異国の地、インドネシアはバリ島に降り立って三日目の朝。鳥たちのさえずりや谷川のせせらぎで目を覚ましたイルーゾォは、朝日に照らされただけの薄闇に浮かぶ茅葺きの天井をじっと見つめていた。
といると、やはりお前は普段の自分ではいられないらしいな。止めろと言ったのに、性懲りもなく彼女と同じベッドで眠ってる。
別に手なんか出しちゃいねーよ。……たぶんな。ほら、このとの距離を見てみろ。同じベッドなのに2メートルくらいは離れてる。
お前が寝てる間のことをどうしてそう言い切れる?寝ぼけてる間にやっちまってるかもしれないだろう?今お前がいる場所は事後に辿り着いた場所ってだけかもしれん。
酔ってないからだよ。酔ってたら、危なかっただろうがな。オレは酔ってない――
イルーゾォは夢うつつの内に表層心理とそんな会話をした。
普通、酔っていようがいまいが、男女が同じベッドで寝ようものならそれは肉体関係を結んでもいいというサインである。少なくとも女は母親――まともな母親の元に生まれ、その母親と十四を超えるくらいまで同居していた場合に限るが――に物心ついたくらいにはそう教えられているはず。
同じベッドで寝ることを承認したのに、男が手を出したら引っ叩くなんて理不尽――もちろん、倫理的観点から言えば性交渉を持つのは男女間でしっかりと合意が得られた場合に限るべきではあるが、こと性に関して男性は女性よりも野性的かつ衝動的であるということを、女性側は理解しておくべきである――極まりない。逆に同じベッドにいるのに男が手を出さないのは男が腑抜けか勃起不全症かナニに自信がないか……それか女の方に魅力が無いからだろう。
だが、イルーゾォはどれにも当てはまらない。彼女と親密になりたくないと、全く別の理由でブレーキをかけているのだ。それに、に女性としての魅力が無い?とんでもない。彼女は美人でスタイルも気立てもいい。チームの誰もが彼女と寝たがっていることだろう。
そう言えば、この前がホルマジオと仕事に行ったときはどうだったんだろう。彼女はブラジルでも同じように部屋のグレードを上げて、部屋のベッドはキングサイズベッドひとつで、ホルマジオと同じベッドに入ったんだろうか。
もしそうなら、ホルマジオのヤツがに手を出さないなんて、天と地がひっくり返ってもあり得無いな。例えベッドがふたつあったって、同じ部屋ってだけでむらむら来てただろうさ。
またホルマジオのことが頭に浮かんで、イルーゾォは楽園での目覚めを害され完全に覚醒する。彼が眉間に皺を寄せていると、が隣から声をかけてきた。
「おはよう、イルーゾォ。よく眠れた?」
化粧をしていない顔を恥ずかしそうにシーツで隠しながら、まだ眠そうな、半眼に閉じた目を向けてくる。その愛らしい仕草にどきりとしたイルーゾォは慌ててベッドから抜け出し、そそくさとトイレに向った。
「よく眠れなかったの?今日もあちこち連れ回すつもりなのに、困ったわね」
そんな呟きが後ろから聞こえてくるが、イルーゾォは何の反応も示さずに後ろ手に扉を閉じ、鏡に向かって自分を見つめた。
いいか、落ち着け。惑わされるな。もしかしたらホルマジオとヤッてるかもしれねー女だということを忘れるな。
鏡の中の自分を睨みつけながらそう言い聞かせた後、蛇口をひねって荒々しく顔に水を浴びせた。濡れて顔にはり付いた髪を掻き上げ前髪を整えた後、長い後ろ髪を後頭部でひとつにまとめた。
そしてしばらく鏡を見て、おかしなところは無いかと確認する。
……オレは何で見た目なんか気にしてんだ!
イルーゾォは朝から忙しない。そんな彼をさらに焦らせたのが、唐突に聞こえてきたノックの音だ。ビクリと大きな体を揺らして何だと返事をすると、がまだ準備は終わらないのかと、イルーゾォにトイレから出るよう催促した。
だいぶ長いことトイレにこもっていたらしい。朝の洗面所での時間は乙女にとって貴重なものである。それを知らないワケでは無いし、すっぴんで隣を歩かれても困――らないな。何だあの素顔は!
色々と考えたいことは山積していたが、一度深呼吸をして頭を空にし心を落ち着かせ、イルーゾォはポーカーフェイスを決め込んで何事もなかったかのように扉を開けた。
「急かしてごめんなさい。コーヒー淹れてるから、良かったら飲んでね」
そう言ってニッコリと笑うのすっぴんに見惚れ、扉の向こうへ消えて行く彼女の姿を見送ったイルーゾォは、ああ、もうダメだ早くイタリアに帰らねば、と思った。
いくら言い聞かせても、男の性がから手を引くことを許さない。
気を取り直し、イルーゾォは背伸びをしながら窓辺に寄る途中でローテーブルに置かれたコーヒーカップを持ち上げた。飲み口に鼻を近づけ香りをかいだ。――ふむ。普通のコーヒーのようだ。安心してそれを持ったままテラスに出ると、白いクッションの乗った木製のデッキチェアに背を預けコーヒーを一口啜った。
サイドテーブルにカップを置いて眼の前の景色を眺める。木々の緑と、空の青しかそこには無い。暗殺者イルーゾォの人生でおそらく最高の朝だった。
帰りたいんだか帰りたくないんだか、一番よく分かっていないのはイルーゾォだ。
もしもこのまま、とふたりで現実から逃げ出せるのなら、彼は迷わず逃げる道を選ぶだろう。だが、それは不可能だ。現実を見ろ。
いや、もう夢でもなんでもいい。この楽園で、少しの間ゆっくりさせてくれ。
理性との掛け合いの果てに、帰りたくないという方へ心の中の天秤が傾いた。
バリ島は世界屈指のリゾート地であるが、自然と共存しているという認識に根付いた土着信仰により民は自然を尊重している。なので観光による収益増のためにと森山を長距離に渡って切り開いたりといった大規模な公共工事は行わない。そのため、公共交通機関はあまり発達していないのだ。よって移動手段は専らバスやタクシーなどの車になるのだが、それも場所に寄っては繋ぎが甘く、入念に下調べをしていないと目的地にたどり着くまでに驚くほど時間がかかる。最悪たどり着けないか、タクシーの運転手にぼったくられまくるという痛い目にあったりする。なのでガイド付きの運転手と車を丸一日チャーターするのが良い。
は気にそまない様子でいるイルーゾォを引きずるように部屋を出てフロントに向かうと、ホテルスタッフに件の車をチャーターしてもらった。
「で、今日はオレをどこに連れ回すつもりだ」
ホテル前のロータリーで車を待つ間、イルーゾォはガイドブックを熱心に読む相手に尋ねた。
「連れ回すって言うか、あなたが私について回るんでしょ?」
「人をストーカーみたいに言うんじゃあねぇ。何度も言わすな。お前と一緒にいるのは仕ご――」
イルーゾォはものすごく悲しそうな顔をして見つめてくるを見て言葉を詰まらせた。途端にはニヤニヤ笑い出す。イルーゾォは悔しそうに顔を歪めてそっぽを向いた。
へそを曲げたイルーゾォの質問に答えてやろうと思っただったが、昨日と同様に言ったって分からないだろうなとも思ったので、今日予定しているツアーについての概略を話すことにした。
「お寺よ、イルーゾォ。今日は主にお寺をめぐるわ」
「寺?寺なんか見て何が楽しいんだ?」
要はオレたちの馴染みの場所に例えると修道院みたいなものだ。確かにイタリアには歴史的建造物というだけでなく、芸術的にも美しい修道院は山程ある。しかし、オレたちイタリア人にとっては大して珍しい物でもなんでもない。
「ふふ。イルーゾォ。きっとあなたが想像しているのとは全く違うわ。景観を楽しんで」
異国情緒溢れる景観を存分に堪能すべく、今日の日中も忙しないスケジュールだ。キンタマーニ高原、ウルン・ダヌ・ブラタン寺院、ジャティルイ・ライステラス、タナロット寺院。島の中部から北、北から南、そしてまた中部へと戻る大移動だ。だが、こんな無茶な――無茶と言っても多く見積もって十時間のスケジュールだが――大移動が可能になるのも一台の車を個人で貸し切るおかげである。英語のガイド付きでこれだけ好きに移動できるのだから、かなり満足の行く一日になりそうだ。
は期待に胸を膨らませた。イルーゾォは不服そうに頬を膨らませている。
「ねえ、そんなつまんなそうな顔しないで?」
に膨らんだ頬を指で突かれる。不必要に赤の他人に触れられるのは好きではない。だが不思議と、相手が彼女だと嫌悪感はわかなかった。代わりに恥ずかしいんだか嬉しいんだかよく分からないむず痒さを感じて口を引き結んだ。
「楽しくなるのは保証するわ。だから、おとなしくついてきなさい」
寺なんか見たって絶対楽しくない。イルーゾォはそう思った。だが、と一緒なら或いは。とも思った。
51.5:Hurts Like Heaven
夕日を背にしたタナロット――小さな岩島に建つ、インド洋に浮かんでいるように見える――寺院を写真に収め、満足気に頬を緩める。散々バリ中を連れ回され、少しだけ疲れた様子で崖っぷちの柵にもたれながら絶景を眺めるイルーゾォ。そんな二人を爽やかな潮風が撫でていく。帰らなければならないが、帰りたくない。ふたりとも名残惜しさで胸がいっぱいになって、その場を離れられないままじっとしていた。
ふたりの時間は余暇の間も変わらず早々と過ぎ去っているのだという現実を突き付けるような速度で、夕日が水面を真っ赤に染めながら水平線の彼方に沈んでいく。楽しかった旅もそろそろ終わりを迎えてしまう。黄昏時の美しい景色は、ふたりに感嘆と共に物悲しさを覚えさせた。
「さ、そろそろ帰りましょうか」
は太陽が沈みきる前に海へ背を向けた。イルーゾォは遅れて返事をし、彼女の後ろをゆっくりと歩いた。
あっという間に一日が終わってしまった。こんなに一日が短いと思ったのも、一日が終わるのを惜しんだのも初めてのことだった。
悔しいかな、が保証した通り楽しかったからなのだろう。寺なんか見たってつまらないと思ったが、異国情緒溢れる神秘的な景観や緑溢れる絶景に安らぎを覚えたし、案外つまらなくなどなかった。それに、がいつも以上に明るく楽しげに笑うものだから、つられて自分まで楽しくなってしまった。朝、自分の眉間に深く刻んだ皺はいつの間にか消えていた。
いつも驕り高ぶってどこか不機嫌そうにしているぶっきらぼうなイルーゾォが今日はことのほか穏やかで、自然体で楽しげにしているのを感じ取ることができた。一方のは、それを嬉しく思っていた。
駐車場へ戻りチャーターした車に乗り込むなり、運転席で待機していた運転手が声を上げた。
「お客さん。これからウブドのホテルに戻る予定だったよね?」
「ええ、そのつもり」
「そうすると、一時間とちょっとだけ時間が余るね」
「お金のことなら気にしなくていいんだけれど」
「いやいや、そうじゃあないんだ!せっかくだから、もう一ヶ所いい所に連れて行ってあげようかと思ってね!」
「いい所?」
会話は英語でなされている。車は一向に走り出さない。会話が終わるなりに説明を求めようと、身を乗り出してペラペラと英語でしゃべる彼女をイルーゾォはじっと見つめていた。やがて嬉しそうにセンキューとが言ったのを最後に会話は終わり、車は動き出す。
「おい。何を話してた」
「おじさんがね、時間が余ってるからもう一ヶ所いい所に連れて行ってくれるって!」
「いい所って何だ」
「秘密!着いてからのお楽しみ!」
二十分ほどウブドへ向かって走ったところで、車はアスファルトで舗装された公道をはずれ小さな坂道を駆け上がって行った。駆け上がった先の夜の闇に浮び上がってきたのは、何の変哲も無い平屋のホテルのような場所だった。
車から降りたふたりは運転席に残ったガイドに見送られながら、施設の玄関に向かう。
「おい。いい加減何をするのか教えろ」
「ここはね、イルーゾォ。スパよ。温泉もあるけど、今日のメインはマッサージ」
「ああ!?マッサージだと!?」
イルーゾォは驚愕して足を止めた。赤の他人に自分の体を捏ね繰り回されるなど言語道断である。あり得ない。
「帰るぞ!」
「疲れたでしょう?イルーゾォ」
「疲れてねーよ!帰る!」
「ねえ、あなたが疲れてなくても、私が疲れたの。とっても楽しかったから嫌な疲労感じゃあないのよ。でも、遊び疲れた日の最後にマッサージついでにお肌つるっつるにしてもらって、ゆっくりお風呂に浸かって一日を終えられるなんて、最高の贅沢だと思わない?」
「うるせえ帰る!」
「もう。お風呂入るの嫌がる猫ちゃんみたいよイルーゾォ」
「誰が猫ちゃんだって!?」
「ねえ、あなたのお仕事何だったかしら。私から目を離さずどこに行くにも着いてきて監視することでしょう?私が満足しないうちは、あなたはイタリアには帰れないのよ。それに、あなたはタダなんだからいいじゃない。ついてきてよ」
そう言っていたずらっぽく笑うに手を引かれ、イルーゾォはしぶしぶ歩きはじめた。そしてはイルーゾォにコソコソと耳打ちする。
「マッサージ師は綺麗なお姉さんかもよ。あ、でも勘違いして元気になったりしちゃダメなんだからね?そっちのサービスは無いから」
「お前な!!」
建物の中に入るとスタッフの女性が待ち構えており、受付を済ませるとふたりは離れに案内された。入ってすぐのところが脱衣所になっていた。貴重品をロッカーに仕舞い、服を脱ぎバスタオルを巻いたら、入口の向かいにある部屋へ行くように案内すると、スタッフの女性は恭しくお辞儀をして脱衣所を後にした。瞬間、イルーゾォが声を上げる。
「なんで脱衣所がお前と一緒なんだ!」
「だって、ハネムーンですって言ったから。ハネムーンのカップルを引き離すなんてことしないわよ」
脱衣所の棚もロッカーもふたつ。バスタオルもスリッパもふたつ。この離れは、ペアでサービスを受けられるプライベートスペースということなのだろう。
「それにしてもあなたったら、さっきからぷんぷん怒ってばっかりね」
「当たり前だろうが!」
「そう言いながら綺麗なお姉さんにマッサージしてもらえるのを期待してるんでしょ?」
「してねーよ!」
例によって、はまたなんの躊躇いもなく服を脱ぎだした。
「大丈夫よイルーゾォ。私、あなたが脱ぐとこ見ないから恥ずかしがらないで」
「お前はもう少し恥ずかしがれ」
なんて日だ。イルーゾォは心の中で毒づいた。そもそもこの大判のバスタオルは胸から巻くのか、腰に巻くのか分からん。腰からでいいよな?ちらとがどうしているか見て聞いてみようと彼女を見やると、今まさに下着を脱ごうというタイミングだったので、イルーゾォは慌てて顔を背ける。
オレは童貞か!?女の裸なんか見慣れて……いや待て、最後に見たのいつだったっけか。
そんなことを考えているうちに着替えを済ませてしまったが彼に声をかける。
「さ、行きましょう。マッサージ師、綺麗なお姉さんだといいわね」
「しつこいぞ!」
案内された通りに脱衣所の奥の扉を開くと、母親くらいの年齢の女性ふたりが、イルーゾォとのふたりを待っていた。
ババアじゃあねーか!
実は少し期待していたイルーゾォだった。
体をぬるぬると撫で回すのが母親程も歳の離れた女で見た目も母親みたいなら勃つものも勃たない。それはそれで良かったかもしれない。仰向けになったときに隆起した股間を赤の他人に見られるなんて恥ずかしくて死にそうだ。
観念して二つ並んだ寝台――顔の部分に穴が空いているやつだ――の片方にうつ伏せになるように言われ、はうきうきと楽しそうに、イルーゾォは嫌そうにしぶしぶ指示に従った。
香か何かが焚いてあり、部屋にはいい香りが充満していた。背中にオイルを垂らされ、首、肩、背中と暖かな手で凝り固まった体がほぐされていく。マッサージなんて初めてだが、悪くない。そう思ってうっとりしはじめた途端に尻を覆っていたバスタオルを剥がされ、イルーゾォは危うく情けない悲鳴を上げそうになった。ほとんど間を置かずバスタオルの代わりに小さなタオルを尻に乗せられる。そしてマッサージは、腰から飛んで足へと続けられる。一通り背面のマッサージが済むと、今度はザラザラした物を一面にまぶされ始めた。
一体何のためにオレの体にこんなことをするんだ。
イルーゾォには馴染みがなく知らないが、スクラブである。古い角質や皮脂等を落とすために肌に擦り込む研磨剤のようなものだ。などという解説は聞かなければなされない。これは何だ、くらいなら英語で言えるが、聞けたところで英語で答えられてもきっと何を言っているのかわからない。イルーゾォは解せないと言いたげにベッドに開いた穴から見える板張りの床を睨みつけていた。
背面の施術が終わると、剥がされたバスタオルを元通りに戻され、今度は仰向けになるように指示される。
股間は今の所大丈夫だ。だが、いくら母親くらいの女性と言えども、リラックスしすぎて気を抜くと危うい。リラックスするために来てるのにリラックスできないなんてめちゃくちゃだ。
イルーゾォはやはり解せなかった。ちら、と横目でを見やる。彼女は完全にリラックスした顔だった。すると、イルーゾォはどうしているだろうかと気にした彼女と目が合った。
「気持ちいいでしょ?」
「……悪くないが、慣れないから落ち着かない」
「リラックスしなきゃダメよ。もったいない」
そう言って目を閉じて幸せそうにしているの顔を、イルーゾォはしばらくの間見つめていた。
前面のマッサージも終わり全身をスクラブでコーティングされると、今度は寝台から降りるように指示された。そして、脱衣所とは別の部屋へと繋がる扉を開け、中へ案内される。
部屋に足を踏み入れたイルーゾォはまた驚愕して足を止めた。
目の前にあるのは、白いハート型の陶器でできた小さな浴槽だ。お湯がはられ湯気を上げるそれの水面にはバラやプルメリアの花弁、レモングラスなどが浮いている。
イルーゾォが硬直している内に、マッサージ師がに何か案内をして部屋を出ると、にこやかに扉を閉めた。
「どうしたの?イルーゾォ」
「どうしたの、じゃあねーよ!風呂に入れってのか!?お前と!?このふざけた形した狭い浴槽に浸かれと!?」
「ここの人は私達のこと新婚さんだと思ってるんだから、当然じゃない」
「当然だと!?水着も何もなしにか!?どうかしてるだろ!!」
「あ、そうだ。バスタオルはお湯につけないでって言ってたわ。花びらとか付くと洗濯機につっこめなくなるんだって」
あっけらかんと言い放つ。ダメだ。こいつじゃあ話にならん。イルーゾォはあたりを見回した。ここが風呂場なら絶対にあるはずの物を探した。そして天井まで伸びていない壁一枚を隔てた向こうにシャワーヘッドがあるのを確認するやいなや、彼はシャワースペースめがけて歩きだそうとする。が、それをが腕を掴んで引き止めた。
「お風呂で温まらなきゃもったいないわ、イルーゾォ。マッサージの後にお風呂に浸かって温浴効果を得て初めてこのリラクゼーションは完成するのよ!さあほら猫ちゃん。はやく観念しなさい」
「猫ちゃん言うな!」
はイルーゾォが腰に巻くバスタオルの裾を引っ張った。
「や、やめろ!!何をする!!」
「バスタオルお湯につけちゃダメだってば」
「オレはその風呂には入らねえからいいんだよ!」
「ねえ、背中のスクラブ、落としあいっこしなきゃいけないのよ。お願いだからつきあって!ああ、だんだん寒くなってきたわ。風邪ひいちゃいそう。もし私が風邪ひいたら、帰ってリゾットに言いつけてやるんだから」
「何!!?」
「私、死にはしないけど抵抗力は人並みで風邪だって普通にひくん――」
「わ、分かった、分かったから!!ほら!!ちょっと、お前は後ろの方を向いてろ!!」
風邪をひいたらリゾットに言いつける!?何故風邪をひいたのかという経緯を一から十まで話されたら一巻の終わりだ!このスパに足を踏み入れたが最後だったのだ。を満足させないうちにイタリアには帰れない。イルーゾォはその言葉の真の意味を理解した。
が後ろを向いている間にバスタオルを剥いで浴槽に浸かる。そしてイルーゾォがそのまま背を向けているうちに、彼女がバスタオルを剥いで湯につかる。裸のが、裸の自分のすぐ隣にいる。イルーゾォは緊張を紛らわそうとお湯につけた腕を掌で擦り、肌に纏わりついたざらざらしたのを落としにかかった。
一方、はハートの浴槽の先端に向かって足を伸ばし、二つある頭の片方の縁に項を預けてふう、と一息ついた。温かなお湯が体の芯まで温めてくれる。至福の時だ。こんな素敵な時間を過ごせるなんて、夢の様だ、と感慨深げに微笑んでいた。
「あったまる~。最高……。ねえ、イルーゾォ」
「なんだ」
「背中のスクラブ落としてくれない?あなたのも後でやってあげるから」
が満足しないと、リゾットに全て話される。何て効果絶大な脅迫だろうか。
「……おら。背中こっちに向けろ」
「やったー!」
「お気楽娘が……」
人の気も知らないで。もう何度そう思ったことかと、イルーゾォは溜息をついた。
髪を上の方でひとまとめにして項をさらすの後姿を少しの間見つめた後、髪の生え際ギリギリのところまでしっかりと塗されたスクラブを、少しとろみのあるお湯を纏わせた掌で拭っていく。やってもやってもなかなかざらつきがなくならない。しかも、そうやっているうちにが小さく息を漏らすものだから、むらむらしてくる。腹が減って仕方がない時に、羽をむしられボイルされた鶏肉の類が目の前に置かれてあるのに手は出せない。そんな気分だ。マッサージの時なんかよりはるかに官能的だ。イルーゾォは自分の男としての性が昂ぶり始めるのを感じた。
だが、ここで手を出す訳にはいかない。あの扉の向こうでは、マッサージ師ふたりが後片付けか何かをやっておしゃべりに花を咲かせている。そんな気配がする。イルーゾォは辛抱しての、項、肩、背中を撫で続けた。無心になるのだ。これは作業だ。そう自分に言い聞かせながら。
「……もういいだろ。あとは自分でやれ」
「ん。ありがとう。とっても気持ちよかったわ。私もお返ししなきゃね。ほら、あなたも背中をこっちに向けて?」
も同じように、イルーゾォの項からスクラブを落としにかかった。考えてみると、こやって男性の背中をまじまじと見ながら流すなんて初めてだ。風呂に浸かる習慣の無い自分たちにとってはそう滅多にあることではないだろうが。
もまたドキドキと胸を高鳴らせていた。
「何か変な気分。こんなの初めてで、ドキドキしちゃうわ」
「……いいから、さっさと済ませろ」
「さっさとって言うけど、あなたの肩私の倍はありそうだから、時間だってさっきの倍はかかるわよ。きっと」
それっきり静かになった浴室で、背を駆けたお湯が湯船に落ちる音だけがこだまする。イルーゾォはそのうちに考えた。人に背中を向けてじっとしているなんて。自分は気でも違ったんじゃないか、と。マッサージを受けている時もそうだが、あの時はまだ気を張っていた。に体を撫でられている今は、真の安らぎ感じている。
この・という女は最初からそうだった。普段の自分を、普段通りでいさせてはくれないのだ。彼女の前だと心は落ち着きを失くし、身体は安らぎを覚える。忙しなく動かされるのは心の中だけで、身体は静かに落ち着いている。まるで魔法でも使われているみたいに、自分の思い通りに体が動かない。だが安らぎの内に、イルーゾォはそれを嫌だと思えなくなっていた。
「終わったわよ」
嫌では無かったが、このまま蛇の生殺しをくらい続けるのもきつい。終わったというその言葉にほっと一息ついて、イルーゾォはやっとリラックスできた。5分間程度、ふたりは黙って温浴を続けた。すると唐突に、が話し始める。
「後はフェイシャルエステが待ってるからね!」
「まだ何かあんのかよ!!もう帰る!!」
「私のこと置いて帰っていいの?リゾットに怒られ――」
「あああああッ!!!」
帰ると言ったイルーゾォの頭に浮かんでいたのは、あのウブドのヴィラだった。あの、静けさに包まれた隠れ家だった。