親ならば、幼い子供にひとりで料理をさせようなどとは思わないだろう。刃物で体を傷つければ人は血を流し、過度であれば失血死する。火傷を負えば、それが一生ものの傷となることもあるし、過度であれば死に至る。こどもは自分がその一端をおのが体で経験することによって初めて、痛いからと恐怖心が芽生え慎重になる。料理とは親にとって、こどもにその分別がついて、手元が確かになった頃初めて、安心して一から任せられる家事だろう。

 しかしには痛みが分からなかった。母親はの体の傷に無関心だった。故に、仕事で忙しいからと幼い頃から彼女に料理をさせ、痛がらないからと切り傷や火傷もが“使えなく”ならない限りは放置した。おかげでの身体にはいつも生傷が絶えなかったし、料理に血がまじることも多々あった。皿に血がついていれば母はをぶち、もっと上手くやれと叱った。ぶっても痛がらないからと、まるでストレスを発散するためのサンドバッグのように扱った。

 そして、が料理を作るのは母親にとっては当たり前のことで、感謝に値することではなかった。何と言っても、料理を作るために与えている金は自分が稼いだものだからだ。を養うために働かなければならないので、家で料理を作ってやれる時間も義理もない。これが腹を痛めて生んだ子供に対する態度かと、良識のある親ならば眉をひそめ嫌悪感を抱くだろうが、の母親には自分が生きるだけで精一杯だった。もそれを知っていたし、身体が痛む訳でも動かない訳でも無いので、黙って母親の言う通りにしていた。

 ずきり。

 けれど、胸やのどは締め付けられるように感じる。思い出しただけで一瞬そうなったが、対象的に、今このときの称賛は心の底から嬉しいと感じた。

「本当に美味いな。驚きだ。未だかつてこれほどのクオリティの夕食を作った使用人はいなかったぞ」

 ちょっとオーバーとすら感じるほど、チョコラータはの料理を手放しに褒めた。それはもう、一口頬張るごとに。照れるのでもうやめてくださいと言いたくなったが声は出なかった。嬉しくて恥ずかしくて顔が真っ赤になり、血が耳たぶまで登って熱を持つほどだったので、顔を両手で隠して押し黙るしか無かったのだ。

 そんなの様子をセッコは呆れたように見ていた。憐れむ反面少しだけかわいいと思ったが、いやいやそれは気の所為だバカと自分を窘め、美味い晩飯を頬張って咀嚼するという一種の作業に没頭することで馬鹿な考えを往なした。

「なんだ。褒められ慣れてないのか?」

 チョコラータは小首をかしげてを見つめた。見つめられていることが指と指の間から見えて分かったので、顔は尚更赤らんで喋れなくる。けれど質問には、的確に相手の意を汲んで答えなければ心を傷付けられるという、頭に染み付いたの習性が回答を促し口を開けさせた。

「……はじめて、だと思います」
「自分のためにしか作ったことが無かったのか?」
「いえ。あの、自分以外の人のために、作ってばっかりでしたけど……褒めてもらったことは無いです。だから、自分の作る料理がどれほどのものなのか……他の人の料理もあまり、食べたことが無かったので……わからないんです」
「何だって。こんな美味いメシを食っておいて、賛辞のひとことも無いとはな。人間なのか? 味覚障害でもあったんじゃないのか」
「……なるほど」
 
 今まで、考えもしなかった。母親に味覚障害があったのかもしれないなんて。確かに、先天的な神経疾患を患う人間の親には、それに類する何かしらの疾患があってもおかしくはないかもしれない。けれど、記憶が確かなら、気に入らない料理は不味いからと残していた気がする。……だた、それはもうどうでも良かった。言ってしまえば、胸がどきどきと音を立てるほど嬉しい今は、幼き日母に受けた無茶振りの賜物なのだ。ただただストレスで、恐ろしい、脅威でしかなかった母親のことを初めて許してしまいそうにすらなっている。

「褒められ慣れていないおまえに、ひとつアドバイスをやろう。褒められたら、にっこり笑ってこう言うんだ。グラッツィエ! とな。これが人生を上手いこと運ぶための秘訣だ」
「は、はい。わかりました……。その、ありがとう……ございます。あの、ところで――」

 は慌てて話の流れを変えた。

「――今日は何かのお祝いですか? チョコラータさんか、セッコ君、どちらかの誕生日とか?」

 何故、オレだけ“君”なんだ!? この女、ナメてんのか!?

 セッコは瞬時にを睨みつけ、犬に似た唸り声を喉から出した。が、にはその音が聞こえていないらしく、目もチョコラータの方に向いているのでセッコの牽制は効果を上げなかった。

「ああ! それはだな、セッコが初めて――」
「チョコ、ラータッ!」

 セッコは身を乗り出して向かいにいるチョコラータの口に切り分けたラザーニャをフォークに突き刺してぶち込んだ。知能や頭の回転速度はさておき、身体能力の高さ、俊敏さはチョコラータよりも上だ。セッコはやったあとに怒られやしまいかとびくびくしながらチョコラータを見つめたが、当の本人は口に詰め込まれたラザーニャをよく味わいながら嚥下するのに夢中だった。そのスキにそれらしいことを言ってしまうことにした。

 セッコは自分がお祝いされている気などすこしも無かったし、チョコラータが何を祝っているのかについて話されたら面目丸つぶれだからだ。

「あ、あんた、が……ここへやって、来た……お祝い、だッ! それ以上でも、以外、でも、ねえッ!!」
「セッコ、それを言うなら……それ以上でも、以下でも無い、だ」

 セッコはこの時初めて、自分に向くチョコラータの顔を見てドキリとした。何か訝しがるような顔だ。睨みをきかせているようにも見えた。とにかく、今までこの男と付き合ってきた中で、セッコが一度も向けられたことがないような顔だった。

 ラザーニャを口にぶち込まれたのが気に障ったのかと考えたが、どうもそうでは無いような気がした。それとも、嘘を言ったから怒ってるのか? だが、たったそれだけのことで怒るか? チョコラータはワケのわからないことでぶち切れたり大喜びしたりすることの達人ではあるが、これほど些細な意に反すること――で、さらに少しむっとする常人がいるかもしれない、というくらいの些末なこと――で怒ったことはなかったはずだ。何にしても、この2つ以外の原因が、セッコには思いつかなかった。

 同居人への恐怖心は、彼がセッコから目を背けた時に収まった。かなり長い時間睨まれていた気がしたが、傍から見ればそれは一瞬の間の出来事だった。次にセッコが瞬きをしたとき既に、チョコラータは顔に似合わない“取って貼り付けたような”笑顔を浮かべていた。それをに向けて言った。

「まあ、そういうことだ。祝うべき本人にご馳走を用意させてしまったがな」

 どうやら、そういうことにしておいた方が、都合も体面もいいと腑に落ちたようだった。

「だから、片付けはこちらでやっておこう」

 セッコは、ああ、またか……とうんざりして目を回しかけた。チョコラータの言った“こちら”とは、セッコのことである。

「いえ、そんな。私、使用人ですから」
「心配するな。今日だけさ。それに、だからって給料を減らすつもりなんかないんだからな」
「え……お給料、って……お金をいただけるんですか?」
「何すっとぼけたことを言っているんだ? おまえ、ここには稼ぎに来ているんじゃあないのか?」
「……あまり、そのつもりはありませんでした。ただ、住込みで賄い付きと聞いて……服も多すぎるくらいティッツァーノに用意してもらったので、生活に困ることはないと……喜んだきりで、お金のことなんかすこしも考えていませんでした」

 何しろ、金を得た所で金を使う場所は遠いし、おたずね者の身で堂々と街を歩くわけにもいかない。ところで、このチョコラータという人は、私のことをどれだけ知らされているのだろう。は言おうにも言い難い過去を思い浮かべ目を泳がせた。

「金に執着が無いんだな?」
「……執着が無いというか、お金の使い方がわからないというか……」

 これは事実だった。生きるために必要なものを買いにいった経験ならある。たとえば、母親のために料理を作らないといけなかった時分に、スーパーマーケットへ食材を買いに行ったというのがそれだ。着る服も、必要最低限――与えられた小遣いの中で買えるぎりぎりの、安い品や古着――で揃えたりしていたが、それ以外のものに金を使った記憶も、現金を手に持った記憶も無かった。

「ふうん。……珍しい女だ」

 感心したような、それでいてどこかつまらなそうな顔をしてチョコラータは言った。

「だが、だからってタダ働きってのは良くないぞ。自分の労働力は安売りするもんじゃない」
「タダでは……。ごはんをいただけますし、部屋もありますし……」
「まさか、ずっとここにいるつもりじゃあるまい? この家を出た時のことを考えろ。金は必要だぞ」
「……そ、そうですよね、ごめんなさい。ずっとここにいられるわけじゃ……ないんですもんね」

 目を潤ませた後に顔を伏せて、は言った。当然と言えば当然かも知れないが、ティッツァーノやスクアーロは仕事の期限について話さなかったので、自然と意識もしなかったことだった。ずっとここにいられるとばかり思っていたのだ。

「まあ、こんなに美味いメシを作るんだから、おまえがここに居たいと言うのなら、その限りでいても構わんがな」
「本当ですか?」
「ああ。もちろんだ」

 チョコラータが答えた途端、はみるみる明るい顔つきになって、嬉しそうに自分の作った料理を口へ運んだ。まるで生きることの喜びを噛みしめるかのように。

 セッコは一瞬眉を顰めた。このチョコラータときたら、女を誑し込むのもまた大得意なのだ。それが何故なのかセッコには未だに理解できないのだが――何と言っても人の絶望するところを見るのが大好きなサディストでぶっちぎりのサイコ野郎なのだから――とは言え、自分もまたそんなチョコラータと行動を共にして、しかも死なないで一緒に居られているのと、一緒にいたいとすら思っている自分がいることは疑いようの無い事実なわけで。とにかく、同性の自分から見て、彼の唯一の魅力として挙げられることがあるとすれば、それは知性――獲物を屠るためならば手段は厭わない、むしろ、その過程すら目的を達するために楽しむと言う徹底した“変態性”――だろう。カリスマ性とも言うのだろうか。よく分からないが、とにかく全く魅力の無い人間では無いということは言えるかもしれない。

 要するに、この何と言うこともないようなやり取りひとつ取っても、チョコラータの策略の内なのだ。セッコの見立てでは、は着実にチョコラータの仕掛ける甘い罠に足をからめ取られ始めている。

「もっと気に入っていただけるよう、頑張りますね!」

 目に滲ませていた涙が、目尻に寄ってきらりと光った。その笑顔を見て、セッコはまたをかわいいと思った。チョコラータがセッコを凝視しているとも気付かずに、しばらくその笑顔に見入っていた。

04: No Goodbyes

 食事を終えたは食器をシンクに持っていき洗おうとした。すかさず、食後のエスプレッソを楽しんでいたチョコラータに止められ、疲れただろうから早くシャワーを浴びて寝ろと言われたので、ありがとうございますと頭を下げて言う通りにした。一方、セッコは案の定チョコラータに皿洗いを押し付けられる。

 押し付けられた仕事を終えて部屋に戻ろうとしたところで、向かいからシャワー上がりのがやってきて、セッコに笑いかけた。セッコは顔を真っ赤にして――今朝早くに“起きた”ことを思いだしたのだ――硬直する。は不思議そうに小首をかしげセッコの前を素通りすると、ダイニングテーブルについて本を読んでいたチョコラータに会釈をして「おやすみなさい」とあいさつをした。チョコラータがめずらしく律儀に人と目を合わせて――微笑みまで浮かべて――「おやすみ」と言うと、は嬉しそうに笑顔を浮かべて2階の自室へと向かった。

 はっと我に返ったセッコは遅れての後に続き、自室へと戻ったのだった。

 それからしばらくすると、セッコをひとり置きざりにして家は静寂に包まれた。――かに思われたが、何の前触れも無く彼の部屋の扉が開けられた。セッコは肩をすくめて目を見開き、開いた扉の方を見やった。

 あったのはもちろんチョコラータの姿だが、映画『シャイニング』で妻子をバスルームへ追いやった末に施錠された扉を斧で破壊し、その隙間から顔を覗かせたジャック・トランスを彷彿とさせる狂気じみた笑顔でこちらを覗き込んでいたものだから、あまりの恐ろしさにセッコは声を失くしてしまった。

 チョコラータは部屋へ入ると後ろ手に扉をそっと閉め、セッコの傍へ近寄った。そしてデスクチェアに腰掛けて肩をすくめたままのセッコと顔を突き合わせると、背もたれの上辺に片手をかけて椅子を自身へ引き寄せた。その上、張り付けた笑顔はそのままに、鼻先が触れ合う程の距離にまで顔を近づけられた。凄まじい目力――目を逸らそうものなら瞬時に殺されてしまうのではないかというほどの凄まじさだ――で、瞬きすら忘れたようにしてセッコを見つめて、チョコラータは問う。

「なあ、セッコ。正直に話してくれ」

 声音は優しい。ヤク入りの角砂糖を投げて遊んでくれるときのような声だ。しかし、こんな顔をして、こんな至近距離で囁かれた試しなど無かった。

「おまえ、のことをどう思ってる。ん?」

 セッコはこの質問で、今晩チョコラータに向けられてきた視線の意味を全て理解した。そして、ぬかった、と思った。次に、もうしくじれないと思った。だからセッコは、“思ってしまったこと”に蓋をして、のことなんかなんとも思っていない風を装う必要があった。

「べ、つに……メシ、はうまいよ。けど……それ、だけさ」

 だが、セッコが自分の心に嘘をついていることなどチョコラータにはお見通しだった。セッコの挙動は、が来る前までと明らかに違っていたからだ。

「いいんだぞ。私に嘘なんかつかなくても。……ただな、セッコ。おまえがのことをいたく気に入って“しまった”みたいだから、忠告しておこうと思って来たんだ」

 チョコラータの言いたいことは分かった。そして、彼の頭の中では――事実そうなのだが――セッコがに恋をし始めているということは確定しているらしいので、これ以上「そんなことはない」と否定しようと全くの無意味であるということを悟った。大人しく、心を殺し、チョコラータにただ従うしかないのだと。

「“あのこと”だけは、絶対に言うんじゃあないぞ。私はな、セッコ。世間から爪はじきにされた女が、ここでもう一度人としての自信を取り戻し、生き生きとして、自分の人生に生きる希望を見出し羽ばたいていこうとするところが見たいんだ。その過程が大事なのだ。それなのに、万が一にでも自分の“結末”を知ってしまったら、全てが台無しになってしまう。わかるな?」

 セッコはうんうんと激しく首を縦に振った。極度の緊張で、額やこめかみには汗が浮き出し、喉はひきつって乾きはじめていた。

「分かったら、クラスで一番人気の女子にこっそり恋心を抱いて夜な夜なシコってる童貞みたいな目でを見るのをやめろ」
「わ……わかった。今まで通り、使用人、とは会わないように、するよ」
「そうだな。おまえが、と会う内に“あのこと”を言ってしまう気がするなら、それがいい」

 チョコラータはやっとのことでセッコを眼力と言う呪縛から解放すると顔も離して、床を磨くようにごしごしと頭を撫でながら続けた。

「分かったならいいんだ、セッコ。脅かして悪かったな。……ほら、今日の分だ。4個やろう。ちょっと多めだ。2回くらいに分けて食うんだぞ」

 そう言ってセッコに角砂糖を投げてやると、チョコラータはひどく機嫌が良さそうに部屋を出て行った。扉が閉じてやっと、本物の静寂がセッコを包んだ。いつもならまだパソコンをつけてビデオゲームに勤しんでいる頃だ。だが、すっかり気が抜けてしまった今となっては何もする気が起きなかった。

 おまけにこの甘いクスリ。確かにがりがり齧って飲み下したはずなのに、まったく甘く感じない。

 眠くなるほど活動してもいないのに、いつの間にか眠りに落ちてしまって、気付けば昼前を迎えていた。だからと言って外に出られるわけでも無いしと、彼は再度ベッドに身を横たえた。その内に、が洗濯物を持って2階のテラスへと向かっている音が扉の向こう側から聞こえた。

 は何か楽し気に鼻歌を歌っていた。