暗殺嬢は轢死したい。

 波打つ純白のシーツの海原に半分埋めた顔をこちらに向ける女がいた。だ。まるで夜寝る前に、クローゼットの中のモンスターが怖いからと離れて行く親を引き留める子供のように、自分の腕を離さなかった女。彼女はまだ眠っている。夢と現実の狭間で、イルーゾォは窓から射し込む優しい朝の光に包まれたれた、女の美しい寝顔に見入っていた。

 こんなに穏やかな朝を迎えたのはいつぶりだろう。目が覚めた時、隣に女が寝ていたことなんてほとんど初めてだ。要が済んだら女からはすぐに離れる。それは仕事の都合上、深い仲になって自分のことを知られたらまずいからだ。離れがたいと思ってしまう前に自ら姿を消す。それが常だった。

 だがは、これまで出会ったどの女よりも自分のことを知っている。それは同じ暗殺者として同じ家を出入りしている仲間で、自分を暗殺者と知った上で一緒にいるからだ。隠さねばならない素性は同じで、深く知り合って不味いことは何もない。

 自分を知ってほしい。受け入れてほしい。――愛されたいと思ってしまう自分がいることに、またほとんど初めて感じる安らぎにイルーゾォは驚いていた。そしてこの時間がずっと続けばいいのにと願った。

 しばらくその喜びをかみしめていると、やがて沸々と心の奥底から沸き起こる感情に気づいた。何故だか衝動的に、こちらを向いて眠るの頬に触れたくなった。ゆっくりと手を伸ばしていく。

 だが、そうやって体を動かすと体が完全に覚醒した。意識は夢から現実へと引きずられ連れ戻される。そしての顔に手が触れるか触れないかといった寸前のところで、イルーゾォはふと手を止めた。

 深入りするな。ろくなことにならないぞ。彼の深層心理がひょっこりと顔を出し、彼の手を引き止めたのだ。

 鏡の中の世界を創造し、その中を歩いたり他人を連れ込んだりするのは精神エネルギーを相当量消費するのでとても疲れる。イルーゾォは仕事終わりにを腕に抱くとすぐに寝入ってしまった。目の前のクローゼットにモンスターが潜んでいるのに大した度胸だ。だが、自分は子供でも無いし、子供が闇を怖がるのは無知だからだ。イルーゾォはの中に潜むモンスターを知っている。

 それは恐らく彼女の精神が作り出したモンスターで、元となる精神は恐らくパッショーネを拒絶している。彼女はきっと、本当の自分に戻ると自分たちを拒絶するだろう。仮にそうなった時に自分は果たして耐えられるだろうか。

 メローネが彼女にメガデスを見せるなと言った理由がこの時ようやくわかった。彼もまた、が自分から離れて行くことを危惧しているのだろう。メローネは完全にのめり込んでいる。だが、自分はそうなりたくはない。

 傷つくと知ってわざわざのめり込むなんて馬鹿馬鹿しい。

 イルーゾォは伸ばした手を引っ込めるとに背を向けベッドから抜け出した。彼女を一人ベッドの上に残しバスルームに備え付けられたシンクに向かい冷水で顔を洗う。目を覚ませ。これは仕事だ。はただの仕事仲間――いや、パッショーネの監視下に置かれた反乱分子に過ぎないんだ。そう自分に言い聞かせながら。

 顔に残った水滴をタオルで拭いながら部屋に戻ると、はベッドの縁に腰掛けて窓の外をじっと眺めていた。白んだ空は段々と爽やかな青を呈しはじめている。海は穏やかだ。昨晩このホテルの一室で人が一人殺されたのだが、まだ誰も気づいていないようだ。――静かな朝だ。

 その静けさの中にあっても、の心中は穏やかではなかった。

 目を覚ましたら何か変わっていて欲しい。せめて忘れられていたら。寝る前に神頼みをしていた。だがそんな神頼みでどうにかなるわけが無かった。

 私はひとりぼっちだという漠然とした不安に駆られる。そして、ひとりであの死神を抱えているのだと思うと恐ろしくてたまらなかった。何か支えが欲しくなった。とにかくは、この心のざわつきに対して何か行動を起こしたかった。

「おい、。目が覚めたならさっさと支度しろ」
「……ええ。分かった」

 朝の挨拶も無し。どうやら朝の一杯のコーヒーもお預けらしい。は立ちあがってそそくさとバスルームへ向かった。

 イルーゾォにいつもの微笑みは向けられない。彼は神妙な面持ちで視界を横切った彼女の様子が気になった。

 確かに起こったの変化をイルーゾォは歓迎できないでいた。それは彼女への執着に他ならない。だが、いくら目を覚ませと自分に言い聞かせても、幻想が実体を伴ってそこにあるのだ。そんな環境で自分を殺すのは至難の業だ。だから、気をしっかりと持たなければ。

 きっともうバリを観光して帰るとか、そんな能天気なことは言い出さないだろう。だから彼女から物理的に距離を取ることができるまで辛抱できれば大丈夫だ。

 イルーゾォは何か話しかけてくるだろうかと期待したが、帰り支度の間は一言も喋らなかった。離れなければと思いながら、いつも通りの彼女と会話がしたいと思っている自分が鬱陶しくて、に背を向けながら彼は眉間に皺を寄せていた。

 チェックアウトを済ませると、一昨日の夜に通った道をタクシーでそのまま逆戻りして空港に向かった。タクシーを下りて航空会社のカウンターに向かい航空券を買うかと思いきや、がイルーゾォに先立って向かったのはインフォメーションセンターだった。英語で何かぺちゃくちゃと話した後スタッフの指さす方を見て礼を言うと、はスーツケースを転がして再び歩き出した。

 行きついた先で、また何かのサービスカウンターを前にして英語でぺちゃくちゃとやっている。イルーゾォは英語が分からないのでただただに付き従うしかないのだが、一向に航空券を買おうとしない彼女に痺れを切らし、アロハシャツを纏ったバリ人ととの会話が一旦終わったタイミングで声を上げた。

「おい、何やってる。帰るんじゃあねーのか」
「え?私、帰るなんて言った?これからウブドへ向かうのよ」
「は!?マジかよ」
「リゾットから帰ってこいって連絡でもあったの?」
「……いや、別にそんなことは無いが」
「ならいいじゃない。もう少しゆっくりして帰りましょう」

 リゾットが良いと言うならバリでゆっくりして帰るのもやぶさかではないと、イルーゾォは確かにそのことについて仕事を済ませる前に了承していた。だからにとってこの行動は当然のことで、イルーゾォがびっくりして物も言えずに突っ立っているのが何故か分からず小首をかしげる。

 はきっと今それどころでは無いだろうというのは、イルーゾォの思い込みに過ぎなかったのだ。

「お客さん、お待たせ。バリアンの予約が取れたよ。彼はプンゴセカンにいる」
「ありがとう。その、プンゴセカンって所はどこにあるの?」
「モンキーフォレストって公園があるのは知ってるかい?あそこから南に向かってすぐだよ。ガイドをよこそうか?」
「ええ、お願い」
「ところで、相談内容は?先に伝えておくけど」

 は顎に手をやってうーんと唸った。しばらく考えた後、彼女は言った。

「私がこれからどうするべきか。進むべき道を示してほしい。とにかく、羅針盤の針みたいに……歩き出すべき方向だけでも教えて欲しいの」

 ――バリアン。神々の故郷、バリの呪術師。その門戸を叩くことで、は暗闇の中に光を見出そうとしていた。



50:Lean On




 呪術師の元を訪ねると聞かされたイルーゾォは、ツアーガイドの運転するバンの中で始終仏頂面だった。呪術師だと?胡散臭いことこの上ない。それにつきあわされるこっちの身にもなれ。

 だが、が満足しないうちはイルーゾォはイタリアに帰れない。彼女を一人置いていくわけにはいかないのだ。

 車は海辺を離れ内陸へと向った。雨が少なく一年を通して乾燥しているイタリアに比べて格段に緑が多い。棚田や椰子の木、名も知らぬ木々や草花の中を掻き分けるように車は進んでいく。イルーゾォは不機嫌には違いなかったが目新しいその景色に見入っていたので、隣に座るに文句を言うことはなかった。彼女もまた窓の外に顔を向けていて、ハネムーンのくせに辛気臭いと運転手は思っていたことだろう。

 こうして車は目的地の前に停まる。石造りの門に囲まれた寺院のような場所だ。門戸の前に取付けられた三段のコンクリートの階段には笹の葉で作った平皿に米粒や花びらを乗せた――バリの女性が毎朝こしらえるチャナンという神への――供物が両サイド、全ての段に置かれていた。

 ふたりは物珍しそうにそれらを見ながら門をくぐった。その先に待っていたのは、バリアンの小柄な老人だった。

「こんにちは、

 小麦色の肌に短い白髪。色鮮やかなターバンの帯を頭に巻いた老人が胸の前で合掌しながら小さく頭を下げた。も挨拶をしながら真似をすると、老人はにっこりと笑った。笑うと白い歯が見えるかと思いきや、歯列は見当たらない。上下に二、三の歯が残るだけで、物はちゃんと食べられているのだろうかと心配になる。だがその笑顔はチャーミングで、来る者を拒まない柔和な雰囲気にはほっとした。

 お前には悪魔が取り憑いている。もしこの歯抜けのじいさんが開口一番にそう言ったなら、占いやらまじないやらを信じてやってもいいかもしれないが、十中八九、当たり障りのないようなことを言ってはぐらかされるだけだろう。

 イルーゾォは茅葺屋根の東屋に腰をおろし、足を組んで膝の上に肘をつき、と呪い師の様子を伺っていた。ふたりは胡座をかいて向かい合っている。そして老人はの右手を取って、小指をそろそろと動かしながら手相を見始めた。

 だが、待てよ?もしもあのじいさんが本当にの心のうちを見透かすことが出来てしまったら?

 イルーゾォは、もしかするとこれがにとっての転機になってしまうかもしれない。案外今はまずい状況なのかもしれない、とソワソワしていた。会話は英語でなされている。何を話しているのか分からないので尚更不安になった。

「君は閉じこもっているね」

 老人はゆっくりと続けた。

「だけど今は外に目を向け始めている。それはとてもいいことだ。幸せになるには、自分が今どこにいるかを常に知っていなければならないからね」

 は黙って老人の話に熱心に耳を傾けていた。ゆっくりと頷きながら、求める言葉が与えられるのを待っている風だった。

「君は今自分がどこにいるか確認しようというとき、まず何をする?」
「……地図を見るわ」
「それから?」
「周りを見る」
「そうだ。君は後ろを振り返って見て、行こうとしている方向を向いて歩き出すはずだ。過去にも未来にも目を向けないと自分の立ち位置なんて確認できない。どっちも大事ってことだ。でも、そこからどう進んでいくか、目的地を決めるのは一体誰だろう」

 人生における目的が何か。自分はどうありたいのか。――ハッピー・エンディングを迎えたい。自分はこれまで、ハッピー・エンディングに向かって突き進んできたつもりだった。

 は老人から目をそらし、下唇を噛んで小さく唸り声をあげた。そして、しばらく考えた後、ハッピー・エンディングを求めているのは他でもない自分だと思い至った。誰に強制されているわけでもなく、自分は快楽と快楽を与えてくれる愛を求めてきたのだと。

「……私だわ」
「そうだ。だからね、。私は君の羅針盤にはなれない。向かう場所を決めるのは君自身だ。私は、君を求めてもいない所に向かわせる訳にはいかない」

 は納得がいかなそうに下唇を噛んで、老人から目をそらした。老人はが話し出すのを待っていた。

「その私自身が、何者なのかが分からなくなってしまって……。それが不安で仕方がないの」

 老人は眉根を少しだけ寄せて目を細め、の悲しみに寄添うようにゆっくりと頷いた。

「ああ、分かるよ。君はもう一人の自分を受け入れられないでいるんだね」

 は顔を上げて目を見開いた。彼女は、もしこの呪術師に自分の内面が見透かされているのだとしたら、悪魔憑きだ何だと罵られて追い立てられると思っていたのだ。だが、差し出した手は暖かな手を添えられたままだった。

「玄関先の供物を見たかい?」
「え、ええ。見たわ」
「この国では、神様が色んな所にいるんだ。家の中にもいる。トイレにも台所にも、玄関にも。外だと井戸や道路にも、そりゃあもうそこかしこに神様はいる。地面には悪霊っていう名前の神様だっているんだよ。でも私達バリ人は、悪霊だからって追い払ったりはしないんだ。どうか悪さをしないでくださいってお祈りしながら地面にもお供え物をして、一緒に住んでいる」

 一神教が浸透する文化圏では馴染みのない考え方だ。ここバリでは、悪魔がもたらす災厄は避けられないものとして受け入れ、その根源をも受容し共存を図っているというのだ。

 すべてを受け入れる、恐らく病や死すらも受け入れてしまう懐の深さ。それこそ、この国に降り立った時に感じた寛容さなのかもしれない。

「君が今抱えているのは、今の君にとっては恐ろしいものかもしれない。けれど、それもまた君の一部に違いない。君はそれを廃除すべきだと思っているんだろう。けれど、天と地が出会う場所に完璧な調和がある。天ばかりでも、地ばかりでもダメなんだ。調和ある人生のために、悪と思える自分でも許してあげなさい」

 老人は優しくの頬に触れた。また知らないうちに涙を零していたらしい。

「きっと時間がかかるだろう。けれど、君が君である限り、彼女を切り離すことはできないんだよ。……今どこにいるか知ることも大事だが、まずはありのままの自分を許して受け入れてあげるのが先だ。行き先を決めるのはそれからで構わない。急がなくて大丈夫だよ、

 理由も分からず涙が次から次へと溢れ出てくる。

「それに、前と後ろと、自分ばかり見ていてもダメだ。右にも左にも目を向けるんだ。……彼は?」

 老人はイルーゾォを見やり微笑んだ。老人と目があった途端、イルーゾォは訝しげな表情を見せてそっぽを向いた。無礼と思える態度だが、老人は怒らなかった。微笑ましいと言わんばかりにくつくつと笑いながら、に向き直ってにこにこと屈託のない笑顔を浮かべる。

 きっと、この老人には分かっているのだ。彼がのフィアンセでも何でもないことは。の気持ちを、嘘偽りなく引き出すために、再確認させるために聞いたのだ。

「友人です。数少ない、私の……」
「そうかそうか。君は一人じゃあないね。国に帰っても、君を思う人はたくさんいるようだ。……人はひとりでは生きていけない。周りの人のことも大切にするんだよ。手始めに、彼から始めてみるといい。彼は君を待っているみたいだ。そして彼は、君の全てを受けとめてくれるだろう」

 はイルーゾォを見やった。手持ち無沙汰な様子で東屋の柱に背を預け、確かに自分が戻ってくるのを待っている。けれど、見ればわかるようなことをこの老人が言うはずもない。

 だが彼は確かに昨晩、あの悍ましい死神が自分の中に入っていくのを見ていたにもかかわらず、恐ろしいと突き放すこともなく一緒に眠ってくれた。日頃ツンケンしている彼だが、根っこのところにはちゃんと人間らしさと頼りがいのある優しい男なのかもしれない。

 そう考えると、信頼とか安らぎといったものを与えられるのをただ待つのではなく、こちらからもそれらを与えなければいけないよと、諭されているようにも思えた。

「――そして息抜きをすること。寄り道だって必要さ。ここは寄り道に最適な場所だよ。どうか楽しんで帰って、疲れたらまた遊びに来なさい。私はいつでもここで君を待っているからね」

 はほっと息をついた。そしてざわつきが幾分おさまった心を、ぼうっと俯瞰して観測してみた。涙が溢れるのが何故か本当のところは分からないが、ただ漠然と感じたのは悲しくて涙が出ているわけではないということと、バリアンの話を聞く前よりも前向きな気持ちになっているということだった。

 依然、明確な答えは得られていない。それにメガデスのことはまだ受け入れられそうにもない。だが、この焦りも、恐れも、不安も、この国にいる間は全て受容される。だからしばらく、自分を静かに見つめてみよう。

「……ありがとう。なんだか、ホッとした」

 は泣きながら老人に頭を下げて感謝を伝えた。

 彼女は老人の言葉で何か見出してしまったのだろうか。イルーゾォはやはりの変化を恐れていた。そして何か彼女の中で変化が起きていたとして、それが何かと聞くのもはばかられるし、だからと言ってそのままにしておこうにも落ち着かない。

 複雑な気持ちで家の戸口の前に置かれたチャナンを見つめていると、いつの間にかがそばに立っていた。目元が少し赤くなっていて、瞳は潤んでいる。

「お待たせ」
「……気は済んだか」
「ええ。あなたも占ってもらったら?」
「オレは占いなんて信じない」
「あなたは強いものね」
「死なないお前には負けるがな」

 は東屋から離れ出口へと向かうイルーゾォの一歩後ろについて歩き、彼の大きな背中を見つめた。

 人はいつ死ぬか分からない。ギャングが蔓延る裏社会なら尚更のこと。そんな世界に身をおいているにも関わらず、生き続けている方が強いに決まっている。

「いいえ、イルーゾォ。……私は強くなんかない」

 死なないからと、何も悩みが無いわけではない。弱い自分に気付いて欲しい。寄り添ってほしい。何か、心の支えが欲しい。

 そんな欲が、に芽生え始めていた。