チームメイトの大半が出払いアジトが閑散とした日の夜。メローネとギアッチョのふたりはリビングで夕食を共にしていた。
「ったく、何だってオレ達だけがハブられなくっちゃあならねーんだッ」
「行きたいと言ってついていけば良かっただろ」
メローネは気の無い素振りで言ってすぐ、ギアッチョが作ったポヴェレッロ――貧乏人のパスタ――を口いっぱいに頬張った。
「リゾットにおまえのお守りを頼まれちまったんだよッ。たく、オレがタオルミーナに行けねーのはおまえの所為だってんだ!」
「そうか。……悪かったな」
全く悪く思っていなさそうだ。いつもなら声を張り上げているところだが、メローネの様子が普段と違い“元気がない”ように見えたので、珍しくギアッチョの気勢は殺がれてしまった。
メローネをよく知るのはギアッチョだ。メローネの暴走を最も防ぎやすいのも、気心の知れた仲であるギアッチョだ。ただ、暴走と一口に言っても、暴走の仕方が分かりやすいギアッチョとは訳が違う。リゾットがメローネのどんな行動を意図してお守りを任せたのかまで、ギアッチョは想定できていなかった。
「おまえ、何考えてんだ」
メローネは口を開かなかった。口を開いたと思ったら、すかさずスパゲッティが開いた口の中へ吸い込まれていく。
「おい。聞こえてんだろ。……おまえが何を思い悩んで何をしそうでいるのか言え」
「言ってどうする」
「リゾットの命令に従っておまえを止める。それだけだ。……まあいい、言わねーなら言わねーまま四六時中おまえについて回ってやる。寝てる時も、クソしてる時もだ」
「それはとても……物好きだな」
「リゾットのメタリカを食らうくらいならそうするぜ」
ギアッチョが珍しく怒りをぶつけてくるでもなく、ただじっと、真剣な顔つきでこちらを見つめてくる。メローネはとうとう堪えきれなくなって重い口を開いた。
「オレはな、ギアッチョ。……もう、あんなを見ていられない……そう思ってる」
「おまえまさか、を見捨てようって気でいるのか」
「違う。見捨てる気なんか、これっぽっちも無いさ。ただ、彼女の問題を抜本的に解決したい……そう思ってるんだ」
「例の依存症のことだろ。それに関しちゃ、皆がそう思ってる。何もおまえだけが思い悩む話じゃあねーだろう」
メローネは首を横に振った。おまえは何もわかっちゃいないとでも言いたそうに、怒りを少しにじませながら。
「の依存症を解決するってことが……どういうことか、おまえはちゃんと分かってるのか? 再発しないように、根本から解決するっていうのが、どういうことかッ!」
言われてみれば、それを問題と認識してはいても、解決へ導く道程が分からない。はたと気付いてギアッチョは口を噤んだ。何をどうすれば、は死にたがらなくなる? 死ぬことで得られる快楽物質を求めなくなる? それにより近付こうとセックスを求め、それでも紛れなければと酒で誤魔化さなくなる? どうすれば彼女は、自分を大切にしてくれる?
分からない。だが、メローネには何か考えがあるようだった。なんとなくギアッチョにわかったのは、その考えと言うのが恐らく、何の代償も支払わずに実行できる気安いことではなさそうであるということだ。でなければ、メローネがここまでシリアスに思い悩むはずがないからだ。
「……とりあえず、を殺そうとしているヤツを殺す。リゾットには早まるなと言われたが、待っちゃいられない。ギアッチョ、おまえも気付いていると思うが、彼女は死ねば死ぬだけ息を吹き返すまでの時間が長くなっている。次に殺されてしまったらいつ目を覚ますか分からないんだ。オレには、それが恐ろしくてたまらない」
「だがそれは……いずれ皆で解決するつもりでいることのはずだ。おまえがそこまで思い悩む意味が――」
「オレが考えているのはその先のことだよ、ギアッチョ。まず、自分で考えてみてくれ。オレが考えていることがどういうことか。オレからは容易に口に出来ない」
「……訳が分からねぇ! 何だってんだ。オレはそんなに気が長い方じゃあねーんだよッ」
「それは知ってる! だが頼む。思い出してみてくれ。オレ達とが出会った時から、今までのことを。そして、おまえが経験した過去すべてを。そうすれば、分かるはずだ。思い出してくれ!」
「はあ!? なんでオレの過去が関係してくんだ!?」
「おまえとには共通点がある。だが、それを口にはできない。それこそ、オレが今一番頭を悩ませていることなんだッ」
とオレの共通点だと?
ギアッチョは混乱した。全然、少しも、全く見当がつかない。彼は乗り出していた身を再度ソファーに投げて呆然とした。しばらくそうして、メローネの顔を見た。こめかみに汗を滲ませ眉毛を寄せ前かがみになり、まるで神前で祈るかのように手と手を握りしめていた。
凄惨な死を目の当たりにし、それが我が身に降りかかる日を恐れ、ただただ祈ることしかできなかった“あの日”以来久しく見なかったメローネの姿だ。
ギアッチョはメローネの言う通り、過去に思いを馳せた。順序やとりとめはなく、ただ印象的で思い出せるままに頭の中に思い浮かべていった。
93:Bullet with Butterfly Wings
ファヴィニャーナ島の観光を終えた日の夜――日付がもう少しで変わろうという頃――パレルモとナポリを結ぶ航路の中ほどで、ギアッチョは狭い室内では聞き逃すはずもない物音によって目を覚ました。特段音を立てまいと気遣う風でもなく、が船室から出ていったのだ。
これはまだが暗殺者チームによる護衛――または監視――を強化される前の話だ。それに、逃げようと思っても海に身を投げるより他ない環境だったし――とは言っても、この頃のは嬉々として海に身を投げそうな感がまだあったが――本土ではメローネが発信機で彼女を追跡しているので、ギアッチョはの警護にそれほど神経を尖らせてはいなかった。
だからギアッチョは最初に便所か、と思った。しばらく目覚めたまま彼女の帰りを待ったが、部屋から出て30と数メートル歩けば着く便所へ行って帰って来るにはあまりにも長い時間――せっかちな彼の時間感覚が現実に即しているとは限らないが――が経ったので、何をやっているんだと次第に不安になってきて苛立たしげに寝床から半身を起こすと、二段ベッドから飛び降り彼もまた船室を後にした。
常備灯だけが灯る暗い廊下を抜け、便所の横を通り過ぎ、吹き抜けになった螺旋階段を下へ降りる。ホールへ降り立つと、彼はふと立ち止まってが行きそうな場所を頭に思い浮かべた。外の景色でも見ているか、車でも見ているか、そんな所だろうと思った。だから彼は初手に同階の展望デッキへと向かった。操舵室の下方前方1箇所と、船尾側に1箇所とあったがどちらもハズレだった。ならばとギアッチョはさらに下へ降り、乗客の車が列を成す乗用車デッキへと向かった。とりあえず、まずは愛車の元へ向かうことにした。
乗客がカーセックスでも楽しんでいるのか、道中女のうめき声を聞いたり車が揺れたりというのを見たりした。まあ、あんなに狭い船室――プライバシーのプの字も無いような場所――でやられるよりはいいかもしれねぇ。仮にオレの近くの部屋で情事にふけり人の迷惑も考えずに声をあげる連中がいたとしたら、オレは確実に殴り込んでいたし、死人が出てもおかしくなかったからなァ。ったく、それにしてもだぜッ! どいつもこいつもサカリ散らしやがって!
そう思いながらもギアッチョはがそうしているところを想像してしまった。あろうことかその妄想の中でとセックスをしているのは自分だったので、彼は罪悪感と嫌悪感を覚えイラついた。
さらにの姿が一向に見えてこないのも手伝って、ギアッチョのイライラはますます積もっていく。そしていくらかの揺れる車の横を通り過ぎてやっと彼は愛車の元へ到達した。が、近くにの姿は無い。想定していた場所が全て見当違いで、ギアッチョの怒りと焦りに拍車がかかる。
辛抱できなくなったギアッチョがとうとうの名を叫ぼうとした、その時だった。彼の耳に聞覚えのある女の声が届いた。いや、聞覚えのある声と言うよりも、聞覚えのある声を多分に甘ったるくした声だ。それこそ、ここまで辿りつくまでに僅かなりとも聞いたような男を誘う声だ。
ギアッチョはごくりと喉を鳴らして声のした方へ目を向けた。彼の愛車の直ぐ側にある階段の桁下――暗がりから聞こえる、うめき声と衣擦れの音、そして男の荒い鼻息。がたいのいい男の後ろ姿も見えた。ギアッチョは音を立てないように注意しながら男に近寄った。
「ん……あ、んっんっん、ああっ――」
男を誘う発情した女の声だ。恐らく、いや確実に、それはの口から漏れ出たものだった。
別に死のうとも逃げだそうともしていないのなら放っておけばいいと、彼の冷静な部分がちらと思いもした。けれどそれよりも、彼の怒りを鎮める必要のほうが勝っていた。しかし何故自分が怒っているのかもよくわからないまま、彼は誘われるがままにふたりとの距離を詰めていった。
は階段の裏で、自分の頭より少し上の高さにある蹴込みに両手をかけて尻を突き出しうつむいていた。そしてがたいのいい大きな男が彼女の背中に、まるで熊のように覆いかぶさっていた。片手で彼女の胸部をまさぐり、もう片方の手での腰を掴み、彼女の尻に自分の腰を打ち付ける。必死に、息を荒げて。やがて男は、の体を一度高く突き上げた後に情けないうめき声を上げて果てた。
あられも無いの姿を、男に体を安売りする彼女の姿を、ギアッチョは見ていられなかった。を犯す男よりも、彼は確かに、の方に怒りを覚えていた。
「おい」
ギアッチョは男の肩を鷲掴みにして言った。
「オレの女に何してやがる」
男は振り返るとギアッチョを見下ろしふんと鼻を鳴らした。その後ろでは驚きの表情を浮かべ、とっさにはだけた胸を手、腕で隠した。
「邪魔すんじゃあねーよ、ガキが。男なんかいねーと彼女が言ったんだ」
「美人局って知ってっか?」
「だとしたら何だってんだ?」
振り返った男のペニスにはコンドームが垂れ下がっていた。液溜めには精液が。つまり事後だった。生々しいそれを仕舞いもしないで、男は尚もギアッチョを見下ろし嘲笑を顔に浮かべる。ギアッチョは中指で眼鏡のブリッジを押上げひとつため息をつくと、音もなく男の間合いに入り込み男の喉元へ片手を伸ばし鷲掴みにした。喉を締め付ける握力は常人のそれではなく、男が瞬時にリアルな死をイメージできる程だった。
「質問に質問で答えてんじゃあねーぞ、この粗チン野郎ッ!! 美人局なんだから男がいたっていねぇと言うに決まってんだろーがッ。それとも何かァ? 美人局を知らねーか? 美人局くらいは知っといた方がいい。おまえに家族やなんかがいるんならなァ! で、どうなんだ!? 知ってんのか、知らねーのかどっちなんだこのスカタンがッ!!」
男は顔を青くしながらギアッチョの手首を必死に外そうとした。片手の握力ひとつで人を殺せるようには到底見えないひょろっとした体躯をしているのに、一体どこからこんな化け物じみた力が出てくるのだろうか。そんなことを考えていたので、ギアッチョの質問に答えることはできなかった。すると首にかかる握力はさらに強まり、とうとう男の気管からは一切の空気の出入りが無くなった。
男が目を虚ろにして口から泡を吹き出したとき、ギアッチョの視界にちらと怯えたの姿が入った。彼はそれで我に返り男の首から手を離した。男は咳き込みながら床にくずおれた。その脇を通り、ギアッチョはの手首を掴んで引っ張った。
「ギアッチョ、わたし――」
「黙ってついてこい」
は言われた通りにした。彼女の掴まれた手首にかかる握力もまた凄まじかった。その有無を言わさぬ力に、彼に内在しているであろう怒りに怯んでしまったのだった。そして困惑していた。何故こんなにも彼は怒っているのだろう。にはそれが全くわからなかった。
ふたりが行き着いたのは船首側の展望デッキだった。単にギアッチョの愛車、マツダ・ロードスターを駐車していた場所からほど近く、開けた場所が彼の頭の中にはここしか無かったというだけだったし、事実そうだった。
ギアッチョはの手首を掴んだまま腕を前に降り出し、その勢いでやや乱暴にデッキの先端、胸の高さほどまである柵への背中を叩き付け、仕上げに左右から逃げられないよう両手で柵を掴んで顔を寄せた。ギアッチョは某映画の超有名なシーンを模倣したかったわけでもなんでも無いのだが、の向く方向こそ違うもののふたりの位置取りはそれと同じだった。だからは「セリーヌ・ディオンの歌声が聞こえてきそうだわ」とかなんとか余計なことを言おうとしたのだが、底しれぬ怒気を滲み出させているギアッチョを前にするとさすがの彼女も口を噤むのだった。
ギアッチョの眉間には幾重もの皺が深く刻まれている。目尻は吊り上がり、口はへの字に曲がっている。そして滲み出る、冷気と言う名の怒気。もしも今、彼が理性を手放してスタンドを出現させれば、それこそ船は映画と同じ結末を辿ることになるかもしれない。静かな、そして激しい怒りだ。声を荒げて怒り散らしている時とは比較にならないほどのそれは、死を恐れず痛みをも忘れかけているにすら恐怖心を思い起こさせた。だからますます、彼女はいつもの軽口を叩けなくなった。けれど依然として、何故自分がギアッチョに怒りを剥き出しにされなければならないのかは分からなかった。
「どうして、怒っているの?」
その疑問だけが、自然と口から漏れ出た。
「どうして……? どうして、だと?」
分からない。ギアッチョには分からなかった。だから彼は、簡単に死にたいと口にし、簡単に死に、その果てに一度めちゃくちゃになった体を名前も知らないような男に弄ばせるにどんな感情を抱いているのかを考えた。
劣情。落胆。失望。やるせない。悔しい。だから、腹が立つ。裏切られた気分だった。裏切られたのはきっと、彼が勝手にへ抱いていた幻想だ。ただ死にたがるという悪癖を除けば、純真で優しくておおらかで女神のような人だという、幻想だった。
「おまえが……自分を大切に扱わねぇからだよ!」
そう表現するしかなかった。実際は、あらぬ幻想を抱いていた自分が勝手に裏切られたと憤っているだけだからだ。けれど、言ったことも第一ではないものの嘘では無かった。
が死にたがることを、そしてその果てに本当に死んでしまうことを、昨晩からよりひどく嫌悪するようになった。散り散りになった体を、そこにあるのが奇跡とすら思える神聖な体を、愛してもいない男に好きにさせないで欲しかった。ギアッチョの凄まじい怒りをも受け入れ、普通に、ひとりの人間として自分と接してくれる、尊重してくれる・という女をギアッチョは確かに大切に思っていた。だから体も心も、自分でも大切にしてほしい。
自分を大切にするということは、仲間を大切にすることと同義なのだ。オレたちはそうしていないと、生きていけない世界に生きてるんだ。――オレがおまえに大切に思われたいんだ。
「……私のことを大切に思ってくれているの?」
ギアッチョは顔を赤くしてからとっさに顔を背けた。するとぽつりと、がこぼした。
「まだ、私のことを大切に思ってくれる人がいたのね」
そして続けた。
「何でか、私にも分からないの。死ぬとね、もっと死にたいって……脳味噌がうるさく言うのよ。麻薬とかアルコールとかの依存症患者と一緒だって、お医者様には言われたわ。その対処法として教わったのよ。体の火照りを鎮める方法を。例えば、アルコールの依存症患者にアルコールの摂取を勧める医者はいないでしょう? 他の何かでごまかさなきゃならないの。さっきのは……ちょっと失敗した結果なんだけど」
はどこか遠くを見つめて悲しげに眉根を寄せた。
「本当はひとりでどうにかするつもりだった。お酒を持って、あなたの車に潜りこんで……。その先は言わないけど。……そして車のところまで辿りついた時に気付いたのよ。あ、鍵がかかってるって。そんな当然のことすら分からないくらい意識が朦朧としていたの。……そこにあの人が来たのよ。私にはもう、どうしようも無かった」
「つまり病気みたいなもんだってことか」
「そうね。端的に言えばそう。仕方なく飲む苦い薬みたいなもの。……恥ずかしい所を見られちゃった」
悲しげな顔を俯かせ、は続けた。
「ごめんなさい、ギアッチョ。正直な話、私には自分を大切にするってどういうことか分からない。だって、死んだって生き返ることができるんだもの。限りのない命なんて、尊重には値しないわ。それに、どうしてかしらね。……私を大切にしてくれる人なんか、もうこの世にはいないって。なら、自分で大切にする意味もないって……そう思い込んでいるのよ」
「いるだろ、ここに! おまえが戻って来ねえんじゃあねーかって、オレが……オレが一体どれだけ心配してッ……いや、いやいやちげぇちげぇ、違う、心配じゃあねぇ! おまえのことを心配したんじゃあねぇんだ! オレは絶対に、イヤだと思っただけだ! オレのためにだ! オレが、おまえのいないこの世になんか生きていたくないと、心からそう思っただけだ! だから、死なれると困るんだッ!! だからオレはおまえを大切に思ってるんだ悪いかよ!? そんなおまえが、どこの馬の骨とも知れねぇクソみたいな男に触れられるのすら嫌だったんだ、クソ、クソクソ、クソがァッ!!」
ギアッチョの怒りは留まることを知らなかった。けれどこのときの彼には、一体どこへ怒りをぶつければいいのやらさっぱり分からなかった。そして彼の怒号はどこにもぶつからず、どこにも反響せず、ただ広い海や空に溶けて消えていく。
「仮にだけど」
が言った。頭ではギアッチョの気持ちが理解出来たが、まだ自分の気持は追いついていないという風に。
「私が部屋にいたままだったら、きっとあなたは私とする羽目になった。対症療法よ。愛ゆえの行為じゃない。……私は、あなたをそんな風に“使い”たくなかったの」
は事実を口にしただけだ。病をカミングアウトしただけだった。ひどく事務的に。
「私もあなたのことを大切に思ってる。だから部屋を抜け出したのよ」
「どうしておまえは……そうなっちまったんだ!?」
「たくさん殺してくれる人の所にいたから、かな」
脳内報酬系のドーパミンが快情動を仲立ちにしてさらなる快楽を得るように駆り立てる。生存のために必要と判断した脳の原始的な機能が過剰に働くようになったんだと、はチョコラータに教わったことをそのまま口にした。
「それが本当なら、生存本能がどうしておまえを殺すように仕向けてくるんだよ!? 色々おかしいだろーがッ!!」
「確かにその通りよね。でも、依存症って往々にしてそうでしょう。アルコールだって薬物だって、度が過ぎれば死んじゃうじゃない。私ほど直接的じゃないってだけよ」
「クソッ! だからオレが気にしてんのはそもそもだッ!! そもそも、なんでおまえは殺されなくちゃあならなかったんだ!? おまえが何度も何度も……何度も何度も何度も殺されて、脳味噌まるごとヤク漬けにされたみてーになっちまった、そもそもの原因は何なんだ!?」
「どうしてかな。……忘れちゃった」
「どうやったらそんな重要なことを忘れられんだ!?」
ギアッチョはの両肩をがっしりと掴んで、彼女の眼前で半狂乱になったように喚き散らした。すると突然はこめかみのあたりを押さえ、痛みに顔を歪めた。
「ごめんなさい。……それは、思い出せそうに、ない」
「だッ、大丈夫か……?」
「ん、大丈夫。でもちょっと、休んだ方が良さそう。……部屋に戻りましょう」
がギアッチョの脇から一歩踏み出した。彼女は覚束ない足取りで、それでもひとりで進もうとするのを見ていられず、ギアッチョは自分の身体を支えに寄りかからせると、彼女の歩調に合わせて進んでいった。
部屋へ戻ると、ギアッチョは二段ベッドの下段にを横たわらせた。
「おやすみ」
「……ああ。もう抜け出したりすんじゃあねーぞ」
「大丈夫。もう落ち着いたから」
そう言って目を閉じたの顔を見てようやく納得したギアッチョははしごを上り、乱暴にベッドへ身を投げた。
「ねえ、ギアッチョ」
しばらくたって、がぽつりと呟いた。
「……起きてる?」
ギアッチョは目を瞑っていたが、到底眠りにつける心情ではなかった。けれど、最初は寝たふりをすることにした。しばらくしてが喋り出さなければ返事をしてみようと黙っていた。すると、はまるで返事が無いと安心するように話を続けた。
「ギアッチョ。私ね……何かとても……大切なことを忘れている気がする。それで最近ずっと、自分が自分じゃない気分」
は言葉を探し選びながらゆっくりと話す。じれったく思いながらも、ギアッチョは辛抱して口を噤んで次の言葉を待った。
「でも、あなたといると……落ち着くの。きっと、私が失くしたものを、あなたは持っているんだわ」
オレにあって、に無いもの? そんなもの、あるはずがない。
「だから私は、あなたのことをもっと良く知りたい。だから私は……あなたに、嫌われたくない。あなたの傍にいたい。でも、もうダメかな。……さっきのことで、あなたに幻滅されてしまったわよね」
ギアッチョがのことをもっと深く、よく知りたいと思い始めたのはこの時からだった。本当の本当に、仲間として彼女の存在を尊重したいと思い始めたのもこの時からだった。そのことはよく覚えている。
だというのに、ギアッチョは今の今まですっかり、その志を忘れてしまっていたのだ。
メローネが言っていた。シチリアから戻った後の様子がおかしかった。おまえがおまえでないような気がしたと。それで、あろうことかメローネなんていうチームで一番非力なヤツにボコボコにされた。そのことを思い出した。
オレがオレで無かった間にオレが忘れていたのは怒りだ。怒りをもたらした物や人、事の記憶だ。そして、が失くしたものというのもきっと同じなのだ。何度も何度も殺され――存在を否定され、度し難い身体的苦痛を味わわされ――続けるという不条理に対する怒りだ。
けれど、そんな怒りを失くす? そもそも、自分で抑えようとしても難しい原始的な人間の生存本能を全く失くす、あるいは失くさせるなんてことができるのか? ロボトミー手術でも受けさせられた? いや、は恐らく自分の本来の形を記憶している。脳に何か細工をされたところで、死ぬたびにリセットできるはずだ。なら一体誰が、どんな方法で彼女を――
『怒りっていうのはね、ギアッチョ。生存本能なんだよ。人間が生きていくのに欠かせない重要な感情だ』
――頭の中で響く、誰かの懐かしい声。その声の主を、顔を、ギアッチョは思い出せない。
『けれど、過ぎれば身を滅ぼすことになる。だから君は、それをコントロールできるようにならなければならない』
そう言って“彼”は、ギアッチョの頭を撫でた。その温かさに、心底安心したのを今でも覚えている。
ギアッチョが、暴発させた凄まじい怒りで無差別に人を殺さなくなったのはそれからだった。彼は殺せと命じられた物を目前にした時にだけ――ほとんど意図的に――激しい怒りを発し、それをエネルギーへと変換できるようになった。そうして彼は暗殺者となった。いや、暗殺者に“仕立て上げられ”たのだ。そうならざるを得なかった。激しい怒りを、偽りの無いありのままの自分を受け入れてもらえる場所が、その時は“彼”の元にしかなかったからだ。
「オレは……何で、こんなことを――」
『どうやったらそんな重要なことを忘れられんだ!?』
ギアッチョ自身がに言った言葉が脳内に響く。
いや、違う。重要とすら今の今まで思わなかった。全く、少しも。生きていくのに必要な記憶では無いと蓋をして――意図的に蓋をした記憶もないが――その上に人生と言う名の時間を積み上げていった。それで、何の問題も無かったからだ。現に今も、オレはほど追い込まれてはいない。
日常生活が送れなくなるほど追い込まれたことはない。誰かひとりがつきっきりで見ていなければその間に自殺しようとするほど、この世から消えてしまいたいと思ったことは無い。それはオレに、仲間がいたからだ。
自分を大切にするということは、仲間を大切にすること。はとうとう、全く自分を大切にできなくなった。それは彼女の中でオレ達が仲間でなくなりつつあるということだ。オレ達がいくら必死に仲間だと思い込んでいても、彼女が本心からオレ達のことを仲間と思っていなければ、要は本当の仲間では無いのだ。
いつからだ? いつから、そうなってしまったんだ。
いや、はじめから……オレ達は仲間じゃなかったのだろう。もまた、オレと同じ。怒りを取り上げられた、従順な操り人形。けれど怒りを向ける対象が良くなかったばっかりに、そのすべてを取り上げられ続けている。だからその歪みが今まさに発現しているのだ。
「オレはもう、檻の中のネズミのままでいたくないんだ」
メローネが言った。そしてやっと、ギアッチョはメローネが言えないと言った意味をようやく理解したのだった。