ブラジルからイタリアに戻りついた日の翌朝。起き抜けに遠出の間アジトの自室に置いたままにしていた仕事用の携帯電話の留守録を確認したは、店長のリコルドから一件のメッセージが入っていることに気が付いた。
『休み中に申し訳ない。どうしても頼みたい仕事ができてしまった。君なら一時間もあればすむ仕事だ。旅行から帰ってきたら店に来てくれないかな』
裏の稼業を終えて帰ってきてすぐだ。リゾットから次の仕事の話は受けていないし、当面の間は暇なので断る理由も無い。何より店長の頼みだ。は例え忙しくとも、一時間で終わる頼みを休みだから無理ですなどと言って突き放すようなことをするつもりもなかった。
「どっか出かけんのか?」
身支度を整えダイニングテーブルで朝食を取っていたに、ホルマジオが挨拶ついでに問いかけた。国に帰って早々に外出するような格好をしているものだから、どこで誰と何をするのかと気にしているのだ。
「店長から呼び出しがあったの。これからお店に向かうわ」
「休みの日に会社に呼び出すって、かなり非常識じゃあねーか?」
ホルマジオはまっとうな職についたことはなかったので、一般人がどのようなモチベーションで日々仕事をこなしているのか詳しくは分からなかった。だが、この国の人間は休暇にうるさいということくらいは知っていた。こと個人のプライベートな時間を仕事によって侵害されることをひどく嫌うのだ。休みの間に会社から呼び出しなどあってはならないし、あったところで応じないでいるのは当たり前という考え方が定着している。もてっきり、そういった常識にならって表向きの仕事をこなしているとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「店長からこんな頼み事されるのは初めてよ。それに、別に気になんかしてないわ。すぐに終わるって言ってたしね。彼にはお世話になってるから無碍にはできない」
「ふーん。そんなもんか。ま、いいや。仕事、何時に終わるんだ?」
「これから出て……たぶん、お昼の二時頃には」
「夜、ふたりでメシ食いに行こうぜ」
「ええ。いいわよ」
ホルマジオはの態度の変わり様に焦りを感じた。ブラジルへ向かう前まで、自分のことを視界に入れただけで顔を真っ赤にして狼狽えていた彼女が、今では完全に落ち着き払った態度でいるのだ。ニッコリと笑顔を浮かべて至って普通な態度で彼を見ている。ホルマジオはデートのつもりで夕食に誘っているのに、は「同僚と夕食に行くのは普通のことだ」とでも言わんばかり。
ホルマジオは今夜彼女を独り占めにしてあわよくば……。などと考えていたのだが、全く手応えが感じられない。一夜を同じベッドで共にして交わり合った仲だろう?なんでそんなにフツーな感じなんだ?言いたくても、ホルマジオはプライドに邪魔されてそれを言い出せずにいた。
「ちょっとお買い物したいし、現地集合にしましょう?どこで食べるかお店決めておいてくれる?決まったら連絡して」
そう言いながらマグカップと小皿をキッチンに運び洗い終えると、ハンドバックを手にしてホルマジオの肩に手を乗せ笑いかけた。
「それじゃ、また後でね」
「お……おう」
颯爽とアジトを後にするの背が扉の向こうに消えたあとも、ホルマジオはぼうっと扉を眺めていた。
「何呆けた顔してやがる」
プロシュートがいつの間にかホルマジオの前に姿を現していた。彼が朝からスーツを身につけてリビングにいるのはいつものことだ。バスルームで髪のセットでもしていたのか、一時的にリビングからいなくなっていたようだ。起きたままの格好のホルマジオはふたりとも朝っぱらからよくやるなぁと腹を掻きながら大あくびをかました。
「寝起きだからな」
「だらしねぇな。せめて寝間着くらい脱いで着替えてから下りてこい」
「うるせーな。おめーはオレの母ちゃんかよめんどうくせー」
ホルマジオはうんざりした顔で再び大あくびをかますとプロシュートから顔をそらし、テレビのリモコンに手を伸ばして電源を入れた。ぼうっと朝のニュースを眺めながら、のことを思い浮かべた。思い浮かべていると自然と頬に締まりがなくなってくる。
そんなホルマジオの顔を、プロシュートが訝しげにねめつけていた。そして思うのだった。
こいつら……何かあったな。
ホルマジオがブロンドのダイナマイトボディーの女を連れていた、と喚き散らし慌てふためくをプロシュートも目の当たりにしていた。ホルマジオと初めて仕事をして帰ってきた後から、彼にならば殺してもらえるかもしれない、とよくわからない期待を抱いているせいで興奮していたらしい。それでどうして興奮に至るのかという経緯は全く分からなかったが、とにかくはホルマジオを過剰に意識していた。
しかしながら、今日の――ついさっき入れ違いになってしまったが――は様子がおかしかった。ホルマジオを前にして慌てふためく声はリビングから漏れてこなかったし、リビングから玄関へと向かう彼女の足取りは落ち着いていた。何かなければ、彼女のホルマジオに対する態度が豹変するはずもない。
やめておけ、という忠告――と言うよりも、ほとんどプロシュートの願望だ――は聞き入れられなかったのかもしれない。手が早いホルマジオと、拒絶しないが同じ部屋で何夜かを過ごしたのだ。ブラジルで、彼らは一線を超えてしまったかもしれない。お互いのことをある程度理解しあい深い信頼関係のようなものが構築された結果、は取り乱さなくなったのかもしれない。確証は無い。だが、自分の勘がそう言っている。
気になる。が、目の前の呆けた顔をしたチームメイトに直接聞くなんて癪だ。それに聞いたところで、気になるか?なんて言いながらニヤケ面を向けられ、挙句の果てに答えにならない答え方をされてイラついて終わるのが関の山だ。
ホルマジオの色恋沙汰には全く興味が無いが、相手がとなると話は別だった。プロシュートはもやもやと晴れない気持ちを抱いたままカップの中のコーヒーがなくなるまで、向かいに座るホルマジオの横顔を引き続きねめつけたり、テレビを見ているふりをしてのことを考えたりした。
がメインエントランスから職場へ足を踏み入れると、受付のカウンターに立っていたリコルドが彼女を出迎えた。
「久しぶりだね、」
「店長。私が休みに入ってまだ一週間も経ってないですよ」
笑いながらそんな挨拶を済ませ、やはりふたりは軽くハグを交わす。いつもより短めに終わったそれの後に、立ち話もなんだし、といつもが使う商談スペースへ誘導された後、彼女はひとりその場に取り残された。しばらくして、コーヒーを2人分用意して戻ってきたリコルドが彼女にマグカップを差し出した。はありがとうございますと一言断ってそれを受け取り、適温で保温されていたらしいいつものドリップコーヒーを二、三口飲み下した。その後、ふと店内を見回した。
「あら?ファジョリーノは来てないんですか?」
リコルドはよくぞ聞いてくれた!と言わんばかりに話し始めた。
「それだよ!最近彼、何か悩み事でもあるのか出勤したりしなかったり、出てきてもどこか元気がなさそうでね。今日も朝から誰もいないってメカニックから連絡受けて彼に電話してみたんだけど、体調が悪いから休むって、それだけさ。というわけで、店長の私が夏休を返上して働いてる」
「そうなんですか……」
は休みに入る前のファジョリーノの様子を思い出した。特段元気がなさそうにも見えなかったし、朝遅れてきたりはたまにあったが、出勤することになっている日に丸一日顔を出さなかったことはない。そこで思い出したのはやはりクスリに手を出しているという衝撃の事実だが、乱用者ほど目が虚ろで不健康そうで正気を失っているという症状も無かったはずだ。今日に限って風邪でもひいてしまったのかもしれない。だが店長が休みを返上して働いているなんて由々しき事態だ。
「店長。もしこんなことが続くようなら私が……」
「いやいや!いいんだ。君ほど優秀なセールスレディに休みもやらなかったら天罰が下りそうだ。こっちのことは私に任せて、君は思いっきり休みを満喫してくれ。とは言ったものの、彼が残してる仕事をまともに引き継いでないものだから、どうしたもんかと頭を悩ませていたんだ」
「今日私に頼みたい仕事って、要はファジョリーノの仕事ですね?」
「察しがいいね。その通りだ」
「店長、せめて今日だけでも定時までお仕事させてください。店長だってお休み、ですもの……」
急に、猛烈な眠気がを襲った。体中の血液が背筋を通って一気に頭へと登って集まって、その熱がまた一気に下へ向って下りていくような感覚がした。おかげで脳への血液の供給が滞っているのか、あくびが止まらない。意識が朦朧とし始めた彼女だったが、店長と話をしているのに大口を開いてあくびをするなんて失礼にも程がある、とまだ頭の片隅で考えることはできた。あくびを止められない口元を手で覆いながら、必死になって弁明しようとする。
「て……店長、ごめん……なさい、私、なんだか……突然……」
だが、弁明もまともにできないうちにふらりと頭をゆらし、はテーブルに突っ伏した。 対面するリコルドはさして慌てる様子もなく、静かに呟いた。
「いいんだ、。休みを満喫してくれと言ったろう。君には休養が必要だ」
44:Club Foot
ギアッチョはガレージに置いたままにしていたワーゲンのビートルタイプ・ワンに乗り込んだ。年季の入ったこの黄色い車は代車だ。必要にかられない限り乗らなかった、借りて一週間が経つそれにしぶしぶエンジンをかけた。
好みではなかった。オープンカーでないこの車の閉塞感も、ひどく狭っ苦しいキャビンも、かわいらしい見た目も、かたかたとハンドルをきるたびにどこかが軋みをあげる音も、板に貼付けられているかのような乗り心地も、とにかく何もかもが気に入らなかった。それにこの車に乗っているところなんて誰にも見られたくない。だが今しがた修理が終わったと、が働くディーラーのメカニックから連絡が入ったのだ。
メカニックから連絡が入ったのも気に食わなかった。に連絡してくればいいのに、なんでわざわざオレに。
メカニックが夏休みを取っているにわざわざ連絡するわけがない――彼はとギアッチョが同じ家に住んでいるとは思ってもいない――し、ユーノス・ロードスターの所有者は他でもないギアッチョである。知らないところで理不尽極まりない文句をブツブツと言われるメカニックが不憫だ。支払いはが済ませているので、ギアッチョは鍵を受け取り恋しい愛車に乗って帰るだけだが、その短い時間で悪態をつかれることになるであろうメカニックの未来を憂う者はいない。つくづく不憫である。
ギアッチョはの職場へと向かう道中、前をゆっくり走る車を煽りまくり、クラクションを鳴らしまくって信号無視を繰り返した。自分がこの車に乗っているところなど見られたくないと思っていたはずの黄色いビートル タイプ・ワンに乗ったギアッチョは、市中で注目の的になりながら目的地へとたどり着く。敷地に乗入れ駐車スペースのあたりにむかって車を走らせて、ほとんど白線の枠を無視してビートルを停めた。そして車から下りて乱暴に扉を閉めると、ビートルに一瞥をくれて工房へと向った。
そこには、ピカピカに磨かれた真っ赤なロードスターがあった。シチリアでぶつけて潰れていた顔も綺麗に修復されている。ギアッチョははあ、と溜息を漏らした。やはり車ってのはこいつに限る。
ギアッチョは、台車に背を預けて愛車の下へ潜り込み何やら作業をしているメカニックに声をかけた。すると顔や衣服をところどころ黒く汚した筋骨隆々のメカニックが屈託ない笑顔を向けて応答する。今ちょうど最終調整が終わったところだ。もう渡せる。けど、受け取りのサインが欲しいから少し待ってくれと言って、離れてどこかへ向かうメカニックを見送った後、ギアッチョは腕を組んで工房の壁により掛かった。
暇な間外に並ぶ車を眺めたり工房の中を見回したりしているうちに、向かいの壁にある事務室の窓に目がとまった。人ではない大きな何かが暗い室内で動いているように見えたのだ。
一・語メートル✕二メートル程度の横長の窓にはカーテンがかかっていた。だが、中途半端にカーテンが閉じられているせいで中の様子が伺えてしまったのだ。――幅三十センチメートルほどの狭い隙間の向こう側に"死神"がいた。
な、何だ……!?ありゃあ、一体。
ギアッチョはゆっくりと窓へ近寄った。ギアッチョには普通の人間に見えない物――スタンド――が見え、自身もまたそれを操る者であるという自覚がある。だから、真っ昼間から化け物が姿を現したと慌てふためくことはしなかった。彼の世界では、今目の前にいる何かは絶対に存在し得ないものではないからだ。彼は恐怖心に勝る好奇心に突き動かされていた。
窓辺にたどり着くとそこに背を預け、カーテンの隙間からそっと中を覗き込む。
三メートルの高さがある天井に頭部が付きそうなほど大きな体を持った、目元を鋼鉄のマスクで覆った骸骨。ボロボロのローブを纏っている。宙に浮いたそれの裾が床を撫でる。足は見えない。目を引くのは、死神が放射状に大量に背負う核弾頭のようなものだった。それがギアッチョの見た死神の姿だ。
死神は、彼――彼か彼女か分からないが――には少し手狭な室内で体をくねらせるようにして暴れていた。暴れているといっても、部屋の中をあちこち動き回りのたうち回っている訳ではない。足枷で固定されたように、その場で何かにあらがうように藻掻いている。だとすれば、きっとそれは鎖に縛られているからだろう。腕を前で組んだ状態で、太く重そうな鉄製の鎖にぐるぐる巻きにされて、締め上げられているのだ。
ギアッチョが息をするのも忘れて死神の動向を伺っていると、不自由な体を必死に動かして拘束を解こうとしているそれが唐突に彼の方へ顔を向けた。鋼鉄のマスクで覆われた顔だ。何も見えていないはずだし、ギアッチョにはそれの目も見えない。見えたところでおそらく骸骨の眼孔は真っ暗だろうし、物を見ることができるのかどうか分からない。そもそも物が見えるとか見えないとかを論じることが適切かどうかすら怪しい。
だが、その異形の何かと目が合ったような気がした。瞬間、ギアッチョは息を呑んで身を引いた。途端、この世のものとは思えないような叫び声が鼓膜を貫いた。
地獄の底から、地獄の鎖に縛られて逃げ出せずにいる罪人が、助けを求めて叫んでいるような。そんな罪人を取り囲む数千の悪魔が一斉に叫ぶような。とにかく身の毛もよだつ、恐ろしい声だった。
ギアッチョはカラカラに乾いた喉をつばで潤して、再度慎重に中の様子をうかがった。未だに死神は暴れている。だが、顔はこちらには向いていなかった。何に顔を向けているのか、その視線の先を追って目を凝らす。暗い室内の奥の方で、スチール製のオフィスデスクに突っ伏すの姿があった。
……!?
インパクトの強い方にばかり気を取られていて今まで気づかなかったが確かにそうだった。だが、休暇を取っているはずの彼女が一体何故職場にいる?
「やあ。久しぶりだねギアッチョ」
男の声。メカニックではない。懐かしい、どこか安心する優しい声が背後から聞こえてきた。ギアッチョが振り返ろうとした瞬間、後ろから伸びてきた手で鼻と口を布で覆われ押さえつけられた。抗おうともがけばもがくほど羽交い締めにする腕に力が込められて息も上がる。そして有機溶剤のようなアルコールに似た刺激臭を放つ布を介して空気を大量に吸い込んでしまう。
もがく内にくらくらとしてきた。意識が遠のいていく間、ギアッチョは不覚をとったと後悔した。狩る側の自分が狩られるはずもないという慢心と不用意な好奇心がもたらした結果だと。
四肢に力を入れられなくなって、ギアッチョは地面にくずおれた。うめき声を上げながら頭痛のする頭を抱えた。意識は朦朧としてくる。こんなことをオレにしたのはどこのどいつだ、と苦悶に顔を歪めながら上を見た。だが視界が徐々に閉じていく。そのぼやけた視界でとらえたのは、1週間前にロードスターを修理に出した時、店内で見た男の姿だった。
やっぱり、あんただったんじゃねーかよ。
ギアッチョは薄れゆく意識のなか、しゃがんで自分を覗き込む男の顔を見て思った。懐かしい、心のどこか奥底で、そして忘れてしまった遠い昔に、またどこかで会えればと思っていたはずの男が今、自分の目の前にいる。
「リコ、ルド……なんで、あん、たが……」
「ギアッチョ。しばらく見ない間に大きくなったね」
リコルドは優しい手付きでギアッチョの頭を撫でた。昔よくやっていたように。同時にギアッチョは目を閉じた。必死に繋ぎ止めようとしていた意識を取り上げられるように。