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 もうすぐクリスマス。明日から仕事は休み。今日が仕事納めだ。街で働く大半の人々にはほとんど仕事をする気がなく、明日から始まる休暇に思いを馳せぼうっとしている。そんな冬の寒い朝のことだった。はいつものように出勤し、そしていつものように展示されている売り物をみて感嘆のため息を漏らし、コーヒーを啜りながら立っていた。

 の目の前にあるのはイギリスの高級車メーカー、ジャガーの高級セダン――通称ソブリンだ。ノーズが長く、ボディーカラーは黒。迫力と威厳を兼ね備えた見た目だ。一方で、フロントガラスの根元から、左右二つずつ据え付けられたヘッドライトに向かって伸びるボンネットのプレスラインは妖艶で、見る物の目をひきつける。一昨日入ってきたばかりの中古車だったが、グレードは高く状態も良く、走行距離も短い上にワンオーナーだったので、その車体価格は一憶五千万リラを超えていた。

 端的に言えば、良い車だ。こんな車を毎日眺められるなんて素敵なことだ。だが、彼女の心は完全には満たされない。

 寂しいのはいつものことだけれど……クリスマスっていけない。なんだか余計に人肌が恋しくなっちゃう。何より寒いしね。

 はたまに車の購入を検討している店の客にデートに誘われ、夕食までを共にすることがあった。だいたい皆良い車に乗っていたので、男性とデートすることよりも車の方に興味関心が向いてしまっていた。普通は逆なんだろうが、彼女が付き合う男性に求めるある条件――良識ある一般人には恐らく達成困難なノルマだ――を満たさない限り、例え相手がブガッティのシロンなんて言う五十億リラ超えの超高級車、スーパーの更に上を行くハイパーカーに乗っていたとしても、車に一度乗せてもらい車に対する探求心を満たしてしまえば、それでその男とはさよならすることだろう。

 は金に興味が無い。もちろん金が無ければ車は買えないが、いかんせん所有する欲求より、ありとあらゆる車を飽きるまで眺めて、あわよくば乗せてもらったりして、車に対する探求心を満たすという欲求の方が大きかった。なのでカーディーラーのセールスレディという職業はまさに天職。の持つ欲求の五割程度は、日々仕事に向かうだけで満たされていた。

 残る五割の欲求は酷く満たしづらい性質の“快感”を得ることだった。そして人生を楽しく全うした上で、それを与えてくれる男性の手によってハッピー・エンディングを迎えること。それこそが、彼女の人生における一大テーマだ。

 もう明後日がクリスマス・イヴか……。

 は溜息を吐いた。彼女には年末を共に過ごす家族がいない。同じような天涯孤独の身の恋人もいない。そんな彼女の憂を帯びた表情を目ざとく見つけた後輩のファジョリーノが、ニコニコと屈託のない笑顔を浮かべての顔を覗き込んだ。は何の用かとファジョリーノの顔を見つめ返す。

「私、顔に何か付けてる?」
「いいえ。この時期に溜息吐いて考え事してるってなんかヤバくないですか?と思って。何なら相談に乗りますよって言おうと思って先輩の顔を覗き込んでるんですよ」
「その割にはにっこにこでご機嫌ね。何かいいことでもあったの?」
「えへへ。分かりますー?昨日ガールフレンドできたんですよ。別にクリスマスは一緒しないですけどね。お互い家族の元で過ごすんで。先輩はどうするんです?今年のクリスマス」
「……ひとり寂しくおうちにいるわ。ああファジョリーノ。私悲しくって寂しくって死んじゃいそうよ……」
「あーせんぱあーい。超かわいそう。オレでよければイヴの朝まで一緒しますよ~」
「いいえ結構よ。あなたってほんと、何かにつけて私の部屋に来ようとするわよね」

 リコルドの所有するアパートに住まう二人――家賃は給料から天引きされている――は、同僚でもありお隣さん同士でもあった。は年下のファジョリーノのことは可愛いヤツと思っていたので無下にランチやディナーの誘いを断りはしなかったが、彼のことを自分の部屋には入れなかったし、彼の部屋に入ることもしなかった。別に彼がタイプでないとかそういう訳では無く、職場の同僚と親しくして自分の本性を知られ、あろうことかクビになるわけにはいかないという理由からだ。彼女の過去をある程度知っている恩人のリコルドにさえ、自分がいくら致命傷を受けても無限に生き返ることのできるびっくり人間である、ということは明かしていない。

 そんな彼女は今日この日、運命だと思えるような男性との出会いを果たす。彼女が運命だと思ったのはとんでもない勘違いでしか無かったし、結局その男性とは別れることになるのだが、は人生史上最高に満たされた三カ月間を過ごすことになった。あくまで、暗殺者チームに身を置く前までの彼女の“人生史上”だが。

 これはが暗殺者チームの一員としてアジトに身を寄せる前の話。どうしようもなく男を見る目がない彼女の、どうしようもない殺人マニアのサイコパス――チョコラータとの出会いから別れに至るまでの物語だ。

01: Stay The Night

 がファジョリーノを自分の仕事につくよう追い立てると、店の入り口近くにある受付のカウンターの傍に立っていたの耳に車のエンジン音が届く。

「あら。お客様だわ」

 音のする方に目を向けたは、店の駐車場に一台の高級車――メルセデスベンツのSクラスクーペ――が乗り入れるのを見て驚いた。年末の仕事納めの日に客が来るのは珍しい。明日から長い休暇に入ると言う日に車を買いにくるなんて、よほど急いでいると見た。それか年末前のボーナスが入って夢を膨らませにきたか……。とにかくこの客を逃すわけにはいかない。はそう思い、車から男が降りてくる姿を見るなり店の外へと飛び出した。

 緑色の頭髪――複数に束ねられて?いて、その先端は丸みを帯びている。まるでジョーカーの札に載っているピエロの被る帽子の先端みたいだ――。白いスーツ。紫色のルージュ。かなり独特な見た目だ。顔を白塗りにしたら、某アメリカン・コミックスの悪役と瓜二つになることだろう。それとも不完全なコスプレ?と、は思った。

 がそんなヴィランを思い浮かべたのには理由がある。ポケットに手を突っ込んで、出迎えるの方へ向かう男の姿が良くなかった。そのポケットの中で拳銃でも構えているんじゃないかとを勘繰らせるほどに、穏やかでない顔つきをしているのだ。ブ男という訳では無い。むしろ目鼻立ちはいい。身長もそれなりに高く、筋肉質な体型だ。だがそれ故に、凶悪そうな顔つきが目立っている。

 だめよ。お客様に先入観なんて持っちゃ。あんな人相でも、もしかしたらすごくいい人かもしれないわ。

 は心の中でいろいろと考えてはいたものの、それを少しも匂わせない営業スマイルを浮かべ、目前に迫った男ににこりと笑いかけた。

「いらっしゃいませ。寒い中のご来店、誠にありがとうございます」
「ああ。新しい車が欲しくてね」
「さようですか。どうぞ、中へお入りください。お飲み物をご用意しますわ」

 は男を店内へと誘い、受付のファジョリーノに飲み物を用意するように言うと、いつも使う商談スペースへと連れて行った。男は車が欲しいと言いながら、店内の車には少しも目を向けない。はそれを不思議に思ったが、何はともあれ、目の前にいるのは客なのだ。は胸ポケットから名刺を取り出し、男に手渡しながら簡単に自己紹介をした。

。当店で営業を担当しております。どうぞよろしく」
「チョコラータだ。医者をやってる」

 は医者と聞いて耳を疑った。だが、あのクラスの車に手を出せる収入があるのだからおかしい話ではない。目の前の男がギャングなのでは?というの勘繰りが消滅した。そして医者だと名乗る客に握手を求め手を差し出した。男はそれに応じ、と握手を交わすと席に着く。席に着いた後しばらくじっと名刺を眺め、の顔と名刺とを何度か交互に見た後、彼女の名前を呟いた。

……」
「ええ、チョコラータさん。どのような車をお探しですか?」
「……買い替えを考えてる。セダンがいい」

 男はスーツの内ポケットにの名刺を仕舞うと、の顔をじっと見た。その間、はチョコラータが乗ってきた外の車をちらと見ていた。まだそれほど乗り込まれておらず、割と新しい年式のように見えた。だが、車を買って三年と経たない内に売り、売った金を元手に新しい車に手を出す客は珍しくもない。

 は視線を目の前のチョコラータへと戻すと、店に置いてある車を一通り紹介しようと提案する。そんな提案を受けた彼は、それがいい、とにこりと笑って見せた。はふとみせたその表情に驚きつつも、男を外へと案内する。

 外は寒かったが、朝の直射日光がそれを少しだけ和らげている。好天に感謝しつつは店の展示場に置かれたセダンタイプの車の前へとチョコラータを誘導した。そして車を指し示しながらセールスポイントを次々と挙げていく。彼女の車の説明にはいつも必要以上の熱が入っていた。それほど車の性能にまで興味を示さない客だと引くレベルの説明がいつも展開される。だがチョコラータはそんな彼女の姿をにこにことした表情で眺めていた。それに気を良くしたもヒートアップしていき、気が済むまで説明を終えたところでチョコラータの要望を聞いてお勧めしては、うーんちょっと違う。なんて答えが返ってくる。というやり取りを繰り返した。ただ車を見て話をしていただけなのに、彼が店を訪れてから一時間が経過していた。その間にチョコラータを満足させる車には巡り合えなかった。

「あとは店内に展示中のジャガーですね。チョコラータさんがお求めのセダンタイプだと、うちで今扱ってるのはそれで全部です」
「そうか。見てみるよ。身体も冷えてきたし、そろそろ店内で暖かいコーヒーでも飲みたいね」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」

 は屈託のない笑顔をチョコラータに向けた後、ファジョリーノにコーヒーのおかわりを注文する。ファジョリーノも一応営業担当だというのに、今日のには完全にお茶くみ担当扱いをされている。そんな自分を情けなく思いつつも、彼は給湯室へと向かった。どうせ今日は仕事をするつもり無かったし、と心の中で悪態をつきながら。

 一方、チョコラータとのふたりは、コーヒーが届けられるまでの間に店内のジャガーを見て立っていた。チョコラータは、店に入った時に一瞥すらくれなかったその車を、の説明を聞きながら興味深げに見て回っていた。は気づいていなかったが、彼の視線は車に向かっていると見せかけつつ、頻繁に楽しそうに喋るへと向けられていた。チラチラと目を動かしながら、彼が思っていたこと。それは――

 ああ。早く、君が絶望に顔をゆがめるところを見たい……。

 ――すでに抑えがたく昂りつつある殺人衝動だった。

 の勘は鋭かった。彼は医者などではなくギャングなのだ。医者という彼の経歴は嘘では無い――だから彼は金を持っていたし、医者と言われて疑われない程度の車も所有している――が過去のもの。殺人衝動に抗おうとすらしない倫理観の欠落した彼は、幸福な人間が一転して絶望の表情を浮かべ、生にしがみつこうとする様を見ることこそを人生の楽しみとしていた。彼が医者になったのは人を救うためなどでは“決して”ない。人の死に接する機会が多く、何より、上手くやれば患者を死に追いやりその死に際を拝むことができるからだった。

 チョコラータはその頭脳と残忍さを買われ、パッショーネのボスに直属の親衛隊として雇われていた。雇われ始めてまだ日も浅かったが、彼にはボスから重大な仕事が与えられていた。

『この女を殺せ。生きていてはいけない女が、まだ生きていた』

 ターゲットは。期限は三カ月後。

 殺し専門のチームが別にいると聞いていたがそこに任せないあたりから察するに、相当ヤバい秘密を持った女なのだとチョコラータは推察した。だが、そんな女が何故カーディーラーなんかで働いているのか分からなかったし、実際に見てみた女はいたって普通だった。少なくとも、ギャングと呼ばれるような人間と関わりを持ってきた様には見えない。そして仕事を済ませるまでの三か月という期限を、チョコラータは長く感じた。もしや自分と同じスタンド使いか?何か手こずることでも予見されているのか?

 そんなチョコラータの疑問を払拭できる情報は与えられていなかった。ボスの伝令はいつも必要最小限だ。情報を与えれば与えるだけ、歯向かう意思を持つ者が付け入る隙を与えてしまうと思ってのことだろう。とチョコラータは考えた。そういった勘繰りができるあたりから、彼が全くと言っていい程ボスを敬愛していないことがわかる。ただ、ギャングの世界は医者以上に人の死に目にあう機会に恵まれていた。だから殺人衝動に身を任せて自身の欲求を満たすため、大人しくボスの飼い犬となったのだ。

「その車を買おう」

 チョコラータはジャガーを指さして言った。

 の生き生きとした姿を見るのは今日のところは十分だ。後は家に帰って彼女を迎え入れる準備を整えよう。ああ、どうやって殺してやろうか。死にたくないと言って、この女は何を提案してくるかな。それをこっぴどく振ってやったら、どんな顔で私を見るかな。いろいろ考えていると興奮してきたぞ。

 チョコラータはを見ながらそんなことを考えていたが、当の本人はそれを知る由も無い。チョコラータはこれまで医者として何人か院内で殺しており、それを周囲の人間に感付かれないように猫を被るのはお手の物だった。話し相手に柔和な笑みを見せるのも難しいことではないし、目的達成のために興奮を抑える術も身に付けている。車を買うつもりなど毛頭ない。買うと言ったのは、を職場からおびき出すのが幾分スムーズになるだろうと思ったからだった。恐らく車を買う予定でいる客の気を損ねまいとデートの誘いに乗ってくるはずだ。

「ありがとうございます!乗ってこられたお車はどうされます?こちらで買い取りもできますが」
「買い取ってもらおう。だが、今日でもう仕事納めだろう?」
「そうなんです。ですから、お見積りですとか契約書へのサイン等は年明けになってしまいますね……」

 チョコラータの目論見通り、と彼との関係は年明けまで持ち越されることになった。だが、彼に年明けまで彼女を手にかけるのを待つつもりは無い。明日にでもをデートに誘おう。チョコラータはそんな素振りを少しも見せずに店を出ていった。

 彼は家に帰る間、幾通りもの“殺し方”を考えた。その中で使えるのはひとつだけだ。泣き叫び、死にたくないと生に縋り、何とか生き残ろうと懇願する。それを聞き入れてやるふりをして、生き残れるかもしれないという希望を与え、そして再び絶望の底に叩きつける。その時の最高に輝いている表情――チョコラータ曰く――を引き出すため、“殺し方”は慎重に選ばなければならない。

 チョコラータは家に着くなり、地下にある趣味部屋の掃除を始めた。それは一見手術室の様にも見える白いタイル貼りの部屋だったが、よくよく見ればあまり穏やかとは言えない切断器具――人体用とは思えない大ぶりなノコギリなど――が銃器よろしくコルクボードに掲げられている。ステンレスの寝台は血を流すための溝があり、流れた先はそのまますぐ下、床の排水口に流れ込むように設置されていた。

 寝台の傍に大体同じ高さの作業台があり、彼はその上にありあとあらゆる器具を並べて手入れを始めた。ピカピカに磨きながら、やはり彼はのことを考えていた。とにかく早く、彼女に再会したかった。

「せんぱーい!良いお年をー!」
「はーい。あなたもね。気を付けていってらっしゃい」

 アパートの共用の廊下から階段に向かう途中、寝ぼけまなこを擦りながら玄関先に現れたに向かって手を振りながら、ファジョリーノは彼女にしばしの別れを告げる。彼の背中を見送って扉を閉じ鍵をかけると、はあくびをしながらキッチンへ向かった。近くのパン屋で買ったクロワッサンとアップルタルトを皿に乗せマグカップに濃い目のコーヒーを注ぐと、小さなダイニングテーブルについた。ふと壁掛け時計を見る。時刻は朝の十時。そろそろ寝間着は脱がなければ、と思うが生憎何の予定もない。どこに行ってもほとんどの店が休みとあっては、外出用に小綺麗な格好をする意味もない。

 はクロワッサンをひと齧りして口の中に広がるバターの風味を堪能する。美味しい~と独り言を漏らしながら、コーヒーを啜る。それを何度か繰り返していると、ベッド際のナイトテーブル上で仕事用の携帯電話が鳴り始めた。

 店長かしら……?

 は食事を中断して携帯電話の傍に駆け寄って画面を開いた。見知らぬ電話番号だった。店長では無い。とすると、恐らく客からだ。今商談中の客は……チョコラータしかいない。明日からクリスマス・イヴだというのに一体何の用だろう。そう思いながら応答ボタンを押した。もしもし。と応えると、やはり読み通り、チョコラータの声が聞こえてくる。

『チョコラータだ。昨日はありがとう。おかげで良い車に巡り合えたよ』
「チョコラータさん。こちらこそ、お手伝いできて光栄です」
『車だけじゃあなくて、素敵な女性にも巡り会えたって思ってる』

 おお。なかなか直球だ。は驚いた。

「その素敵な女性って、どなたのことです?」
『分からないのかい?君のことさ、。……昨日から君のことが頭から離れないんだ』
「まあ、それは……。そう言っていただけて嬉しいです」
『どうかな。今夜、ディナーでも』

 こう直球で来るのも珍しい。普通は車のことで相談に乗って欲しいとか、そういうワンクッションを置いて誘って来るのだが、このチョコラータという男は違うようだ。

 これと言って用事があるわけでもない。それに、あの危険なニオイのする医者には何か魅かれる所があった。それが雰囲気なのか見た目なのか、それ以外なのかは分からなかったが、嬉しい誘いだとは結論づけ、チョコラータの誘いを受けた。

 通話の最後でチョコラータは、最寄りのバス停あたりに車で迎えに来ると言った。あの高級ドイツ車に乗れる!の興味関心は既に、チョコラータから車の方へと向いていた。

 ――これが、このどうしようもないふたりの出会いだった。