Holiday
・は身を起こしてソファーに腰掛けた。朝日に照らされてキラキラと光る海は相変わらずの美しさで、眺望良好な家――と言うよりも元は倉庫なのだが――に住む二人を改めて羨ましく思った。
「おはよう。」
羨ましく思ったうちの一人の声がした。目をこすりながらキッチンを見ると、ケトルから沸騰したてのお湯をドリッパーへと注ぐティッツァーノの姿があった。耳に心地よい音を立てながら、透明のサーバーへとコーヒーが滴下していく。と、同時に、コーヒーの香ばしい香りが誘うようにの鼻先をくすぐった。
「朝食にしましょう。軽く身支度を整えてきては?」
「うん。ありがとう」
軽く。とりあえず、顔を洗って口をすすぐくらいでいいだろう。はバスルームへと向かい、シンクの鏡前に立った。鏡を――自分の顔を見る。冴えない顔だった。この調子じゃ、雇い主に気に入られないかもね、なんてことを思いながら蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗い、ついでに水を口に含み、ぐちゅぐちゅと音を立てた後吐き出して、口の中をさっぱりさせてみた。けれど、顔の冴えてなさときたら相変わらずで、後はティッツァーノの化粧の腕に期待するしか無いと思った。とりあえず、は両手の人差し指で口角を押し上げて、笑顔を作ってみた。すると心なしか、少しだけ気が楽になった気がした。こうしてはバスルームを後にした。
ダイニングテーブルには湯気を立てるコーヒーと、砂糖でコーティングされたコルネットが置かれていた。はティッツァーノに手のひらで示された席について美味しそうな朝食をじっと見つめた。あの、味気ないレンズ豆のトマト煮とは大違い。……でもあれ、どこで食べたんだっけ。
それにしても、甘いコルネットと濃い目のコーヒーがよく合った。美しい海を高い場所から一望しながらの朝食だ。至福の時にうっとりとしていると、向かいの椅子にティッツァーノが腰掛けた。彼はの表情を見てふっと表情を緩めて言った。
「ひどく幸せそうな顔をしていますね」
一方のティッツァーノは微笑んでいるが、どこか少し影を落としたような表情をしていた。だが、は特段そのことには言及せずに応えた。
「幸せ。美味しいごはんが、こんな綺麗な眺めの所で食べられるんだもん」
「お気に召したようで何よりです」
「この場所が気に入っちゃった。……ねえ、ティッツァーノさん。あなたたちのお仕事は手伝えないのかな。人手は足りてる? 私、なんでもするよ」
助けてもらったから、恩を返したかった。その代わりに、ここにはいつまでもいたい気分だった。眼下に広がる浜辺を歩いてみたかったし、青く透き通った海で泳いでもみたかった。どちらかと言うと、恩返しよりそちらに気が向いているのを自覚しながら、は対面にいる美男の様子を伺った。ティッツァーノは突飛な提案に一瞬目を丸くしたあと、また優し気な微笑みを取り戻して首を横に振った。
「いけませんよ。。あなたみたいな愛らしい女性が、そう簡単に何でもする、なんて言っては。特に、私たちが生きるような世界ではね。どんなひどいことをさせられるか分かったもんじゃないんですから」
ティッツァーノは、妖しげな目をチラと見せてコーヒーを啜り、続けた。
「それに残念ですが、もうクライアントには話をしているんですよ。彼はあなたが来るのを心待ちにしているんです。さっさと寄越せ、ですって。幸い、私たちもそれほどハードに働きまわっているわけでもないので、大丈夫ですよ。お気遣いをありがとう」
やんわりと断られてしまった。けれど、だからと言って特段落ち込むわけでもなく、は頷いた。
「わかった。……雇い主の名前は、なんていうの?」
「チョコラータです。あともう一匹――いえ、もう一人、セッコというのが一緒に住んでいます」
「一匹って言った? ……人なの?」
「ええ、一応、人ですね。チョコラータはセッコの保護者……みたいなものですかね」
「セッコって人は、子供なの?」
「いや、子供という訳では……恐らくないのですが……まあ、会えばわかりますよ」
ティッツァーノが話し終わるのと同時に、彼の背後で寝室の扉が開いた。扉の向こうから、伸びついでに欠伸をしながらスクアーロが歩み寄ってくる。
「おはよう。スクアーロ」
「おう……。メシ」
「どうぞ」
ティッツァーノがスクアーロに向かってコルネットの入ったバスケットを差し出すと、彼はティッツァーノの隣へ座り、大きな手で朝食を鷲掴みにして齧りついた。
「コーヒー、淹れますね」
スクアーロは再びキッチンへと向かい、サーバーからマグカップへコーヒーを注いだ。
「で、いつ出発する? 何時に到着するとかって話はあいつとしてんのか?」
「いいえ。特段決めてはいませんが――」
ティッツァーノはスクアーロの前へマグカップを置くと、元の位置へ戻ってコーヒーを啜った。
「――まあ、早い方が機嫌を損ねなくていいかもしれませんね。とりあえず、朝食を済ませて一息ついたら、のドレスアップを始める予定でいますよ」
「おいおいおいまたかよ。おまえ、着せ替え人形か何かと間違えてんじゃあねーのか?」
「かわいい女の子にかわいい服を着せるのに理由なんかいらないでしょう。好きなくせに」
「とにかく、ほどほどにしろよ。1時間以上かけんじゃねー」
何か二人が言い合っているのだが、は我関せずと窓の外へ視線をやり、コーヒーを啜る。そしてぼんやり思った。
気難しい人じゃないといいなあ。チョコラータさん。
02: Welcome to Paradise
ポルシェ911カレラはゴーストタウンを駆け抜ける。
白っぽいセメントでできた舗装はひび割れていて、そのクラックからは雑草が好き放題に伸びている。道路から少し離れたところにはポツポツと廃墟が建っていた。昼で、特段天気が悪いわけでもないのに、少しだけ気味が悪い。
こんなところに人が住めるのだろうか。は漠然と思った。しかし、かつて村があったということは、現代ほどガスや電気に恵まれはしないだろうが、最低限人が生きていられるくらいの水は手に入る場所ということだ。それに、お尋ね者となった今は、これだけ人の気配がない場所は逆に落ち着くというもの。ここまで警察が私を探しに来ることもないだろう。
人の手が入っていない木々の合間を行く。道は上り坂で、緩やかに山頂へと向かっている。その脇に、やはりポツリポツリと家屋だったものが見え始めた。道路と同じレベルに一階が、崖下に地下階があるといった造りの家々。ポルシェはやがてスピードを落とし、同じような――これまで見てきたのよりも少し豪勢で、大きめの――家の敷地へと入っていった。
「さあ。着きましたよ」
ティッツァーノはそう言って車を下りた。は、前に倒された助手席の後ろから抜け出して、スカートの皺を手のひらで叩いて伸ばした。スクアーロに着せられた、全く使用人らしくない服。は気恥ずかしくなって、もじもじと足を動かした。
気を取り直して前を向くと、また美しい景色が広がっていた。湾を山の中腹から見下ろす。見下ろすと言っても、海までそれほど近いわけでは無い。海岸に建つスクアーロとティッツァーノの家から車で30分ほどかかる場所だ。視界の半分より上に、あの青々と光る海が広がっていて、下には町やブドウ畑やオリーブ畑が広がっている。
耳をすませば、すぐ下の方から小川のせせらぎのような音も聞こえてくる。車を停めた庭から下へ向って階段がある。きっと下にも、素敵な景色が広がっているに違いない。はわくわくしながら、手招きをするティッツァーノの元へ駆け寄った。
石造りの古い家。所々、積み上げられた薄橙色の石をヘデラが駆け上り緑色で覆っている。おかげでいい雰囲気だ。おどろおどろしくもあるけれど、ここがゴーストタウンで無ければ、古い格式あるお屋敷といった感じもする。そんな家だった。そして、あきらかにこの家屋だけ人の手入れが行き届いていて、屋根が崩落していたり、扉に風穴が空いていたりなんてことが一切無かった。目立つといえばそうかもしれないが、本道から脇道へとそれた先の茂る木々の向こうにある家なので、まず人が生活をしているとは気付かれないだろう。
3人は玄関前の石段を登り、ティッツァーノが玄関扉の横にある真新しいブザーを押す。しばらく経ってからブツっと音がしたが、返事はない。けれど、住人が居ないわけではないと知っているらしいティッツァーノは、ドアフォンに向って声掛けをした。
「連れてきましたよ。チョコラータ」
するとまたブツっと音がして静寂が訪れ、更にしばらく経ってから、重厚な木製のドアがキイと音を立てて開かれた。
特に警戒もせず開け放たれた扉の向こうに、男がひとり立っていた。はごくりと息を呑んだ。身長が高くて、変な髪型――しかも、色は真緑だ――で、少なくとも、全く優しそうではない。白衣を身にまとって、紺色の――それこそ、医者が仕事中に着る――スクラブを中に着ていた。ふと、マッドドクターという文字列がの頭に浮かんだ。けれど、目鼻立がよくて、笑えば魅力的に見えそうだし、ハンサムと言えばそうかもしれない。何にせよ彼の無表情は、おまえなど歓迎していないとでも言っているようだった。
「待ち侘びたぞ」
チョコラータは言った。いや、全然待ち侘びていたようには見えない。と、は思った。
「必要な物はこの中に。彼女の部屋へ運んであげてください」
ティッツァーノが茶色のボストンバッグをチョコラータの前に置いた。彼はそれを無言で持ち上げて言った。
「ついてこい。……ああー、おまえ、名前は」
「。・です。……よろしくお願いします」
はチョコラータの方へ歩み寄り、握手を求めた。対するチョコラータは、まるで値踏みでもするようにの体の上から下、下から上へと視線を這わせると、ようやくの握手に応えた。
「ああ、よろしくな。」
ニヤリと、チョコラータは片方の口角を上げて言った。あ、少し笑ってくれた。ほっと安堵したもまた、緊張していた頬の筋肉を緩めて微笑んだ。
が促されるまま家の中へ入ると、チョコラータがドアノブを握り玄関扉を閉じようとする。と、同時に、まだ扉の前にいたティッツァーノとスクアーロのふたりに向かって言った。
「いつも通り、下のものを処理しておいてもらえるか」
彼の指は、が小川のせせらぎを聞いた方を指していた。スクアーロは答えた。
「ああ」
こうして扉は閉じられた。は閉じた扉をじっと見つめながら、そう言えばあのふたり組とはまともに別れの挨拶を交わしていないと気付いた。
「あの、チョコラータさん」
はチョコラータに近寄り、ボストンバッグの持ち手をめがけて手を伸ばした。
「なんだ」
「荷物、自分で持ちます」
「気にするな。……さあ、おまえの部屋はこっちだ」
そんなやり取りをして初めて、は玄関ホールを見回した。外壁同様、内側も石積で形成されていて、中はひんやりと涼しかった。天井は高く、扉の真上にある丸窓から差し込む光は、向かいの壁に窓と木枠の形をそのまま象っていた。ホールの左右にはひとつずつ扉がある。チョコラータは左側の扉に向かいドアノブに手をかけると、すぐに後ろを振り向いて対面の扉を指さして言った。
「ああ、そうだ。……便所と風呂場はそっちだ。自由に使え」
が頷くと、チョコラータは扉を開いてリビングへ彼女を通した。また広々とした天井の高い部屋だ。やはり壁は石造りで、しかも2階へと伸びる階段――部屋へ入ってすぐ脇にある――まで石で出来ている。天井の梁や階段の手摺は木製で新しく、ニスの光沢でつやつやと真新しく光っていた。どうやら、つい最近廃墟同然の家屋を改築してここまで美しく仕上げたらしい。
家のつくりにばかり目が行くのは、装飾がほとんどないからだろう。絵画、観葉植物、花をいけた花瓶、置物といった類のものはほとんど見られない。あるのは時計、ソファー、大きな最新型のテレビ、ローテーブル、そしてその下の絨毯。必要最低限といったところだ。いや、カーテンすら無いので、必要と思しきものすらひとつ欠けている。とは言え、小高い山の中腹にある廃墟のひとつを標的にして、望遠鏡を使って覗いてやろうなんて暇人はいないだろうし、プライバシーについて心配するほど窓も大きくなかった。キッチンは同じ空間にあって、キッチンカウンターで中途半端にエリアが分けられている。
チョコラータへついて2階へと向かう途中、は彼の背に問いかけた。
「あの、私のお仕事って……なんですか」
「なんだ。あの二人に聞いてないのか」
「はい。あまり詳しくは」
階段を上りきって廊下の伸びる方へ向くと、突き当りに両開きの扉――恐らく、その向こうはバルコニーだ――があった。左手は吹き抜けで、その奥に一部屋と、右手に2部屋あった。
「家事全般だ。おまえ、料理はできるのか」
「一応……できはします」
「なら良かった。あいにく、ここらは近くにデリのひとつもないんでね」
奥の部屋に通される。チョコラータは入ってすぐの所にボストンバッグを置いて、部屋に明かりをつけた。相変わらずの簡素さだが、清潔で涼しい。窓はひとつ。それほど広い部屋ではないが、これまで狭く小汚く風通しが悪い家から出ることを禁じられていたには、十分魅力的だった。
「家事の間、家の中を自由に行き来してかまいませんか」
「そうじゃないと家事が出来ないだろう。構わない。ただ――」
チョコラータはに背を向けながら言った。
「――地下へは行くなよ。私の仕事部屋だからな」
今のところ、地下への行き方は分からない。聞いても教えてはくれないだろうし、彼の仕事が何かも知らないので、今のところ興味は湧かなかった。
「わかりました」
「荷解きをして、一息ついたら……さっそくで悪いが、夕飯の支度を頼んでいいか」
「嫌いなものとか、ありますか」
「いや。……言ったろう。食えればなんでも構わない」
「はい。そしたら、あるもので何か作ります」
「よろしくな」
チョコラータは後ろ手に扉を閉じた。ひとりになった部屋を見渡して、ワードローブとベッド以外に特に見るものは無いと判断すると、は窓辺へと近寄った。
日当たり良好とは言えないが、窓からの景色は悪くなかった。海は見えないが、山間の木々の緑が目を癒やしてくれる。そして、下からはやはり小川のせせらぎが聞こえてきた。今行ってみたいところナンバー・ワンの場所。は窓から3階分下へと視線を落とした。
車を停めたスペースの真下――崖下に煉瓦でアーチ状にかたどられた吐口がある――から、たくさんの水が流れ出ている。どこまでも透き通る、美しい水だ。山の伏流水が湧き出ているのだろう。こんこんと湧き出すそれは池でしばらく遊んだ後、さらにその先へと進んで、やがてさらなる崖下へと流れ落ちて行く。池の周りには木々や花々が生い茂っている。その景色はまるで楽園のようだった。
なんてきれいな所なんだろう。
はじっと池の水面を眺めた。そのうちに、おや、と思った。どこまでも透き通る清水のはずなのに、一部の水が赤黒く濁っているように見えたのだ。自由に湾曲する池の縁――よどみのところ。水草が浮くあたりだ。目を凝らしてじっと見続けていると、赤色の絵の具を溶かしたような水はすぐに薄まってしまった。
見間違い、だったのかな。
唐突に、エンジン音が響く。廃墟ばかりのゴーストタウンには似つかわしくないそれは、ぼうっと池を眺め続けるの思考回路を断った。が音のした方へ目をやると、ポルシェが動き出すのが木々の隙間から見えた。
ばいばい。
はふたりの恩人に、見えないと知りながら手を降って別れを告げた。
「あいつが入隊してどれくらいだ」
「約1年と2ヶ月ですね」
スクアーロとティッツァーノのふたりは帰路を行く車の中で話をしていた。サスペンションを固めにしたスポーツ仕様のポルシェには些か走りにくい道だ。割れた舗装上には、石やらセメントの欠片やらがたくさんあって、それらにタイヤが乗り上げる度に振動がおこり、ふたりの身体を揺らす。だが、それにももう慣れっこだった。
身寄りのない女をあの屋敷に置き去りにするのも。
「で、あの女で何人目だ」
「ですか。それとも、あなたがさっき“処分”した子ですか」
「そうだ。さっきオレが“クラッシュ”に食わせた方だよ」
「……6人目、ですかね。クラッシュ、よくお腹壊しませんよね。骨まで綺麗サッパリなくなってしまうんですから」
「クラッシュ、だからな」
「なるほど。それにしても、あのこが食べたものってどこに消えてるんです?」
「さあな。考えたこともねーよ。つーか、チョコラータのやつ……人目につかねーからってやりたい放題だぜ。2、3ヶ月に一度のペースだ。あの血に飢えた殺人鬼め」
「また、2、3ヶ月後に……戻ることになるんですかね」
「……そうなっちまうんだろうな」
しばしの沈黙。ティッツァーノは窓から外へ目をやり、徐々に遠く離れていくチョコラータの隠れ家を見つめた。
「どうした。らしくねーな」
スクアーロはサイドミラー越しに、どこか憂鬱そうな顔をしたティッツァーノの表情を見て言った。
「……は、とても純真で可愛らしくて、いい子でしたから。気が引けてしまって」
スクアーロはハンドルから右手だけを離し、慰めるようにティッツァーノの肩へ優しく触れた。
「しょうがねえさ。これがオレたちの仕事なんだ」
山道には変わりないが、やっとアスファルト舗装の本道へと戻った。スクアーロはハンドルへ手を戻し、アクセルを踏み込んだ。ティッツァーノに、早く忘れさせてやりたい一心で。
「チョコラータの管理、それがオレたちに与えれた使命だ。は……あのサイコ野郎を大人しくさせて、飼い慣らすのに必要な犠牲だったんだよ」
犠牲。あの邪気の無い彼女の微笑みと血の気の失せた頭部、切り離された四肢、コンパクトにポリバケツへ詰め込まれたそれらを想像して、ティッツァーノは眉をひそめ、答えた。
「……ええ。分かっていますよ」
飼いならすための犠牲。――私たちが使命を全うし生き続けるための犠牲なのだと、彼はしばらく自分に言い聞かせ続けた。