ベッドのスプリングがきしみを上げる。夜、静かなどこかの寝室でこだまする男女の荒い息遣い。暗がりのベッドの上で女があえぐ。――だ。メローネにはそれが何故だか分かってしまう。
「イルーゾォ、いいわ。来て。私のこと、もっと愛して」
艷やかな声音。それが自分の耳元で聞こえるのならどんなに幸せだろうか。だが、彼女が呼んだ名は自分ではないし、その声ははるか遠く――五メートルほど先――を音源としていた。
身を割かれるような思いがする。叫び声を上げて、受け入れがたい眼の前の光景を打ち消してしまいたい。だというのに、まるで金縛りにでもあったかのように体はピクリとも動かない。
これは夢だこれは夢だこれは夢だ――
目さえも閉じることができない不自由のなか、唯一許されるのは念じることだけだ。闇に蠢くふたつの体。快楽を求めて互いの体を貪り合うふたり。乱れ湿った呼吸音。やがては体を仰け反って目を見開いた。同時にふたりのうめき声がした。
――勘弁してくれ、もう耐えられない。頼む、頼むから。さっさと醒めてくれ。
そう願った次の瞬間、彼は自室の天井を見つめていた。
やっと願いが叶った。夢なら醒めてくれという願いだ。夢なら、と言うか夢だから、だ。夢だから醒めてくれ。
というのも、メローネはに恋い焦がれ始めてから、こんな悪夢を幾度となく見ている。それはもう、彼女が仕事に行く度に。下手をすれば、彼女がアジトにいるときだって見ている。そして大抵、直近で一緒に仕事に行ったか現に今彼女と一緒にいる相手がの裸体に裸で覆いかぶさっている。前回はホルマジオ、前々回はギアッチョ、前々々回はプロシュートと言ったように、メローネの頭の中の彼女はもう大体みんなとよろしくやっていた。
リゾットとペッシが相手になっている夢はまだ見たことがない。だが、それも時間の問題だろう。――あー、ペッシはどうだろうな。あいつ童貞マンモーニだからな。にその気がなけりゃあり得ないか。
夕寝を終え、そろそろ食事の準備に取りかかろうかとメローネは上体を起こす。朝ではないが股間が盛り上がって元気になっている。生理反応故か、夢で興奮してか分からない。彼は勃ち上がったそれが落ち着くまで壁に背を預け、またぼうっと天井を見上げた。そして起伏が収まると、おもむろにベッドから下り自室を出てリビングへと向った。
本当は今日の料理当番はギアッチョだった。彼は料理が上手くない。見た目はそれらしく見えるものが出来上がりはするのだが、往々にして味が濃すぎる。きっと怒りに任せて塩をぶち撒けているのだろう。とにかく、メローネは今夜七時に帰ってくるらしい彼女にそんな塩っ辛い料理なんか食べさせたくなかったし、心から彼女の帰りを待っていたというアピールも込めてご馳走を振る舞おうと思った。なので、ギアッチョの仕事を奪ったのだ。
それにしても、ギアッチョは相変わらず大人しかった。今日なんかオレの料理当番を代わってやるなんて申し出を受けて、素面で笑うことなんか滅多にないアイツが微笑んでサンキューなんて言った後ドライブにでかけたのだ。ああ、気味が悪い。
メローネはキッチンに立って夕食の支度を始めた。その内にホルマジオやプロシュートとペッシのコンビが帰ってきて、リビングのソファーでくつろぎながらテレビを見始めたりした。
昨日の夕食の時なんかはオレとリゾットしかリビングにいなかったのに、が帰ってくると聞いた途端これだ。みんな、彼女に会いたいのだ。
そうとは誰も口にしないが、メローネにはそれが分かった。ギアッチョは車を走らせたらすぐ戻ると言っていたし、リゾットも姿は見せないが自室で仕事をしている。今日はチーム全員が一堂に会することになるだろう。――邪魔者で溢れかえるのだろう。
メローネはふと向かいの壁にある壁掛け時計を見やった。そろそろが帰ってくる頃だ。そう思うだけで心は踊った。だが一緒に不安にもなった。これも毎度のことだ。彼女が裏の仕事から帰ってきた時はいつもそうだ。仕事は無事終えてきたかとかそういう話はどうでもいいのだ。一緒に仕事した男と性交渉は持っていないだろうか。そう、今回はイルーゾォだ。さっき夢に出てきたあいつ。
あいつの裸なんか見たことないのに、なんでオレの夢に裸で出てくるんだよ。ああでも、あれは確かにイルーゾォだった。髪は女みたいに長く、ブルネットで、そのくせ体がでかいんだ。
そんなことを考えながら、メローネは作った料理をダイニングテーブルの上に並べていった。そうしているうちに、誰かが玄関の扉を開ける音が背後から聞こえてくる。足音はふたり分。ギアッチョじゃない。だ。が帰ってきた!リビングにいた全員の視線もまた、部屋の入口へと一斉に注がれる。
「ただいまー」
「無事か!?!おかえり!」
開口一番に無事かと問うたメローネは弾かれたように後ろを振り向いた。そこには完全にリゾート帰りといった出で立ちの――彼は意識の外にやっているが、イルーゾォもちゃんと彼女の後ろに立っている。メローネをうざったそうに睨みつけて――がいた。キャリーケースを引いて部屋の中へと進む。メローネは彼女に向かって歩きながら大手を広げて抱きしめた。
イルーゾォは舌打ちをしてふたりの横を通り過ぎるとソファーの定位置へ向かった。苦虫を噛み潰したような顔で弱ったスプリングに身を投げる。そんな彼にホルマジオとプロシュートは訝しげな顔を向けた。
「無事よメローネ」
ああ、そうじゃないんだ。。いや、君がそういう意味で無事なのはもちろん大事なんだが。
メローネには、質問の意味を怪我はないか、病気してないかととられているということが分かった。もちろん、彼にとってはそれも大事だ。彼女が辛い思いをして苦しむ姿や、ましてや涙を流しているところなど見たくないからだ。だが、彼が一番聞きたかったのはそのことではない。イルーゾォに君の美しい体を蹂躪されていないか。もしそんなことになっていたら無事とは言い難い。が、というよりも彼が無事ではいられないという方が正しいが。
「!君のために夕食を準備してるんだ!ふたりで食べよう!オレと、ふたりで!!」
リビングにいた者達の視線は帰還した仲間からダイニングテーブルへと移る。二人分の料理と食器しか置かれていないことに今になって気づき、男たちは口々にやじを飛ばしはじめた。
何テメーとの分だけ上等なもん作ってんだ!とか、オレたちのメシはどうした!とか言われたが、メローネの耳には入っていない。もちろん、彼はしっかりと大皿でテキトーな料理を人数分作っている。邪魔者共にはリビングのソファーにおとなしく座っていてもらわなければならない。
「ああ、メローネ。ありがとう。お腹ペコペコだったの。嬉しいわ」
満面の笑みを浮かべそう言うと、は部屋の隅にキャリーケースを置いた。
メローネはからほとんど目を離さなかった。彼女が自分の腕の中から離れ、諸用を済ませてダイニングテーブルにつく間と、一緒に食事を取っている間も。もちろん、粘着質な視線を送るというより、自然に、に不快感を与えない程度で彼女の様子を観察した。
今の所、これと言っていつもの彼女との違いは見られない。だが、何故だが胸騒ぎがして仕方なかった。夕方に見たあの悪夢がやけに鮮明に記憶に残っているからだろうと思ったが、それ以外の何か直感とか、第六感とか、そういった論理的ではない何かが働いている気もした。
ダイニングでの食事を終えたふたりは、報告も兼ねてリゾットを交え酒盛りに興じた。その間も、メローネはまるで番犬のように彼女のそばに佇んだ。いつもの楽しいひと時だ。これだけが生き甲斐とは言わないが、皆楽しげに同じ時を過ごした。だが、メローネだけは雰囲気に飲まれないようにと酒に手を付けなかった。
そのうちに彼は目撃してしまった。
とイルーゾォの目が合って、ふたり仲睦まじげに見つめ合っている所を。まるで自分たちだけの、他と隔絶した時空間を共有しているかのように。見つめ合っている時間は恐らく三秒と無かっただろう。目が合って、三秒後にはイルーゾォの方から目を逸らした。だがメローネにとっては恐ろしく長く、地獄のような時間だった。
皆が酒に酔って楽し気にしている中、ただひとりメローネは打ちのめされて呆然としていた。しばらくして思考停止状態から抜け出した彼は、自身のスタンド能力によって培われた洞察力をもってひとつの結論にたどりつき、それが真であると確信した。
――はイルーゾォに恋している。
53:R U Mine?
「声は出すなよ」
囁かれて、はぞくりと体を震わせた。皆が深い眠りに落ちているであろう未明のことだ。鏡の中世界を通っての部屋に潜り込んだイルーゾォは、ベッドの上で裸になって、同じく裸の彼女に覆いかぶさっていた。
は、肌の上を滑る手指や舌に与えられる甘美な刺激に耐えつつ眉根を寄せながら、声を出さないようにと作った握り拳の人差し指を噛みつけた。歯列と歯列の間から空気が出たり入ったりをくり返す。愛撫の間はまだそれで済んでいた。だが、熱く大きくそそり立った男根をねじ込まれると、そうはいかなかった。
「んっ、イルー、ゾォッ」
「く、ッはっ――」
大して丈夫な作りをしているわけでもないベッドが、律動に合わせてがたがたと揺れる。だが、声を出すなと言ったイルーゾォも、声を抑えるのに必死なも、絶頂へと向かう内にそんなことは気にしていられなくなってしまう。
やがてふたりは果てる。
は自分の腹の上に撒かれた白濁をティッシュで拭い去りゴミ箱に捨てた。そして仰向けになって横たわるイルーゾォの胸に片腕と頭を預け、彼の心音に耳を澄ませた。そうやって安心すると深い眠りに就けるのだ。
夏の間、そんな夜を繰り返した。バリへ行く前は一ヶ月のヴァカンスの間にメローネに荷物持ちでもさせてどこそこへ旅行へ行こうと思っていたのに、そんな気は起きず、ただただ愛欲を解消するだけの怠惰な毎日を過ごしてしまった。少しばかり後悔もしたが、夏はこれで最後というわけではないし、旅行なんてこれから先いくらでも行ける。
声を出すなと必ず言われて始まるセックス。最初は秘事であると意識させるその言葉に興奮していた。だが、次第にはまた別の不安を抱えるようになっていた。
バリからイタリアへ帰る間にふたりはふたつの決め事をした。ふたりの決め事と言うよりほとんどイルーゾォからの一方的な命令だったが、はそれを受け入れた。
その一。他の男と二人きりにならないこと。仕事の都合上止む無く二人きりになったとしても、用意に体に触れさせないこと。
そのニ。アジトにいる間は、今まで通り普通に振る舞うこと。つまり、誰にも関係しているなどと悟られないようにすること。
一つ目にはイルーゾォの独占欲が表れている。お前は俺のものだ。そう言って首に歯を立てられ舌でなぞられ煽られて、沸々と起こる愛欲に溺れるのはどこかあの死を目前にした時の興奮に近い。チョコラータに独占され、体をいいように扱われていた頃の興奮がよみがえるようだった。だから、はイルーゾォのものでいよう、そのために彼の言いつけを守らなければ。そう思った。
だがには、二つ目の取り決めが何故必要なのかが分からなかった。自分たちふたりの関係を他の仲間に知られたくない。それが何故か。イルーゾォはチームの規律を乱すことになるとか、メローネにバレたら面倒とかそんな話をしていたが、どうも釈然としない。もう、私の監視は自分ひとりでやるとリゾットに進言してくれればいいのに。そうすれば、いつでもどこでも、人目なんか気にせずに愛し合える。などと、最初のうちはそう思っていた。だがそれもしばらくして、イルーゾォが言ってくれる訳がないあり得ないことだと諦めた。
彼女の不安とは、自分は本当に愛してもらえているのだろうか。イルーゾォとは、体だけの関係なんだろうか。という、ごく一般的な女性が抱くような悩みから生じている。孤独でいたくなくて求めたはずのイルーゾォの愛。愛が感じられないとは言わない。けれど、孤独を打ち消すほどの安心は未だ得られていない。
イルーゾォが何を考えているのか分からない。愛していると、言葉にして言ってもらえるわけでもない。おまけに周りにふたりの関係について話すことすらできない。愛し合えている、信頼の上に成り立った対等な関係なのだという確証が得られずに、ぐらぐらと足元が覚束ない。そんな不安だった。
そもそも、この関係は何なのだろう。別に交際を始めようなんて言われた訳では無い。人には言えない関係?イルーゾォは、愛しているとは思っているが恥ずかしがって言わないだけなのか、そもそも愛しているなんて言ってやれるような、深い関係と思われていないのか。自分からはもう幾度となく愛してると言っているはずなのに、ああとか何とかそんな言葉とも言えないような声を上げて交わされ続けてもう何度目だろう。
イルーゾォから与えられる抱擁やキス、愛撫も全て心地良かった。けれど、何か足りないのだ。何か大事なものが欠けている。――あの、身を焦がすような思いが足りないのだ。
愛を求める心に限界は無い。まるでドラッグのように、一つもらうと二つ欲しくなる。二つもらうと四つ。四つもらうと十六欲しくなって、やがて底なしの欲に溺れて我を忘れる。与えられる死は快楽で、それを愛情だと思って更なる死を求めていたことからもそれは明らかだ。
そんな欲に溺れた自分がおかしいのだと気づき、今こうしてイルーゾォとの逢瀬を繰返している。愛とは、快楽とは破滅的なものなのだ。愛を求めて一心不乱に行動していると、本来の目的から遠く離れた所にいてしまったりする。だから、こんな不安を抱くくらいの関係が丁度いいのだ。満たされないまま、維持しているくらいが丁度いいのだ。
感情を理性で押し潰してそう言い聞かせる。そしては、もう何度目かも分からない問いかけをする。
「ねえ、イルーゾォ」
「……ん、どうした」
気だるさと眠気に襲われかけたイルーゾォが、虚脱感に呑まれた体にむち打ち応答した。
「私はちゃんと、あなたのものでいられてる?」
「ああ。お前は、オレのものだ」
あなたになら、何をされてもいい。この身体はあなただけの物。そう伝えて、愛し合った夜があった。あの人は明確な愛を――死を与えてくれた。ああ、ダメ。忘れなきゃ。あの過去にはもう戻れないのよ。忘れなきゃ――いや、どうしたって忘れられないものはある。それを十として、体を独占されある程度の快楽を与えてもらえている今を八としよう。腹八分で満足しなければ。
ところで、私はイルーゾォの物だけど、イルーゾォは私の物なのだろうか。いつか彼は、彼の全てを私に曝け出してくれるのだろうか。弱い自分も、醜い自分も何もかもを。私は曝け出した。もちろん、自ら進んでそうしたわけじゃない。けれど、曝け出したという結果に変わりない。――このままじゃ、フェアじゃない。
「……あなたは、私の物なの?」
しばらく間をおいて恐る恐るにしたそんな問いかけは、空に虚しく響くだけだった。心細くなったは体を起こし、イルーゾォの顔を見やった。彼は眠ってしまっている。
ああ、また聞けなかった。でも、聞けていたら聞けていたで、不安は増したかもしれない。何とは言えない、漠然としたイルーゾォへの疑念がこんな思いにさせるんだろう。
はゆっくりとベッドから抜け出した。振り返ってイルーゾォの腹にブランケットをかけてやると、服を着た後音を立てないようにドアを開けた。少し夜風に当たってこよう。そして気分を入れ替えれば、また彼の腕の中で眠れるだろう。
後ろ手に扉を閉じ、はテラスへと足を向けた。
――控えめな音を立てて部屋の扉が閉まる。イルーゾォはゆっくりと瞼を持ち上げて、もの思わしげに虚空を見つめていた。