暗殺嬢は轢死したい。

 インドネシアはバリ島に降り立って三日目の夜。およそ十時間に渡り寺院をめぐり最後にスパでリラクゼーションを楽しんだふたりは、宿泊先のホテル内にある五つ星レストランで食事を済ませてヴィラへ戻った。時刻は夜八時。寝るにはまだ早い時間だ。

 寝るにはまだ早いが、イルーゾォはすぐにでも寝てしまえるくらいには疲れていた。もうそろそろこの世に生を受けて三十年を迎えようとする自分の人生で初めて、観光地で観光を楽しんでマッサージなんてものを受け、しまいに五つ星レストランで食事した。観光はともかく、あとの二つは妙に緊張して疲れてしまった。いい加減リラックスしたい気分だった。

 イルーゾォはホテルの敷地から向かいに向けられた照明で橙色にぼんやりと浮かび上がった夜の森と星空でも眺めながらしばし休もうと、部屋に着くなりプールサイドのデッキチェアに向った。どうせはまたひと目もはばからずに服を脱ぎだすだろうから、彼女に背を向けるのにも丁度いい。

 デッキチェアに寝転がり目を瞑る。涼しいそよ風が肌を撫ぜていく中、木々が風に揺れる音と水の音しか聞こえない。静かでいい。瞼を持ち上げ空を見上げれば美しい星空が広がっている。

 ここは楽園だ。帰りたくない。

 今まで自覚したことは無かったが、自分は安らぎを求めていたようだ。帰りたくないと思うのはそういうことだろうとイルーゾォは思った。

 しばらくすると、が背後から自分に向かって近寄る音が聞こえてきた。イルーゾォは安らぎの中、かすかな胸の高鳴りを覚えて少しだけ身構えた。身構えてすぐ、肩越しにビール瓶を差し向けられる。

「お仕事お疲れさま。今日は付き合ってくれてありがとう。おかげでとっても楽しかったわ」

 労いに乾杯でもしようというのだろうか。二台あるデッキチェアの間に据え置かれた小さなサイドテーブルに、ワインの瓶ともう一つ得体の知れない酒瓶とグラスがふたつ置かれた。が観光の間にでも買ったものだろう。彼女のことは監視していたはずなのに、買ったと知ったのは今になってである。知っていれば、その頃からきっと身構えていたはずだ。ここで酒を飲むのはまずいと。

 酒を飲むのは嫌いじゃない。だが今はまずい。を監視するという任務に就いている今酒を飲むべきじゃない。仲間と酒を飲まないやつは泥棒かスパイだ、とか、いい酒はいい血を作るとか、酒に関してはネガティヴな諺があまりないイタリアという国で大人になったが、暗殺者には節制が必要だ。酒は飲んでも飲まれるべきではない。

 そしてやはり、イルーゾォの深層心理が警鐘を鳴らす。良くないことが起こる予感がする。ラグジュアリーなヴィラでふたりきりというだけならまだしも、それから女が酒に酔うつもりでいるらしい。これで何も起こらなかったら逆に奇跡だ。

 ――いや、少しだけなら大丈夫だ。自分は体が大きく酔いが回るのにも時間がかかるし、代謝がいいからアルコール度数の高い酒をロックで何杯も呷りでもしなければ酔いはしない。自分さえ酔わず正気を失わずにいれば、酒の勢いで見境を失くしどうのこうのという話にはならない。

 警戒心などほとんど緩めたことの無かったイルーゾォは束の間の安らぎを得たいがために、内側で鳴り響くアラートに無視を決め込み緑色の冷えたビール瓶を受け取った。そして既に栓が抜かれていたそれを一口飲み下す。

 冷えたビールの最初の一口ほど美味いものは無い。しかも何に拘束されるでもない自由の中、美しい夜空の下で飲むそれは格別だった。イルーゾォは幸せとは何か、初めて理解できたような気がして誰に向けてでもなく微笑みを浮かべた。

 その幸せを感じられる機会を与えてくれた、天使のような女がそばにいる。イルーゾォはちらと横目でを見やった。天使は薄地で裾がひざ上までしかないバスローブを身に纏って完全にリラックスモード。男がすぐ傍にいるというのに警戒心の欠片も見せない格好だ。

 そして彼女もまた、束の間の幸せを嚙み締めるように目を閉じた後、燦然と輝く夜空を見つめていた。きっと自分と感じていることは同じだろうと粗方の検討をつけると、イルーゾォは視線を元の場所へ戻した。

 目の前の景色もはるか上空の夜空も、何も変わらない。時間の流れを感じさせない平穏の中、ふたりはしばらくの間静かに酒を飲んだ。次第に、酒はふたりの口からぽつりぽつりと言葉をこぼさせ始める。旅の途中で楽しかったことを言い合ったり、冗談を言い合ったりして笑い合う。そうこうしている内、知らず識らずに酒が進む。

 ビール瓶一本くらいじゃどうにもならないから大丈夫だと酒を飲み始めたイルーゾォは、いつの間にかワイン数杯と得体の知れない酒――アラックというココナッツの蒸留酒――をロックで何杯も呷っていた。だが、彼に酔っているという自覚は無い。まだ大丈夫。まだ飲める。そんな調子での話に耳を傾けていた。確かに今はまだほろ酔い程度ではあるが、そろそろ気が大きくなって何の根拠も無い万能感に呑まれてくる頃だった。

 唐突に、イルーゾォと同じか、それより少し少ないくらいの酒を飲んでふにゃっとした笑みを浮かべたが、体を揺らしながらふらりと立ちあがった。

「ねえ、イルーゾォ」

 名を呼ばれて、イルーゾォはふと声のした方に目をやった。酒の入ったグラスを手に、プールの縁のギリギリのところを覚束ない足取りで歩くの姿が目に入る。イルーゾォは肝を冷やし、咄嗟にグラスをサイドテーブルへ置くと上体を起こして身構えた。

「ありがとう」

 振り向き様に儚げに笑う彼女の姿に、イルーゾォは目を奪われた。動揺を誤魔化すように彼は言葉を返す。

「……どうした。藪から棒に」

 ぱしゃぱしゃと音を立て、片足に水を絡ませて遊んだ後、少し間を置いては続けた。
 
「私、今までずっとひとりだった。家と職場を往復するだけの、同じ日の繰り返し。世間的には死んだことになってる自分があんまり表立って外を歩けないからって、人生を楽しむことを忘れていたのよ。……今になって思ったんだけど、そうしていられたのが不思議でしょうがない」

 相当酔っているようだ。ふらふらと体が揺れて、緩んだ口から言葉が溢れ出てくる。は目を瞑り、胸の高鳴りと脈打つ血管の振動を感じた。ふらふらと体が揺れている。――心地よい浮遊感だ。

「でも、当然と言えば当然なの。一緒に旅がしたいって、一緒に楽しいことがしたいって、思える人が今までいなかったから」

 最高とまではいかないけれど、いい気分。そう。服なんか全部脱ぎ去って裸になって、誰かに深く愛されたい。ふわふわして気持ちいいまま、そのまま死んでしまいたい。そんな気分。イルーゾォの前でこうなるのは、初めてではない。最高の気分だ。

「私ね。今、とっても幸せ。皆と一緒に居られて、毎日がすごく楽しいの。こんな感じは初めてよ。だから最近は仕事の後、家に帰りたくないとは思わないようになった。でも今は――」

 言ってしまっていいんだろうか。迷惑じゃないだろうか。ああでも、きっと大丈夫。イルーゾォも私も、今は酔ってる。だからきっと、明日になったらふたりとも忘れているはず。

 は空いた手の指先で自分の唇をそっと撫でた。今夜だけだと、忘れると言ったのに結局忘れられなかった、ロマンチックな夜を思い出しながら。

「帰りたくない。あなたと、ずっとここにいたいわ。イルーゾォ」

 は、言ってしまったことを誤魔化し忘れてしまいたいと、グラスに残っていた酒を一気に呷った。拍子に濡れた足裏は縁を掴めず空を蹴り上げる。

「キャッ……!」
「おいバカ何やってるッ!!」

 は背中から水面に向かって落ちていく。イルーゾォは反射的に立ちあがりプールへ飛び込んだ。空になったグラスと一緒に底へ沈んでいこうとするを水中で羽交い締めにして浮上し、水面から顔を出させてすぐに声を荒げる。

「溺れ死ぬつもりか!?」

 は気管に入った水を吐き出そうとしばらく咳込んで、落ち着いたと思ったらくすくすと笑いだす。

「ねえ、知ってる?私、死んだって生き返るのよ」
「しばらくの間自重するんじゃあなかったのか」
「あなたがこうやって私のこと助けてくれるなら、死なないで済む」
「――ッ」

 プールに満たされた水は冷水ではなかった。常温に少しだけ熱が加えられた程度のそれがふたりの体を優しく包み込む。イルーゾォはその心地よさからわざわざ抜け出し、助けてくれたと嬉しそうに笑うから離れる気にはなれなかった。後ろから彼女を抱きしめたまま、イルーゾォは波間に揺蕩う。

「……皆優しいわよね。私死んだって生き返るのに、死んだら悲しそうな顔するの。それってどうしてなの?」
「人間が死ぬとこなんか見慣れてるだろうって、そう言いたいのか」
「そうね」
「見慣れてるのは、自分たちにとってどうだっていい人間の死に様だ」
「それは……逆に言うと、私はあなたにとってどうだっていい人間じゃないってこと?」

 胸が詰まるような思いがした。ああ、そうだと肯定してしまいたい。そうすればきっと楽になる。さっきが、オレとずっとここにいたいと言ったのが幻聴でも嘘でもないのならば。素直に肯定してしまえばいいのだ。

 だが、イルーゾォは葛藤するだけして、しばらくの間口を開かなかった。そして逃げ口上に走る。

「それをオレに言わせてどうする。お前は……またそうやって、オレを煽ってからかっているんだろう?」

 忘れられない夜があった。何度も何度もフラッシュバックした、あの夢のような夜。あの時はまだのことを何も知らなかった。けれど、今は違う。彼女がオレといたいと言うのが孤独でいたくないという意味なら、オレが孤独を忘れさせてやれる。彼女の言葉が嘘でないのなら。どうなっても構わないと、破滅的な思いだけでいるわけでないのなら。

 ――落ち着け。ろくなことにならないぞ。やめておくんだ。何度言えばわかる。だから、酒なんか飲むんじゃあなかったんだ。

 イルーゾォはこの国に来てからもう何度もそう自分に言い聞かせていた。だが、その理性も表層心理も深層心理も皆、今は酒に酔った所為かことのほか静かだ。粘り強く酒に酔ったイルーゾォと対話をしようという奴はいないらしい。

「――っ、ごめんなさい。そんなつもりは」

 一方のは悲し気に眉根を寄せて目を細めた。

 そう受け取られてしまうとは思わなかった。私は、確証を得たかっただけだ。同じ孤独の身で、自分の内面まで恐れずに一緒にいてくれたイルーゾォという男が、自分と同じ気持ちでいるという確証が。ずっと一緒にいたいと告げた。嘘じゃない。からかっているつもりなんか、少しも無い。その真の思いに対して、彼のリアクションが欲しかっただけだ。

 In vino veritas. 
 酒に真実あり。

 酒の力を借りて真実を告げた。前もそうだった。誰でもいいから孤独を忘れさせてほしい。前はそうだった。けれど、今は誰でもいいと思っている訳では無い。そう告げたつもりだった。だがイルーゾォにはそんな風には伝わらなかったようだ。

 やっぱり酒は良くない。自分を失くして自暴自棄になってしまう。相手がどう思うかなんてことすらまともに何も考えないで、ぺらぺらと喋ってしまう。例え言ったことが自分にとって真実だとしても、それを相手に真実として受け取ってもらえるとは限らないのだ。

「イルーゾォ。……全部、忘れて」

 はっと酔いが覚めたような気分になって、は咄嗟にイルーゾォの腕から抜けだそうとして水中で一歩を踏み出した。

「待てッ」

 だが、イルーゾォの腕がしがらみとなって身動きが取れなくなる。

「全部……全部、忘れろだと?」

 あれは夢だったのだ。忘れろ。まだ出会ってすぐの頃に交わしたキス。あの夜のことは忘れるんだ。そう幾夜も自分に言い聞かせてきた。あの、たった数分の出来事すら今の今まで忘れられずにいたのに、ここ数日の間に見たの寝顔も、笑顔も、彼女に与えられた温もりも安らぎも何もかも、全部忘れろと?全部が夢だったのだ。もう一生手に入らないものだから、夢は見ずに諦めろと。そう言うのか。

「できるわけがねーだろうがッ……!」

 イルーゾォは自分から離れて行こうとする彼女の首に右手を、右の腰に左手を這わせた。彼女の体を背後から抱きとめ、自身の体に引き寄せる。そうされてはイルーゾォから離れようとするのを止めた。喉を下から上に向かって撫で上げられる。彼女はその甘美な刺激にたまらず声を漏らす。顎は自然と上を向いた。曝け出した喉をイルーゾォの大きな掌で覆われて、ますます抵抗ができなくなる。

「嘘じゃないと、誓え。お前が忘れろと言ったこと、全てが真実だと誓うんだ」

 唇を寄せられた耳の裏側から鼓膜を揺らす囁き声。鼓膜だけでなく、体の芯をも揺らすそれがまた甘美だった。そしては誓う。

「あなたと、ずっと一緒にいたい。そう。……真実よ。誓うわイルーゾォ」

 恩恵を授け、もう十分だろうと飛び去ろうとする天使にすがるようだ。だが、濡れた羽では飛び立てない。

 そしてふたりは溺れた。もっともっとと尽きない欲望に。今この時はそれで幸せだと思えた。



52:Hymn for the Weekend



 波打つ純白のシーツの海原に半分埋めた顔をこちらに向ける女がいた。だ。自分との永遠を誓い、愛を交わした女。彼女はまだ眠っている。夢と現実の狭間で、イルーゾォは窓から射し込む優しい朝の光に包まれたれた、女の美しい寝顔に見入っていた。

 こんなに満たされた朝を迎えたのは初めてだ。自分を知ってほしい。受け入れてほしい。――愛されたいと願い、愛し愛され迎えた朝。最高に幸せだと思えた。そしてこの時間がずっと続けばいいのにと願った。そうでなければ、このままこの美しい朝に死んだっていいとすら思えた。

 しばらくその喜びをかみしめていると、やがて沸々と心の奥底から沸き起こる感情に気づいた。何故だか衝動的に、こちらを向いて眠るの頬に触れたくなった。なるほど。これが愛しいという感情なのだろう。イルーゾォは今になってそう気づいた。

 そしてゆっくりと手を伸ばしていく。なんの躊躇いもなく、その絹のように柔らかな頬にそっと掌をあてがった。閉じられた瞼にかかる髪を親指の腹で優しく払い除け、美しいの寝顔をさらに見つめた。

 やがて彼女はゆっくりと瞼を持ち上げる。そして目が合った。彼女はシーツをたぐり寄せて顔を半分隠し、はにかんだような笑顔を見せる。

「おはよう。イルーゾォ」
「ああ。……よく眠れたか?」
「ええ。それはもう。疲れて果ててぐっすりよ」

 ふたりはくすくすと笑い合った。そしてはもぞもぞと体を動かして、イルーゾォに身を寄せ厚い胸板に掌を乗せ頬擦りをする。イルーゾォは腕を内側に折って、優しくの頭を撫でた。

「ああ……でもね。よく眠れたんだけど……二日酔いかしら。すごく頭が痛い。お水が欲しいなあ」
「ったく……オレを使いっぱしりにするなんていい度胸だ」

 そんな文句を垂れながらも、イルーゾォはベッドから抜け出して冷蔵庫の方へ歩いて行った。ボトル入りのミネラルウォーターを取り出しベッドへ戻り腰を下ろすと、キャップを外したそれをに差し向ける。

「ほら。飲め」
「ありがとう。……イルーゾォって案外優しいわよね」
「マジにありがたく思えよ。二日酔いでグロッキーになってる女の介抱なんかしてやるのは、お前が初めてなんだからな」

 本気で愛しいと思えた女も、お前が初めてだ。恥ずかしくて口にはしないが、イルーゾォは心の中でそう呟いた。は嬉しそうに微笑みを浮かべ水を飲んだ。

「ああ、いけない。もう朝の八時よ。チェックアウトの時間まで、あと二時間しかないわ」
「どうせ気分悪くて動けねーんじゃあねーのか。帰りの飛行機の中でゲロ吐かれても困るんだがな」
「それもそうよね……」

 はベッドのサイドテーブルに置かれた固定電話に手を伸ばし、フロントに電話を掛けた。英語で何かペラペラと喋って受話器を置く。

「何て言ったんだ」
「レイトチェックアウトをお願いしますって言ったの。ここには夕方の六時までいていいって」

 丁度いい。帰りたくないと思っていた所だ。イルーゾォは顔には出さないが、ほっとしていた。もうしばらくの間、とふたりきり、この隠れ家に身を寄せていられるらしい。

「ああ、やっぱり、帰りたくないわ。イルーゾォ。パッショーネって足抜けできない?」
「仮にできたとしても、リゾットが殺しにくるだろうな」
「そうよね。じゃあ、パッショーネ暗殺者チームバリ島分室とか作りましょうよ」
「ふむ。それはいい」

 そんな冗談を言い合って、また笑い合って。――そしてそろそろ帰ろうかという頃、過ぎてしまった安息の時を惜しむように、ふたりはもう一度愛を交わしたのだった。