Holiday

 どぶ水のような悪臭に鼻をつかれて、は目を覚ました。朦朧とする意識の中、垂れていた頭をもたげる。すると自分がじめじめした裏路地の暗がりで、家屋のゴツゴツした壁に背中を預けていることと、目の前でふたりの人影が自分の目の前にいるということが伺い知れた。

 だが、はっきりしているのは彼女の嗅覚だけで、視界は霞がかっていてはっきりしないし、聴覚もその機能の半分すら発揮できていない。わかるのは、ふたりの人影がどうも男のようであることと、何かこそこそ喋っているということだった。

「それにしてもこの女……脱獄してきたのか?」
「着ている服を見るに、そのようですね」

 脱獄……?

 はその言葉に、ハッと我に返った。

 そうだ。私は殺人を犯して、刑務所に収容されていた、はず……。

 ふと頭に思い浮かんだ記憶――イメージした景色はモヤがかかったようなもので、判然としなかった。やがて現実味と共に、本当に自分が人を殺して刑務所に入れられたのかどうかにすら自信が無くなっていく。

 人を殺した。持ったナイフが人体に刺さったときの手の感触は残っている。刺したところから飛び散っていく熱い血しぶきを浴びたことも。その肌の感触も、鉄のような臭いも覚えている。

 けれど、私は一体誰を殺した……?

「ん……」

 は頭を前に倒して手をやって、ふらふらとおぼつかない意識を抱えた頭をまた上に持ち上げた。

「お、動いた。おい、ねーちゃん。大丈夫か」

 壁に頭を預け、目をこする。幾分見えるようになった。自分の顔を覗き込む男の顔に、目と意識を向ける。赤い長めの、ウェーブがかかったような髪を、紺色のヘアバンドでまとめ上げている。目の色はターコイズ・ブルー。端正な顔立ち。年齢は恐らく自分と大して変わらないくらいだろうと、はぼんやり思った。

「私、なんでこんなところに……」
「覚えてねえのか?」

 覚えていない。青と白のストライプを身にまとう自分は、多分囚人だ。独房にいた。けれど、私服を着たふたりの男が、壁を、檻を超え、手錠もしていない殺人犯の前にいる。……ああ、違う。檻を、壁を越えたのは自分なんだ。けれど、どうやって?

 は一切覚えていなかった。

 脱獄しようとすら思っていなかったはずなのに、一体どうやったら、追手も何も連れずに路地裏で野垂れていられるんだろう。パトロールカーのサイレンの音ひとつ聞こえない。

「覚えて、ない。……何も」

 男は困ったように頭を掻いて、相方を見上げた。もつられてもう一人の男を見た。声から男だと思ったのだが、顔立ちも髪型も女のようだった。彼も赤髪の男と同じくヘアバンドで髪を留めている。そして、腰までサラサラとした手入れの行き届いた美しい金髪が伸びていた。褐色の肌に、黄金色の瞳。それにしても、美しさの見本市みたいなふたり組だ。

「いいんじゃあないですか。話は、連れて帰ってからでも。……ねえ、お嬢さん」

 彼もまた身を屈め、と目線を合わせて微笑んだ。
 
「私はティッツァーノといいます。こっちは、スクアーロ。そしてあなたは……恐らく囚人だ。何があったか知らないし、何故君がここにいられたのかも分からない。けれど、ひとつはっきりさせてくれませんか。……あなたは、刑務所に戻りたいですか?」

 独房に、馴染めない刑務所のお仲間のもとに……孤独な、ただただ孤独な檻の中に……戻りたい?

 は自分に問うた。すると、はっきりと思えた。出られたのなら、わざわざ戻りたいとは思わない。今や「人を殺して刑務所に収容された」という記憶は、夢の中の出来事のように朧気だ。ただ、罪の意識が消えたわけではない。

 やり直したかった。後悔しかなかった。その罪を無かったことにはできないし、するつもりもない。けれど、もしも許されるならと、「もしも自分が普通で、普通の母親の元に生まれていたなら」と、夜な夜な夢想していたことだけは、はっきりと覚えていた。だからは言った。

「いいえ」

 するとティッツァーノはにっこりと笑った。

「それはそうですよね。なら、私達があなたを助けてあげられるかもしれません。……一緒に来ませんか」

 少なくとも、刑務所に戻りたくないと宣う囚人と思しき見ず知らずの女へ――大なり小なり、刑務所にぶち込まれるほどの罪を犯した脱獄犯へ――無条件に衣食住を提供し、厚生の手伝いをするなんてボランティアがある訳がない。軟禁されていたが故に世間を知らないだが、さすがにそれ程虫のいい話があるはずがないことは分かっていた。一言に救いと言っても、いろいろな種類の救いがある。そして彼らが施そうと考えている救いとは、幸運の名のもとに与えられる神の救いなどではなく、悪魔の誘惑に近いのだろう。要するに、命を削る取引だ。絶対にそうだ。

 けれど、は誘惑に勝てなかった。これから先、着の身着のまま――しかも着ているのは囚人服だ――路行く人に救いを求めても、通報されて終わりだろう。孤独ではいたくない。こんな好機が巡ってくるなんて、またとないだろう。

 たった6年の懲役と思った。しかし、6年間世間は私を一人取り残して先へ進むのだ。無期懲役か死刑になるなら良かった。この先一切世間に出なくて良いのなら。 そうではない人殺しの彼女を待つのは、働き口も見つからない、金もない、衣食住にもろくにありつけない、孤独な人生だ。きっとそうだ。

「ついてきませんか?」

 悪魔が救いの手を差し伸べる。は少しの間逡巡した後、こくりと頷いてティッツァーノの手を取った。彼の手はの手をギュッと握り、立ち上がる手助けをした。立ちあがったは少しふらついて頭を抱えたが、すぐに眩暈は収まった。それを確認すると、男たちは歩き出した。

「ついてこい。車を道に停めてる」

 言われて、はスクアーロとティッツァーノの後に続いた。思えば、手枷も無しに自由に外を歩くのは数年ぶりだ。きょろきょろとあたりを見回してみる。そんな挙動不審な動きをしていたら、刑務所の人間には注意を受けただろう。けれど、それもない。光に満ちた、薄暗い路地の先。は胸の高鳴りを覚えた。

 とは言え、囚人服を纏ったままだとひと目につく。光を前に身がすくむ思いもした。通りへこっそり顔を出して伺ってみる。人影は無く閑散としていた。通りの舗装はひび割れていて、通りを囲むのは崩落しかけた廃墟のような家屋とか家屋だったであろうものの塊。ふたりは通りに出てすぐ右に折れたので、も後続する。数十メートル歩いた先にポルシェが停まっていた。スクアーロが運転席側の扉にポケットから取り出した鍵を差し込み回す。すると鍵は開いて、彼は扉を開けて運転席に乗り込んだ。

 こんな高級車に乗る人間が、脱獄した囚人相手に何を思ったのだろう。もしかすると、本当に慈善事業なんじゃないかとすら思えてくる。けれど、違うだろう。

 いろいろ考えながら呆然と立ち止まっていたを、ティッツァーノが手招きして呼び寄せる。

「さあ、こっちです。ちょっと狭いんですけど、我慢してくださいね」

 はおずおずと車に近寄り、前に倒された助手席とドアフレームの左端との間にある隙間から、狭い後部座席に乗り込んだ。背もたれが元の位置へ戻され、ティッツァーノが助手席へ乗り込み扉を閉じるなり、車は大きな重低音を響かせ動き出す。

 こういうところを、スラムと言うのだろうか。

 は後部座席の小さな三角窓から流れいく景色を見つめながら思った。今や、自分がどこで軟禁されていたのかすら思い出せなかったが、それほどギャップを感じる町並みでは無い。乗っている車と町並みのギャップはひどいけれど。

 三人を乗せた車はやがて荒れ果てた町を抜け、海岸沿いを走り始めた。目の前に広がるのは、美しい、青い海。恐らく人生で初めて見る、目の覚めるような青だ。海の水面は太陽の光を反射して、キラキラと光っている。

「……綺麗」
「海を初めて見たみたいな、純粋な反応ですね」

 くすくすと笑いながら、ティッツァーノが言った。小声で呟いたはずなのに、とは思った。ティッツァーノの耳が良いというのもあるかもしれないが、車内は狭く、の口元から彼の耳元まで大した距離も無い。聞こえてもおかしくはないか、と腑に落ちると、はまた、誰となしに言った。

「初めてだから。……たぶん」

 は背もたれに体を預けた後、左へ頭を傾けた。車の進行方向をじっと見つめる。道は、うねうねと海岸の形に沿って走っていた。その景色すら、には美しく見えた。

 名もなき場所へと向かっている。道の上にいて、その道は前へと伸びていて、自分はその道に沿って、前に進めている。ただそれだけで、今は幸せだと思えた。

 どこへ向かっているのか見ることができても、どこから来たのかはわからない。何を知っているかわかっても、何を見てきたかは答えられない。

 でも、もう小さな子供じゃない。自分が何を求めているかくらいはわかっている。未来は確実にくる。生きている限り。
 
 時間が欲しい。謎を解き明かす時間が。私が何者で、何のために生まれてきたのか。謎を追って、当て所無く彷徨っていたとしても、彷徨えるだけ幸福だ。今はこの流れに、身を委ねていたい。

 ――痛覚を持たないが故に警戒心と恐怖心に乏しいの余暇は、こうして幕を開けた。

01: ROAD TO NOWHERE

 一行が向かったのは小さな港の波止場だった。波止場の根本に大きな倉庫があった。車がその倉庫のシャッター前に停まるなりティッツァーノは降車して、シャッターの脇にある操作盤を開き暗証番号を入力してシャッターを開けた。すると、幅8メートル、高さ5メートル程のシャッターはガラガラと音を立ててゆっくりと開きはじめた。ティッツァーノは中腰になって、まだ開ききっていないシャッターと床との隙間に体をねじ込むと、今度は倉庫の中に明かりを灯した。

 シャッターが高さ3メートル程まで開いた時、を乗せたポルシェはゆっくりと中へ進んでいった。倉庫の中ほどでエンジンを切ると、スクアーロは助手席側の扉を開いてシートを倒し、に降りるようあごで促した。

 広々とした倉庫の中、その空間は赤い煉瓦が積み上げられて作られた壁に囲まれている。床はコンクリートで、天井には所々に天窓があった。天窓からは橙色の光が差し込んで、車を、を照らしていた。は眩しさに目を細めて、倉庫内の天井近くを見回した。壁際にはキャットウォークが張り巡らされていて、そこへ繋がるように鉄製の黒い階段が伸びている。階段の中ほどには、ティッツァーノが立っていた。

「こちらへ。喉が乾いたでしょう?」

 確かに。もっと言えば、腹も空いている。は頷いて、スクアーロの後ろにつき階段の手すりに手をかけた。

 ロフト部分にふたりの居住空間があった。階段を上がってすぐのところにリビングらしきスペースがあって、ソファに腰掛けて視線を横へ向ければ、黒い鉄柵の向こうにライトや夕日にこうこうと照らされるポルシェの姿が見えた。おしゃれな作りだ。ソファーのそばにはアイランドキッチンがあった。ティッツァーノは冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出してガラスコップに注ぐと、3人分をローテーブルへ置いた。

「さあどうぞ。そちらへおかけください」

 は促されるまま席へ着いた。着くなり、ティッツァーノの質問が始まった。聞かれたのは、名前と、年齢と、出身、そして何の罪を犯して刑務所へ収監されたのか。は思い出したくもない生い立ちを思い浮かべながら、ティッツァーノの質問に端的に答えていく。ただし、犯した罪の部分については記憶が曖昧だったので、「殺人」とだけ答えた。ふたりは、の見た目にそぐわない罪に目を丸くした。そして、ティッツァーノは聞きたいことを粗方聞き終わると、最後に言った。
 
「何か、ご質問は?」

 の頭に真っ先に思い浮かんだのは、あなたたちは何者なのか、ということだった。そもそも、何故自分をここへ連れてきたのか。そのあたりの、いちばん重要なことをまだ教えられていないということを彼女は思い出した。助けてやれるかもしれない、とは聞いたが、こちらに何のメリットも無いが助けてやるとは言われた覚えが無かったのだ。

「あなたたちは、何をしている人なの?」
「職業は何か、という質問ですね?」

 はこくりと頷いた。ティッツァーノはあっけらかんと言い放つ。

「賭博、売春、人身売買、麻薬の売買、その他もろもろを仕事にしている組織の一員です。ポストは……ボスや幹部の使いっぱしりというか……便利屋みたいな位置づけですかね」

 が殺人を犯したと知るなり、堰が切れたかのように新事実をあけすけに話しだす。殺人をやってのけるのだから、この程度のことでは驚かないだろうとでも言いたげに。

 ああ、やっぱり。と、は思った。囚人をリクルートしようというのだから、当然と言えば当然だ。前科者が使いやすいのは当然だし、それが殺人ともなれば、倫理観が欠落しているだろうから良いと思われるのは当然だろう。
 
「そう。それで……私は、何をすればいいの」
「言うなれば、奉公……ですかね」
「奉公?」
「住み込みの使用人みたいなものですよ。……明日、奉公先へお連れします」
「その人は私なんかが家にいて、迷惑しないの?」
「まさか、迷惑だなんてとんでもない。喜んで迎え入れてくれるはずですよ」
「……そう。分かった」

 ティッツァーノがにっこり笑う。スクアーロは窓の外の景色をぼうっと見ているようだった。彼の視線の先は、黄昏色をした空と海で形作られた港の景色だ。

 やっぱり、その景色はとても美しかった。……きっと、私は浮かれている。ギャングと関係がある人の元で使用人として働くなんて、普通なら断るのが筋だろう。

 は自覚はしていた。けれど、自由の身となれた今、自分の人生を仕切り直せるかもしれない今、これ以上のことを望むべきではないし、望んでもこれ以上の幸運は得られないということも分かっていた。ならば、文句を言わずに、とりあえずは流れに身を任せよう。そんな考えでいるのだ。

 唐突に、パンッと手のひら同士を打つ音が響いた。

「さて、

 ティッツァーノがにっこりを通り越してニヤニヤとした笑みを浮かべて言った。

「いつまでも囚人服を着ているのは良くない。明日に向けて、身なりを整えましょう。とりあえず、バスルームへ案内します。私についてきてください」

 は座っていたソファーから立ち上がると、ロフトの隅にあるバスルームへと向かった。

「ああ、そうだ」

 スクアーロが、席を離れたを呼び止めた。

「なんか、食えねーもんとかあんのか」

 は小首をかしげた。

「腹、減ってんだろ。そろそろ晩飯の時間だ」
「ごはん、作ってくれるの?」
「オレたちが食うついでだよ」
「ありがとう。特に嫌いなものは無いわ」
「そうか。……あ、あと、ティッツァーノには気をつけろよ。アイツは変態だからな」
「聞こえてますよ。スクアーロ」

 しかめっ面をしたティッツァーノがバスルームから顔を出して、に手招きをしていた。彼女はまたも、促されるままに足を向けた。彼はバスルームに入ったまま扉を閉じると、当然の様にの服を脱がしにかかった。

「……服くらい自分で脱げる」
「あ、そうですか? じゃあ、体を流してあげます」

 などと言いながら彼は服を脱ぎだしたので、は閉口した。それにしても、なんて均整の取れた美しい体だろう。まるでミケランジェロの彫刻に色が付いたみたいだ。

「いや、体も自分で洗えるから大丈夫」
「まあまあ。そう言わずに」

 男性なのに男性らしからぬ見た目であることも相まってか、嫌な感じがしなかったので、もまたそのまま服を脱ぎだした。



「いやに静かだな……」

 料理をしながら、スクアーロはふと眉根を寄せて呟いた。いつもなら、そろそろティッツァーノがバスルームから叩き出される頃なのに。

「……まさか」

 ワークトップで切っていた食材をそのままに、スクアーロは慌ててバスルームへ向った。その先には、泡だらけのバスタブにつかり、泡だらけの頭を、上半身裸のティッツァーノにこねくり回されているの姿があった。

「おまえ、それでいいのか」
「ん?……気持ちいいよ。ありがとう、ティッツァーノさん」
「どういたしまして」

 危機感のかけらも何も無い隙だらけの女は目を細めて、本当に気持ちよさそうにくつろいでいた。