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「目を覚ましなさい。死せる人よ」

 毎度のことながら、目を覚ますという動作をこの状態でどうやればいいのだろう、とは思う。と、言うのも、彼女は今目を開けることができない。正確に言うと、今現在目を開けているのか閉じているのかもわからない。五感が働いていないのだ。所謂第六感で、テレパシーの送受信をしているとでも言おうか。まるで暗闇の中に意識だけが浮遊しているような感覚だ。

 "彼女"がこうやって語りかけてくるということは、はついさっき死んだということだ。目を覚ませという声に反応することが、"彼女"の言う目を覚ますということだと認識しているは内なる声に答えた。

「……起きたわ」
「生きる?それとも、死ぬ?」

 難しい問いかけだ。これも毎度思うことだった。にとって生とは死を望むことであり、死とは生を実感するものである。もし"彼女"と会話が成立するのならば、哲学的な話でもしたいのかと一度聞いてみたいものだ。そしては答えた。

「また死ぬために、生き返りたいわ」

 いつもならばこのあとすぐに目覚めるのだが、今回はどうも様子が違った。

「……あら?参ったわね。……今回は少し長引きそうだわ」
「え?……今日はやけにお喋りなのね……」
「長引きそうと言っただけでお喋り扱い?なかなか手厳しいのね、

 は普通に会話ができるのか、と驚いて口を噤んだ。

「私の名前を知ってるの?」
「もう何年の付き合いだと思っているのよ。と言うか、あなた今まで私のこと何だと思っていたの?」

 が思い浮かべていたのは、テレビゲームなんかで主人公が死んだときに現れるゲームオーバーの画面。そして、そのナレーションだ。"彼女"の声はそれくらい機械的に聞こえていた。まさか、そこに意思があるとは思っていなかった。

「ゲームのナレーター……かしら」
「確かにあなたの人生、何度だってやり直しのきくゲームみたい。それでも残機は無限ってワケじゃあないのよ」
「……?あなたいったい何者なの?それに、前々から思っていたけれど……あなたの声、私にすごく似ているわよね」
「……もう十数年前にはじめましてしてるのに、そう言えば名乗ったことって無かったわね。……それじゃあ、遅ればせながら自己紹介といきましょうか。私の名前はメガデス。百万の死を与える者。あるいは、もう一人のあなた」
「メガデス……?もう一人の……私?」

 は二重人格者と猟奇殺人者を瞬時に結び付けるというかなり極端な偏見のもと、彼女をたった今殺した者の姿を思い描いた。サイコキラー、またの名をチョコラータ。が好きな男だ。

「わあ。……私にもチョコラータみたいなサイコパスの素質があるってこと?なるほど、お似合いのカップルってことね!」
「ああ、。あなたって本当に、すっかり夢見る乙女になってしまっているわよね。……昔から恋愛体質じみた素行があったけれど、今はそれにますます拍車がかかってるみたい。でも相手はちゃんと選ばなくっちゃあいけないわ」
「待ってよ。私はちゃんと選んでいるわ。この人しかいないって運命の人に、ようやく出会えたのよ」

 メガデスと名乗る自称もう一人のは深い溜息を吐いた。の視覚が仕事をしていれば、額に指の腹を押しあててかぶりを振るもう一人の自分の姿が見えたかもしれない。

「夢見がちな恋する乙女もここまで来ると完全に精神疾患患者ね。ねえ、聞いて。やっぱりあなたは、昔に戻るべきだわ。愛とは何か、きちんと理解していたあの頃に」
「戻る?どういうこと?私、昔から何も変わって無いわ」
「聞いてと言っているのよ。……あなたのお父さんは、ウリーヴォさんは、一度だってあなたを殺そうとした?」

 メガデスはの問いかけに答えなかった。そして何か差し迫ったような上ずった声でに問いかけた。は圧倒されて、渋々返答する。

「……いいえ」
「そうでしょう?ふたりは、いつもあなたを思っていた。失いたくないと思っていた。ずっと一緒にいたいと思ってくれていた。そばにいるときはもちろん、離れている時だって愛してくれていた。短い間ではあったけれど、あなたに出会うまでにかかった時間を取り返そうとするように、濃密な愛情を注いでくれた。そんな彼らをあなたは心の底から信頼していたし、心の底から愛していた。そしてあなたは、ふたりが死んでしまった時、何を感じた?」

 は押し黙った。彼女が何を言おうかと必至に考えている間、メガデスも黙って待っていた。もしもの視覚が仕事をしていて、もう一人の自分の前にデスクがあれば、右手人差し指の爪でマホガニー材でできた天板をコツコツと叩いていることだろう。

「それはもちろん、とても悲しかったわ」

 はやっとのことで悲しいと伝えた。彼女の返答を待っていたメガデスはそれ以上の答えを期待して尚も待った。しばらくたっても望む答えが得られないことに苛立って、もう一人の自分は語調を強めた。

「それだけ……?」

 怒気をも孕む低い声に、は不安を煽られた。

「……どうして怒ってるの?」
「どうして……?分からない!?愛する人を理不尽に唐突に奪われて、悲しいって、それだけなの!?今だってそうよ。あんたったら、理不尽に殺されてばっかり。怒りはないの!?恨めしいって、父親を殺したヤツを、その原因をッ――」

 ズキッ。突如、の元に痛覚が舞い戻った。

「っ!!!痛ッ!!!頭が……あ、ああっ……!!!」

 側頭部をスレッジハンマーで殴られたような凄まじい痛み。一度その酷い痛みを覚えた後は、まるで心臓がどくんどくんと音を立てるように脳髄が疼いた。意識がだんだんと、遠のいていく――

。大丈夫かい?……かなり具合が悪そうだ」

 絶望の淵に追い詰められた結果泣くようにとプログラムされた、人間という名の機械人形に、先程まで働いていた意識を無理矢理ねじ込まれたような気分だった。みるみるうちに悲しみが沸き起こり、瞳から涙が溢れ出す。

 訳もわからず顔を上げる。蝋燭の灯りだけが揺らめく、暗くてひどく埃っぽいリビングルーム。そして、心配そうに背中を撫でながらこちらを覗き込む男の姿。

 店長……?

 見覚えのあるシーンだ。これは夢か?はたまた、夢という名のただの過去か。

 そこまで考えたところで、の意思は徐々に薄れていった。まるで一人称視点で映画でも見ているようだ。だが五感は機能している。ただ、自分の意思は反映できない。不思議な感覚だ。正に夢を見ているとき、これは夢だと自覚する時と似ていた。

08: Wake Me Up When Sptember Ends

 の養父、ウリーヴォ・ラメットは死んだとリコルドに聞かされた後、は床に膝から崩れ落ちた。ぼろぼろと涙をこぼして泣く彼女の背中をさすりながら、リコルドは彼女の今後を憂うように頭を掻いた。しばらくして、は嗚咽まじりにぶつ切りに言葉を紡いでいった。

「リコルド……さん、わたしよく……思い……出せないんです……。わたし、今まで……一体、どこで……何をしてたのか……」

 市街地に近いどこかに住んでいたのは覚えている。ナポリの街中の喫茶店とかバーなんかのウエイターだったか、そんなアルバイトをしていたこともぼんやりと。ただ、どこに住んでいて、どこで働いたのかといった具体的なことが分からない。

 はそんな話を、おそらく通常なら一分とかからず出来てしまうような話を三分以上かけてした。そして頭がひどく痛むのか、耳の上の辺りを手のひらで押さえ顔を歪めていた。リコルドは辛抱強く彼女の話を聞いて、現状を整理した。

 とにかく今彼女に必要なのは心身の休息と、心安らかに休息できる仮住まいである。

 リコルドは提案した。ナポリ郊外に、社員の寮として使っているアパートがある。今日のところはそこで休んでくれ。その後のことについてはおいおい話をしよう。

 その言葉に安堵して張り詰めていた緊張が解けたのか、疲労を極めたように見える彼女は気を失って床に向かって倒れていった。慌てて彼女の体を受け止めたリコルドは、乗ってきた車に再びを乗せて彼の所有するアパートへと向かった。

 着の身着のままの。困ったな。着替えも何も無い。とりあえず家内に一通りのものを揃えて貰っておこう。リコルドは道中、こぢんまりした商店で飲み物を買うついでに電話を借りた。アパートに着いたのは、もう少しで日付が変わろうかという頃だった。

 煉瓦造りの古びたアパート。玄関の戸口をくぐると、少し手狭に見えるエントランスがあった。入ってすぐの向いの壁に貼り付けられた、真新しいバーチ材の香りが空間に充満している。

「つい最近改装したんだ。外からだとかなり古く見えるんだが、中は新築同然だから安心してくれ」

 リコルドに背中を軽く押されながら、は新居までの道のりを歩いた。背中を押されなければ動かないのではないかというほどの重い足取りの彼女は、虚ろな表情でニコリともしなかったが、軽く頷く程度の反応は見せた。

 部屋も改装したてで新しく、家具は最低限ではあるが揃っていた。リコルドが妻に用意させた女性用の下着や寝間着、タオルや洗顔料といった生活必需品一式は、スチールフレームの小さなベッドの上に用意してあった。

「明日の朝、朝食を持ってまた来るよ。とりあえず今日のところはゆっくり休むといい」

 はベッドに腰掛けてこくりと頷くと、部屋を後にするリコルドの背中をじっと見つめていた。そしてバタンと扉が閉まり、扉の向こうから施錠される音が聞こえたと同時に、彼女の目から堰が切れたかのように再び大粒の涙が溢れてきた。

 ウリーヴォさんの死に目に会えなかった。ウリーヴォさんがどうして死んでしまったのか全く分からないし、そんな時に私は一体どこで何をしていたのか……少しも思い出せない。思い出そうとすると、頭がひどく痛んで吐き気までしてくる。ウリーヴォさんは独り身だった。私は世間的に存在しないことになっている。亡骸はどうなったんだろう。お葬式は?お墓は?

 は体を小さなベッドに横たえた。そして目を閉じた。

 ……もう、疲れちゃったな。こんなんじゃ、しばらくの間普通に生活すらできそうにないわ……。

 それから一ヶ月、彼女は目を覚まさなかった。

 リコルドは度々部屋を訪れて、彼女が目を覚ますのを待った。彼女が寝始めて一度も目覚めないまま丸二日経って、さすがにおかしいと思ったリコルドは、彼女を近くの病院に入院させた。

 体に異常は全くないと医者は言った。ただただは長い間、まるで眠り姫のように、誰かが揺り起こしてくれるのを待つように、安らかに眠っていた。

。オレの可愛い子。そろそろ起きて、オレに笑顔を見せてくれないか」

 昔聞いた優しい声音。聞いた瞬間、の胸は高鳴った。体はその条件反射的な挙動をまだ覚えていた。

 だが父は死んだはず。ギャングの抗争に巻き込まれたか何かで死んでしまったと、ウリーヴォさんに聞いた。だからこれはきっと夢なんだ。それに私はもう、可愛い子、なんて言われていい年齢ではない。

 もしこれが夢で、幼い頃のある日を回想しているだけなら、体は幼い頃のままなんじゃないか。はそう思って胸を撫でた。幼い頃には無かったか、僅かに膨らみかけてきたくらいだった胸板にはしっかりとふたつの丘があった。これは今の私の体だ。

 そしてはゆっくりと目を開けた。

 ぼんやりとした視界に赤い地面と青い海があった。それは次第に明瞭になる。薄いガラス越しに美しい海が見えた。頭上には晴れ渡った気持ちのいい青い空。頬を優しく撫でる潮風。地面と思ったのは実のところ車のボンネットで、ピカピカと光って眩しいくらいの赤が一面に広がっている。そしてガラスの根本に黒いダッシュボード。車の助手席に座って眠っていたのだ。この景色には見覚えがある。

 ――っ!信じられない!真っ赤なアルファロメオ!父の車だわ!きっとそう!

 は飛び起きた。そして声がした方に顔を向ける。眩しいほどの笑顔を最愛の娘へと向ける、ハンサムな男性――グラナート。の実の父親だ――が運転席にいた。

「ああ、。なんて……なんて美しいんだ。我が娘ながら……信じられない」

 グラナートの手はゆっくりとの頬に伸びて行き、行き着いた先の滑らかな肌を指の腹で撫でた。恋人さながらの所作にはより一層胸を高鳴らせた。今目の前にいる父親の姿は、記憶が確かなら最後に見た時と変わらない。享年三六歳、だったはずだ。

 途端に胸が締め付けられるように痛くなった。は目頭が熱くなって、じわりと涙が滲むのを感じた。

「おとう、さん……。おとうさん……おとうさん――」

 は幼子に戻ったようにボロボロと涙をこぼしながら父親に抱きついた。肩を抱込み、グラナートの首元に顔を埋め、声を上げて泣いた。彼の長い腕と大きな手のひらで包み込まれ、久しぶりの感覚に安堵すると、彼女は次第に落ち着きを取り戻していった。

「まだ泣き足りないか?」

 そんな風におどけてみせるグラナートの声も、少し震えているように聞こえた。尚もしゃくりあげてはいたが、は顔を横に振って父親の肩から顔を離し、愛する父の顔をみつめた。

「おいおい、。鼻水まで出てる。せっかくの美人が台無しだぞ?」

 困ったように笑い目を細めたグラナートの目尻にも、小さな涙の粒が見えた。彼はの頬に手を添えて、親指で頬を滑る涙を拭う。

「なあ。聞いてくれ。お前に伝えたいことがあるんだ」

 グラナートは続けた。

「いいか、。オレのことは、もう忘れるんだ」

 は下唇を噛んだ。そして寂しそうな顔で訴える。

「どうしてそんなこと……。できるはずない」
「いいや、。できる。事実、今のお前はオレとの思い出なんか、これっぽっちも思い出せないはずだ。そうだろう?」

 はそう言われて、そんなことは無いはずだと過去を思い出そうとした。だが、そうすればするほどに、ズキズキと頭が痛んだ。まるで脳ミソを直接包帯か何かでぐるぐる巻きにされ、締め上げられているかのようなひどい頭痛だ。

「頭が、ひどく痛い……。どうして。どうしてなの」
「……苦しいだろう。だから、それでいいんだ。ずっとこのまま忘れているんだ。思い出そうとなんかしなくていい。今のままでいいんだ」

 まるで突き放すような物言いだ。再び襲い来る不安と、痛みを振り払うようにはかぶりを振る。

。人生は短い。ある日突然、お前の夢や希望、大切にしていたもの、こと、人……全部が消えてしまう。そうなる前だって、自分の意思に反して人も環境も目まぐるしく変わっていく。だから今この時を大切にしろ。後悔がないように。今この時生きている自分を、人を慈しんで、生きていくんだ。死んだ人間と、その人間との記憶に囚われるな。……オレに、ウリーヴォに……囚われるな。過去は忘れて、前を見て生きていくんだ」
「でも、お父さん。私……私、お父さんのことも、ウリーヴォさんのことも……心の底から愛していたわ。……いいえ、今だって、愛してる。忘れるなんて無理。嫌よ……」

 グラナートは困ったように、柔和な笑みを浮かべた。

「お前は昔から頑固だからな。一度やると決めたら頑として譲らない子だった。……そうだな。なら、完全に忘れろとは言わないよ。父さんだって、お前に完全に忘れられたらって思うと悲しい。だから、父さんがいたってことと……そしてお前のことを死んでしまった今も、心の底から愛してるってことだけを覚えていてくれ。他の感情は全て、忘れるんだ」
「分かった。……分かったわお父さん。それじゃあ、お父さんも約束して。私がお父さんのこと、心の底から、そして一生愛してるってことを覚えていてね?お父さんやウリーヴォさんのことを、忘れたりなんかしない。絶対に」
「ああ、もちろんだ。ありがとう、。愛してる……愛してるよ」

 ふたりはそう言って長い間抱き合った。その内、温かな心安らぐ体温に包まれたはまた、深い眠りに落ちていった。

 夢を見た。心温まる夢。また見たい。そんな風に思わせる、幸せな夢。

 例の暗闇に戻ってきたは、自由になった意識の中で思考を再開する。

 寝ている間に脳だけは活動する。目は開けていないはずなのに、人が動いている様だとかどこかで見たことがあるような景色だとか、はたまた全く現実的でない異世界を目の当たりにしたりする。そして何か喋りかけてくる声や周囲の音なんかを感じとる。目を覚ました時、それを忘れていたり、はたまた覚えていたりする。人々はそれを夢と呼ぶ。

 人間が夢を見る理由は諸説あると、何かの本で読んだことがあった。何でも人間の脳は休んでいる間、遠い過去の記憶や直近の印象的だった記憶を結びつけたり抹消したりして、必要なものとそうでないものを取捨選択するらしい。日々そんなメンテナンス作業を行って、頭の中を整理するのだ。その作業中に発生するノイズのようなものが夢というものだという。

 作業には、起きている間に働く五感だけでなく感情も大きく作用する。嬉しかったこと、驚いたこと、嫌だったこと、恐ろしかったこと、腹立たしかったこと。負の感情を抱くに至った要因、その記憶を忘れさせてくれるほど都合よく出来ているわけではないらしいが、それにしたって寝ている間にそんなことを勝手にしてしまうのだから、人間とはつくづく良くできている。は素人ながらに感心したことを思い出した。

「でも、あなたの脳ミソも心も、今は上手く機能していないの。……あの後何か見たなら、それは夢じゃない」

 "彼女"、改めメガデス――あるいは、もう一人の自分――が声を上げた。憔悴しきった弱々しい声だった。

「メガデス……?どうしたの。かなり疲れているみたい」
「……その理由は、生き返れば分かるわ。……お願いだから、もう死なないで」
「どうして?」
「……我を忘れてぶちギレそうなのよ。いい?。よく聞いて。記憶と夢は別物よ。記憶は過去に起こった事実だけれど、夢はまがい物。幸福感でカムフラージュされた虚構にすぎないの。あなたの記憶にはそんな夢が紛れ込んでいる。気をつけて。惑わされないで――」
「何?よく聞こえないわ……」

 音源がそこそこのスピードで自分から遠ざかっていくように、メガデスの声は急激に小さくなっていった。彼女の言うことはよくわからなかったし、最後の方はほとんど聞き取れなかった。そしてまた、暗闇は眩い閃光に呑まれていく。

「――すごいな。一週間、頭と体を切り離して頭だけケースに入れていたってのに、まだ生き返っちまうのかお前は」

 目を開くと、蛍光灯の明かりを遮ってを覗き込むチョコラータとセッコの姿があった。セッコはもちろん、右手にビデオカメラを構えて寝台に横たわるの姿を撮影している。チョコラータはを毒殺した後ノコギリで首を断った。その切断線だった場所を、物思わし気な表情を浮かべながら人差し指の腹で撫でた。なんの抵抗も無く、指は首を滑っていく。

 ぞくりと甘い痺れを感じて、は肩を竦めてふたりから顔を逸らした。

「ん……、くすぐったいわ。チョコラータ」
「頭と胴体を切り離して、頭部のみ気密性の高い強化ガラス製のケース内に保管し、一週間隔離した。結果……は死ななかった。セッコ。もういい。カメラを止めるんだ」

 は生き返る度に、チョコラータが興覚めだとでも言いたげに溜息を吐いて頭を横に振る姿を見ることになった。そして彼はすぐにセッコを連れて地下室から出て行く。だが、今日の彼は違った。セッコを先に自室に帰らせて、が寝台から起き上がるのを待っていた。

「……チョコラータ。どうしたの?」
。私はもう、お前を殺してやれない」
「…………え?」

 あまりにも急な話だ。チョコラータに今私は、別れ話を切り出されている。胸をぎゅっと締め付けられるような痛みがを襲った。喉の奥からこみ上げてくる圧力を、唾を飲んで腹の奥へと押し返そうとする。だが結局下からの圧力に押し負けてしまい、鼻腔にまで駆け上がってきた熱が目頭を熱くして瞳に涙を滲ませた。

「私……またひとりになるの……?いや……お願い。チョコラータ。捨てないで……お願い。お願いよ……」

 また、と口にした途端、別の要因で胸がざわついた。何か、素敵な夢を見ていた気がしたのだ。そして、何か忘れてはいけない大切なことを忘れてしまった気もする。

 夢を見ていたことは覚えていても、それがどんな夢だったか覚えていない。ついさっきまで内容を覚えていたのに、次の瞬間にはすっかり忘れ去ってしまっている。誰もが経験したことがある感覚だろう。

 嫌だったことがトラウマとなって何度も脳裏を過るように、嫌なことは頭に残りやすい。その逆もある。良かったことは写真だとか、形に残さないと思い出せない。嫌なことはもう二度と繰り返さないようにと心に留めておくのに、良かったことはもっともっとと欲しがるように忘れてしまう。

 きっといい夢だったのだろう。はそう思うことにした。今の彼女にとっては、死んでいた間見ていた夢が、その内容がどんなものだったかと思い出すよりも、再び訪れた突然の別れに、その絶望感に、どう対処するべきかと考える方が大事だった。

 。もう一人の私。……いつかきっと、私のことを起こしてね。

 潜在意識が悲しげに独り言つのだが、生き返ってしまったにその声は届かなかった。