暗殺嬢は轢死したい。

 もう寝る時間も近いというのに、街は活気にあふれていた。まるで道路交通法など無いとでも言わんばかりに行き交う無数のバイク。ヘルメットをかぶらないどころか、明らかに人数制限を無視して子供も交えて三人で単車に跨る人もいる。バス、タクシー、乗用車にバイク。それらが入り乱れて接触しそうになったりして、あちこちでクラクションが鳴っていたが不思議と嫌な気分はしなかった。この国の時間の流れはゆったりとしていて、どこかイタリアに似ている気がする。けれどイタリアよりも人々は人々に寛容であるような気がした。

 露店やテラス席で楽し気に食べ、飲み、話をする人々の姿。街の明かりに照らされるヤシの木。寺院の入り口に必ずあるらしい――名を、チャンディ・ブンタルと言う――割門。家々の門から垂れる背の高い竹の飾り物。は喋ることを忘れて異国情緒あふれる風景に見入っていた。

「お客さん、バリは初めてかい?」

 英語でタクシーの運転手が言った。は答えた。

「ええ。初めてよ」
「どうかな?イタリアとじゃあ、全然景色やなんかが違うだろう」
「ええ、ほんとに。……最高に素晴らしいわ!」

 が世界最大の島嶼国家であるインドネシアはバリ州のデンパサール国際空港に降り立ってからまだ二時間も経過していないのだが、彼女は完全にこの国に心を奪われていた。

「ね!イルーゾォ!」
「いや、お前らがどんな会話をしていたのかが分からん」

 大きな身体を折りたたんでタクシーの狭い後部座席に押し込み窮屈そうにしているイルーゾォは、窓の外を流れ行く景色を眺めながら答えた。今までも何度か国外で仕事をしたことがあったが、まさかイタリアから一万キロメートルほども離れた東南アジアの島国にまで来ることになるとは夢にも思わなかった。

 もちろん、が旅行に行きたいと言ったから、それの付き添いでいるわけではない。仕事だ。仕事で来ている。だと言うのに、は完全に旅行気分でウキウキしている。

 ふたりを乗せたタクシーは街を抜け、南へ向かってひた走る。

「ところでお客さんたち、ハネムーンかい?」

 タクシーの運転手が、にこにこと微笑みを浮かべチラチラとバックミラーでの顔を伺いながら尋ねた。さすがにハネムーンという単語が何を意味するのかくらいは分かるイルーゾォは、少し居心地が悪そうに口元を歪めて横目での様子を確認した。問われた彼女は考える間も無く即答する。

「ええ!そうなの!今向かってるホテルで挙式する予定よ。だから、運賃まけてもらえない?」
「ははは!わかったよ!花嫁の言うことだから、聞かないわけにはいかないな」

 ハネムーンとかウェディングとか意味の分かる英単語が並べ立てられてイルーゾォはこっぱずかしくなった。ニューヨークに行った時もそうだった。ふたりでいるところを知人に目撃されたは、事もなげに言い放ったのだ。自分のことをボーイフレンドだと。今度はフィアンセに格上げだ。

 そう言うには得をすること以外の思惑はないと分かっているし、自分も自分でいちいちそれくらいのことで顔を赤らめたりするのは情けないとも思っていたが、どうにもポーカーフェイスではいられない。

 イルーゾォは胸の高鳴りを感じていた。それはきっと、見知らぬ土地にいるからだ。そしてきっと、とふたりきりでいるから。

 十五分ほど走るとリゾートホテルが立ち並ぶエリアに到達する。やがてタクシーは減速して立派な門を抜け、なだらかな坂を駆け上っていった。ホテルの持つ広大な敷地内には背の高いヤシの木や南国を思わせる低木の類がこれでもかというほど青々と繁っていて、根元にはぽつぽつと照明が光って見える。街の喧騒から離れたこの場所では、車が風を切る音と鈴虫か何かが鳴く音以外聞こえなかった。

 ホテルのメインロビー前に車をつけて、運転手は後部座席の方へ振り向きにこやかに言った。

「さ、着いたよ。運賃はうんとまけておくからね!」
「ありがとう!」

 到着したのは暖色系の照明に照らされた、白壁と赤瓦が印象的なリゾートホテルだった。このホテルのプールヴィラに明日から連泊する予定の――麻薬、売春根絶を謳う――イタリアの政治家を殺すのが今回のミッションだ。ターゲットは明日から一週間程度この、贅を尽くした高級ホテルに滞在するらしい。羨ましい限りである。

 は客室まで一キロメートル以上はあるんじゃないかと思える回廊をスーツケースを転がして行く間、わざとらしく溜息を吐いて見せた。

「――なんだ。何か言いたげだな」
「だって、いいわよね。ターゲットの政治家さん、一週間もここにいられるのよ」
「いいや、。ターゲットは一週間もいられない。明日の夜死ぬからな」

 客室でターゲットを始末した後、“Do Not Disturb”という札でも扉にかけておいて、運が良ければ最長で一週間死体は見つからない。だからと言って、一週間このホテルで悠長にのんびりしている訳にはいかないことくらい、浮かれまくったでも分かっていた。だが、バリ島内のリゾートホテルは何もこのホテルしかないというわけではない。

「それはそうだわ。けど、もし一週間ここでのんびりできたら最高じゃない?ねえ、イルーゾォ。私帰りたくないわ。お仕事済ませたら、ここから少し離れたウブドの方にでも行きましょうよ」
「気が早いヤツだな」
「ちょっと……いや、二日くらい遊んで帰りましょう。せっかくだし」
「金は」
「私が出すから!お願い!」

 なるほど。ホルマジオと仕事をしてきたときも、こんな調子で帰りが遅くなったんだな。

 イルーゾォは眉根を寄せた。そして思い浮かべたホルマジオの姿を、頭を振ってかき消した。

「まあ、リゾットに帰ってこいと言われるまではいいんじゃねーか」
「ほんと!?やったー!最高だわ!!」

 はこの国に着いてからもう何百回と“最高”と口にしていた。こんなにテンションがぶちあがっている彼女を見るのはこれが初めてだ。浮足立った様子でにこにこと笑顔が絶えない。始終機嫌が悪そうにしている女を無理やり連れて仕事をするよりはだいぶいい。しかし、この浮かれ調子が思わぬハプニングを引き起こさないだろうかと心配なので彼女に同調するわけにはいかない。だが、いつになく心が踊っていることに違いは無いと、イルーゾォは複雑な心境だった。

 客室にたどり着き、重厚なマホガニーの扉を開けた。広々としたエントランスに、コートや靴なんかのためのバカでかい収納スペースがあった。この時点でイルーゾォは異変を察知する。一番グレードの低い部屋を取ったはずだったが?

 奥へ進むと開放的で広い部屋の真ん中にキングサイズのベッドが置かれていた。ベッドの上には赤や白のバラと、プルメリア、そしてイランイランの花びらが散りばめられていて、かわいらしいテディベア2匹がつがいで竹かごを持ってふたりの到着を待っていた。かごの中には一枚のメッセージカードが入っている。

 “ハッピー・ウェディング!”

「おい、。お前勝手に部屋のグレード上げたろ?」
「バレちゃった?」
「あと何だこのクマどもは。ハ……ハッピー・ウェディング?」
「やだ、イルーゾォ。顔真っ赤にしちゃって」
「うるせー!お前って女はほんと――」
「聞いて。私達が本当に夫婦かどうかなんて傍から見たって誰にも分からないわ。さっきのタクシーでも実践済みだけれど、ハネムーンって言っていればいろいろとお得なのよ。ただでケーキが食べられちゃったりするって、いつか読んだ本に書いてあったわ!」

 たかがケーキのためにお前は男心をもてあそぶのか。そう歯の裏側まで迫って来ていた言葉をイルーゾォは呑み込んだ。

 言いたいことが他にもあった。まず、シャワールームがガラス張りで丸見えだ。広い室内ではトイレ以外を仕切る壁や扉の類がなく、脱衣スペースなんて気の利いたものも見当たらないし――ハネムーンスイートならそれこそ気を利かせた結果だろうが――、バスタブなんて表にほったらかしにされている。バスタブに浸かる習慣が無いので使わなければいい話なのだが、完全にヴァカンスを楽しみに来ているは確実に湯船につかりたがるだろう。その間、海に面したテラスにでもいろと言うつもりだろうか。

 そしてベッドだ。ツインルームのはずと思い込んでいたのに、ハネムーナーとしてグレードアップされてしまったおかげでキングサイズのベッドが一個しかない。にはソファーで寝ろとか言われるのか?その時はお前がソファーで寝ろと言い返してやる。

 イルーゾォがおちょくられているようで気分が悪いと眉間に皺を寄せて突っ立っている間、スーツケースを部屋の隅に置いて手ぶらになったはベッドの上の花びらをかき集めていた。かき集め終わった花びらをテディベアたちが持つかごの中に入れて持ち、バスタブに向かって歩いてそばの壁際にある収納棚の上に置いた。花びらを湯船に浮かべ、香りを楽しむつもりだろう。蛇口をひねりバスタブにお湯を溜め始めた後、は服を脱ぎながら言う。

「先にシャワー浴びていい?汗かいちゃって、べたべたして気持ち悪いの」
「ったく。オレがダメだと言ったら脱ぐのをやめるのか?そんなつもりねーならわざわざ聞くな。……好きにしろ!」

 イルーゾォはテレビラックの隣に置いてあった冷蔵庫の中を漁ってビールを探し当て抜き取ると、黙ってテラスに向かってシェーズロングに寝そべった。

 なんで何の躊躇いも無く男の前で服を脱ぎだす!?

 静かな場所で黙っていると胸が高鳴っているのがわかった。だが、幾千もの星々が煌めく夜空の下、穏やかで爽やかな海の潮風に体を撫でられながら波が海岸の砂をさらっていく音やかさかさと木々が風になびく音を聞き、月明りに照らされた海やビーチ沿いにぽつぽつと建つ東屋の暖かな明かりを眺めていると、不思議と心は落ち着きを取り戻していく。

 そしてイルーゾォは、しばらくひとり物思いにふけるのであった。



47:Adventure Of A Lifetime



 海外で仕事をすることのメリットはいろいろとある。主たるメリットとしては、後の仕事に響きにくいということが挙げられるだろう。

 政治家や金持ちやその他大衆に名の通った有名人の類がイタリアでしょっちゅう死んでいては悪目立ちしてしまう。結果、後々動きづらくなるし、ターゲット側のガードも固くなる。何故殺されたのか、という動機が明確になりやすいターゲットであれば、単純に動機を持った人間から物理的距離を保つに越したことはないのだ。それに、ヴァカンスなんてターゲットが気を抜きに行くようなもので、ガードは緩みまくっている。総じて足がつかないと言う点と仕事の成功率が上がるという点においてはメリットが大きい。ターゲットがボスに与えられた期限内に海外に出る予定があって、特にイタリアで殺害する必要が無いのであれば遠征するのが定石だ。

「――とは言え、遠いな」

 ターゲットの情報、仕事の期限、そして遠征先について説明を受けた後、バリ島とはどこにある?リゾート地として名を聞くことのある場所ではあるが、それが地球上のどこに位置するのかが分からない。という話になった。そのため、メローネは世界地図を広げて場所を示して見せた。そして遠征先がどこか分かったリゾットは顔をしかめた。

 定石を破ってイタリアでやってしまうかと考えるほどの距離だ。遠征費がバカにならない。

「そもそも、仕事振るのが遅くねーか」

 期限は一週間。三日後にターゲットはイタリアを経つ。イルーゾォはそう言いながら、どんな場所か想像もつかないそのバリ島と呼ばれる場所に思いを馳せた。リゾート地だと言うのだから、きっといい場所だろう。仕事ついでに少しのんびりして帰りたいものだ。

「あるいは、あっちで殺すことを念頭に置いてるか、だな」
「きっとそうだろう。出費は痛いが、期限が迫っているので仕方があるまい。イルーゾォ。今回の仕事はお前に任せる」
「了解」

 こうして午後六時、ブリーフィングが終了した。リゾットはすぐにリビングを離れ日課のトレーニングに入った。イルーゾォはメローネから資料を受け取り見直していた。その時、リビングに買い物帰りのが入ってきた。

「あら?またお仕事の話してたの?」
「あ、ああ。。お帰り」

 が期待に満ち溢れた顔をしている。メローネは焦った。イルーゾォに向って、言うな言うな言うなと唱えるが、心の中でいくらそう呟いたところで彼に意思が伝わるはずもない。

「なあ、。夕飯一緒しないか?オレのおご――」
「ねえイルーゾォ。どこ行くの?」

 はメローネの誘いを遮って、資料に目を落としたまのまイルーゾォに問いかける。

「バリだ」
「え?バーリ?」

 バーリと言えば、イタリア国内にあるアドリア海に面した港町だ。ほんの四時間車を走らせれば着いてしまう距離にある。

「いや。バーリじゃあねー。バリ島だよ。東南アジアにあ――」
「行く!」
「は?」
「私も行きたい!連れて行ってよ、イルーゾォ!私、どうしても行きたいの!死ぬまでに行っておきたい場所ナンバー・ワンの場所なのよ!」
。君は死なないからいつだって行けるだろう。というか、また別の機会にオレといこう。別に殺しなんて色気の無い――」
「メローネ!ちょっとあなたは黙ってて」

 いつの間にか隣に座っていたに笑いながら口を塞がれ、メローネは黙るしかなかった。彼女がそう言うなら仕方ないし、肌と肌が触れ合っているというだけで幸せだと思った。が、彼女の手はすぐに離れていってしまう。

「遠征費がバカにならないから、リゾットはきっとダメだと言うだろうな」
「前にギアッチョとシチリアに行ったときは、自費で行くからって言ったらいいって言ってくれたわ!きっと今回も大丈夫よ!」
「リゾットがいいと言うならオレは構わない」
「やった!なら、ちょっとリゾットに話通してくるわ!ねえ彼、今ここにいる?」
「そろそろ日課のトレーニングを始める時間だからな。さっきこの部屋から出て行ったが、着替えにでも行ったんじゃねーか」
「分かった!ありがとう!」

 こうして嵐は瞬く間に過ぎ去った。

「……おいイルーゾォ」

 メローネが唸り声をあげる。

があれだけ浮かれてるのは、別にお前と一緒にバリに行けるからじゃあないんだからな!」

 恨めし気にイルーゾォをねめつける。イルーゾォは尚も手元の資料に目を落としながら、別に言われずとも分かっていることをわざわざ口にして牽制にかかるメローネに鬱陶しさを感じて眉根を寄せた。

「オレはちゃんとここで見ているぞイルーゾォ。ちなみに言っておくと、盗聴機能付きのGPS発信機をこないだ買った。それをに持たせておくから変な気は起こすなよ」

 イルーゾォがに何かいやらしいことをしでかさないようにと牽制するための嘘だ。

「そう言や、お前ポルノの音声だけでイケるタイプだったよな。ならのよがり声聞いて、こっちで一人オナって泣き寝入りでもしとくんだな」
「イルーゾォ。……お前、最低か!?」
「お前にだけは言われたくねぇ」

 別にを相手取って肉体関係を迫ろうなどと思ってもいない――あわよくば、くらいには考えてはいるが――のだが、メローネが悔しがっているのを見るのは面白い。だが、悔しがって口をへの字に曲げていたメローネはすぐに何か憂うような表情を見せはじめる。

「彼女から目を離さないようにと、きっとリゾットに言われるだろうな」
「それも仕事のうちだからな」
「イルーゾォ。お前、どうせ鏡の世界でターゲットを殺すつもりでいるんだろう?」
「当たり前だ。足が付かないように徹底するなら当然のことだぜ」

 メローネにはひとつ気がかりなことがあった。あの、ニューヨークでたまたま見た、の中に潜む悍ましい死神のことだ。あれが恐らく、彼女が“メガデス”と呼称するスタンドだ。それを彼は漠然と、に見せたくないと思っていた。あれの姿を見て、あれがと重なった時、嫌な予感がしたのだ。

 ――が、オレから離れて行ってしまうかもしれない。

を……鏡の中の世界に同行させるのなら、“メガデス”も一緒に入れてくれないか」
「……あの悍ましいのをオレの世界に引き込むのは気が進まないんだがな」
「いいだろう別に。入れたってきっと姿は現さないさ。それに、“メガデス”って名前のくせに能力は自身の体の治癒に留まってる。お前に危害を加えたりなんかしない。お前がにやらしいことしない限りな」
「おめーの頭の中はそればっかか?」

 イルーゾォも、別にわざわざあの悍ましいのをに見せてやろうなんてことは思っていないのだ。ただ、何故が自分のスタンドを見たことが無いのかは気になった。それに彼女は自分のスタンド能力についてよく分かっていない風なのだ。



 ――スタンドを知らない。つまり、自分を知らないのと同じだ。

 それがにとって良いことなのか、はたまた悪いことなのかは分かりかねる。何より、の身を案じる以前に――彼女は不死身なので案じる必要など無いし――、自分が危険にさらされているような気がして、どこか空恐ろしい。

 あの核弾頭を無数に背負った攻撃性しか見出せないようなスタンドを体に宿しているという女が。

 メガデスの主である彼女はメガデスをよく知らない。見た目すら知らないと言う。知らないものの舵は取れない。要は、完全にコントロールされた忠実なるしもべではない。今はおとなしいメガデスが、いつ牙を剥いてくるか分かったものではない。だから恐ろしい。

 イルーゾォは後ろを振り向いてちらと室内に目をやった。バスタブに張ったお湯に浸かってリラックスした表情を見せるの姿がある。あの“死神”は、あんなに気を抜いて蕩けているの中で今も息をひそめているのだろう。

 やはり恐ろしい。だが、だからこそ彼女は自分を惹きつけてやまないのかもしれない。への興味関心はニューヨークで彼女が涙を流すのをこの目で見た時に端を発していた。

 イルーゾォはに何か秘めたものを感じていた。秘められたものというのは往々にして人を惹きつけるものだ。

 のことが気になる。もっと彼女のことが知りたい。彼女のスタンドを知ることが、彼女を知る足掛かりになるかもしれない。とは言え、アレには会いたくない。触らぬ神に祟りなし。メローネの言うとおりにするのは癪だが仕方がない。姿さえ見せなければ、に百万の命を与える救いの神でしかないのだから、きっと大丈夫だ。

 イルーゾォはひとり、メガデスを自分の世界に招き入れる決心を固めたのだった。