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 はナポリの中心街に位置するレストランのテーブル席でチョコラータと夕食を共にしていた。この瀟洒なレストランが普段どの程度集客できているのかは知らなかったが、年末とあって客は少ないように見えた。そんな静かな空間で高級フレンチのコース料理に舌鼓を打っている間、は子細に目の前の男を観察していた。チョコラータという医者を前にして初めて抱いた凶悪なイメージは尚も心の隅に留まっていたが、会話をしている内に何とも言えない魅力的な側面を見せつけられ、彼女は段々と目の前の男に引き込まれていった。

 まず第一に、ファーストインプレッションこそ良くは無かったものの、と一対一で話している間彼は非常に慇懃な態度で愛想のいい笑顔を向けてきた。みめ形も整っているし、今の彼と、対面したての頃のつんけんした態度の彼とのギャップが良いのか、なかなかどうして魅力的に思えてしまっていた。

 第二に、さすがお医者様――正確に言うと、お医者様“だった”だが――と言うべきか、話し方はとても丁寧且つ論理的。多少フランクさに欠けはするものの、人の関心を引くのが上手い喋り方だ。そして話している内容も押しつけがましい、知識をひけらかすような高慢なものではない。会話の間、をまるで問診でも受けているかのような感覚にさせ、安心感すら抱かせていた。

 第三に、彼はを惜しみなく褒めた。ルックスやスタイルはもちろんのこと、ファッションセンスやメイクのことだとか、仕事に対する姿勢までもをこれでもかと言う程に褒めちぎった。

 まったく、このチョコラータという男は大した女たらしだ。だがしかし、彼女は完全には心を開かない。これはいつものことだった。彼女はそう簡単に真の自分の姿を晒せない。そして彼女は確信していた。真の自分の姿を晒せない“一般人”は心の底から愛せない。仮に愛して欲しいと真の姿を晒したところで、逆に“狂ってる”と言われて愛してもらえないだろう。

 死ぬことによって脳内のどこかから放出される“脳内麻薬”。それによって忘我の境に達することこそ、彼女の欲求。最上の愛をもって死を与えてくれる男性こそ、彼女が伴侶として求める男性なのだ。

 はこれまで幾度も男性客に誘われデートをしたが、いつもこの“条件”で躓く――当たり前だ――ので、交際をスタートすることは無かった。一度か二度ディナーに誘われて、男性との関係は終わる。だが、金輪際彼女に会いたくないと思う男性は少ないようで、脈無しと断定しても客としてメンテナンスや買い替えで通う者が多かった。ありがたいことに、しつこく食い下がって求婚までしてくるような熱心な男はいなかったし、ストーカーと化す男もいなかった。交際を断られたからと店に行かなくなるなど男としてのプライドが許さないと、よく分からない意地を張っているから彼らがそうしているのか、はたまたただ単にの断り方が上手いだけなのか原因は不明だが、とにかく彼女が店の客との交際を断ったからと言ってそれが営業成績に影響を与えることはなかった。

 このチョコラータという男が求めているのが、末永い交際なのか一夜限りの肉体関係なのかはまだ分からないが、前者であればまた断ることになるだろう、とは思った。医者なんて、殺人行為とは真逆の尊い職業に就いている男が自分を手にかけてくれるわけがない。まさか、映画“羊たちの沈黙”に出てくるハンニバル・レクター博士じゃああるまいし。

 いい車にも乗ってるし、ハンサムだし、お話は面白いし、私のこと褒めちぎってくれる。ボーイフレンドにはもってこいだけど惜しいわ。普通に恋ができないのって考え物ね。

 メイン料理を腹に収め食器が片付けられた後、デセールが運ばれてくる。デートもそろそろ終わる。さて、チョコラータはどう出てくるか?大抵は次のデートの約束を取り付けようとしてくるのだが――

。キミは酒は好きか?」

 ――そう来たか。これは、飲み足りないだろうとか言って女性に酒を飲ませて、酔って色々と緩んだところを突いてやろうという常套手段だ。まあ、一夜限りの関係で済むならそれに越したことは無い。一回ぽっきりで捨てられるなら、それはとしても心労が少なくて済む。職場の客として気を揉む必要が無くなるからだ。

「ええ。あまり量は飲めませんが」
「それはいいことだ。酒は嗜む程度が体にいいからな」
「ふふ。おっしゃることがお医者様らしいわ」
「とは言え、食前酒と赤ワイングラス一杯程度じゃあ飲み足りないだろう。ウチにいい酒があるんだ」

 テーブルの上に置かれていたの左手に、チョコラータの右手が重ねられた。はドキッとして息を呑んだ。重ねられた手は何度か彼女の手の甲を撫でた後、手の平をすくって軽く握る。さりげなさなど欠片も見せない、積極的なアプローチにはさすがのも舌を巻いた。

 そして不覚にも、はその手つきに情欲を掻き立てられてしまった。彼の手がメスを握り、それが自分の胸や腹の真ん中をすべっていく光景を瞬時に想像してしまったのだ。そんなことをして殺してもらえるわけがないと頭では分かっていても、彼女はエクスタシーを求める自身の衝動に抗うことができなかった。

 レストランを後にしたふたりはメルセデス・ベンツのクーペに乗り込んで、チョコラータの家へと向かった。家までは少し距離があると言ってチョコラータが運転する車は、郊外に向かって走っていく。

 いままでひしめき合うように建物が並んでいた明るい夜の景色が、市街地から離れるにつれてだんだんと夜の闇に飲まれていった。はその間、あらぬ空想に耽っていた。

 ああ、彼がハンニバル・レクター博士みたいな殺人鬼だったらいいのに。

 チョコラータという男は、件のフィクション小説、及び映画に出てくるような、カニバリズムに傾倒した社会病質の精神科医ではない。が、その大枠は変わらない。なので彼女は憂う必要はなく、むしろ映画“ローマの休日”の脚本家もびっくりするような稀代の出会いに喜ぶべきだが、精神病質の医者崩れ兼ギャングという片鱗を微塵も見せない猫かぶりの男の前とあっては、自身が置かれている“幸運”な状況など知る由も無かった。

02: Oh Love

 気が付いた時には、市街地から高速道路に乗って車を三十分ほど走らせた先、ヴェスヴィオ山の麓にまで来ていた。アスファルト舗装の道路から外れ木々に囲まれた私道を一分ほど走ると木々で覆われていた視界が急に開けていった。広々とした空間に赤いレンガ造りの邸宅が建っている。庭周りに設置されたセンサーライトのおかげで、敷地の全体像を把握することができた。脇には車を少なくとも四台は置けてしまいそうな広々としたガレージと、驚くことにヘリポートまである。水浴びをするような季節ではないのでほったらかしにされている様だが、そこそこ大きなプールも備えられていた。使われなくなったヴィラでも買い取ったのか、独身の彼にはいささか広すぎる豪勢な家だ。

 さすがお医者様だわ……。

 は驚いたが、彼女の興味関心は既に邸宅全体からガレージの中へと移っていた。このベンツ以外にどんな車があるのだろう。そう思ってワクワクしていただったが、車は玄関前で停められてしまい、チョコラータが乗った車をガレージに仕舞うつもりが無いと分かると心の中で落胆した。

 玄関の間口は広い。その両開きの扉の向こうは吹き抜けになっていて、目の前に幅広の階段、天井に小さなシャンデリアがあった。玄関から入ってすぐの右手側にリビングがあり、はそこに通された。ソファーに腰掛けるようにを促すと、チョコラータは自慢の酒を振舞うためにひとりキッチンへと向かった。

 は広く静かな空間にひとりぽつんといる間、周りを見渡してチョコラータの人となりを探ろうとした。あまり人を招き入れるつもりがないのか、装飾品は最低限のものしかない。一段掘り下げられたところに、背もたれの低い革張りのソファーとローテーブルが。その真上には照明、背後の棚の最上段にはプロジェクターが設置されている。

 映画を見るのが趣味なのかしら……?

 ソファーの向かいの壁沿いには家具や絵画やその他装飾品の類は一切なく、壁は白いモルタルで綺麗に仕上げられている。ここをスクリーンにすれば、大迫力で映画を鑑賞できるだろう。だが、ビデオテープのコレクションなど、チョコラータが映画ファンと思えるような品はぱっと見ることができる範囲には確認できなかった。ただ部屋はかなり整頓――と言うか、整頓も何も物自体が少ないのだが――されていて、清掃も行き届いているように見えた。

 とにかく一人で待つにはつまらない、殺風景で生活感の無いリビングだ。おかげでチョコラータの人となりなど何も掴めなかった。

「お待たせ」

 が手持ち無沙汰に視線を泳がせていると、チョコラータがグラスとワインボトルを携えてキッチンから戻ってきた。のすぐ隣、こぶし一つ分ほどのスペースしか保たないほどの距離にチョコラータは腰を降ろした。何もそんなに詰め寄らずとも、ソファーの座面は十分に広いというのに。これまで幾度も男性とのデートを経験しただったが、キスをして身体を重ねようという雰囲気になる前に、ここまで詰め寄られたのは初めてだった。再びどきりとしては固唾を呑む。

「ありがとうございます」
「なあ。そろそろ敬語を使うのはやめてくれないか」

 チョコラータはワインオープナーでコルク栓を抜きながら、困ったような笑みを浮かべていた。音を立てて栓が開けられると、クリスタル・ダルクの底に美しいカッティングが施されたワイングラスに、とくとくと赤ワインが注がれていく。

「いくら私が君よりも年を取っているからってそんなの気にしなくていい。それにここじゃもう、客と営業って関係でも無いんだ」

 はグラスを手渡される。

「どうぞ。美味しいよ」

 チョコラータはにこりとに笑いかけた。は言われるがままにワインを飲み下した。

「ああ、。もちろん君はとっくの昔に気づいていると思うが……」

 の背後に腕を回し、チョコラータはに顔を近づけた。空いた方の手は彼女の太腿に乗せ、何の躊躇も見せずに何度かさすった後、スカートの裾に滑り込ませてそのまま中心に向かって進めていく。ムードもへったくれも無い性急な始め方だが、は嫌がる素振りを見せなかった。熱に浮かされたような顔でぼうっとチョコラータの顔を眺めている。

「私は今夜、キミと思いっきり楽しみたいと思ってる。だから、途中で帰るなんて言わないでくれよ?……まあ、もっとも――」 

 は意識が朦朧としはじめ、まだ赤ワインの残っているグラスを床へ落としてしまう。ひどい眠気が襲ってきて、頭が熱を持ってぼうっとする。視界もぼやけはじめ、次第に上半身を立たせておくことすら困難になり、はチョコラータの膝上へと倒れ込んでしまった。

 ……あれ、私……変だわ。ここまでお酒に弱くは――

「――お前はその調子じゃあ喋ることすら難しいだろうし、もう二度と家には帰れないがな」

 不穏当なセリフの後、の頭上から下卑た笑いが降り注ぐ。は自身の身に何が起こっているのか認知する間も与えられないまま、深い眠りに誘われていった。

 チョコラータは自分の膝の上で事切れたかのように眠り込んでしまったを乱暴にどかすと、ソファーから立ち上がって彼女を抱き上げて肩に担いだ。そして吹き抜けの玄関へと向かい二階に向かって声を上げた。

「おいセッコ!!仕事だ、降りて来い!!」

 チョコラータに呼ばれ暗闇の中から姿を現したのは、黒のフード付きパーカーと、同じく黒のスウェットパンツを身に付けた男だった。フードを深く被り口元は黒いマスクで覆っていて、皮膚が晒されているのは目と鼻の周りと両手だけだ。瞳孔は開ききっていて、重度の薬物中毒者にも見える。かなりの猫背で肩からぶら下がった両腕は今にも床につきそうだ。

 セッコと呼ばれたその男は、メリハリの無いふらふらとした動きで階段を降りてきた。

「仕事……って?チョコラータ……そのオンナ……誰なんだ?」
「昼間出かける前に言っただろーがッ!ボスが殺したがってる女だ。今からこの女を殺すから、ビデオを回してろ。ああおい。充電はちゃんとしているんだろうな?」
「ふおっ!!……充電は……ばっちり、だぜ!!」
「じゃーとっととカメラ取って地下に来い!」

 セッコは慌てて二階の自室へ戻っていった。チョコラータはリビングの向かいにあるランドリールームへ入り、突き当りの扉を開けた。その向こうの地下へと伸びる階段をゆっくりと下っていく。

 チョコラータの趣味部屋だ。彼の趣味は秘められたこの場所に全て詰まっているので、がいくらリビングで目を凝らそうとも彼の人となりなど分かりはしないのだ。

 部屋は家の西側に位置した、元はワインや食料の備蓄に使われていた広々とした地下空間だ。彼がまだ医師免許をはく奪される前に、別荘として――郊外で人気も少なく、彼の欲求を満たすのにはうってつけの立地条件だ――この家を購入した際、作り替えたものだった。チョコラータはこの趣味部屋に丁寧な装飾を施し、快適に過ごせるよう設備を整えていた。

 向かって右側の壁に鎖と手枷、その真下に同様の足枷が固定されている。それらの前方には手足を拘束するための革紐のついたステンレス製の寝台が設置されていた。寝台の枕側に同じ高さの作業台があり、その上にはチョコラータが前日の内にピカピカに磨き上げたあらゆる解体用の器具が並べられている。作業台が沿わされた壁のコルクボードには大きなノコギリ等が掲げられている。六十平米はあろうかという地下空間を照らすのは古ぼけた蛍光灯四つのみ。精密な作業が必要となる外科手術をする気など毛頭ないチョコラータにとっては十分な明るさを部屋に与えていた。

 彼は部屋に入るなり一目散に寝台へと歩み寄り、その上にの身体を寝かせた。躊躇なく衣服を剥ぎ取って彼女を丸裸にすると、床に散らかした服を全て拾い上げ、部屋の隅の大きなポリバケツへ放り込んだ。なるほど、死人には衣服など必要ないので、その行為はやって当然と言える。チョコラータは寝台に戻り、尚もぐっすりと眠り込んでいるの手首、足首に革紐を括り付けた。準備は万端だ。あとはセッコがビデオカメラを持って降りてくるのを待つだけだ。

 自分が休憩や死にゆく者の姿を鑑賞するために置いたソファーに腰を下ろし、チョコラータはふうっと一つ溜息をついた。数分後、部屋の扉が開いた。セッコがビデオカメラを右手に携えて入ってくる。見るなりチョコラータは立ちあがった。

「さて、ショータイムだ」

 これからこの女の絶望に満ち溢れた表情が拝めるのだ。そう思うと彼は興奮した。歪みきった笑みを浮かべ、おもむろにに近づいていく。

 最初は私がただのハメ撮り好きのサディスティックな変態野郎とでも思わせるか?そして殺すのだけは勘弁してくれと懇願させて、助けてやると言いつつ最後の最後で期待を裏切ってやろう。そしてゆっくりと、腹にメスを埋めていってやる。はらわたを取り出すところなんて見たら、この落ち着き払った上品ぶった女はどんな風に顔を歪めて、どんな叫び声を上げるだろう。ああ、考えただけで勃っちまいそうだ……。

 チョコラータはの頬を平手で打った。二、三発繰り返されたその暴力で、はううっとうめき声を上げた。そしてゆっくりと瞼を持ち上げる。

 蛍光灯の明かりを遮る様に、目を細めて口角を釣り上げたチョコラータが自分を見下ろしている。はその表情は初めて見た、と思ったが、何となく腑に落ちた。彼の今の表情は、第一印象に忠実だった。まさしく“ジョーカー”だ。

 ふと、自分の身体が衣服を何も纏っていないことに気付く。背面はひんやりと冷たく、手首と足首には何かが纏わりついている。

 が普通の女性ならば、この時点で慌てふためき、あまりの恐怖に声を荒げて拘束を解こうと足掻くことだろう。だが彼女は“普通”ではない。普通の女性が持つ警戒心はもとより、人間が持つ防衛本能すら彼女には無い。今の彼女には、ただちょっと裸を見られて恥ずかしいという気持ちがあるだけだった。

 そして何より、彼女は興奮していた。

 もしかすると、私、殺してもらえるかもしれないわ……!

 は一度深呼吸をしてクールダウンすると、確認のためにチョコラータへ質問を投げかけた。

「チョコラータさん?私のこと、どう、してくれるつもり?」
「ああ?……お前、何でそんなに嬉しそうな顔をしてやがるんだ……?」
「やだ……デートしてた時とは全然話し方が違うわ……それって、二重人格ってやつなの?そういう人、よくサスペンス映画とかの悪役として出来るわよね!サイコパスとかソシオパスとか……あなたってそういう人なの?ねえ、もしかしてあなたって……殺人鬼だったりする?」
「ベラベラベラベラ喋りやがってうるせーぞこのアマ!!っ……クソ、こんな反応は予想外だ!!今すぐぶち殺してやる!!!!おいセッコ!ぼさっとしてねーで、さっさとビデオを回せ!!」
「うお!?うおっ!!」
「ああ、チョコラータ先生。あなたはやっぱり、私のハンニバル・レクター博士だったのね!!」
「わけわかんねーこと言ってんじゃあねええええ!!!!!」

 ――本来、若い女性が猟奇趣味的殺人鬼の毒牙にかかり凄惨な死を遂げ、殺人現場となるはずだった地下空間。そこは突如としてラブロマンスの始まりの場所へと変貌を遂げた。

 と、思っているのはだけだ。彼女は狼狽えまくっているチョコラータを、期待に満ち溢れ恍惚とした表情で眺めていた。

「ああ……先生!これは運命だわ!」
「うるせえ死ねええええいッッ!!!」