死にたい。死んで得られるあの至高の快感のために、自分では無い他の誰かに思いっきり殺して欲しい。でも痛みは感じる。それが怖くてめったに自分で自分は殺さない。だから自分ではなく、誰か他の人間にひと思いに殺して欲しい。
常人の感じる痛みと自分の感じる痛みが同じかどうかをは知らない。もしかすると殺してもらえるという期待による興奮で、常人よりも痛みに鈍感になっているかもしれない。そうは言っても、腹を刺されて悲鳴を上げないわけではない。痛いのに変わりはないのだ。麻酔も無しに腹を裂かれ、極めつけに大腸だか小腸だかのはらわたを引きずり出されるところをむざむざ見せつけられれば、常人なら痛みとショックで気を失うか、死ぬ。もその点は常人と変わらなかった。
腹にメスで切りこまれ、彼女がショック死するまでの時間はほんの二、三分程度だった。だが壮絶な痛みに喚くにとっては何分、何時間とは明言できないが、とにかくとても長い時間に感じられた。そして意識が朦朧としてきて、五感を失い、やがて彼女は身体が死にいくのを感じ、ああ、やっと求めていたものを得られる、と微笑んだ後、白目を剥いて口をポカンと開け絶命した。
「……死んだか?」
チョコラータは開かれた腹部をずちゃずちゃと掻き回しながらの顔を見る。が、彼女は目を大きく見開き、口をぽかんと開け涎を滴らせたままぴくりとも動かない。そんな様子をセッコは黙ってビデオカメラで撮影していた。グロテスク極まりない光景だが、殺人狂のチョコラータと生活を共にする彼にとっては至極日常的な光景だった。
クソ……つまらなかったな。
チョコラータは死んでしまったを憎々し気に眺めながら思った。こんなに人を殺していてつまらないと思ったことは無い。後味が悪い。彼が殺人に求める物を彼女からは少しも得られなかったからだ。痛みは確かに感じているようだが、この女ときたらやめてくれと懇願するどころか嬉々とした表情で早くして、なんて言ってきやがった。彼にこんなことを思う権利は微塵も無いが、まったくもって正気の沙汰とは思えなかった。おかげで殺してやった!という達成感など少しも得られていない。
チョコラータは舌打ちをした。
「おいセッコ。もういい。テープの無駄だ。カメラを止めろ」
「うおっ!おおっ……チョコ、ラータ!!見て……くれよ!……オンナ……の体ッ!!何か……おかしくねぇ!?」
「ああ……?てめー何言って……」
そう言ってちらと“死んだ”の体を見る。途端、チョコラータは唖然とした。
「……なっ……なんだこいつは……?」
掻き乱された臓物がまるで生き物の様に動き出した。それらが人体模型通りの正しい位置に戻ると、寝台やメスに張り付いていた血飛沫が球体となっての体へと戻っていく。外に出た血液が全て元の場所に戻ると、開け放たれた片開きドアのように捲られていた皮も自ずから動き出し、切開部に覆いかぶさる。横倒しにしたスーツケースのジッパーを閉じるように、下辺、左辺、上辺と順序良く傷口は綺麗に閉じられていった。
まさか、目を開ける訳じゃあるまいな。
青白いの顔を眺めながら、チョコラータは固唾を呑んだ。だが、彼女のその顔に血色のいい肌の色が戻った時、彼は彼女が生き返って目を開けると確信した。信じられない。だが、カビを自在に操って大量虐殺できたり、自分を生かしたりできる能力を持つ自分のような人間は、セッコもそうであるように複数存在する。あり得ないことではない。柔軟な発想を持って彼はの存在を認めた。
それと同時に彼は死ぬ間際の彼女の態度について納得しかけた。死なないと分かっていれば怖いものなど無い。痛みは感じるのだろうが……いや、待てよ?それにしたっておかしい。痛みは感じるというのならば、それは苦痛でしかないはずだ。事実彼女が腹を裂かれて臓物を引きずり出されている最中に上げていた悲鳴は常人のそれと大して変わらなかった。ただ、表情に何かしっくりとこない違和感があったのだ。まるで大きなクリスマスプレゼントの箱を目にした子供の様な表情を浮かべた後死んでいった。何故だ?
死なないから自分は無敵だと誇っているだけでは無い。チョコラータは漠然とそう思った。眉間に皺を寄せながら彼はをじっと見つめる。するとしばらくして、はゆっくりと目を開けた。恍惚とした表情で瞳を潤ませて、自身を一度殺した男を見やる。
「……ショック死って初めての経験。……麻酔ってすごいのね。麻酔も無しにお腹を裂かれるなんて、貴重な経験だったわ」
ゆったりとした口調では唐突に与えられた死について感想を述べた。チョコラータは増々屈辱的な気分になった。そして三カ月という人を殺すには長すぎる期間を与えられていることついて、その理由の一端を掴んだ気がした。
ボスはどうしても殺せない人間をオレに殺せと言っているのか……?
言葉少なに・を殺せとだけ言われた彼は、人生でほとんど初めてと言ってもいいほどのストレスを感じた。
喜んで死ぬ女を……死ぬ前に絶望しないどころか嬉々とした表情でオレを見てくる女を、死ぬまで殺せってのか……!?
苦行だ。やってられるか。
彼はこの時、一瞬だけ匙を投げかけた。そんな彼をよそに、は期待に満ち溢れた眼差しでチョコラータを見つめている。最早自分が裸で寝台に拘束されていることなど取るに足らないことだった。
私はこの時が来るのをずっと待ってたのよ!きっとこの人と出会えたのは運命だったんだわ!もう誰にも私を止められない。これまでにないほど、私はハッピー・エンディングに近づいてる。最高の気分だわ!!
彼女は頭の中で言葉を選んでいた。どうすれば自分はハッピー・エンディングを迎えられるか。どうすればこの目の前のサイコパスを“その気”にさせられるか。
「もしかしたら、私のことを永遠に殺せるのは……チョコラータさん。あなただけかもしれないわ」
選び抜いた答えがそれだった。この男が求めているのは、まぎれもない自分の死だ――厳密に言うとチョコラータが求めてやまないのは、常人が死の間際に見せる絶望の表情だが、彼女はそれを知らない――。ならばまずは、殺せると信じ込ませることが先決だ。
はチョコラータという男の前において、恐らく躊躇なく人を殺せてしまうチョコラータに不可能なら他のどんな男であっても実現不可能な、どうしようもない未来に思いを馳せた。
愛し合って、愛するキミの為ならと、人生を全うした暁に殺して欲しい。
チョコラータを相手取った場合、殺されるという未来なら確実だ。だが、が満足して永遠の死を迎えられるほどの愛を、チョコラータから与えられる可能性はほぼゼロに等しい。
なぜなら彼は、恋愛や結婚などというものは、ドーパミンという神経伝達物質の過剰分泌によって脳が麻痺した結果でしかないという認識でいるからだ。つまり、全ての恋愛や結婚は麻痺した脳が犯す過ちであり、上手くいくかいかないかで一喜一憂するなど愚かしいし、そんなことに夢中になるなど時間の無駄としか思っていない。
「……オレ、だけ……だと?」
の言うことの真意を掴めずにいるチョコラータは、眉根を寄せたまま彼女を睨みつけ、瞼をぴくぴくと痙攣させてイラついている。
それが何であってもだ。理解できないということ自体が許されなかった。この目の前の女については謎だらけだ。逆に言えば解明のし甲斐があるとも言えるが、今のチョコラータはそのことを手放しで喜べる心境ではなかった。
「私最期は、愛する人の手で迎えたいの。腕の中でって意味じゃあなくて、愛する人に殺されて最期を迎えたいって意味よ。だから私を愛してくれる人は、最後に私を殺してくれなくちゃならないの」
「……お前はアホなのか?」
「そうよね。理解なんてできないわよね。でもこれから、私が教えるわ。私の殺し方を」
革紐で縛られた両手両足を少しだけ揺らして、は拘束を解いて欲しいという素振りを見せた。
……とりあえず話を聞いてみるか。オレの理解を超えたこの女が、殺し方を教えてくれると言うのならそれはありがたいことだ。さっさと殺して仕事を終わらせたいからな。後は親衛隊の連中を問いただして、このクソみたいな仕事の本質がどこにあるのか突き止める。
チョコラータが疑問を抱くのは当然だった。彼はこの・という死なない女をただ殺せとしか言われていない。殺しても生き返るという事前情報すら与えられていなかった。ボスはそれを知らなかった訳では無いだろう。三カ月という妙に長い期限が設けられていることからも明白だ。
この訳の分からない仕事は一体何なのか?とボスに直談判したいと思ってもそれは叶わない。メールすら恐らく帰ってこないだろう。まさか、三カ月間この女をどうやったら殺せるかと頭を悩ませ続けながら訳のわからない共同生活を続けろとでも言うつもりか?殺しても生き返るクソ女。そんな事実を隠したまま殺せと無茶振りしてきたクソ上司。とにかく全てがストレスなので、最も効率的な手段で仕事を終わらせ、この女とはさっさとおさらばしてしまいたい。
チョコラータはの手首と足首に巻き付いている革紐を外した。この寝台に一度寝転がって、生きて起き上がった人間なんて初めてだ。チョコラータは物思わし気にぼうっとの姿をしばらく眺めた。
は体を起こしながらあたりを見回している間にチョコラータの視線に気づきはっとする。頬を赤らめてとっさに両の乳房と股間を自由になった両腕で隠すと、チョコラータから目を逸らす。
「私の服は?」
「あのポリバケツの中だ」
はチョコラータの指先を見やった。そして寝台から離れて部屋の隅に置いてある群青色の大きなポリバケツへ近寄ると、おもむろに蓋を持ち上げた。下着もトップスもボトムスもパンプスも、彼女が身につけていた全ての物が雑多に投げ入れられている。が、見た所彼女が身に付けていた物以外は入っていない。酷く匂う訳では無かったが、血液の付着した被害者の服でも入れていたことがあるのか、鉄っぽいような生臭いような、不快な臭いが漂うそこから、は何の躊躇いもなく服を拾い上げ、男二人の視線を背後で受けながら服を身に着け始めた。
「チョコラータ……いいの……か?あのオンナ……自由にさせて……よォ!」
「なあセッコ。早くあのオンナをこの家から追い出したい……いや、殺してやりたいじゃあないか。だから、ちょいと話を聞いてみよう。わざわざ自分から殺し方を教えてくれるってんだからなァ」
黙ってビデオカメラでの撮影に勤しんでいたセッコはいつの間にか録画を止めていた。カメラを持った手をぶら下げて背を曲げたまま、焦った様子で主人の顔色を窺った。セッコもまた目の前で起こった怪奇現状に度肝を抜かしていたが、彼もスタンド使いであるので、まったくもってあり得ない超常現象だとは思っていなかった。
セッコはチョコラータが完全にボスに忠誠を誓ってはいないということを知っている。上から押し付けられた仕事を何の疑問も抱かずに全うしようなどという発想が無いこともわかっている。ただ、一度殺してみただけで人を殺すことを早々に諦め、あろうことか獲物の拘束を解くなんてことは他に礼を見なかったので不思議に思った。さらに怒りも湧いてくる。不可解な行動をとったチョコラータへ向けた怒りというよりも、不可解極まりない存在の・という女へ向けた怒りだった。
……何で、あの……オンナッ……死なねーぇんだっ!?
人を殺した後のチョコラータはいつも機嫌が良かった。カメラを手に持つセッコの背後に回り、プレビュー画面を見て何の問題もなく殺人を記録に残せたことを確認すると、いつもポッケに仕込んでいる角砂糖を数個投げてセッコに食わせるのだ。まるで犬に芸を仕込む飼い主のように。
今日は角砂糖はお預けなようだ。
チョコラータの機嫌が悪そうだからだ。目に見えて怒り散らしている訳では無い。だがその表情には、セッコが今まであまり見たこともないような感情が見て取れた。沸々と煮えたぎる怒りと殺人衝動を抑えながら、どうにかしてあの女を殺してやりたいと色々思惑を巡らせている。理性的に感情をコントロールしようと懸命になっているような、そんな表情を、服を身に纏うの背中に向けていた。
セッコもまた面白くないと思った。チョコラータにこんな顔をさせ、マイナスの感情であるにせよ彼の注意を引く・という女が憎らしい。
あまいのッ……もらい、そこねたじゃあ……ねーかよォッ!!
チョコラータの趣味部屋から生還を果たしたは、再びリビングへと戻ることになった。彼女がこの邸宅に訪れてすぐに振舞われた赤ワインは、美しいカッティングが施されていたグラス――今は割れて粉々で見る影も無いが――と一緒に、床にぶちまけられたままだ。
はガラスを踏まないように慎重に足を運び、ソファーへと腰を下ろした。チョコラータはの隣に、今度はかなりスペースを置いて腰を下ろして彼女のいる方へ少しだけ身体を傾けた。相変わらず眉間に皺を寄せたまま、不機嫌そうな顔でを見る。
「それで?ご教授願おうか。お前の殺し方とやらを」
はうなずいて、微笑みを浮かべながら淡々と語りだした。
「さっき確認してもらった通り、私は何をされたって、私の心が死を望まない限り絶対に死なないのよ。だから先生が私の心を満たしてくれて、私がもう死んでいいやって思ったら、自分で死を選ぶわ」
「待て。お前は死ぬ死なないを選べるのか?」
は彼女の体が死んだ瞬間に起こることを包み隠さず告げた。死の瞬間、得も言われぬ凄まじい快感を得た後、闇の中で声が響く。「目を覚ましなさい。死せる人よ」その後、ここで永遠の死を選ぶか、死に続けるかの二択を迫られ、死に続けると答えれば彼女はどんなに体がめちゃくちゃになっていても生き返ることができる。まだ試したことは無いが、おそらく永遠の死を求めれば、脳の活動も完全に停止して完全に死ぬだろう。
信じられないとは思うけど、という言葉から始まったそれは、チョコラータをスタンド使いと知らない彼女の語り口だ。彼女自身、自分が死んでも生き返ることをこれまで誰にも明かしていなかったので、自分の身に起こる“超常現象”に名前が付いていることすら認識していなかった。もちろん、同じような特殊能力を持つ人間が他に存在することも知らない。つまりチョコラータもまたスタンド使いであろうなどと、が思い至るはずもなかった。
「やはりスタンド使いか」
「……?スタンド?」
「まあいい。お前は一体どうすれば満たされるんだ?具体的にどうやればいい」
は頬を赤くして口ごもった。そして火照って熱くなった顔を見られまいと両手で覆い俯いた。対するチョコラータは、なぜそこで赤面する?と増々眉間の皺を深くしてイラついた。
「……先生ならご存知かもしれないけれど、人って死ぬ時に脳内ドラッグが放出されるの。きっと個人差があるんでしょうけど、私ってその……感じやすいタイプらしくって」
「…………ふむ」
「その“感じる”っていうのも、シチュエーションとか、体のコンディションとかで色々度合いが変わってくるのよ。私はその究極を知りたいの。これは私の理想ってだけで、完全に思い込みかもしれないんだけれど……きっと、セックスと一緒で……愛する人にされた方が気持ちいいんじゃないかって考えてて。だから私……先生のこと、愛したい」
「…………ん?」
「先生ならきっと、私のこと躊躇なく殺してくれるでしょう?」
「……ああ。まあ、そりゃあな」
「そうよね!だから先生も、私のことを愛して欲しいの」
「…………いや待て。ワケがわからん」
「え?なんで?」
「お前脳内麻薬か何か知らんが、ヤク漬けで頭ぶっ飛んでんじゃあねーのか」
「私はクスリになんか手を出したことないわ」
「いや、お前のは合法かもしれんがやってることはその辺のヤク中と一緒だ。体に影響は無いんだろうが、頭の方がぶっ壊れていやがる」
チョコラータは医者としての知識は十分に身につけている。したがって、脳科学の分野において、死――死の定義は非常にあやふやだ。死とは点では無く線、つまり過程を示す概念であるというのが医学的に一般とされる解釈だが、人が死について語る場合、それは大半が心肺機能が停止した時点の「臨床死」をさす――後に、脳が数秒から数分間活動を続けることが解明されていることも知っていたし、死の瞬間にドーパミンやセロトニンと言われる神経伝達物質が分泌されることも知っていた。なのでチョコラータは、が語ったことの前半までは理解できた。死んでも生き返るが故に、脳内麻薬で得られる快感に味をしめてしまったのだろう。完全にヤク中だ。
だが後半で彼女が語ったことは少しも理解できなかった。全く論理的ではないし、主観に依存しきった彼女の穿った願望でしかないからだ。だがこの女の世界では、その“主観”が物を言うのだ。いくらそれをおかしいことだと説き伏せても恐らく意味は無い。
チョコラータは珍しく頭を抱え、確認のため、に教えられた「彼女の殺し方」をおさらいした。
「要するにだ。お前は脳内麻薬で気持ち良くなったところで人生を終えたいわけだ」
「ええ」
「脳内麻薬で最高に気持ちよくなるためには、恐らく、愛する者に愛され、至福の時を過ごした後に、愛する者の手で愛を持って殺される必要があると」
「そう!」
「その上で、お前はあろうことか……お前を生け捕りにしてぶち殺してやろうと……お前のことなんかこれっぽっちも好きだと思ってないオレを相手にラブロマンスに興じた上で……オレに殺して欲しいと。こーいうことか?」
「その通りよ先生!!あなたは私の幸運の星なのよ!」
――オレにこの女を殺すのは無理だ。
この時チョコラータは完全に匙を投げていた。