暗殺嬢は轢死したい。

 血管が脈打って、全身がベッドの上で小さく跳ねているような感覚。鼓膜の奥から響く早鐘を打ち鳴らす心臓の音。喉の奥が締め付けられるような焦燥感と、喉がカラカラになったような、心の底から水が欲しくなるような渇望感。過呼吸気味で息も苦しくて、火を噴くように熱く火照った体が早く“薬”を、と急かしてくる。

 これは禁断症状だ。死んで快感を得るのが久しいと必ず起こるようだ。四度目ではやっと自覚した。自分は快楽中毒者だと。

 彼女の体がもっともっとと欲しがっているのだ。薬物やアルコール依存症の患者がクスリやアルコールをやめられないのと同じように。だが、だからと言ってそんな患者に欲しい物を欲しいだけ与えていては病気は克服できない。だから、他の物で体を騙して、大人しくなってもらうしかないのだ。と、彼が言ったことを思いだす。彼――チョコラータが言っていたことだ。

 だからこれは治療だ。覆いかぶさるホルマジオの体を押しのけてバスルームに引きこもるなんて無理だ。無理だしそもそもやる気が起きない。しかもこの状態でキスを始めてしまった。私は言うまでもないが、こんなことじゃホルマジオだってきっと止められないだろう。彼は前々から言っていた。私と寝てみたいって。拒まれないならウィン―ウィンで丁度いいじゃないか。――の理性は、ホルマジオと交わることをいとも簡単に容認した。

 キスを求められたホルマジオは両手をの髪に埋め、彼女の頭を両側から挟むようにして押さえた。角度を変えながら、浅く誘うように何度か軽く唇を落としたり、かと思えば舌を突き入れて奥深くを貪りながら、大きく開いた口での口を塞いだりした。鼻で息をするふたりの呼気は温かく、ふたりの頭はますます熱に浮かされていく。

 ホルマジオは片手を彼女の髪の中に残したまま、もう片方の手をうなじをすべらせて背後に回した。はぞくりとしてベッドから背筋を浮かす。弓形になった背中を手はそのまま下へとたどっていった。腰にまでたどり着いた時、ホルマジオとの腰がぴたりと合わさった。が熱く隆起したものの存在を感じてすぐに、それはそっと押し付けられる。彼女はたまらずうめき声を漏らした。

 欲しい。今すぐに。早くそれで私を貫いて、気持ちよくして。

 はホルマジオの肩に腕を回して抱きしめた。早く入ってきて欲しいのに、尚もキスを続けて焦らす彼――彼に焦らしているつもりは微塵もない。彼女の要求が早すぎるだけだ――を諭そうと、ホルマジオのフェイスラインをかたどる様に掌を添えた。そのまま少し力を込めて押し上げて合わさった唇を遠のけると、は上気した悩まし気な顔で哀願した。

「ねえ、ホルマジオ。我慢できないの。早く、入れて欲しい」

 あのが、オレを求めている。彼女と初めて仕事に出た時から求めていたことが今、実現しようとしている。

 喜びとか感動とか、それを上回る興奮がホルマジオの胸を熱く、苦しくした。その圧力は下へ下りていって、彼の欲をさらに膨らませる。そしてたまらず、を掻き抱いた。彼にも余裕が無かった。前戯で煽るまでもない彼の欲が、はち切れんばかりにペニスを怒張させている。

 パンツに締め付けられるそれを自ら解放しようと手を動かそうとする前に、の手がそこへ伸びていた。ボタンを外し、ジッパーを引き下げ、下着の薄い布地を押し上げるそれを掌で覆った後優しくさする。ホルマジオは股間を覆う彼女の手の動きを見てうなるような低い声を漏らした後、様子を伺った。するとふたりの目が合って、ははにかんで言う。

「口で、してほしい?」
「いや……。オレももう、我慢できそうにねぇよ。フェラチオなんてされたら、すぐにいっちまいそうだ」

 情けなさそうな小さな声でホルマジオは言った。パンツと下着を脱いで床に放り投げると、の腰に手をあてがった。彼女はすぐに腰を浮かせて、彼がショーツを脱がせるのに協力する。太ももから足先へとゆっくり滑っていくショーツ。我慢できないと言っていた割にゆっくりでじれったい。は指を咥えて大人しく待った。

 ショーツが床に放られると、ホルマジオの指が濡れた入り口に添えられた。彼とキスをする前から溢れ出ていた愛液にまみれたそこを、彼の指の腹がゆっくりと上下に滑っていく。その内にぷつりと指が挿入されて、手前の浅い所までで何度も出し入れを繰り返された。

「ん、いや……焦らさないで」
「しょうがねーな。こっちは焦らしてるつもりなんかねーってのに。……それにしたって、なんでこんなに濡れてんだよ。まだキスしかしてねーよな」
「……そういう体なの」
「ああ、。……たまんねーよ。お前、エロすぎるぜ」

 たまらないと言った言葉通り、完全に余裕を失くしたホルマジオは、の腰を掴んで一気に奥まで貫いた。

「――あっ」
「あっつい、な……それに、キツい。まさか、初めてってわけじゃあねーよな?」

 過去の話を率先してしないの男性遍歴などホルマジオは知らなかった。気にはなったが、素面でするような話じゃないし、酒を飲んでいるときは決まって周りに邪魔者――チームメイト――がいた。だが、締まりがいいからと必ずしも処女というわけではないだろう。いつだったか、ヨガのインストラクターをやってるっていう女を抱いた時も締まりが良かった。その女は感じることこそ生きることだ、なんてよく分からない持論を展開して色んな男と寝まくるビッチだった。それに処女なら恥じらって、自分から入れて欲しいなんて言うはずがない。

 積極的でエロティックなの新たな一面を前にして――自分のことは棚に上げて――ホルマジオは嫉妬していた。こんな女と一緒に同じ部屋で一夜を明かそうとして、抱かないでいられる訳がないと。最初の頃、メローネと穴兄弟になるかもしれないと自制心を働かせていた自分は、きっと聖人か天使か、その類の清らかな何かに体を乗っ取られていたんだ。とすら思えた。

「心配、してる?っ、他に誰かと、寝てるんじゃないかって」
「顔に出てたか?」

 腰をゆっくりと動かしながら、ホルマジオは笑って言った。は小刻みに声を漏らしながら頷いた。

「心配、しないで……。チームに入ってからは、誰とも、してない」
「チームに入ってからは……か。それってたった、3か月の話だろ。……それにしても、お前3か月も、誰ともセックスしてねーのか?」

 眉根を寄せて顔をそらし手の甲で口元を覆い隠して恥じらうだけで、は何も言わなかった。セックスはしていないが、自分で自分の体を触って慰めていた。思い返すと恥ずかしくなった。

「もったいねー」

 ホルマジオはそう言うと、仰向けのに覆いかぶさるようにマットレスに手をついた。下方ではしっかりとの腰に自分の腰を打ち付け律動を続けながら、息を少し乱して顔を近づける。ホルマジオの低く落ち着いた声が、顔をそらしたままぼんやりと壁を見つめていた彼女の鼓膜を震わせた。

「もうオレのもんに、なっちまえよ。オレなら、お前を3か月も……ほったらかしにはしなかったぜ。……もったいねーからな。お前みたいなイイ女、抱かないでいるなんてよ」

 ホルマジオの声に、体が反応してぞくぞくした。言葉は、の胸をぎゅっと締め付けた。ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んで、彼の言葉の真意をさぐろうと、ざわつく心を鎮めようとする。そんな彼女の胸をホルマジオは鷲掴みにした。いつの間にかスリップの薄い布地をずらされて空気にさらされていた固く尖った乳首を、指先で転がしながらやや乱暴に乳房を揉みしだく。唐突に訪れて以降小刻みに与えられる快感に、思考回路は寸断されてしまう。

「あっ、だめ……そんな、入れながら、なんて……あ、ああっ、ん、んっ!」
「っ、まだ締め付けられるってのか……!?ああ、やべぇ。マジで、気持ち、いいぜ……!」
「あっ――!」

 ペニスを一度深く突き立てた後一気に引き抜くと、ホルマジオはの片側の肩を掴んで引き起こし、反対側の体側をマットレスに埋めさせた。少し後ろに身を引いて上になった方の足を肩に担いで、一度引き抜いたペニスを再度の中へと突き入れた。

「――っ!!」

 背筋を電撃が走り抜けていった。は声にならない喘ぎをあげて目を剥いた。奥深くで眠っていた神経が叩き起こされて跳ね上がる。ホルマジオは担ぎ上げたの足にしゃぶりつきながら腰を前へ後ろへと動かした。最初はゆっくりと、そして徐々に動きを速めていく。は体を突き動かされるのと同時に、小刻みに声を上げた。

「こうすると、すげー締まるんだよ。は、ははっ……全部、絞り取られちまいそうだッ……」

 声を上げずにはいられない程のずきずきと鋭利な快感に身をよじり、足の指を曲げて体を強張らせた。ベッドシーツを掴んで引っ張って、突き崩されてしまいそうな感覚に必死に耐えた。気を抜いたらすぐにいってしまいそうだ。彼女がそうやって堪えている間も、絶え間なく律動は続く。

「あっ、だめ、だめだめっ……!いや、あ、ああっ、壊れ……ちゃいそうっ、ん、激しぃっ……いや、止めてっ!!」
「イイ、の間違いだろ?もっと……もっと、欲しいんだよなァ?」
「あ、ん、そう……そう、なの。欲しいの!もっと、もっと欲しい……あっ、ああっ――!!」

 堪えきれずに緊張を解いた瞬間、脳内で何かが弾けた。死の瞬間に感じているあの至高の快感には及ばないが、それでも凄まじい快感だった。は湧きおこる悦びに打ち震えた。びくびくと奥深くの筋肉が痙攣して、今まで極限まで締め付けていたホルマジオに達したことを伝える。

「感じやすいんだな」
「……そのぶん、満足するのもすぐだって……思ったなら、それは違うわ、ホルマジオ」

 は肩で息をしながらベッドに腕を立てて上体を起こし、乱れた髪を掻き上げた。彼女の、まだ熱のこもったままの瞳がホルマジオを捕らえる。そのぎらついた視線に射貫かれて、ホルマジオはごくりと喉を鳴らした。彼の知らないが、姿を現した。ひどくエロティックで、強欲で、たまらない。

 はホルマジオの肩に手を置いて押し倒すと、彼の腰のあたりにまたがって覆い被さり唇に噛みついた。下唇を甘噛みして上に持ち上げて、舌を口内に捻じ込んでまさぐった。

「まだ足りないわ。全然、足りない」

 喉笛に噛みついて、ホルマジオの緩く開いた掌に自身のそれを合わせ、手指を交差させる。ぎゅっときつく握り彼の手の甲をマットレスに埋め、器用に腰を動かして彼自身を再び中に埋めていった。

 顔を伏せて目を閉じて、思い出した。なんの躊躇いもなく与えられた至高の快楽と、手に入りそうで手に入れられなかった愛を。愛した男のキス、愛撫、そして中に埋め埋められた熱を思い出した。泣いていると気取られないように、一心不乱に腰を振った。ずきずきと痛みだした胸の痛みを上回る快感を体の芯に植え付けて心をごまかした。



43:Rehab



 暗殺者チームの一員となってから、これまでに三度死ぬことができた。今回は死ぬ前に酷く苦しむことになったけれど、ホルマジオの手で殺してもらえたということは特別だった。いつもの数十倍良かった気がする。まだ愛し合う仲ではないが、愛なんてものはこの後ゆっくり育んでいければいいし、その末に死んで得られる快感なんて、想像もつかないほどにいいんじゃないか。今までは絶望していたけれど、自分が望む最後を迎えるのは不可能ではないかもしれない。

 ホルマジオの手で“殺してもらい”生き返った後すぐはそう思った。だが、キスを交わした後の彼の顔を見て、やはり自分はおかしいのかもしれない。と思った。けれど結局そんな気づきは捨て置いて、次の日ふたりで、まるで仲睦まじいカップルのように観光を楽しんでいる間は、ふたりの未来を夢見て期待に胸を膨らませたりもした。だが、ふとした瞬間に思い出してしまった。ホルマジオが自分を手にかけた後に見せた、あの悲し気な表情を。

 自分が快楽を得るためだけに、彼にあんな顔はさせたくない。もう二度と。同意の上でないといけないのだ。お互いが楽しめなくちゃいけない。躊躇っている様ではいけない。私を殺すことを、躊躇っているようでは。

 だからホルマジオは私のパートナーには相応しくない。やっぱり、彼だけだったのだ。チョコラータ。もう二度と会えない彼としかハッピーエンディングは望めない。そもそもホルマジオは、私と真実の愛なんて育むつもりはないだろう。彼にとって私はその他大勢の女性の中の一人でしかない。今回の彼とのセックスは、私にとっても単なる治療行為に過ぎない。愛されているなんて勘違いをして、思い上がってはいけない。チョコラータにそうしてしまったように、簡単に心を開いてはいけない。またどうせ、傷ついて終わるだけだ。

 精を尽くし、息を荒げながらベッドの上で大の字になっているホルマジオの腕を枕に、は天井を見つめていた。体は一応の満足を示し、例の動悸や疼きや体温の上昇といった禁断症状も完全に収まっていた。快感に寸断されていた思考回路も復活して、今ではすっかり考えることに没頭してしまっている。考えてもどうにもならないことを考えている。そんな自覚はあったが、それでも思い出さずにはいられなかった。どうしようもなく、恋しかった。

 ――私の病気はあなたよ。チョコラータ。まるでリハブにいる気分。あなたを克服するために、合法的な薬で体をごまかしてる。

 には、セックスというのは生殖行為を根底に置いた神聖なものという認識があった。愛を交わし、新たな生命を生み出すための美しい行為。日々進歩し続ける科学であっても許されないそれが、生物には許されている。神秘的で、愛に溢れていて、美しい――いや、本来美しくあるべき行為なのだ。公衆衛生的な観点から見ても、名前もよく分からないような不特定多数の人間と肉体関係を持つのは良いことではない、と考えていた。自分がこの人であればと心を許した人間――そう思ったのが彼女のこれまでの人生で覚えている限り、生命を蹂躙することでしか自己を保てないチョコラータだけだというのはかなり皮肉な話だが――とでなければ、コンドームも付けさせずに性行為に及ぶなど考えられない、あり得ない話なのだ。愛も無いのに、例え体の不快な症状を抑えるためとは言え、簡単に体を許してはいけない。

 だがホルマジオと交わる間、の脳は考えることを止めていた。体は快楽と言う名の薬以外求めていなかった。ホルマジオがコンドームを付けているとかいないとか、彼がおそらく巷の何十人、いや、下手をすると百を超える女性と肉体関係を持ってきたプレイボーイであるとかないとか、そんなことを考える余裕は無かったのだ。

 そもそもセックスが神聖なものだと考えているのであれば、それによってこの世に生を受けた彼女が快楽のためだけに死にたがり、科学を超越した精神エネルギーの成し得る特殊能力で何度も何度も死んでこの世によみがえるということが神聖な行為によって生まれた生命、つまり神聖なものを冒涜する行為に他ならないと誰もが思う――カトリックの教えによれば“死”そのものを目的とした自殺は不正な自己殺人で大罪である――し、彼女自身がそう思い至ってもよさそうなものだが、にはその自覚がなかった。だから彼女は、ホルマジオに殺してほしいと訴えた時、何故躊躇っていたのかが分からなかったのだ。それが彼女への愛故であると知りもしない。彼女さえ望めば、ふたりは愛し合うことができるというのに。

 は知っているはずだ。愛する者が死ぬ、殺される、愛する者を殺してしまう――つまり、もう二度と会えなくなる。それがどれほど悲しいことか。だが、彼女はつい最近までその悲しみすらも忘れていた。忘れて快楽に耽っていたのだ。そして、何の躊躇いも無く与えられた幾度もの死と快楽に脳が侵されて、正常な判断ができなくなっている。自分はおかしいのかもしれないという気付きが、チョコラータという男の存在と彼に与えられた快楽を惜しむ狂った悲しみに押し流されて、どこか遠くへ押しやられていく。

 の心は死にかけて悲鳴を上げていた。

「……何で泣いてんだよ」

 いつの間にかの首筋から腕を抜いて、ホルマジオは片肘をついて彼女を心配そうに眺めていた。彼に指摘されるまで、は気づかなかった。自分が涙を零していると。やがて零れた涙が耳の方へ流れ落ちていって、ひんやりとした。

「ねえ、ホルマジオ。あなたとこんなことしておいて、言うのは何なんだけれど……。私……どうしても、忘れられない人がいるの」

 最早には分からなくなっていた。最初は、ハッピー・エンディングを迎えるために、心身共にチョコラータを求めていた。それは確かだ。だが今となっては、自分がハッピー・エンディングを実現したいからチョコラータを忘れられないでいるのか、チョコラータを愛してしまったがためにハッピー・エンディングを遂げることに固執しているのか分からない。もしも前者なら、限りなくゼロに近いにしてもまだ報われる可能性はある。でも、もしも後者なら?もう二度と会えない彼を思うだけで、心のど真ん中にぽっかりと風穴が空いたまま亡霊のように生きて、諦めの末に死ぬんじゃないか。――そんなのは、嫌だ。

 また涙が零れた。ホルマジオはいたたまれなくなって、彼女の瞳から零れ落ちる涙を拭って顔を掌で覆った。

「お前を泣かせてるそのクソ野郎は一体どこのどいつだ」
「……私を何度も何度も殺してくれた人」

 ホルマジオは開いた口が塞がらなかった。

「正真正銘のクソ野郎じゃねーか」
「……どうして?」

 愛した男をクソ野郎と罵られたら、普通は怒るんじゃないだろうか。だがは悲し気に眉を顰めて問いかけるだけだった。

「彼は私が欲しい物をこれでもかっていうくらいにくれたわ。それに、最後の最後だったけれど、愛してるって言ってくれた。でも彼にはもう二度と会えないの。それが辛くて、泣いてるの」

 そう口にしてはじめて気付いた。彼には、もう殺してやらないと言われた。それでも会いたいと思っているわけだから、きっと後者だ。救いようがない。

「なあ。お前以外の人間にとっちゃ常識って話をするぜ。普通、愛してる女を殺す男なんていねぇ。常識すぎて今まで誰もお前に言わなかったんだろうが、気付いてねーみたいだから教えてやる。普段人の価値観を間違ってるとか正しいとか批評はしねーんだが、これだけは言わせてほしい。そんなクソ野郎の語る愛は愛じゃねーし正気の沙汰じゃあねー。だから、もう二度と会えなくて正解だ」

 ホルマジオはを胸に抱き寄せた。

「安心したぜ。お前が忘れられないって言ってる男がまっとうな世界に生きてる聖人君子だったらどうしようって思った。でもどうやらそれはオレの思い過ごしで、お前を殺すことを躊躇わないようなクソったれのサイコ野郎らしい。……それならオレは全力でお前の恋路を邪魔してやる。女にしてみれば悪い男に惚れちまうってのはよくあることなんだろうが、悪さにも限度ってもんがあるだろ」

 抱き寄せたを、ホルマジオはぎゅっときつく抱きしめた。

「オレが前に言ったこと、覚えてるか。お前を幸せに死なせてやりたいって言ったろ」
「それは……」

 それは昨日叶えてもらった。そう口をついて出そうになった言葉をは飲み込んだ。彼が言いたいのはきっと、そのことじゃない。もう彼を悲しませたくないからと、は喋ることに慎重になっていた。

「お前がどうしてそうなっちまったのかは知らねえ。お前にも分からねーんだろ。でもきっと何かあるはずだぜ。ほら、酒とかクスリに溺れるやつってのは、何か心に問題を抱えてるから依存してるって言うだろ。お前もきっとそうなんだよ。……要は、オレが言いたいのはさ、お前が幸せになれる別の方法を探すのを、手伝ってやるってことなんだ。お前が死にたいって思わないように、死ななくて済むように……守って、やりたい。お前が苦しむ姿なんて……もう二度と、見たくねーんだ。それで、お前がばあさんになって、寿命で死んじまう時、最後の最後に幸せだったって思えるように……してやりたい。今はそんな気持ちだ」

 ホルマジオの言葉の冒頭部分は良くなかった。お前は病気だと再三の通告を受け、ありのままの自分は結局愛してもらえないのだと言われているような疎外感を覚えた。一緒に頑張って克服しようと、依存症にかかったことも無いカウンセラーに言われているような気にもなった。けれど、後の方は良かった。どうやったって死なない私を守ってやりたい?この人は本当に暗殺者なのだろうか。優しすぎる。

 そう思うと、ますますハッピー・エンディングが遠のいていく気がした。間違っていると周りは言うけれど、自分がそれを諦めきれていない。チョコラータを、まだ諦めきれていないのだ。彼に出会う前の自分を取り戻せるのなら、それは奇跡だ。

「そうなれたらいいな」

 自分があの快楽に依存しているのが何故なのか、その原因には少しも心当たりがなかった。この心に巣食う病魔を追い払える気なんて少しもしなかった。それでも、今のこの温かで幸福な気持ちは、ぽっかりと開いた心の穴を満たしてくれているような気がした。そうなれたらいいなと思う気持ちにも嘘はなかった。

 はホルマジオの気持ちに応えるように、彼の胸に顔を埋めて呟いた。

「見放さないでいてくれてありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」
「……ああ」

 全部、お前のことが好きだから、お前に心の底からオレを受け入れて欲しいと思ったからだ。こんな風に思ったのは初めてなんだ。――これはきっと愛だ。お前が愛しいんだ、

 言いたいと思っていた事をホルマジオはなかなか口に出せなかった。が今、自分の腕の中にいる。拒絶されていない。そのことだけで今は満たされてしまっていたからだ。その幸福感とほどよい疲労とで、いつのまにか眠りに落ち、いつの間にか朝を迎えていた。



 イタリアに帰ってからホルマジオは後悔した。きちんとをモノにしておくんだったと。抱き寄せて耳元で愛を囁きたいのに、チームメイトが邪魔で邪魔で仕方がない。けれど、その中で楽しそうに笑う普段通りのを見て安心もした。

 ……ま、そう焦らなくったって、あいつはいつだって傍にいるしな。

 ホルマジオは彼女と寝たというアドバンテージを胸に、余裕の心構えでいたのだった。