カレンが雇用主であるリコルド・リガーレより「トラックが店に突っ込んだ」という電話連絡を受けたのは、彼女が店にトラックを突っ込ませた日の翌朝のことだった。
告げられたのは、ショーウィンドウにトラックが突っ込んで粉々に吹っ飛んだことと、展示していたキャデラックがスクラップになりそうだということだけだった。カレンが最も欲していた“朗報”は聞けずじまいになりそうだったので、彼女は思い出したかのように、白々しくリコルドに訊ねた。
「……そう、は? 無事なんですか? 彼女、私が帰った時はまだお店に残っていたはずだわ」
リコルドは答えた。
「そうか。確かに……タイムカードに退勤の打刻が無かったんだ。あの娘に限って忘れるなんてことは無いだろうとは思っていたんだが……。何か事件に巻き込まれてしまったんだろうか? 携帯電話も店の事務室にバックごと置きっぱなしだったんだよ。彼女からは今のところ連絡も何もなくてね……」
「そんな……。私、探してみます。心配だわ」
「ああ。私の方でも探してみるよ。とにかく、店は二週間ほど閉めるよ。掃除をして、修理してという作業にそれくらいはかかりそうでね。……給料のことは心配しないでくれ。相手方の保険会社が保証してくれるらしいからね。もし君が先にと連絡がついたら、そのことを伝えておいてくれないかな」
「ええ、分かりました、リコルドさん。……それではまた」
通話を終えるなり、カレンは苛立たしげに携帯電話をベッドの上へ放り投げてデスクに向かった。そして乱暴にデスクから引き離したチェアに浅く腰掛けると、彼女がアメリカから越してきてすぐに作り上げたデスクトップパソコンを立ち上げた。
本当ならば、の死体が転がっていたという報告をリコルドから聞くはずだった。けれど、先ほどのリコルドとの会話を思い返すに、は忽然と姿を消してしまったようなのだ。それはおかしい、とカレンは思った。
私は確かに、に睡眠薬を混ぜたコーヒーを笑顔で差し向け、は確かにそれを笑顔で受け取った。あの女は人を疑うことを知らないような、癇に障る笑顔を浮かべてすぐに、コーヒーを啜った。次第にうつらうつらとし始めて、果てに窓際のテーブルに顔を突っ伏し、コーヒーをテーブルにぶちまけた所まで確かに見た。店を出た後には、幹線道路を走り抜けるトラックが店に突っ込んだ音――ガラスが粉々に砕け落ちてすぐに、トラックがキャデラックに追突したような音――を背後で聞いた。確かに聞いた。
トラックとキャデラックの間に挟まれたはずのだけが、事実から忽然と姿を消している。確かに、カレンは事故を装うことに固執していたので、確実にを殺せたという確信はなかった。けれど、カレンの綿密な計画の元に実行した殺人だった。がただのお人好しなか弱い女ならば、死は免れないという状況を作り上げ、自分はほとんど手を汚さずに事故によっての命を摘み取るはずだった。
けれど、それは失敗に終わったようなのだ。
カレンは焦っていた。の死を確認したら、そのまますぐにイタリアを離れるつもりでいた。を護衛しているパッショーネの連中が、今に自分の正体を暴き出し――ニューヨークに住まうイタリアンマフィアの残党ということは隠していたものの、この身体そのものは連中の目に毎日さらされていたのだ――、いよいよをもってレヴかインヴィートが自分を殺しに来るだろうと予見していたからだ。けれど、の死すら未だに確認できていない。このままでは帰れないのだが、今すぐにでも姿をくらましてしまいたかった。
PCが立ちあがると、カレンは自分で作り上げたアプリケーションを起動して、店の監視カメラの映像を確認した。それは完全に外と繋がりのないローカルデータなので、本来であれば店の外から確認はできないものだ。けれどカレンは、店のPCのUSBソケットにハッキングソフトを取り付けていた。要するに、カレンは自宅のPCから店のPCを操作できるのだ。
しかしフォルダを覗いてみても、何の収穫も得られなかった。一昨日まで順調に残されていた店内の監視カメラの映像が、何故か昨日の分からさっぱりと途絶えている。カレンは監視カメラなど、店内セキュリティの電気系統がどうなっているかまでは知らなかったが、トラックがショーウィンドウに突っ込んだからと言って、カメラが起動しなくなるとは考えられなかった。ガラス窓に配線などあるはずもない。
は確かに死んだんじゃないのか。カメラには、その映像が確かに映っていて、それを誰かが隠蔽しようとしているだけでは……?
の納税者番号に関連付けられた、病院などが所有していたデータベースは、十数年前のある時を境に更新されなくなっており、彼女は公の場では故人という扱いになっている。死んでいるはずの彼女が死んだところを警察におさえられ、救急車で運ばれるなどすると不味いというのも分かる。つまり、を雇っている時点でリコルドという男を怪しむべきだということは、彼を知った時から思っていたことだった。彼は絶対にの出自や、が世間から身を隠して生きていることを知っている。だから、今回のことも警察には相談できないはずだ。そして、監視カメラの映像が誰かに消されたのだとしたら、それは十中八九リコルドの仕業だろう。残っていたメカニックに事故の知らせを受け店に向かって、真っ先にやったことがそれだっただろう。
を匿うというのが善意からなのか、ただの義務からなのかは分からない。後者ならば、彼もまたパッショーネの人間か、パッショーネに弱みを握られている人間であるということは容易に想像できるが、あくまでそれは想像の域を出ない。しかし、良くない方への想像はできるだけして用心するに越したことは無い。
周りは敵だらけだと思った方がいい。なので迂闊には動けない。けれど、カレンは居ても立っても居られなかった。どうしてもの死を確認したかった。そうすると決心し、PCの電源を落として立ちあがった瞬間、背後から音がした。身を強張らせてゴクリと生唾を呑み込み、意を決して後ろを振り返る。すると、そこにいたのはレヴだった。
「……ノックくらいしたらどうなの」
「んだよ。ルームメイトみたいなもんだろ。この国にいる間は、おまえとオレは一心同体なんだぜ」
「その一心同体のあんたは、今までどこで油売ってたわけ」
レヴは部屋のスペアキーをポケットに突っ込むと、玄関ドアを閉じた。
「ちょっと故郷にな。……野暮用さ。詮索は無用だ」
「ああ、ごめんなさい。どこでってことを聞きたかったワケじゃあないのよ」
あんたの過去になんて微塵も興味無いから。
「少しは落ち着いたか? で、はおまえの望み通り、殺せたのか?」
レヴはひどく落ち着いている。を殺したと聞いた時は、かなり激昂してこの部屋を出て行ったのに。インヴィートを裏切ったと知った時点でレヴは私を殺すべきだったのに、その責任を放棄してどこかで油を売っていた。その間に何があったのだろう。……きっと、私がやったことをインヴィートに報告したはずだ。
インヴィートは今、私を殺しに来ているところなのだろうか。
「まだ確認できていないわ。これから店に行く」
「オレも行く」
「部外者のあんたが来たら、目につくわ」
「おいおい。おまえ、信用失くしてんのを忘れたかよ? を見つけたそばから殺されたんじゃ、たまったもんじゃねー」
「……まるで生きてるって知ってるみたいな口ぶりじゃない」
レヴは眉根を寄せて、乱暴に頭を掻いて言った。
「カンだよ。カン。生きてる気がするんだよ。じゃなきゃ、パッショーネの連中に殺されていて当然のが、いままでこの国で生き延びられたワケがねーと思ったんだ。だからこうして心機一転、元気にルームメイトの部屋に戻ってきたんだろ。……それに、おまえは分かっているはずだ。向かう所敵だらけなんだ。これからオレ達がを――生きていようが死んでいようが――探そうとする限り、パッショーネと対峙するのはもう避けられねーんだぜ」
レヴの本音は「カレンの能力無くして、の捜索は不可能」ということだ。カレンにはそれが分かった。そしてレヴがいなければ、自分の能力を使ってを捜索することは、もはや不可能だということに気付いたので、最終的に彼の申し出は好都合だとカレンは思った。
何にせよ、の生死を知るどころか姿すら見つけられないのなら、レヴは元より、インヴィートも私のことを殺せないはずだ。
それがカレンの、たったひとつの強みだった。
85:Act1: Regression
カレンとレヴのふたりは店に忍び込んだ。ガレージには修理工がふたりいたが、各々車の修理にあたっているようで、気づかれることはなかった。
裏口から入ってすぐ、右手に事務室、左手に社長室がある。ふたりが注意すべき存在はリコルドだ。万が一見つかれば、カレンは店が心配でなどと言って誤魔化しがきくが、レヴはどうにも釈明の余地がない。
店の奥へと足を忍ばせ進む間に、社長室から複数人で話す声が聞こえてきた。カレンがそのことに気づいて扉の前で足を止めて聞き耳を立てると、どうやら店内の修繕について工務店の人間と話をしているらしかった。事故現場の立ち会いは終わったのだろう。トラックが突っ込んだショールームからは人の気配を感じなかった。
カレンはレヴへ目配せをし、ショールームの方へ先に進むように促した。社長室の中から話し声が途絶えない内にレヴは奥へと姿をくらまし、カレンもまた彼の後に続いた。
事故現場はほとんどそのままの状態で残っていた。無いと推察されるのは、カレンが突っ込ませたトラックだけ――いや、の死体も無い――で、キャデラック・エスカレードはぶつけられたままの姿でそこにあったし、ガラスの破片や飛び散ったテーブルや椅子の類も、全て手つかずの状態で床に転がっていた。風穴の空いたショーウインドウにはビニールシートが被せられているが、成された処置といえばその程度だ。隙間風に乗ってきたのか、車の排気ガスと太陽がアスファルトを焦がしたような匂いがする。
キャデラックは身を隠すのに最適だった。カレンはエスカレードの後部ドアをそっと開けると、レヴを車内へ乱暴に押し込んだ。エスカレードの車内は、ドライブしながらちょっとしたパーティーが開けるくらいには天井も高く広々としていて、座席は三列あり、二列目の間には人ひとりが中腰で通り抜けられるくらいのスペースがある。幸い、後部座席の両脇とリアウィンドウには黒のスモークフィルムが貼ってあったので、フロントに回り込んで、車高の高いそれの前で背伸びをし、フロントガラスからまじまじと中を覗きこまなければ車内の様子は分からない。
カレンはレヴを二列目のシートに座らせると、自分は三列目のシートに横になった。そして、呟いた。
「ドリーム・シアター」
名を呼ばれ、スタンドは横たわる主の傍らに姿を現した。機械仕掛けの人形の、化粧板を外して裸にしたような、すべてのパーツがクロームに覆われたような姿を。人間でいうところの口のあたりにカメラか映写機のレンズのような物が、目のあたりにはフィルムを巻きつけた大小ひとつずつのドラムがある。細い針金のようなものが頭部、胴体と四肢を形どっており、その内側では無数の歯車が噛み合いながら回転していた。
「ACT1 リグレッション」
スタンド――ドリーム・シアターはカレンの身体にまたがり、彼女の顔に向けてレンズから眩い光を放った。レヴには見慣れた光景だった。スタンド能力を持たない者にはドリーム・シアターの姿は見えないので、傍から見れば、後部座席で眠る女を男が見守っているようにしか見えないだろう。
カレンは夢を見ている。夢より幾分リアルで、自由の効く夢を。その間、彼女は完全に無防備になる。なので、信頼の置ける仲間の前でしか、彼女は能力を使わなかった。
ドリーム・シアターは退行する。
物や場所、人がもつ時間を遡り、カレンの頭の中――あるいは異次元――に具現化する。具現化したその世界の中で、カレンは自由に身動きを取り、物に触れることができる。巻き戻す時間に制限は無いが、過去になればなるほど遡るのに現実世界で多くの時間を要する。また、時を遡る対象が物や人の場合は対象に触れていないといけないし、場所の場合は眠る自分を中心とした半径50メートルの範囲内までしか再現できない。しかし、それはまるで映画のように、巻き戻すことも再生することも、一時停止をすることもできる。
カレンが警察官やCIAの秘密捜査官では無いとことが悔やまれるが、そうなって人生を栄誉あるものにしたいと、本人は一度たりとも思ったことがなかった。何と言っても、好きでも何でもない、場合によっては少しも尊敬できないような人間に媚びを売って、知りもしない人間のために命を捧げて金を得たいとは思えなかったし、そもそも“まとも”な人間になるべく教育を受ける機会を大人に与えられることもなかった。
そんな人生で唯一、インヴィートのことは愛し、尊敬していた。彼には一生ついていくと決めるほどだった。なのに、その心を裏切られた。だからカレンは、腹癒せにを殺したのだ。
目の前からトラックが迫ってきた。そして衝撃を受けてすぐに、カレンはキャデラックの後部ドアから外に出た。出てすぐの所にが転がっていた。カレンは、ホログラムのように青ざめた姿形でありながらも、手に触れられる過去のの首筋に触れた。脈は無かった。腹部の損傷は激しく、頭から血を流し、息をしていなかった。素人目ではあるが、カレンには即死と思われた。
何よ。やっぱり死んでるんじゃない。
人ひとりの死に触れ、カレンは少したじろいでいた。けれど、恨めしい人間のそれであり、をこうしたのは他の誰でも無い自分であると思い出してすぐに、唇だけが少し弧を描いた。
さて、この死んだ女はどうやってこの場所から移動したのだろうか。まさか、ゾンビみたいに身を起こして歩き出すんじゃあないでしょうね。
カレンがそう思ったまさにその時だった。場の空気が一気に冷えたかと思うと、あたりをもやが漂い始めた。ゾンビが出る時に冷気が漂うのかどうか――少なくとも、幽霊が出てくる時は気温が下がって、人間が吐いた息が白くなるのは、ホラー映画ではよくある演出だ――知らないが、いよいよが動き出すのではないかと思われた。しかし、カレンの予想は外れた。のそばに現れたのは、白い――恐らく、体に纏っている白い衣服はこいつのスタンドだろう。このスタンドから冷気が放たれているのだ――ガキと、レヴがこの間ネズミに噛ませたガキのふたりだった。ご存知、のファンクラブのメンバーたちだ。
待って。なんで――
まずカレンが疑問に思ったのは、二人の落ち着き様だった。二人とも、悲しげ――あるいは悔しげな表情を浮かべはすれど、泣き崩れる程の動揺は見せなかったのだ。
二人の姿は仕事からの帰り際に度々目にしていて、とは親しげにしていたのを覚えている。は確か、パッショーネに父親を殺されているはずで、彼らとは一生仲良くできるはずもなさそうな身分にも関わらず、彼らに親しみを込めた視線を送り、笑顔を浮かべて会話をしていた。まるで、父親を殺された過去など無かったとでも言わんばかりにそうするので、彼女を取り巻く男たちもそのことを忘れて、仲良しごっこに勤しんでいたのだ。
なら、がこうも無惨な死を遂げたのだから泣くんじゃないのか。イタリア人は情にもろい。敵には容赦ないが、仲間内にはとことん甘い。だから、オメルタの掟とか、そんな決め事をするのだ。情にほだされて、やらなければならないことをやらずじまいにならないように。
考えごとをしている間に、場の空気の凍てつき方に拍車がかかり、カレンは思わず身震いをして腕を抱えた。緑のモヒカン男が「ギアッチョ」と呼びかけながら、諭すように白い男の肩を揺する。我に返ったらしい白い男――ギアッチョは、白いスーツを纏ったままの亡骸を抱きかかえた。そして、言った。
「死ぬんじゃねーぞ、ッ……!」
カレンは呆然と、立ち去る二人と一体の死体を見送った。
どういう、こと?
ギアッチョと呼ばれた男は確かに、私がしたようにの脈を確かめて、彼女の死を認めた。だから彼は怒りを燃やし、そのエネルギーがスタンドパワーとなって場の空気をさらに凍てつかせたのだ。死んだ人間に、死ぬなと――まるで、まだ命が助かる余地があるみたいに呼びかけるなんて、おかしい。
まさか……は、死なないのか?
実は「シェイプシフター」に襲わせたあの時も、は死んでいて、生き返った後に私と言葉を交わしていたのか。
そんな、まさか。ありえない。
けれど、とカレンは思い出した。
ありえないことが、ありえてしまう世界に、自分は生きている。もし、仮にが不死身だとしたら?
カレンはその先を想像し、さらに絶望した。
ダメだ……。何とか、をパッショーネの連中から奪って、どうにかして殺さなきゃ。でも、どうすればいい? どうすれば、彼女を殺せる? 車に轢かれて死んでも生き返る女を、どうやれば――
何か、手がかりがいる。カレンは、これまでに得てきたに関する情報を頭に思い浮かべた。が話していたこと、ファジョリーノが話していたこと、ファジョリーノの過去の記憶、その数々を。