村の真ん中には古びた教会があった。白亜の鐘楼には小ぶりの鐘がひとつと、その真上に白亜の十字架がある。
レヴは目を閉じた。その鐘の音は今でもよく覚えている。愛した人々と共に聞いたその音。山間にある小さな村のどこにいても聞こえてきた。朝の柔らかな光の中で、夢うつつに体を起こして寝ぼけ眼をこすったり、もう帰る時間だからと小さな弟の手を引いて、家路についたりした。
けれど、村はもう村ではない。レヴの故郷は今や水の底だ。もちろん、人っ子ひとりいやしない。例の鐘楼だけが湖面の片隅から寂しげに顔を出し、ただ崩落の時を待っている。
秋の、少しだけ冷たい風が湖面を撫ぜ、さざ波を立てた。村を――否、湖を囲う岸辺の草、低木がカサカサと音を立てる。あまりの寂しさに、レヴは涙をこぼした。
憂鬱な気分が幾分マシになるかと思って故郷だった場所を尋ねたのだが、憂鬱な気分は増すだけだった。この水の底で生まれていなければ、きっとこの風景のことは他人事のように観光感覚で美しいなどと思えたのかもしれない。
数分、あるいは数時間が経って夕日が湖面を橙色に染め始めた頃になってやっと、レヴは重い腰を上げ、乗ってきたバイクに跨り、あぜ道を駆け下りた。
最寄り町につく頃には、辺りは宵闇に包まれていた。レヴは安宿の一室を借りると、部屋に入るなりベッドに身を投げた。そのあと、おもむろにズボンのポケットをまさぐって携帯電話を取り出し、顔の上に掲げる。
つくづく気が重かった。まったく電話をかける気になれない。だが、報告は仕事なので、気分が向くとか向かないとかは関係無しにやらなければならないものなのだ。
カレンがインヴィートを裏切り、を殺した。いや、まだの死は確認できていないので、報告の必要は無いか? だが、カレンにを殺す意志があるとわかった以上、任務は続行不可能。仮にがまだ生きていたとしても、を生かしてアメリカまで連れてくる――と言うより、インヴィートの言い方によれば、パッショーネからの奪還だ――という任務中、相方がの命を虎視眈々と狙ってくるなんて面倒だ。
そうならないように、本当ならすぐにカレンを始末するべきだった。けれど、逃げたのだ。
レヴは携帯電話を握ったまま手の甲をベッドに打ち付けた。仕事なのだから迷っていてはいけない。それはわかっていたが、彼にはどちらも大切な仲間だった。インヴィート同様、カレンも苦楽を共にした仲であるし、自分が彼女を手にかけるという未来はもちろん、インヴィートがカレンを殺すなんていう未来だって、来てほしいとは思わない。
だが、裏切り者には死を。それがファミリーの掟だ。そろそろ、現実逃避はやめにしといた方が身のためだ。
三コールの後、インヴィートが電話に出た。
『なんだ。レヴ』
「カレンがを殺した」
間髪入れずに爆弾を投下したのに、返ってきたのはしばらくの沈黙だった。
『が死んだところを、確かに見たのか』
「いや、まだ確認はできてない。カレンが殺したと言ったのを聞いただけだ」
『……なァー、レヴよ。おまえ、おかしいと思わねーか』
激昂するかと思っていたが、レヴの予想は意外にも外れた。インヴィートは至って冷静だ。むしろそれが恐ろしくもあるのだが、嵐の前の静けさとはまた違った感じがした。
「何がだ」
『そもそもは何故、パッショーネに生かされてたんだ?』
「……さあ。見当もつかねーな」
『本当なら、真っ先に殺さてるはずだろ。……オレがアメリカに渡ってから、もしかすると生きているかもって想像すらしなかったのは、あいつの実家が――母親の家がもろとも、パッショーネの連中に焼き払われたと、おやっさんの口から直接聞いたからで、おやっさんがひどく狼狽えているのをこの目で見たからなんだ。は確かに殺されたんだと、思い込んじまった』
おやっさんと言ってインヴィートが今なお慕うのは、グラナート・エテルニタ。かつてイタリアでいくつかのシマを持っていたギャング組織の幹部。パッショーネが台頭してくると同時に、シマは荒らされ、果てに組織は壊滅に追いやられた。幹部連中は家族もろとも皆殺しに遭い、下っ端は軒並懐柔されたか、従わない奴らも皆殺された。運良く災禍を逃れた者は命からがら渡米し、ニューヨークのイタリア人――要は、マフィアの末裔だが――の元に流れ着いた。インヴィートはそのひとりだった。
レヴはまた違った経緯でアメリカへ渡ったので、インヴィートとは同郷というだけで幼少期に接点は無かった。けれど、インヴィートの憎しみと怒りの根源についてはよく話を聞かされていたので知っている。そして恐らく、自分の過去に起きた事とパッショーネが関わっていて、敵討ちの対象が自分と同じであるということも分かっていた。
『だが、現に……はもう、殺されたはずだった時から十数年を生き延びている。しかも、イタリアでだ。つまり、パッショーネにはを殺せない理由があるんだ。殺したいのに殺せないのか、何かメリットがあるから殺さないでいるのかは分からねー。前者なら、カレンが操った一般人の襲撃ごときで死ぬはずはねーし、後者なら、周りの駒をいくらか捨ててでも、を死守するはずだ』
「……なるほど。要するに、が死んでるはずがねえ。その根拠は、彼女がパッショーネのお膝元で十数年生き延びてきたことだと、そういうことか。だからおまえはひどく冷静なんだな。……それにしたって、カレンはどうする。例えが生きていたとしても、あいつはもう、を殺しはすれど生かして連れ帰りはしねーぜ。アイツはおまえを裏切った。裏切り者には死を。それがファミリーの掟だ」
『……ああ。だが、今回の件はファミリーの仕事じゃあねーんだ。掟なんか知った事じゃあねー』
レヴの緊張の糸が切れた。心底ホッとしたのだ。むしろ先走って彼女を殺さなくて良かった。……まあ、どちらにせよ出来なかっただろうが。
『それに、カレンのスタンド能力は貴重だ。アイツの能力に換えは効かねぇ。レヴ、おまえはパッショーネのクソ野郎共からカレンを守ってやれ。そろそろ、連中がおまえらの存在に気づき始めて警戒を強める頃だろうからな』
どうやら、インヴィートにとってが死んでいないということは、希望を超えて確信となっているようだ。を殺してしまったかもしれない女を守れと言うなんて。どちらが好きなんだか、よく分からない。
「おまえ、どっちが好きなんだよ」
『ああ? ……何のことだ』
「とカレン、どっちが大切なんだって聞いてんだ」
『んなもん、聞くまでもねーだろ。どっちも大切だ』
「まったく……。気の多いこったな」
『とにかく、が生きてるかどうかの確認が先だぜ。見つけたらすぐに報告しろよ』
インヴィートは一方的に電話を切った。レヴは再度ベッドへ身を投げると、携帯電話を構えていた手をベッドへ放り出した。
良かった。何が好きで、インヴィートと一緒にいるのか分からなくならずに済んだ。唯一の居場所を、失わずに済んだ。それはカレンも同じだ。彼女はまだそのことを知らないが。
まだ教える必要も無いとレヴは思った。彼女がインヴィートの――ファミリーの掟などモノともしない程の――お気に入りであって、命を取られるようなことにはならないと知らせるのは、まだ後でいい。重要なのは、もしかしたらまだ生きているかもしれないを、カレンより先に見つけることだ。
一眠りすると、レヴはまたバイクに跨った。道中、考えた。インヴィートが言うことが事実なら、カレンにを殺されると危惧するよりも、を奪還しようとするオレたちふたりが殺される危険性の方が高いんじゃないか、と。
84:Let Me Love You
波打つシーツの海原に半分埋めた顔を、こちらに向ける男がいた。イルーゾォだ。永遠を誓い愛を交わしたことがあるが、忌まわしくもほとんど身に覚えのない過去のせいで愛し愛される関係ではいられなくなった男。彼はまだ眠っている。夢と現実の狭間で、は窓から射し込む優しい朝の光に包まれた、男の美しい寝顔に見入っていた。
孤独ではいたくなかった。孤独を紛らわすために、愛されたかったし、愛されるために誰かを心から愛したかった。イルーゾォは自分の内面を知りながらも恐れずに、普段通りに接し続けてくれていたので、その思いをぶつけやすかった。結局、自分の置かれている状況について幾分解り始めた今となっては、私が私である限り、チームの誰からも心からの信頼など得られはしないし、自分を気持ちよくしてくれるものは全て、自分を大人しくさせておくための“薬”に過ぎないと気付いた。
だからこれも、幻想だ。だって、美しすぎる。手を伸ばしても、私には絶対に手に触れられないし、手に入れることは永遠に叶わないような幻想だ。夢だ、これは夢。夢だから、いずれ覚めてしまう。苦しい。苦しい。
は涙を流しながら、イルーゾォの顔へ手を伸ばした。これが本当に幻なら良いと思ってのことだった。夜ごとにこの部屋を訪れては、朝を迎える前には姿を消していた彼だから、その可能性だってありえるはずだ。自分が彼に言ったこと、そしてやったことの重みには、耐えられそうに無かったので、どうか幻であって欲しいと願いながら、恐る恐る指先を頬へと伸ばす。
けれど彼の存在は確かに、指先で感じられた。はボロボロと大粒の涙をこぼした。
本当は愛して欲しいのに、今はそうあるべきではないと頭ごなしに張った虚勢。虚勢を張っている内に見えてきた現実。現実から逃れたくて置いた距離。それだけで十分にイルーゾォを苦しめていたかもしれないのに、彼にも、自分自身にも許されないような発言を、行為を、してしまった。
誰だっていいと、彼に面と向かってそう言ったのだ。確かに覚えている。正気に戻った今なら、それは本心ではなく、快楽を欲していた脳みそに言わされたのだと言い訳がましいことは言える。けれど、本当に誰だっていい。今だって、そう思っている。本心だ。チョコラータの言った通りだった。誰だっていい。誰に殺されようが、誰に犯されようが、私に向けられた他者の意識が身体の中で快楽に変わって、如実に感じられるというだけで幸せとすら思える。狂っている。ああ、私は狂ってる。この狂気は皆を傷つけている。だから、いずれ誰からも見捨てられる。愛されない。私は一生誰からも心からは愛されず、死ぬことすら許されぬままに、いずれ孤独に死んでいく。
「泣くな、」
いつの間にか目を開いていたイルーゾォが言った。彼の頬に当てていたの手の甲を大きな手の平が包む。そして続けた。
「おまえが泣くところなんか、見たくない」
起き抜けの、低く掠れたような、穏やかな声音。いつぞやに聞いて、ひどく胸を高鳴らせていたような気がするイルーゾォの声だ。冷えていた手の甲を覆う体温も、もう遠い昔に感じたきりだったような気がした。は彼の手の下から自分の手をゆっくりと抜きながら言った。
「私は、あなたを傷つけたくなかったわ」
「何のことだ」
「誰だっていいと言った」
「……そんなこと、言われなくても分かってる」
「傷ついたんでしょう?」
「まあな。だが、オレがおまえにしたことに比べれば、どうということは無い。むしろ、足りないくらいだ」
「私……仕返しなんかしたいとは思ってない」
そんなことをしたって、この心は絶対に晴れない。誰かを傷つけずにはいられない孤独な運命からは、一生逃れられないと悟った私の心は、何にも救われない。
「ああ。おまえは、そういう女だ」
「起きたら、あなたはベッドからいなくなってると思ってたいたわ」
あなたは、そういう人だから。
には過去のイルーゾォを咎めようという意図は全く無かったのだけれど、の言葉を受けた彼はどこか後ろめたげに顔を歪めていた。
長く思考停止していたの頭はその割にはしっかり動いていて、イルーゾォが今ここにいるのは“見張り当番”だからだと分かっていた。けれども、もしそうというだけなら、彼はベッドから出て部屋の中のスツールに腰掛けていただろう、とも思えた。
しばらくすると、逡巡していたイルーゾォの目は、の視線を捉えて言った。
「どうしても、言っておきたいことがあったんだ」
「なに?」
「オレはおまえを……」
言いよどみ、目は泳いで、ひと泳ぎするとまた元に戻ってきた。恥ずかしそうで、けれど逃げてはいけないと自制するような顔。そんな顔で、イルーゾォは少しの顔との距離を詰め、ひどく自信なさげに、小さく呟いた。
「愛してる」
やっぱり、これは夢なんじゃないだろうか。
イルーゾォが言ったことだとは信じられず、はとっさに聞き返した。
「今、何て言ったの」
「愛してる。オレはおまえを、愛してる。そう言った」
「もっと早くに聞きたかった」
「ああ。それも分かってる。……今のおまえにはオレのどんな言葉も響かないってこともな。でも、言うしか……他にどうしようも無いから」
イルーゾォの目はまた泳いで、またの視線の先に戻ってきた。彼女は黙ってイルーゾォの言葉を待った。しばらくして、彼は続けた。
「やり直させて欲しいんだ。……オレなら、おまえを何からでも守ってやれる」
「もうそうするしか無いなら、あなたの指示に従うわ。ずっとあなたに囲われているしか、他に手立ては無いということなら。少なくとも、私を殺そうとしている誰かを見つけ出すまではね」
「ああ……。違うんだ。違う。オレが言いたいのは……そういう事じゃ――」
「うん。でも、今じゃあないわ。……勝手よね。本当に、ごめんなさい」
「、おまえはひとりでいるべきじゃ無い!」
「最近、ひとりでいられた試しは無いわ」
「殻にこもってるだろう。リビングに下りてこない。帰りも遅い。オレはおまえと、話がしたいんだ」
「変わったわね、イルーゾォ。前は、皆の前であなたと話しちゃダメだった。私も、前は今のあなたみたいに思っていたわ。だけど、前のあなたはそうじゃなかったから……話したくても話せなかったし、あなたが夜に部屋に来たって、やることやったら朝にはいなかった。……寂しかったわ。イルーゾォ」
事実を述べただけだった。発言の根源に怒りや憎しみは無い。けれど、こう言えばイルーゾォは失望するだろう。そう思いながら、は言葉を選んでいた。
「今は、いるだろうッ!」
「ええ。でも、私も……変わってしまったのよ」
傷付けたくない。けれど、これ以上誰も傷付けないために、ひとりでいなければ。これは皆の命を守るために必要な“攻撃”だ。
「ときが来て、その時に私のことを愛しているならと、前に言ったわね」
今にも、泣いてしまいそうだった。本当なら、彼の胸に飛びこんで、ひとしきり甘えて、ずっとそばにいて欲しいと言ってしまいたかった。
けれど、やめた。この愛のようなものは、ドラッグと一緒だ。現実を忘れることは出来ても、現実から逃れることはできない。
「でも、今思ったの。そのときが来たときにはすでに、あなたはきっと――
諦める。誰かに愛されたいと思うことも、誰かを心から愛したいと願うことも。そうすれば、きっと、皆の命を危険にさらさなくて済む。
――私に失望しているわ」
イルーゾォは虚しさに顔を歪めた。けれど、聞くに耐えないような捨てゼリフを吐いて部屋を出ていくことはしなかった。きっと以前の彼なら、やらなかったようなことをした。
プライドを捨て、ただ愛する女の幸せを願い、をそっと抱き寄せ頭にキスを。唇の位置はそのままに、告げた。
「オレはおまえを離さない。おまえが何と言おうと、オレがおまえを守る。……おまえは、オレの未来なんだ。だから、諦めない。だから、おまえも諦めないでくれ」
ただ生きているだけで皆に愛されるおまえとして、生きることを。