Holiday
愛する人に出会っても、愛した人となっていってしまう。世界は回り続ける。私をひとりきりにして、世界は回る。回り続ける。
地球が回り続ける運命にあったように、私もそういう運命だった。自分の力ではどうしようもないことだ。だから、文句を言うつもりはない。
文句を言わない代わりに、私は愛する人と共にあることができる世界を諦めなければならなかった。諦めるために、今いる世界をぶち壊す必要があった。
「痛いって、どんな感じなの」
私には分からない。血まみれになりながら、私は彼に言った。愛していた人となった――最後に私の前で物になった人。私が、生命の宿らない、物体にしてしまった人。私には、人の痛みがわからない。
「わたし……ね。息苦しいとは思うのよ。悲しくて、つらくて、胸が締め付けれるみたいな、そんな感覚なら痛いほどにわかるのよ」
悲しい。悲しい。良心の呵責というやつも、ある。今まさに私は、それに苛まれ始めていた。そしてやっと、私がやってしまったことに気付いて、恐ろしくなって、血まみれのナイフを放り出して後退る。
このままここにいたら、警察に捕まる。捕まえて、もらえる。そして、閉鎖的な、ただ罪を贖い続けるための世界に移ることができる。私は自分の部屋を出て、電話をかけた。
「もしもし、私の名前は、。……・。たった今、人を殺しました」
受話器を置く。しばらくすると、サイレンが鳴った。赤いパトランプの明滅が、ブラインドの隙間から暗闇に入り込む。部屋に漂う、血の匂い。渦巻いていた狂気は今や凪のようで、静けさに、途方もない孤独に、私は泣いた。
00: I Want To Hear
What You Have Got To Say
警察署内は騒然としていた。手錠を掛けられたは、警察官に背を押されながら廊下を歩く。ロビー、休憩スペース、事務室と、至るところに壁掛けされたテレビには同じニュースの画面が映っていて、その周りには人だかりができていた。
「一体、何事だ?」
の背を押していた警察官は、同僚たちのほとんどが自席を立って仕事を放りだし、テレビ画面を食い入るように見ているのを、怪訝そうな目で見て呟いた。
「おい、アレッシオ!聞いたか!?」
アレッシオは殺人を犯したと宣う血まみれの女を連れて留置場へと連れて行こうとしているところなのだが、同僚はそんなことはお構いなしといった様子だった。アレッシオはため息をついて言った。
「おい。オレは今仕事中だぞ。見て分からんのか」
彼の同僚は興奮気味に言った。
「デナーロが捕らえられたんだよ! みんな大騒ぎだ!」
「ふん。……ありゃ、ROSのヤマだろう? 下っ端のオレたちには関係ない。……全く、どいつもこいつも暇そうで羨ましい限りだ」
デナーロ。イタリアの警察官なら誰もがその名を知るお尋ね者の名前だった。テレビ画面には、カラビニエリの特殊介入部隊――目出し帽を被った黒尽くめの武装警官――がデナーロを取り押さえているシーン――変わり映えのしない、まったく同じ映像――がしつこいほど繰り返されていて、地元メディアのアナウンサーは興奮気味にまくし立てている。
だが、彼は今それどころでは無かった。これから夜勤で、しかもひどくやつれている、痩せぎすの女と面と向かって取り調べを行わなければならない。
痩せぎすの女。・。見るに、二十歳かそこらの女だ。痩せてやつれていなければ美しいであろう彼女が、一体何を犯したのか。彼女の体からはまだ血の匂いが漂っている。アレッシオには嗅ぎなれた匂いではあったが、どれだけ数をこなそうと慣れるものではなかった。
アレッシオはを女性警察官に一時的に引き渡すと、体や服に付着した血液や、の膣内の粘液を採取するように指示した。こうして被疑者の保護措置が進められている間に、彼は部下にと、彼女が殺したと言う男の身元確認をするよう伝え、コーヒーを淹れに給湯室へ向かった。
「君、お母さんに……捜索願いを出されているんだね」
あの女が失くして困っているのは、私という人間ではなく、殴りたいときに殴れるサンドバッグだ。
アレッシオと言う名の警察官の尋問中に、そう言えば、殺すべき人間は他にいたとは思った。
可能ならば、自分の元となるものが父親の精巣の中にいた頃より前に戻って、母親を殺したい。とは言え、そんな虚構に逃れたところで私の罪や後悔が消えるわけではない。母親に罪を押し付けたい訳でもない。
は無表情に言った。
「母は関係ないです。母には知らせないでください」
「そうは言ってもな、君――」
たらたら気だるげに喋る警官だ。話を聞くのも、喋るのも億劫になるくらい。は完全に心の扉を閉ざしていた。
「――聞いているかい? ところで、弁護士はどうするんだね」
「弁護なんかいらない」
「そうはいかないさ。人ひとり死んでいる事件だ。それとね、死んだ人間は世界的な人身売買カルテルの構成員だったかもしれないんだよ。君は被疑者であるのと同時に重要な証人でもあるんだ。情状酌量の余地があるかもしれない。こちらにとって有益な証言をするのなら、司法取引で減刑も可能だ。そもそも、君が本当にやったのかどうか、言わされているだけとか……そういうことも、こちらは詳らかにしなくちゃならんのだ」
あいつが人身売買を? ……ふーん。初めて知った。つまり、私は警察の役には立てない。そういうことだ。
「覚えている限りで、聞かれたことには答えます。でも、こちらから何か言えるほど、私はアイツのことについて知りませんよ」
取り調べに継ぐ取り調べ。連日、取り調べ三昧だった。その内に頼んでもいないのに弁護士が来たり、裁判の日取りがどうとか、どうでもいいことをぺちゃくちゃとやって帰っていく。は辟易していた。大した収穫も無いとがっかりしたような顔になる警官の顔を見るのも、救ってやると言っているのになんでそんなぶっきらぼうなんだと言いたげな、国選弁護人の押し付けがましい善意にも、ほとほと疲れ果ててしまっていた。
は悟っていたのだ。自分を救えるのは自分だけだと。他人の救いなどいらない。そうは思っていたのだが、裁判官に判決を言い渡された時、は涙を流した。
判決を言い渡します。主文、被告人を懲役6年に処す。
被告人は長期に渡り被害者より監禁を受け、さらに性的暴行を受け続けていました。被告人の情状には十分に酌量の余地がある。とは言え、どのような理由があろうとも殺人は看過されるべきではありません。被告人は、懲役の間に自身の過ちを省みると共に、厚生の道を探すように。以上で、当裁判は結審となります。
車の、普通なら窓があるところを見てもカーボン製の黒い板で塞がれていて、外の景色など見えやしない。やっと自由になれたと思っても、あるのは外界とは完全に隔絶された空間だけ。だが、それでいい。
は外の世界に思いを馳せることもせず、相変わらず心を閉ざしたままだった。彼女と同時に警察署から出て、同じ車で刑務所へ移送されている女がに何か話しかけたが、どう対応すればいいのかも分からずに反応を示さない始末。つまんないやつ、みたいなことを好き放題言われても、は何も思わなかった。異論は無いからだ。
刑務所に着くと、身体検査、散髪、囚人服への着替え等を淡々と進められた。囚人の列の最後尾にいたが、最後に囚人番号を言い渡されると、独房へと放り込まれた。はセルを見渡して思った。
ここでも一人だ。ベッドはひとつ。ドラマなんかでよくある、二段ベッドを想像していたのに。
刑務官曰く、には心的外傷があるので独房があてがわられたのだという。彼女には心的外傷があるとの自覚は無かったが、精神鑑定の結果、第三者から見れば十二分に配慮されるべき精神状態だったのだ。心身ともに、母親や男らのいいようにされていた過去がある。刑務所の“お仲間たち”は品行方正とは程遠い人間ばかりで、特に男関係のことについて――性的暴行を受けていたという過去を――彼女らにほじくり返されるなどして、厚生どころで無くなっても良くないという一定の配慮があってのことだった。
は、そんな配慮など要らなかった。いじめなど、恐ろしいと思わないからだ。最早、死ぬことすら恐ろしいとは思えない。今はもう、手放したくないと思えるものすらこの手で奪ってしまって、自分には何も残っていないのだから。
硬いベッドに寝転がり、何も無い天井をただ見つめる。
そうだ。私は、奪ってしまった。この手で、愛した人の命を摘み取ってしまった。彼が死んでいくのを、抵抗をやめるのを、体から力が抜けていくのを、血が流れるのを、ナイフを振り下ろしながら見ていた。彼の体にナイフが突き刺さる感触もよく覚えている。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
やり直したい。人生をやり直したい。けれど、6年という期間を経て、仮に世間が私を許したとしても、私自身が許せないだろう。6年なんて、短すぎる。私は、延々と、死ぬまで、囚われているべきだった。
いや……囚われて、いたかった?
は来る日も来る日も、考えを巡らせていた。自分が何を求めて強行に及んだのか。本当は何を諦めたくなくて、何が欲しかったのかを。
昼食の時間など、味気ない給食が載せられたトレーを持ちながらも、考え、誰とも話すことをしなかった。ある日、がトレーを持って無意識に座ったのは、座ってはならないとされた場所だった。
「いい度胸してんじゃねーか」
筋肉質でガタイのいい白人女性の隣。刑務所には必ずと言っていいほど、刑務官の見えない所で大物ヅラをして幅を利かせる輩がいるものだ。彼女もそのひとりだった。周りの女達はどよめき、冷や汗を垂らして異様な光景をちらちら見やっていた。
は忘れていた訳では無い。ついうっかり、そこに座ってしまっただけだった。だが、そのついうっかりによって、その後の刑務所人生をずっと奴隷のように過ごさなければならなくなる人間はままいるものだ。まさに、がそうなろうとしている。周りの皆はそう信じて疑わなかった。けれど、はそんなことを怖いとも思わない。動くのも面倒だと思ったは、女の威嚇など意に介さず、そのままフォークを手に取り、レンズ豆のトマト煮込みをトレーから掬い取ろうとした。
「ふざけんじゃあねーぞ、小娘がっ!!」
女は激昂し、手元のフォークをとって、それを勢いよくの二の腕に突き刺した。
「っ、な……なんだ、おまえっ!」
は何食わぬ顔で、食事を続けていた。二の腕にフォークが突き刺さっているのだが、そこがまるで自分の体の一部では無いかのように、身じろぎひとつせず、悲鳴ひとつ上げなかった。
「……分からないの」
は異物の突き立った自分の腕をじっと見つめながら言った。抜き取ろうとすらしなかった。
「痛みが。私にはわからない」
けれど、人間は血が流れ続けると死ぬことは知っている。彼女が今ここにいるのは、それを人間にしたからだ。だから、よく知っている。
が医務室へ向かおうと席を立つと、フォークを彼女の腕に突き立てた女はひいっと悲鳴を上げて立ち上がる。と、同時に腰を抜かしていたから床に尻をついた。
「……ごめんなさい。そんなに、隣に座られるのが嫌だったのね。なら、どけるわ。ごめんなさい。……ごめんなさい、ごめんなさい――」
そうだ。私は、聞きたかっただけなんだ。愛する人が、言いたいことを。分からないから。言ってもらえないと、分からないから。痛みも、悲しみも、何もかもを、分けてもらいたかっただけなんだ。たった少しでいいから、何か分けて欲しかった。一方的なのはいや。だって、さみしいじゃないか。さみしい、さみしい。
私がこうなってしまったのは、全部、全部、生まれ持ったこの厄介な特質のせい。普通になりたかった。普通に生きたった。
私は、愛されたかった。
・。幼児期に医師より、先天性無痛症との診断有り。5歳の頃、母親のネグレクト等虐待が発覚し、児童養護施設にて保護される。数年後、母親の申出により施設を退去したが、その後も家庭内暴力が続き、14歳の頃母親の暴力に耐え兼ね家出。以降、路上での生活や、男の家を転々とする生活を続ける。被害者――アキッレ・ガッリ、32歳。人身売買のブローカー。麻薬カルテルとの関わりも有り――と出会ったのは、恐らく5年前。それ以降、被害者には現場となった家屋にて軟禁を受けており、強制的に売春に従事させられていた可能性有り。
アレッシオには、彼女と同じくらいの年頃の娘がいた。彼はの調書を見返しながら、もしも自分の娘が……と、考えずにはいられなかった。たまたま、厄介な難病を生まれ持った。たまたま、生まれた場所が悪かった。たまたま、母親に母親としての適正が無かった。そのたまたまという、運命のいたずらに、人は一生を支配されるのだ。
どうにも、やりきれないものだ。
感情移入などするものではない。これは仕事だ。ましてや、感情移入しているのは殺人犯だ。警官として、同情すべき女ではない。
何度自分に言い聞かせても、血の匂いに慣れないのと同様に、彼の性格は変えられず、あと数年で退職というところまで来てしまった。
自分には救えない。彼女自身が救われたいと願わない限り、他人には到底、彼女を救えないのだ。の表情には、一切の希望を見出だせなかった。何か、人生に諦めをつけたくて、殺人を犯したように思えてならなかった。
刑務所という厚生施設で、何とか生きるための希望を見出して欲しい。
そう思い、の調書をしまったその時、同僚が慌てた様子で彼に駆け寄った。
「アレッシオ! あんたがこの間まで担当してた事件の犯人――、・がッ!!」
アレッシオは眉根を寄せた。
「何だ。彼女が、どうした」
「脱獄した!!」
「な……何だと!?」
あの、脱獄など一切考えていなさそうだった――弁護などいらない、容赦などいらない、一生ムショにぶち込んでおいてくれと言わんばかりにほとんど喋らなかった――彼女が、一体何故、どうやって?
「どうやって逃げた!? 何か、外の人間の手引きがあったのか!?」
「いや、何も……。警報装置も作動しなかったし、刑務所内と所周辺の監視カメラにそれらしい姿も車も、何も映っていなかったんだと。まるで幽霊のように、音もなく、忽然と……消えていたと」
先天性無痛症とは、生まれながらに痛みや熱を感じない神経疾患だ。痛みを感じないから、関節を外すなど人間離れした荒業で鉄格子をすり抜けたのではないか、とか、そんな馬鹿みたいな憶測が飛び交ったりした。
刑務所外での捜索もすぐに実施された。の母親など、関わりのありそうな人間が匿っているのではないかと、手当たり次第に捜査を行ってもみた。しかし、警察は痕跡ひとつ探し出せなかった。
この刑務所の失態がどのように公表され、世間にどのようにバッシングを受け、刑務所長がどのような責任の取り方をしたのか等々、詳細の説明は省く。
最終的に、には懸賞金がかけられ、彼女は指名手配犯となった。彼女の顔写真と、懸賞金額等が書かれたポスターが、街中のいたるところに貼られることになった。