呪術師の家を出た後、ふたりは低い丘の狭間を流れる谷川に面したリゾートホテルを訪れた。が滞在のために取った部屋は例に漏れずラグジュアリーな大部屋で、しかも今度はプール付きのヴィラだ。
プールの水は谷川に向かって滝落になっている、所謂インフィニティプールだった。向かいの小高い丘に群生する椰子の木や低木、草花の緑と青い空とのコントラストが美しい。その景勝に浸りながら憩うバレまで付いている。
「お前、なんでそんなに金持ってんだよ?」
離れに着いた途端イルーゾォが口を開いた。
こんな贅沢は一生できないと思っていた。部屋の真ん中に立って辺り――部屋の形状は前日と大して変わらない。ベッドは当然一つしかないし、何なら今度はシャワー室すら無かった――一段下りた所に幅五メートル奥行き二・五メートルの石畳があって、短辺の方の壁にシャワーヘッドが取り付けてあるだけで、バスタブは当然のように表に出ている――を見回していると、王様にでもなった気分だ。
ついさっきまで早くとは物理的距離をとか考えていたイルーゾォだが、タダでこんな贅沢ができるのなら彼女とのバカンスを続けるのもやぶさかではない、と思い始めていた。
「今まであまりお金は使わなかったから。気づいたら貯まってたのよね」
それに今はダブルインカムでもあり、父親の残した金だってあった。後者には手を付けるつもりもないし、手を付けずともは金に困っていない。彼女は物質的な豊かさを求めるタイプでもないので、金は自然とたまっていった。
彼女が求めて止まないのは、様々な体験から得られる心身への刺激だ。これまではそれをタダで――肉体の死をタダと称するべきかどうかは別の話で、少なくとも高い金で少量のコカインを買うように金を失うことは無かった――得られていたが、当分の間は自粛せねばならない。
そんな訳で、いつもより気が大きくなっているのだろう。この静かな隠れ家は、心を落ち着かせて自分自身を見つめなおすのに最適だ。
とは言ったものの、日中ヴィラにこもりきりでいるのはもったいない。は探索用にと持ってきたショルダーバッグとガイドブックをスーツケースから取り出すと、部屋の真ん中にどんと佇むキングサイズベッドの足元に置かれた大きなソファに腰掛けた。
「イルーゾォ。あなたはどこか行きたいところがあったりする?」
ついさっきまでと早く距離を置きたいと思っていて、イタリアへ帰る気満々でいたイルーゾォだ。バリで何をしたいかなんて少しも考えていなかったし、今になって思いつきもしないので口ごもる。
「……オレはお前を監視しなきゃならないってだけで今ここにいるんだ。どこに行きたいかなんて考えているワケがねーだろうが」
「そんな冷たいこと言わないでよ。人生、どんな時だって少しは楽しまなきゃ損ってもんよ?」
はガイドブックをパラパラとめくりながらそう言ってのけた。朝はこれから葬式でもあるのかといった具合に無口だったのが、バリアンの助言を受けてからすっかり調子が元通りだ。
それが装っているだけの姿なのか、本当に元に戻った姿なのかは分からない。だが、彼女が何か変わってしまったのではないかというイルーゾォの心配は少しだけ和らいでいた。
イルーゾォはテラスへ出て外の景色を眺めた。下方の谷川から聞こえてくるかすかなせせらぎと、溢れたプールの水が流れ落ちていく音。そして鳥たちのさえずりも聞こえる。深呼吸をすると森の新鮮な空気で肺が満たされる。静かに佇んでいるだけで森のしずけさに心身共に溶け込むようだった。楽園と称されるにふさわしい場所だとは素直に思えた。
別に何処へ行かずとも、この部屋でゴロゴロして何もせずにいるのもいいと思った。が、この部屋を堪能しようにも水着は持ってきていない。水着を購入する気にもなれない。とにかくイルーゾォは、に浮かれていると思われたくなかった。
「そもそも、遊びのつもりでオレはここに来たワケじゃあねーんだ。下調べも何もしちゃいねーから知るワケがねぇ。だからお前の好きにしろ。腹が減ったときにメシが食えれば文句は言わん」
「言ったからね。後で文句言ったって聞いてあげないんだから」
そう言ってしめしめと背後で笑うを見て、イルーゾォは顔をしかめた。そんな彼のことはそっちのけで、の意識は外のまだ見ぬ世界へと向いていた。
今日はあまり遠出はできないし、あちこち見て回る時間もあまりないだろう。近場の寺院やモンキーフォレストの猿なんかを見歩いて、最後に近場のライステラスにでも行って早めに帰ってきてから部屋でゆっくりしよう。
脳内でざっと計画を立てるとはガイドブックをハンドバッグへ突っ込んで立ち上がった。
「じゃあとりあえず、外に出るわよ」
「どこに行くんだよ」
「言ったって分かんないんでしょ?それに、あなたついさっき、私に好きにしろって言った。私の言うことは何だって聞いてもらうからね」
「行く場所は任せるが、それ以外のことまで言うとおりにしてやるつもりはない」
「はいはい分かった分かった。いいから早く行きましょう」
屈託のない笑みを浮かべ、はイルーゾォの手を取り出口へと誘った。
怖いからと抱きつかれた時とはまた違った緊張が全身に走る。メガデスを前にしていた昨晩とは違い、今、自分の意識は完全ににしか向かっていない。
彼女の意識はきっと、バリというこの国にしか向いていないんだろう。それでいいはずなのに、彼は心のどこかで切なさを感じていた。自分は彼女の意識の外にいていいはずなのに。
目の前の幻想は否応なしに自分に笑いかけてくる。
惑わされるな。深層心理の再三に渡る警告が内側で鳴り響く。だが、を前にするといつもの冷静な自分でいられる気がしなかった。
51:Lonely Together
ウブドには観光スポットが凝縮されていた。バリの王族が住んでいるという宮殿や、猿が沢山住んでいる公園。観光客相手に通常の十倍の値段で商品を売りつける商店街。それらを渡り歩いた後、ふたりはタクシーに乗って市街地を離れテガラランのライステラスに向かった。
腹が減ったと言い出したイルーゾォの要望を聞き入れたは、しょうがないなとぼやきながら一番にレストランへ足を向けた。通されたのは、棚田に向かって立つ小さな休憩小屋だった。靴を脱ぎ板張りの床に直接座るらしい。イルーゾォは慣れないながらも胡座をかいて、頼んだ食べ物が届くのを待っていた。
一方、はインスタントカメラでパシャパシャと写真を撮っていた。先に訪れたモンキーフォレストで子猿に肩に乗られ、長い髪を掻き分け毛づくろいされるというハプニングの一部始終も、あのカメラでしっかりとおさめられてしまった。イルーゾォはが撮った写真をスキあらば奪い取ってやろうと目を光らせていたが、はカメラが吐き出した写真をすぐにバッグの中の専用ポーチに仕舞う。ホテルで見返すつもりでいるのだろう。そこが狙い目なのだろうが、その時まで自分が覚えていられられる気がしなかった。
パッタイやらナシ・ゴレンやらといった郷土料理が手元に届く。届くと同時に口の中へそれらを掻き入れ始めたイルーゾォをよそに、は緑豊かな棚田を見つめて溜息を吐いた。
黄昏時の赤焼け始めた空の下の風景だ。何とも形容しがたい郷愁に駆られる。辺りは静かで、この場所にならいくらでもいられるとは思った。
全てを忘れ、このままずっとここにいたい。だが、故郷には仕事があるので帰らなければならない。まだいつ帰るかは決めていないが、明日か明後日にはこの国を発つことになるだろう。それまでの限られた時間が途方もなく愛しく、恋しかった。
「ねえ、イルーゾォ!」
「んん?」
ナシ・ゴレンとかいうメシは、この国だと主食なのだろうか。どこに行っても出てくるらしく、食べ慣れたオリーブオイルやらオニオンやらトマトといった味とは遠くかけ離れてはいて馴染みは無いが美味いと思える。
イルーゾォは食事の手を止めないまま、視線だけをちらとへよこした。彼女はどこか遠くを見やって目を見開いている。
「見て!何てキレイなのかしら……!」
が指差してイルーゾォに見るように促したのは、純白のウェディングドレスを身に纏った花嫁とタキシード姿の花婿。そしてその取り巻きだった。カップルは棚田と棚田の間の舗装されていない農道を手をつないで歩いている。前撮りのためか、後にイヴニング・ウェディングでも控えているのかは分からないが、あちらでもパシャパシャとシャッターが切られているようだ。
新郎新婦は黄昏時の棚田を背景に、楽しげな雰囲気で写ったり、手を取り合って向かいあったり、そのついでにキスをしたりと、いろいろなポーズで写真に収められていた。
棚田でウェディングドレスって、物好きもいたもんだな。とイルーゾォは思ったが口にはしなかった。このライステラスと言うのはバリ島を代表するような景勝地らしいので、それを背景に撮りたいと思う花嫁もきっと少なからずいるのだろう。それに、は目を輝かせて掌で顔をはさみ体をくねくねとさせている。水を差すようなことを言うと面倒そうだ。
「いいなあ」
はぼそっと呟いた。
ウェディングドレスを着ることか、ライステラスでウェディングフォトを撮ることか、ただ仲睦まじそうなカップルを羨んでか。
「結婚願望でもあんのか」
「……あるわよ」
いや。あった、と言ったほうが正しいのかもしれない。つい最近打ち砕かれたばかりのそれが。もしあのまま上手くいけば、今頃私も純白のドレスを身に纏っていただろうか。
ずきりと胸が傷んでまた息苦しくなった。深呼吸して、新鮮な空気を飲み下す。忘れると決めた。前に進むと決めたのに、思い出すことは何かと彼のことばかり。過去にしがみついてばかりいてはいけない。さっきそんなことを言われたばかりなのに。
「まあでも私って、死んだことになってるから籍を入れるとかはできないんだけどね」
イルーゾォは黙ったまま遠目に見える新婚カップルをじっとみつめた。結婚だなんて考えたことすらなかった。愛し愛される平穏な日常など、自分たちには一生手の届かない贅沢品だ。
平穏とは金で買うものだ。ボスは元より、幹部連中のような大金持ちなら、大抵が妻子持ちで幸せな毎日を送っていたりするのだろう。自分たちがそうなろうと望むのなら上に這い上がるしかない。だが、その道もつい最近閉ざされた。
死にたくない。今のオレたちは、それだけで生きている。
羨ましくともなんともない。そう吐き捨てるのは格好が悪い気がした。だが夢見がちなに、現実を突きつけてやりたい気分にもなった。問題はお前に戸籍がないことじゃない。組織に囚われていることだ。だがそれは言わないと決めたのだ。もやもやとした感情が渦巻いて気分が悪かった。結婚願望でもあるのか、と聞いてしまったのは自分の方だ。悪いのは自分だ。
イルーゾォが黙っていると、いたたまれなくなったのかが音を上げた。
「だから、正式に夫婦って肩書を手に入れたいって言うよりは……幸せに死にたい。一人で死にたくないって言う方が正しいかも」
「人を殺して生きてるオレたちみたいなのには難しいだろうな」
「ええ。そうよね。でも、あなただって同じでしょう?だから頑張りましょうよ」
「頑張るって言ったってお前」
「それはこれから考えるの。……どうすればいいのかしらね」
彼女は自分が置かれている状況を知らない。彼女には現実が見えていない。これは死に怯えずに生きていられる彼女の世迷い言だ。
の置かれている状況をイルーゾォは少なくとも彼女より理解している。能天気なことを言っているだけだから適当に頷いて聞き流せばいい。深層心理はそうすることを推奨していた。
だが、彼女なら死んで自分の前からいなくなったりはしないんじゃないか。人を愛するとそれが失われる恐怖が常につきまとうことになるが、彼女ならそんな心配はなくなる。強固な塀や高価な防犯システムで囲わずとも彼女は死にはしないのだから。
仮に彼女が自分を愛してくれるなら?一生添い遂げると神の前で誓ってくれたのなら?
イルーゾォは、純白のドレスを身に纏い微笑みかけてくる美しいの姿を想像してしまった。そして彼女の存在が、行き詰まった自分の暗い人生に射した一筋の希望の光ように思えてしまった。
そこまで思考が行き着いた時、イルーゾォは我に返った。結局、彼女がそれを望まなければ叶わないし、今の状態で万が一受け入れられたとしても、いつ本当の彼女に戻ってしまうだろうと恐れながら平穏とは程遠い毎日を送り、その果てに彼女を失うことになるのだろう。
彼女は囚われの身の反乱分子。情を移すな。何度言えば分かるんだ。妄想も大概にしておけ。
感情と理性の板挟みにあっている。煩わしくてたまらない。どちらか選ぼうにも選べない。そんな自分にどうすればいいかなんて聞かれたって、解決策なんか思い浮かぶわけもない。
イルーゾォは頑なに口を開こうとしなかった。口を開けば、現実を見ろとか、やかましいとか、どうだっていいなんていう消極的な言葉しか出てこないのが明らかだったからだ。そんな言葉を吐いて、彼女に幻滅されたくないと思っている自分も疎ましい。
「どうすれば、あなたは最高に幸せな最後を迎えられると思う?」
そんな彼に追い打ちをかけるように、は問いかけた。イルーゾォはただ首を横に振るだけだった。彼の様子を見て、はまた幸せそうなカップルに視線を移した。
私は行き詰まってしまった。もう、私の思い描く最後――チョコラータを愛し、彼に愛され、その愛を持って殺されることで迎えるハッピー・エンディング――は叶わない。少なくとも自分がメガデスというもう一人の自分を受け入れることができるまでは、死にたいとも思わないだろう。
愛し愛され、殺し殺されて迎える幸せな最期。それに固執していた自分は、一体何を真に求めていたのだろう。気持ちよくなりたい。それだけだと思っていたのに、今になって思い知ったのは、それが根本にあるわけではないということだった。
孤独でいたくない。最初は孤独を紛らわすために、自らを死に追いやったはずだった。
今は死ねない。なら、孤独を紛らわすために普通の――死んで快楽物質を得た後に生き返ることができない――人はどうするのだろう。
「私は、ひとりでいるのが怖い」
何の脈絡も無く突いて出た言葉だ。きっと、普通の人でも思うこと。周りに人はたくさんいるのに、自分だけが浮いていると感じる。そんな自分を認識して欲しい。気にかけて欲しい。けれど、何故だか口にはできない、そんな気持ち。
「たぶん、永遠に死ななきゃならないって時に、ひとりじゃなかったら……私、幸せだって思えると思うの。たとえ死ぬその時にひとりでいたとしても、ひとりじゃないって、思わせてくれる人と一緒に人生の大半を過ごせたのなら……それで幸せだと思うの」
そうだ。私は、死んで気持ちよくなりたいんじゃない。それが本心じゃない。本心――不可能と思い込んでいる願望――を誤魔化すために快楽を求めていただけだ。だから仲睦まじい男女の姿をみて羨ましいと思ったのだ。自分もそうなれたらと思ったのだ。
――お前がばあさんになって、寿命で死んじまう時、最後の最後に幸せだったって思えるようにしてやりたい。
ホルマジオについ最近言われたことがふと思い浮かんだ。彼は私が求めているものが何か見抜いていたということなのだろうか。彼はそれを与えてくれるつもりでいたのだろうか。
今になってそんなことに気がついた。
与えてもらいたければ、まず自分から与えなければ。そんなような助言も受けた。つまりあの言葉はホルマジオの、自分を受け入れて欲しいという願望の現れだったのだろうか。孤独とは縁遠く思える彼もまた、実のところは私と同じように孤独を感じていたりするのだろうか。
でも、それがもし見当違いなら?それに、彼は私をメガデスもろとも受け入れてくれる?自分すら恐ろしいと、まだ受け入れられないでいるあれを。
ホルマジオはメガデスを知らない。見せるなんて――見せたいと思った時に見せられるのかどうか知らないが――、嫌われてしまいそうでできる気もしない。
けれど、メガデスを二度も見たというイルーゾォは突き放さないでいてくれた。今も一緒にいてくれている。バリアンの老人だって、彼なら私の全てを受け止めてくれるだろうと言っていた。
「ひとりじゃないって思わせてくれて、安らぎを与えてくれる、大切にしたい人。あなたには、そんな人がいる?」
「……いいや」
イルーゾォの返答を聞いてほっとしてしまった。もしいると返事をされていたら、自分の孤独感は増々浮き彫りになってしまっただろうから。
「なら、あなたも私と一緒ね。……一緒なら、寂しさが少しは紛れる気がする。今は少しだけ……寂しくないわ」
壁にぶち当たったところで左右を見て、同じように壁にぶち当たっている人がいたらどうするだろう?歩み寄って、どうしたもんかと相談するだろう。相談の結果、解決策が思い浮かばず先が思いやられても、同じ仲間がいるというだけで少しだけ安心できる。
自分が安心したいから、歩み寄ろうと思った。大切にされたいなら、まず自分から周りを大切にしなければ。
はこの時、その一歩を踏み出したつもりでいた。