暗殺嬢は轢死したい。

 夕方、街の雑踏の中にとギアッチョがふたりで現れて、ホルマジオは目を剥いた。

 ここにいてはいけない男がの隣を歩いている。ホルマジオは朝のとの会話を思い出した。――確かに、明確にはふたりきりで夕食を共にしようとは言っていなかった。ふたりで、とは言ったと思ったが、それが彼女にとってふたりっきりでという具合に認識されていなかったというだけのことだろう。

 その点についてはまだいい。だが、ホルマジオが目を剥いて驚いたのは、が男を連れて待ち合わせ場所に現れたからではない。その男がギアッチョだと言うところが問題だった。

 夕方の、食事の中でも特に夕食を大事にするイタリア人がこぞってレストランに向かう雑踏の中だ。いつ肩と肩がぶつかり合うとも分からないその人混みの中を、ぷっつんして周囲に怒鳴りあたり散らすのがお家芸のギアッチョが歩いているということが問題なのだ。

 道を譲る謙虚さなど臍帯を通して母親の胎盤に移し置き忘れてきたギアッチョ本人も、見ず知らずの一般人と肩がぶつかっただけで自分がぶちギレてしまうのを分かっているので、こんなラッシュとも言えてしまう様な時間に堂々と街中は歩かない。仕方なく歩くにしたって彼の両サイドを固めて、最低でも二人おつきのものが先だって前を行くのが定石だ。

「ホルマジオ、お待たせ。ギアッチョも一緒だけど、良いわよね?」

 はにっこりと笑って首をかしげる。そんな仕草をされたらホルマジオは彼女の言動がどんなものでも肯定の意を伝えることしかできないわけだが、こればっかりは言わずにいられないと、半ば食い気味に声を上げた。

「なんでこいつがいるんだよ!!」

 言ってすぐにホルマジオはしまったと言わんばかりに口を掌で覆った。ギアッチョに人差し指を突きつけて“こいつ”呼ばわりしようものならホワイトアルバムで氷漬けにされる可能性がぶち上がる。ナポリでも屈指の集合場所となっているこの広場の噴水から噴き出す水はもとより、広場のベンチや階段や道を行く人々も一瞬で凍りついてしまう。――それはさすがに言い過ぎかもしれないが、仕事中はもちろんのこと私生活においても人目を忍ぶべき暗殺者一行が、公衆の面前で声を荒げ注目の的になるなど一番に避けるべき行為だ。つまり、こんなところにギアッチョを連れてくるべきではない。ただでさえ奇抜な髪色と髪型で人目を引くのに。

 だが驚くことに、ギアッチョは少しばかり眉根を寄せただけで、ポケットに手を突っ込んで猫背のまま黙って立っていた。

「ギアッチョの車の修理が今日終わったの。それで、私の職場に車を取りに来た彼が仕事終わるまで待っていてくれたのよ」
「どうしてこうなったのかって経緯を聞きたいわけじゃあねーんだよオレは。ギアッチョをこんな街中に連れてくるんじゃあねー正気かと言っているんだぜ」
「え?どうして?」
「どうして?って……分かんねーのかよ!?」

 確かには――七つの罪源“憤怒”の化身と言っても過言では無い――ギアッチョの怒りにいささか鈍感な節がある。彼の爆発的なそれは即暴力に直結しそうな恐怖すら感じられるものなのだが、彼女は恐怖心や警戒心といったものがひどく希薄なのだ。別に彼に暴力を受けたとて死にはしないのでそうなるのも仕方が無いかもしれないが、彼女の鈍感故にこちらが毎回冷や汗をかかされていたのではたまったものではない。

 ホルマジオは深呼吸をした。そしてにだけ聞こえるようにと彼女の耳元に口を寄せる。

「こいつがキレだすと手が付けられねーのは知ってるだろ。沸点の低さがヘリウム並みなんだぞ」
「ヘリウムの沸点がいくらか知らないけれど……今日の彼、すごく大人しいわよ」

 はとてもにこやかに、そして楽しそうに言った。だが、彼女の言葉だけで信じられる訳がない。いくら矯正してやろうと先輩が配慮しても、ギアッチョの怒りの感情だけはどうにもならなかったのだ。あのリゾットがもうどうにもならんから極力怒らせるなと白旗を上げたくらいなのだ。これだから新米は、とホルマジオは溜息をつく。

 だが、新米のくせに、ときたらギアッチョの扱いがプロシュートの次くらいには上手い。恐らく自分よりも上手い。だから、彼女が駄犬を躾けるようにギアッチョをリードしたからこそ、今誰も死なせずにここまでたどり着けたのかもしれない。とは言え、一発触発のニトログリセリンのようなものを抱えたままであることに変わりない。

「おい」

 ふたりでこそこそやっている内に、黙っていたギアッチョがとうとう声を上げた。その声にホルマジオはごくりと喉を鳴らす。

「いつまでコソコソくっちゃべってんだよ。さっさとメシ食いに行こうぜ。なーんか腹減ってしょうがねーんだよ」

 ギアッチョはとホルマジオの間に割って入り先頭を歩き出した。ホルマジオは仰け反った後、慌ててギアッチョを追った。はホルマジオに電話で告げられた店がどこにあるのか知らなかったのだが、彼女に店の名前を聞かされていたギアッチョには場所がどこか分かったのだろう。彼の進行方向は確かに間違っていないし、その歩みに迷いは見られない。ずかずかと人混みを掻き分けるように歩いていく。

「おい、ギアッチョ待てよ……!」

 早歩きで彼の後に続くホルマジオ。さして急ぐ様子も見せず、にこにことふたりの後を追う。そんなふたりを置いてギアッチョはすたすたと目的地までの道を進んでいく。その内に、対向してこちらに向かってくる集団のひとりとギアッチョの肩がぶつかった。四十代くらいの男だった。ぶつかった瞬間睨みをきかせてギアッチョの方を見やった男は、舌打ちをして「どこ見て歩いてんだ」と吐き捨てる。

 ホルマジオは別にその辺のオヤジの生死などには少しも興味がないのだが、騒ぎを起こして自分たちが目立つのは避けたかった。それに何より爆発現場の後始末など面倒で仕方がない。頼むからそんな命知らずな発言はよしてくれ、と思い冷や汗を流すのだが、時すでに遅し――と、思われたのだが。

 ギアッチョはやはり、少し眉根を寄せて後ろを振り返り、ぶつかった肩を反対側の手で払っただけで再び歩み始めたのだ。はしたり顔でホルマジオに笑いかける。

「ね?言ったとおりでしょ?」
「こ……こりゃ、たまげたな。雪でも降るんじゃあねーか?」

 この街では冬でも雪は降らない。だと言うのに夏真っ盛りの今、雪が降ればそれこそ天変地異だ。ギアッチョの能力があればひょっとすると夏でも雪を降らせることは可能かもしれないが、その能力の力の源はすっかり鳴りをひそめているので雪は降らないだろう。それはともかくとして、このナポリで雪が降るという事象に匹敵するほど珍しい、今世紀に一度拝めるか拝めないかというギアッチョの姿にホルマジオは驚くしかなかった。

「びょ……病気か!?」
「それ、私も思ったわ。嵐の前触れみたいで怖いわよね。ゾクゾクしちゃう」

 そう言って笑うの表情は吐いた言葉とは裏腹にとても楽しげだった。

 この日のディナーは結局、ホルマジオが想定していたようなデートではなく、邪魔者が混ざった色気のない食事会と化してしまった。その点に関してはただ残念という他無かったが、それよりも人が変わったかのようなギアッチョの態度に関心が向いた。に向けっぱなしになる予定だった彼の視線はギアッチョにばかり向いてしまった。そしてホルマジオは始終ひとり小首をかしげていた。

 ここまでおとなしく穏やかなギアッチョはそうそうお目にかかれない。だが、何かあったのかとしきりに聞いても本人の口からは何も聞き出せなかった。一体何があったのだ、と疑念は募る一方で、それはアジトに帰り着くまで続いた。そしていつも神経を尖らせていてキレッキレのギアッチョは、始終ひどくぼけっとしていた。

 ギアッチョがまるで誰かに洗脳でもされたかのように、ホルマジオの目には映っていた。



46:MK Ultra



 件の三人がアジトへと戻ると、リビングで珍しくリゾットが待ち構えていた。ちなみに、メローネがの帰りを待ってリビングに張り付いているのはいつものことである。

!会いたかったよ!!お帰り!!ああ、キミに会えない間、もう何もやる気が起きなくて、死んだように時間を浪費していたんだ……慰めてくれッ!」

 そう言って目がけて歩み寄るのは言うまでもなくメローネだった。ホルマジオとのふたりがアジトに戻ったのは夜遅くだったし、は翌日――つまり今日だが、朝早くに家を出てしまった。メローネはもちろん毎日彼女の動向を追跡装置を駆使して把握していたのだが、一週間近く直接会うことができなかった。確かに、同じ家に住んでいて1週間顔を合わせていないのは久しぶりと言ってもいいかもしれないが、それにしてもメローネの態度はいささかオーバーである。だがは優しいので、キツイ抱擁を求めて歩み寄るメローネの体を拒絶せずに受け入れた。

「私もあなたに会いたかったわ。ただいま、メローネ」

 きつく彼女の体を抱きしめ、側頭部に頬ずりをするというモーションの間、どさくさに紛れて背後に回した手を彼女の尻に持っていこうとするメローネの手首をホルマジオが掴んだ。

「おいこらメローネ。セクハラも大概にしとけ」
「パワハラが横行してるギャングの世界だ。セクハラだってまかり通って然るべきだと思わないか。それにな、ホルマジオ。そもそもセクハラってのはがイヤだと思ってなきゃセクハラにはならないんだぜ。知ってたか?」
「しょうがねーなァ。かわいそうなヤツだよ、メローネ……お前って男はほんと……」

 お前が触りたくてたまらなそうにしているそのケツを、オレはブラジルで好きなだけ堪能してきたぜ。ホルマジオは口角を吊り上げて、言いたくて言いたくてしょうがないといった顔を見せつけた。

「おい何だその勝ち誇ったような態度……まさか、ホルマジオ……お前ッ――」
「さーて、腹いっぱいで眠くなっちまったし寝るかー。おやすみ~」
「おい待てホルマジオ!話はまだ終わってないぞ!!」

 そそくさとリビングを後にしようとするホルマジオを、ソファーに深々と腰掛けて腕を組んでいたリゾットが横目で追った。その視線に気づいたホルマジオはちらとリゾットを見やったが、バツが悪そうな顔をしただけでそのままリビングを後にしてしまった。

「な、なあ……。……正直に答えて、くれないか。君はブラジルで、ホルマジオとセック――」
「メローネ」

 いつの間にかメローネの背後に立っていたリゾットがメローネのセクハラ発言を制した。最も、彼にその気は無かった。リゾットははなからメローネの戯言など耳に入れてすらいないので、結果的にそうなっただけである。

と話がしたい。構わないな」
「あ……ああ、リゾット。あんたがそう言うなら」

 さすがのメローネもリーダーには逆らえない。それに、逆らって自分がしようとしていた話を続けられるような雰囲気ではないと、メローネは珍しく場の空気を読んで押し黙った。

 リゾットに促されて外へと足を向けるの背中を、メローネはじっと見つめた。

 。もしそうなら、オレは正気を保てなくなる……。いや、待て、そういう疑念が湧きおこっている現時点で、オレはもう正気を保てそうにない。でも、仮にもしそうだとしても、君に幻滅するとか、そんなワケじゃあないんだ。ただ、オレは方法が知りたいんだ。君に受け入れてもらいたい。君に愛されたい。オレの、君への途方の無い愛に報いてほしい。そのためには、一体何をすればいい?ホルマジオにはできて、オレにはできないことがあるっていうのか?オレはいったい、どうすれば――

 ふたりの背中が扉の向こうに消えた瞬間、彼の意識は現在に連れ戻された。同じタイミングで背後から尻に蹴りを食らわされたのだ。そのちょっとの衝撃で前のめりになったメローネは、尻をさすりながら後ろを見た。

「おめーいつまでそこに突っ立ってるつもりだ、メローネ」
「ギアッチョ……」

 痛みは無かった。加減されている。

「どうしたんだギアッチョ。いつものお前の蹴りじゃあないぞ。体調でも悪いのか」
「はあ……ったく。どいつもこいつも。……今日は、そういう気分じゃあねーだけだ」
「へえ。珍しいこともあるもんだな。雪でも降りそうだ」
「ここじゃ雪なんか降らねーだろうがよ」

 ギアッチョは酒が足りなかったと言った。足りなかった、つまり酒を飲んだのだ。それを受けてメローネは飲酒運転をして帰ってきたのかと、ギャングらしからない注意をした。その車に他でもないが乗っていたであろうことが推察できたからだ。

 だが、さすがだ。自分はレストランで酒を飲まず、ギアッチョの代わりに運転すると申し出たらしい。そしてに運転をさせて帰ってきたと。だが、その話でやはり気になったのは、ギアッチョが彼女の申し出をすんなりと受け入れたということだった。彼は自分の車を他人に運転させるのをひどく嫌うのだ。彼の目を盗んでもう何十回とあのロードスターを乗り回しているがまだ息をしているのが不思議なくらいだ。まあ、彼女は殺されても死なないのだが。

 メローネもまた、穏やかな態度で酒を呷るギアッチョに違和感を覚えていた。それは行動をいつも共にするメローネだからこそ尚のことだった。穏やかな夜の時間が過ぎていく。その間メローネは相棒の意外な一面をうがった目で見ていた。彼はただ、今日はギアッチョが静かでいい、とは思わなかったのだ。



 一方その頃、リゾットとのふたりは小高い丘の上にある公園のベンチに腰かけていた。が愛する男と別れた場所だ。奇しくも今宵も晴れた空に月が浮かんでいて、月明りがふたりを優しく照らしている。

 この場所を選んだのはリゾットだ。彼は鉄仮面に見えて案外ロマンチストなのかもしれない。そんな微笑ましい彼の一面を想像して表情は和らいだが、やはりあの別れを思い出してしまう。にとってこの場所は、あまり来たい場所では無かった。

「ホルマジオが、お前の口から聞いてくれと言ったんだ」

 唐突にそう切り出され、はえ?と短く声を上げた。

「今回の仕事で、お前に何があったのか。ホルマジオは報告を拒んだ」
「ああ……そのことね」
「オレは仕事の結果だけでなく過程も知っておきたいんだ、。恐らく、思い出すのも嫌なことだろうとは思う。だが、もう二度とお前にそんな思いをさせないようにするためにも、オレには知っておく義務がある」
「私、言ったわ。あなたに忠誠を誓うって。あなたがやれと言ったことは何でも聞く。それは、利害が一致しているからよ。あなたが私を上手く使ってくれれば、私は死ねるんだから。今回のは、私を上手く使ってくれた結果だから、嫌な思いなんて……してないのよ」
「嘘をつくな。なら、どうしてお前は今泣いている」

 は頬に手を当てた。自分でも知らないうちに、涙が零れ落ちていた。そして途端に胸が苦しくなった。全てを吐き出したくなった。――だが、一体何を?吐き出したい感情が何なのか、には分からなかった。分からないながらも、その感情はこみ上げてくる。苦しい。辛い。悲しくて泣いている?だが、悲しみという言葉だけで言い表せるようなものでは無い気もした。

「……そうね。あなたがやれと言ったことがその報告なら、報告しなくちゃね」

 は一呼吸置いて、再び口を開いた。

「ターゲットの男に、拷問を受けたの。ホルマジオが持っていった金はどこだって」

 リゾットは頭巾で隠れた布の向こうで、強く唇を噛んだ。

「最初は、足の指の爪を剥がされたわ。あの人、本当に躊躇いが無くてびっくりしちゃった。しかも思い切りがすごくいいの。たぶん、五分と経たないうちに足の爪四枚剥がされたわ。そして親指の爪一枚残された所で、順当に親指の爪を持っていかれるかと思いきや、今度は歯を抜かれたの。歯を一本抜かれただけだったのに……麻酔も無しに抜かれるのって、本当に痛いのね。次から次に……血が溢れ出てきて、自分の血を……飲んじゃったわ」

 話しているうちにの声が震えはじめた。当時の恐怖心と凄まじい痛みがよみがえる。顔を両手で覆い、身をかがめて丸くなって、溢れ出る涙を堪えようと必死になった。

「それでね……歯が一本、抜かれた後、ホルマジオが来てくれたの」

 リゾットは黙っての話に耳を傾けていた。

「あんまり痛かったから、私、たまらず彼に頼んだわ。――私を、殺してって。ホルマジオはね、しぶしぶ、ナイフを私の頭の後ろの方に突き刺して……殺してくれた」

 リゾットは噛んだ唇から、一筋血を流していた。ホルマジオが、自分の口から言うのを拒む訳だ。チームメイトを殺したなどと言いたいはずが無い。例え苦しみに悶る者の頼みとは言え、相手は女だ。それが仲間なら尚更のこと。の場合普通の人間とは違い生き返ると知っていても、殺した手の感覚やその時の映像というのは嫌でも鮮明に記憶として刻まれる。

 リゾットには他人事とは思えなかった。彼は、自身が遂行した暗殺者としての初仕事――例の通過儀礼だ――を思い出してしまう。女がいたぶられるのを見るのも聞くのも、その女にとどめを刺すのも、もう二度とごめんだ。未だに、あんな命令を下してきたボスに、それ以前に、女にあんな惨たらしい拷問を命令したボスに、途方も無い憎しみが湧いてくる。胸糞が悪いどころの話では無い。

 拷問を受け、の追い求める快楽のためではなく、逃避のために死にたいと絶望させてしまった。そしてホルマジオにはを殺させてしまい、鮮明な記憶と共に罪悪感を植え付けさせてしまった。

「ホルマジオ、すごく辛そうにしてたわ。だから、殺して、なんて頼まなきゃ良かったのよね。歯はもう生えてこないだろうけど、爪はいずれ生えてくるもの。我慢すれば良かったんだわ。でも、私……痛みに耐性が無いのかしらね。どうしても、我慢できなかったの。あの脳内麻薬で感覚を麻痺させて、そのうちに体を修復させたかった。本当に、我慢……できなくて。あのままだと私、どうにかなってしまいそうで――」

 はリゾットに、その大きな掌で頭を覆われ、強い男の力で厚い胸板に向って引き寄せられた。そして体の震えを抑えようとでもするように、ぎゅっと抱きしめられる。

 普段のリゾットの心拍数など意識したことは無かったし、はそれを知るよしもない。だが、厚い壁の向こうから聞こえてくる心音は、幾分早いような気がした。そのあたかかく優しいリズムに同期するように、はやがて落ち着きを取り戻していった。

「どうにかなってしまいそうだと言うのなら、もうオレに嘘をつくな」

 脳内麻薬で正常な意思決定ができなくなった女を仕事に向かわせてしまった。リゾットがそうしろと言った訳ではない。だが、そんな状況に追い込んでしまったのは、ブラジルに彼女を行かせてしまったのは他でもない自分だと、リゾットは自分を責めていた。

「もう二度と、お前に辛い思いはさせない。
「それはもう、私を使ってくれないという意味?」

 彼はを監視し、殺せるようであれば殺せと命じられている。仲間であるように見えて、その実は恐らく仲間では無いのだろう。そんな女にこんな思いを抱くのは組織への裏切りに他ならないのかもしれない。

「お前はもう、死なせない」

 お前が壊れるまで、あとどれくらいだ。そう聞いて仮に彼女から答えを得られたとしても、その答えに則してぎりぎりまで彼女を使役しようとは思えなかった。――殺せと言われている彼女を、殺しても死なない彼女を、殺したくないと思っているのだ。彼の中に確かに、への愛が芽生えていた。

「お前がそうやって苦しんで泣く姿なんて、オレはもう二度と見たくない。お前にとってそれが例え迷惑だとしても、オレは自分が正しいと思ったことをやる。……オレはもう、後悔したくないんだ」

 今まで生きてきた中で何度も過ちを犯してきた。そうしないと自分が生きてこれなかったのだと言い訳をして、許しを乞おうなどと思っているわけではない。そんな資格があるとも思っていないし、一度足を踏み入れたが最後二度と抜け出せない裏社会で、これから先も罪を重ねながら生きていく。ただ、世間一般で言う正義はともかく、誤りだったと自分が後悔するような、自分の中の正義に悖る選択をしたくない。ただそれだけだった。

「こうやって、私の身を案じて優しく抱きしめてくれるあなたみたいな人が、まだ私を見放さないでいてくれることに感謝しなくちゃあいけないのよね」

 やはり、ハッピー・エンディングなんて実現しないのだ。私に幸せな最期など訪れない。

 ――お前はすべてを失うことになる。

 は呪いの言葉を思い出した。もう、失うものなんて何も無いはずなのに、どうしてこうなってもまだ、私はこんなに苦しいんだろう。

 苦しんで苦しんで苦しんだ末に何も残らず、全てを失ってしまったら全く別の自分になってしまうのではないか。そんな不安に駆られた。今の自分を知っている、認めてくれているチームメイトの皆に、覚えていてほしいと心から願った。初めて、死にたくないと思った。

「リゾット。ありがとう。死ぬのは少し、我慢してみるわ。あなたやホルマジオが辛そうな顔するのは、私だって見たくないんだもの。だから、頑張ってみる」

 もう孤独でいるのは嫌だ。

 は体の力を抜いて、リゾットに全てを委ねた。その重みをリゾットはかみしめていた。