暗殺嬢は轢死したい。

 蘇ったのは、イルーゾォが知るではなかった。常に穏やかで優しく美しく、怒りの代わりにたまに悲壮感をあらわにするだけの彼女では。

 瞳孔は完全に開ききっていた。迫りくる殺人鬼から逃げる女のように――に限っては、普段嬉々として殺人鬼に向っていく気質だったので、この例えは適切で無いかもしれないが――息を荒らげ、助けを求めてイルーゾォの両腕に掴みかかる。その手の爪が彼の肉に食い込んできて、はじめ痛みに眉根を寄せたイルーゾォだったが、次第にに痛みを与えられていること自体に困惑し始める。極めつけに、彼女は言った。

「私を、殺して」

 あまりにもか細く発されたために、彼女の声を上手く聞き取れなかったイルーゾォは、何だって、と聞き返した。わずかに震えた唇の動きから想定された言葉が、ただの聞き間違えであることを願いながら。あいにく、今度ははっきりと聞こえた。

「私を、殺してっ! いま、すぐに!」
「何を……言ってる、オレが――」

 オレは殺人鬼ではない。少なくとも、人を殺してやりたいと思って殺したことは無い。愛する女を手にかけるような、頭のいかれたサイコ野郎でも何でもない。

「――オレが、おまえを殺せるワケがないだろうがッ」

 普段は冷徹に人の命を奪う暗殺者の自分がそう言っても、説得力など無いことは百も承知だった。彼女を一度裏切った自分なら尚の事。一方で、自分が愛する女でも容易に殺すことができる男だと思われるのは心外だったし、当の愛する女にそう思われるのは、一層口惜しかった。もっと前に、自分の真の気持ちを――組織への反逆者へ肩入れすることに対する恐怖心を押し殺し――へ告げるべきだったのだ。そうしていれば、今正気を失くしている彼女は“信頼のおける”オレの言葉で正気を取り戻し、オレに自分を殺せなどと押し付けるのを止めたかもしれない。
 
「なら、いいわ、自分で、やるから……っ」

 いや。それすら今は自分の希望的観測でしかない、とイルーゾォは思った。たった今自分で自分を殺すと言った彼女の目を見て、悟ったのだ。は恐らく、今この時に自分の目の前にいるのが誰かすら正確に認識していない。瞳は眼孔の中で小刻みに震え、呼吸は荒く、額には無数の粒となって汗が滲みはじめていた。彼女は暗がりの中、ナイトランプから発される電球色の明かりに照らされているだけだが、それでもイルーゾォには、の異変に十分気づくことができた。

 イルーゾォがこのような彼女の姿を見るのは初めてだった。手首足首を革製のベルトでベッドの四隅に固定された状態で鎮静剤でも打たれて然るべき、錯乱した、重度の精神病患者、あるいは重度の薬物中毒者のような姿を。

「落ちつけと、言ってるんだ、!!」

 ベルトなどない。あっても使わなかっただろうが、慌ててベッドから抜け出そうとする彼女をおさえる必要はあった。を死なせるわけにはいかないからだ。イルーゾォは彼女の両肩に両手をあてがい、ベッドに彼女の背中を押し付けた。は枕の上で頭を左右に激しく振りながら、手足をばたつかせる。

「いや、いやよ、無理、殺して、殺してよ! 死にたいの、死にたい。何も感じていたくない。苦しいのよ、我慢ができないの! お願い、私を死なせて……!」

 は死にたがりの快楽中毒者。そういった認識だけは元からあったが、幸運にもイルーゾォはこれまで、彼女の死の現場に立ち合ったことが――最初に自己紹介を兼ねて車に轢かれた時を除いて――無かった。そしてがイルーゾォに、死んでから二十四時間以内に、例の厄介な“離脱症状”を見せたことも、況してやその延長で肉体関係を持ったこともなかった。

 だが、愛を交わしたことならある。少なくとも、イルーゾォは愛を交わすことができたと思っていた。彼の人生で初めて、女を心から愛した結果の、当然の成り行きだった。恐らくもそう思っただろうし、相思相愛の仲となれていたはずだった。――イルーゾォが、彼女の思いを裏切るまでは。

 彼は今に至るまでの間ずっと悔やみ続けていた。あの裏切りの言葉は、我が身かわいさに漏れた出鱈目にすぎなかったのだ。本心ではおまえを心から愛しているのだと言いたかった。そして、が正気の内にそう伝えるべきだったと今になって思った。しかし今一度冷静になって、彼女との関係が破綻してからこれまでのことを思い返すと、そんな機会は得られなかったと気付く。偶然機会が得られなかったのではなく、が意図的に機会を与えなかったと言う方が正しい。

 はイルーゾォに裏切られた時、唯一心を落ち着けられる場所を失くした。結果、彼女はあてもなく逃避した。逃避した結果、メガデスが再度その姿を現した。今度はトルネードのように渦巻く、苛烈な怨念を放ちながらだ。

 逃避とは、防衛本能に基づく行動だ。逃避したのがスタンド使いならば、逃避を妨げる者から主を守るためにスタンドが出現するのは当然のことだっただろう。

 とは言え、実際にの内に秘められていた思念が表出したもの――禍々しい怨念を放つメガデス――を見たのはプロシュートとペッシの二人だけだ。イルーゾォは鎖に縛られたメガデスならば目と鼻の先で見たことがあるが、それが激しい怨念を抱えていることなど、スタンドの見た目から推し量ることしかできなかった。さらに、が逃避を止めて帰ってきた後に伝えられたのは、何故今回のような事態に陥ったのかという過去を交えての釈明ではなく、同じことを繰り返さないために今後どうするかという意志だけだった。この時イルーゾォは深い喪失感を覚えた。すぐそこに愛する女がいるのに、手を伸ばしても届かないような遠いところに、彼女が行ってしまったように感じた。

 イルーゾォが感じただけではなく、実際にはチームから距離を置き始めたのだ。それからというもの、彼女の姿をチームの団らんの中で見ることは少なくなったし、面と向かって話をすることなどとてもままならなくなった。イルーゾォに、にしてしまったことに対する呵責の念があるというのも手伝って、会話らしい会話を交わすことすらできないでいたのだ。

 故に彼はやはり、の過去について何も確かなことは分からないままだった。彼女のことを――組織に仇なしていた反乱分子だと――分かったつもりでいただけで、実のところは彼女についての殆どのことを彼は知らなかった。何故、彼女が起きぬけに、これほどまでに死にたがるのかも分からない。

 ただ何となくイルーゾォには、が今こうなっていることの責任が、自分にあるように思えてならなかった。孤独を恐れ愛を求めていた彼女に、気まぐれに一度愛を与えた上で無責任にそれを取り上げ、再び孤独へ突き落としたのは他ならぬ自分だからだ。

 が死にたがるのは孤独が故だった。孤独に耐えかねて自傷行為を重ね、その内に自殺潜在能力を高め自死に至る。その行為が繰り返された結果、倒錯――目的と手段の入れ代わり――が起こり、彼女は快楽中毒となった。

 の過去についてよく知らない――知りたいとは思うが、本人がよく思い出せないか意識的に話そうとしなかったので知りようがなかった――イルーゾォが、ここまで的確に彼女の“精神疾患”をそれとして認識しているわけではない。だが、例えばそれは疾患とまではいかないまでも、酒や薬に依存するようなものとの認識くらいはあった。何せ、彼のこれまでの人生で、苦しみから逃げるために何かの奴隷になり考えることを止めた人間は大勢いた。

 そんな人間を救いたいと、苦しみから解放してやりたいと思ったのは、が初めてだ。

 彼女への責任を果たすために、オレはどうすればいい? 一体、今の自分に何ができる?

 自問したところで、それらしい答えは思い浮かばない。もしもこれが、薬物やアルコールといった類の中毒症状なら、それらを与えないのが正しいやり方だろう。無論、を殺すつもりなどないので、同じような適正な処置が可能だ。次に浮上する問題は、禁断症状をどう抑えるか、だ。医者の対極にある職業を生業としているイルーゾォが手をこまねいているうちに、の禁断症状はますます悪化していく。

「お願いよ、お願い。助けて、助けて、私を、めちゃくちゃにして。めちゃくちゃにして、何も感じられないくらいに……」
……?」

 ふと、抵抗を続けていたの腕から力が抜けた。はあはあと息を弾ませ、苦しそうにあえぎながら、自分の胸のあたりを掴み握りしめる。ばたつかせていた脚の動きは次第にゆっくりとなって、艶めかしく男を誘っていた。イルーゾォは油断して、を押さえつける手から力を抜いた。すると、の両手がするりと顔に向かって伸びてくる。その手は彼の頬を覆い、熱のこもった瞳がじっとイルーゾォを見つめた。イルーゾォは言った。

「おまえ、オレが誰か……分かってるのか」

 今、おまえがそんな目を向けているのは、おまえを一度裏切った男だぞ。イルーゾォはそう言いたかった。言っても、彼女は求めることをやめなかっただろうが、彼は押し黙ったままでいた。触れたくて触れたくてたまらなかった、手の届かない遠い所へ行ってしまったはずの女に、求められているのだと言う幻想から、逃れられなかった。

「そんなこと、どうだっていいわ」

 無慈悲にも、そんな言葉が寂し気に響いた。

「私には一緒なのよ。殺されるのも、犯されるのも。どちらにせよ、めちゃくちゃにされることに変わりは無いし。それでいいのよ。そうすれば、何も考えずに済む。死んでしまえばいいのにって思える自分のことすら、忘れていられるわ」

 放っておくとどうにかなってしまいそうな、今この時だけは。

 涙を流しながら、は儚げに微笑んだ。彼女が自棄を起こしているということは、イルーゾォの目には明確だった。求められているのは自分ではなく、快感だ。すべての憂を忘れられるような刺激を、彼女は欲している。愛を交わす訳では無い。今の彼女に、オレと交わす愛は無い。――正気でいた彼女が言っていたことを思い出す。彼女は本来の自分を取り戻していないからだ。あの鎖が解けない限り、彼女は本来の自分――オレたちがまだ知らない彼女――には戻れない。

 鎖が解けたときが来るとするならば、どのみちオレたちに未来は無いんじゃないか。メガデスに殺されるか、管理を怠ったオレたちに上から制裁が下される。そんな未来が現実味を持って目前に迫っている。

 死にたくない。オレは、死にたくない。生きていたい。と共にありたい。今、目の前にいるに、死んでほしくもない。

「オレは、どう、すればいいんだ」

 イルーゾォは、そう問うた自分を卑怯だと思った。まるで、そうしろと言われたからそうするのだと、そうせざるを得ない状況だったからそうしただけだという口実でも作っているようだと。どうすればいいか、が何を求めているかは、これまでの流れから明らかなのに。

 は言った。

「言ったでしょう。めちゃくちゃにしてって」

 流れに身を任せるのには慣れていた。逸脱しようとすれば、激流に呑まれ命を落とす。そんな世界に彼らは生きている。だから、仕方の無いことなのかもしれない。例え彼女の要求を拒んだとしても、その先時間経過でが鎮静するとは限らないし、特効薬があるわけでもない。彼女を狂乱の果てに死なすわけにもいかない。ならば、彼女の要求を拒むなんてことは得策ではない。

 その要求が、イルーゾォに虚無感を与えた、正気を保っていたに告げられた例の意志に反することは明確だった。けれど、彼は拒めなかった。拒むことは得策ではないと自分を納得させたのは、束の間の幸福に身を委ねるがためだった。

 それに、別に毒を与える訳では無い。治療、みたいなもんだ。そうに違いない。

 迫ってきた彼女の唇を迎え、目を閉じるうちにイルーゾォは尚も自分に言い聞かせていた。愛する女の口づけを受け、その甘美な官能に、束の間の幸福感に支配されている間だけは、すべてを忘れていられた。自分は愛されているのだという幻想に、身を委ねることができた。自分は、決して本当のには愛されないさだめにあるという現実を――例の鎖が彼女の精神に纏わりついていることを忘れて。



83:My Heroine



 メローネは泣きながら自慰にふけっていた。すぐ近くで、がイルーゾォに貪られる音を聞きながら。これは夢ではない。夢であればどんなにいいだろうと思うほどメローネには残酷な現実だが、彼は聞くことも手を動かすこともやめられなかった。今聞いているのは、今この時に実際に起こっている、この部屋に覆いかぶさるのと同じ屋根の下にある部屋で響く音だ。なので、メローネは以前悪夢に見た光景を、今はありありと思い浮かべることができた。

 このアジトに身を寄せるのは、俗世から離れ禁欲的規律を守り生きる修道士ではない。性的嗜好として対象を同性に向けるタイプもメローネが知る限りにおいてはいなかった。なので、から情欲をぶつけられた場合、それが男なら十中八九は性行為に及ぶだろう。だから、こうなることは予想できていたのだ。
 
 つい最近、メローネはと行為に及んだので、彼女が何故、蘇生したそばから情欲に溺れているのかも知っている。それはまるでアルコール中毒のように、酒を絶っていた中毒者が我慢の末いよいよ耐えられなくなって過度に飲酒した後、激しく起こる離脱症状のようなものだった。死による至高の快楽――曰く――を忘れられない脳が、もっと刺激を寄越せと暴れているのだ。彼女が言った通り、相手は誰でも良い。多分、勃起不全とかで無ければどんなに汚らしく穢らわしい男でも、今の彼女なら受け入れただろう。

 自分の時もやはりそうだったのだと、メローネは薄々感付いていたことが真実だったと分からされ、悲しくなった。涙が次々と溢れてくるのは、ほとんどがそのせいだった。今のイルーゾォと同じく、気持ちよくしてくれるなら、相手は誰でも良かったのだ。ただ違うのは、自分のときははじめが正気を保っていて、誰彼かまわずやるのは良くないと理性を働かせていたことくらいだろう。
 
 今のに、そんな可哀想なメローネ――あるいは、ホルマジオやイルーゾォを――思い遣る余裕などない。はただ彼を――あるいは彼女に少なからず情を寄せる他の皆を――傷つけて――彼女にそんな意図は無いが、結果的にそうなのだ――、彼を、皆を置き去りにし、絶望させる。けれどその絶望は、彼女に与えられた快感によって覆い隠される。彼女に与えられた笑顔や温もり、優しさに比べれば、裏切りなど些細なことだ。そもそも、裏切りだと感じるのは自分の勝手だと、メローネには分かっていた。

 オレたちは、ボスの管理下において恐らく、感情や記憶など、精神に由来する何か一部を封じられているが与えてくれる、一時の幻想、あらぬ愛に酔い痴れているだけなのだ。

 そうと分かっていても、忘れられない、忘れたくない、ずっと彼女のぬくもりを得ていたい。ただそれだけだ。今まで彼の人生でそれらを与えてくれたのは、以外にはいなかったからだ。

 確かに傷ついているはずなのに、メローネはどうしても手放すことができそうになかった。今まで何度も、が与えられるだけのものを全て与えてくるのに、見返りを求めてこないという事実に取り乱し意気消沈してきた。彼は確かに傷つき続けてきたというのに、それでも、ただ彼女に与えられるものを享受し続けた。そしてこれから先も彼女と共にありたいし、彼女に無償の愛を、優しさを与えられ、笑顔を向けられていたい。別に、肉欲を交わしたいとは思わない。愛がないなら、虚しいだけだと気付いたからだ。きっとイルーゾォもオレと同じで、明日には後悔するはずだ。

 その繰り返しはまるでヘロイン中毒のようだ。彼女に与えられるすべてに浸るのは、至上の快楽であり、拷問の様も呈する。しかし、を失わないためならば、メローネはそんな拷問すら、甘んじて受け入れてこられた。けれど心のどこかで、このままではどちらの為にもならないということが分かっていた。

 が果てる。その声を聞いて、メローネも果てた。ベッドのすぐそばの床上に、白濁と、涙がポタポタと落ちて白と黒のシミを作った。

「ああ、。……オレはこれ以上、傷つきたくない。苦しい、んだよ」

 絶頂の後の虚無感がメローネを襲う。彼はふっと体の力を抜いて、背中をベッドへ打ち付けた。その後、暗い天井に向って独り言を続けた。
 
 もう、君がオレ以外の誰かにいいようにされるのを、黙って見ていられそうにない。君を苦しみから、永遠に解放してやりたい。今ではなくてもいつの日か、オレは君のことを変えられるのだろうか?

 ああ、これはオレの悪い習慣だ。けれど、オレはそれをいずれ断つだろう。君を助けるために。

 だって、君が笑っていない世界になんて、意味も未練も、何も無いから。