トランクに押し込まれて十五分程揺られた後車は停まり、バンの後部ドアが開かれた。に車から降りるように言う大柄の黒人男性。何を言っているのか分からないし、彼女は捕らえられて乱暴されるんじゃないかと恐れおののく人質のふりをしなければならない。
私は女優。怖いって思うの。全然怖くなんかないし、死にもしないけど、怖いって思うのよ……。
は心の中で唱え、後ずさりしながらイヤだと抗った。痺れを切らした男は車に乗り込んでの頭髪を掴み、無理矢理トランクから彼女を引きずりおろす。手首をロープで固定されていたが、足は自由に動かせる。そんな状態でも、彼女は敢えて進んで自分から歩きだそうとはしなかった。人質ならそうするだろうと思ったからだ。すると男は明らかに苛立った様子で身に付けていた拳銃を取り出し、銃口をのこめかみに突き付けた。さすがにここまでされたら、普通の人質なら怯えて言われた通り動くだろう。は死が間近に迫ったシチュエーションに興奮を覚え、このまま動かずにいたらどうなるだろうと妄想にとりつかれそうになるのを堪えて渋々歩き出した。
そこはリオの市街地を見下ろす小高い丘の上だった。建設途中で放棄されたと思われる鉄筋コンクリート造のマンションがの目前に建っている。三階建てのそれは窓も何も取り付ける前にギャングに占拠されたのか、塗装すら終わっていない打ちっ放しのコンクリートの壁が目立っていた。近くに立っている電柱の電線に向かって周辺の建物から電線が伸び、無造作に括り付けられている。遠目に見ると鳥の巣のようだ。が連れてこられたこのマンションの住民も日々盗電に勤しんでいるのか、マンションの至る所から近くの電柱へと電線が伸びていた。部屋の窓はトタンや廃木材で覆われていたり開け放たれていたりとまちまちだったが、ほぼすべての部屋に人が占拠しているようだ。窓から顔を覗かせて、が建物に入っていく様子を住人たちが凝視している。
恐らくここに居を構える人々は、PCCというギャング組織に協力することで生きていけるのだろう。要は持ちつ持たれつの関係で、よそ者が勝手に入ろうものならすぐにPCCに報告が行き、銃を持ったギャング達に蜂の巣にされるのが落ちだ。リゾットが今回の任務に適しているのがイルーゾォかホルマジオだと言ったのにも納得がいった。
屋内に足を踏み入れ照り付ける太陽の光から逃れると、ひんやりとした空気がの火照った体を覆った。建物の奥へと連れていかれる間、彼女は周辺の様子をしっかりと観察した。入り口付近のある一室では、少年少女と言えてしまうほどの年齢にしか見えない若者たち数名が、ひとつのダイニングテーブルを取り囲んで何やら小包をこしらえていた。はちらとしかその部屋の様子を見ることができなかったが、恐らくPCCが資金源とするコカインか、何か違法薬物の類を子供たちに包ませているのだろうと想像した。
アパートの入り口から三十メートルほど奥に向かって歩いた先、突き当りから右に曲がると階段があった。どうやら地下にも部屋があるようだ。地下室と言えば、閉塞した空間で音も外に漏れにくい。人質を拘束して拷問するにはうってつけだ。
死にたくはあるが、拷問で死をお預けにされて痛みで苦しめられるのは嫌だ。は自分が提案したことを今更ながら後悔したが、仕事を完遂するためには必要なことだった。今回の仕事は、彼女が暗殺者チームの一員として仕事をこなしてきた中で初めての苦痛を強いられることになるかもしれない。は珍しく緊張していた。そしてホルマジオに早く助けに来て欲しいと思った。
普段はホルマジオが傍にいるだけでどうにかなっちゃいそうなのに、今はそんな彼が白馬に乗った王子様みたいに助けに来てくれることを望んでるなんて……自分勝手にもほどがあるわね。
は暗殺者チームに身を置きながらも、チームメイトに監視を受ける身だ。今回はターゲットの居場所を特定するためにわざと人質に取られてはいるが、仮にターゲット以外の仕事に関係ない誰か――例えばインヴィートのようなイレギュラーな手合い――に人質に取られたとしても見捨てられることは無い。ニューヨークでそうだったように、助けは必ず来る。希望はある。
だが、もし自分がそうでなかったとしたら?自分が行方をくらませたところでチームに何も影響が及ばないとすれば?自分に人質としての価値は無い。恐らく、酷い凌辱を受け、死ぬことも許されないまま、死ぬまで長く苦しめられることになるのだろう。彼女にとっては死ぬことよりも、生きることの方が何倍も恐ろしかった。
決して拷問の間に、自分が死なないことなど悟られてはいけない。死なないと分かっていれば、加減など無い暴力で精神的且つ肉体的苦痛を植え付けられ、それを何度も繰り返されることになる。まさに生き地獄だ。
は少ない照明に照らされるだけの先の見えない仄暗い廊下を歩く間、珍しく精神を恐怖心に支配されていた。地下に足を踏み入れるまで少しも恐怖心など抱いていなかったというのに。場の雰囲気に呑まれやすい感受性の豊かさが災いしているだけだ、と彼女は自分に言い聞かせた。
そしてはこの時初めて、ギャングと呼ばれる人間が生き抜く裏社会を悍ましいと思った。そんな思いを抱くには遅すぎる。今更だと指摘してやれる仲間は生憎近くにいなかった。
コンクリート製の戸口に無理矢理はめ込まれた木枠。そこに素人仕事で付けられたような粗末な扉が開かれて、は乱暴に部屋の中へと押し込まれた。打ちっ放しのコンクリートに囲まれた息苦しくなるような部屋だ。横に長い部屋の入ってすぐ目前にソファーやローテーブル、テレビが置かれていて、右手にオープンカウンターキッチン、左手に別の部屋へと通じる扉が見えた。地下とは言っても完全に地面に埋もれた部屋では無いようで、向かいの壁の天井近くには20×40センチメートルほどの鉄柵が付いた換気口が等間隔で5つほど設けられている。
が部屋の入口付近で男に拘束されたまま立っていると、左手にあった部屋の扉が開いた。
「……女って聞いてたからよォ。あんまり手荒な真似をするつもりはねーんだが……まあ、何はともあれ、準備は万端だぜ」
流暢なイタリア語では男の歓迎を受ける。日焼けした肌。ボリュームのある黒髪をオールバックにして、上唇の上と顎周りに口ひげを生やした三十代前半の男。写真で見た通りのターゲットの男がそこにいた。
39:Ride
男はの肩を抱き寄せて寝室と思しき部屋の方へ彼女を連れて行く。
「まさかこんな別嬪さんが来るとは思ってなかったなあ~。アンタ、暗殺者チームのもんだろう?なあ、オレのことをわざわざ殺しに来てくれたってのか?それにしたって金だけ奪ってオレを殺しそびれて……酷くお粗末じゃねーか?」
温厚な喋り口調とは裏腹に、男はを透明のビニールシートで覆われたベッドへ向かって乱暴に押し倒した。肩を掴まれ無理矢理仰向けにされると男が馬乗りになってきて、の手首を拘束しているロープをナイフで切った。すかさずベッドのヘッドボードの柵にあらかじめかけておいた手錠へ手を伸ばし、の手首を頭上で拘束する。普段は抵抗などしないだろうが、は普通に死を恐れ、普通に死んでしまうか弱い人質の女を演じなければならない。わざと怯えて腕に力を入れ抵抗して見せた。を拘束する間、抵抗されて煩わしそうにしながらも男は声を荒げることなく淡々と喋る。
「あの金はなあ。オレがパッショーネに入ってからコツコツコツコツ一生懸命くすねて隠して……すげー頑張って貯めたもんなんだ。あれがなきゃ、困るんだよ。分かるだろう?返して欲しい。だからお前の仲間の男がどこにいるか教えて欲しいんだ。すんなり教えてくれて、その情報が正確で、尚且つ金がオレの手元に戻るなら……まあ、すんなり殺してやる」
「いや!殺さないで!お願いッ……!」
「しーっ……静かに。ああそうだ。逆に喋らなきゃ生かしてもらえるって考えるんじゃあねーぞ?死んだ方がマシだって思える苦痛を味合わせてやる。まず手始めに爪を剥ごうか。一枚一枚。その後歯を抜いていく。一本一本。そんで……それでも喋らなかったら、指という指を全部切り落としていってやる。あとはあんたの体が細切れになるまで拷問は続くぜ?頼むから気は失わないでくれ。それと、これはオレのベッドなんだが、血で汚れるのが嫌なんでビニールを敷いてる。掃除は面倒だし、このビニールシートが使われずに済むことをオレは祈ってるよ」
「いや……イヤよお願い……私、何も知らないの……」
「よし、じゃあ始めようか。オレは無駄話は嫌いなんだ。……オレの金はどこだ?」
男の持つペンチが右足の小指の爪を挟んだ。男は相変わらず不自然な笑顔を浮かべている。
ホルマジオがターゲットを殺しにこの建物に来るまでどれだけの時間がかかるかは分からない。もしかすると自分の居場所が分からない、なんていうハプニングが起きているかもしれない。自分に課せられた使命は、ホルマジオがこの場所に辿り着くまで、ターゲットの男を留まらせておくこと。どんなに耐えがたい苦痛を与えられようとも、これからターゲットの男に自分の拷問にかかりっきりにさせておかなければならない。
大丈夫。耐えられるはず。チームの皆のためだもの。皆のために……私は生きなくちゃ。
「私、何も知らされてないの……!本当よ!いや、……やめて――っ!!!」
「オレの金はどこだ?」
小さな小指の爪一枚でも酷い痛みだった。息をつく間も与えないようにして、男はまた同じ質問を繰り返す。そして男の握るペンチは、血を垂れ流す小指のすぐ隣に移った。今度は薬指の爪が剥ぎ取られるらしい。
「オレの、金は、どこだ?」
この男には躊躇いがない。無駄なお喋りが嫌いだと言うのも本当のようだ。こうも矢継ぎ早に爪を剥ぎ取られていたのでは、爪を全て失くすまで二十分もかからないのではないか。ある程度覚悟はしていたものの、さすがのも既に弱腰になっていた。爪を全て剥がれる痛みに耐えられたとして、次は麻酔も無しに歯を抜かれると言うのだ。考えただけでぞっとする。これが手荒な真似はしたくないと言っていたイタリア男のすることか?見事なまでに手荒だ。
「ッ知らない……!――ブチッ――っ痛っ……!」
「なかなか根性あるよな。それともマジに知らねーってのか?……いや、まさかな。オレの金はどこだ?」
「私なんかッ……ただの捨て駒よ……!――ブチッ――……ッ!!!」
「いや。お前らが暗殺者チームなら、オレを殺さずに逃げることは絶対にしないはずだ。じゃねーとボス……いや、元ボスか。元ボスにお咎めくらって死んじまうのはお前らだもんな。だから金を奪った男はどっかにまだ潜伏してるはずだ。その潜伏場所を教えろって言ってるんだよ。男を見つけ出して締め上げて、金を取り返してどっちも殺す」
「それを……教えたところで……お金の場所なんか……――ブチッ――いやああッ!!もう許して、お願い!!!」
「おいおい。もう右足の爪、親指分しか残ってねーぞ?親指の爪ってでけーからなァ。剥いだ後より剥ぐときがいてぇ。たぶんな。もう喋っちまえよ?楽にしてやるから」
「死にたくないの……ッ!お願い……」
「はあ……」
男は溜息を吐いて一度の体から離れた。激しい痛みで気が狂いそうになるのを必死に堪えようと、彼女は深呼吸を繰り返す。足の爪の三枚目を剥ぎ取られてからは演技などでは無く、本心で痛がっていた。最早演技をする気力すら残っていない。だが恐らく、男に言わせてみればこんな痛みはまだまだ序の口なのだろう。拷問を開始されて十分も経っていないだろうに、もう数時間にわたって苦痛を味わわされているような感覚だった。
「……強情な女だな。オレはパッショーネにいた間、もう数え切れねーってほど拷問をやってきたが、その中にも何人かオンナがいたよ。自分でやってて一番えげつねーなって思ったのが、女一人椅子に括り付けて、男三人でケツ穴までブチ犯しながら鞭で打ったり殴ったり火のついたタバコを押し付けたりしたやつだ。もちろん、爪剥ぎ抜歯は基本だぜ?それに比べりゃまだマシだよなこんなもん。……今でも何でかわかんねーんだが、絶対に殺すなって言われてたんだよな……で、殺してくれって泣いて喚いてたんだが殺してやれなかったんだよ……。結局あのオンナどうなったんだろうな?自殺しちまったかな?……さて」
男は抜歯用のペンチに持ち替えて、汗や涙や唾液でぐちゃぐちゃになったの顔を覗き込んだ。顎を掴んで無理やり口をこじ開け、犬歯にペンチを宛がった。まだ爪は十六枚残ってる。話が違う。は必死に頭を振るが、男は片手で首を絞めてくる。
「慣れってのは良くないよな。ここで気分転換だ。麻酔無しで歯なんか抜いたことねーからオレは知らねえが……そりゃあもう痛いらしいぜ?もちろん、気分転換無しに楽にしてやってもいい。仲間はどこにいる?」
「……イ……イパネマの……海辺のホテル……」
「そんなんじゃわかんねーよ。んなもん何百って海沿いに建ってる。こっちも人手がねーんでなるべく効率的に事を運びたいんだよ。是非不意を突きたいと思ってる。もっと詳細に」
「……お願い、やめて……言ったら……裏切ったって、思われて……殺される……」
「お前バカなのか?どうせ死ぬんだぜ?ならこれ以上痛い思いしなきゃいいだろうが。吐いちまえよ。……ああ、暴れんな暴れんなペンチが滑る」
――ブチッ。
肉が引きちぎられるような音がした。直後、凄まじい痛みが脳天を突き抜ける。は叫び声をあげて藻掻き苦しんだ。頭を振ってみたが、そんなことをしてもぽっかりと穴の空いた歯根に血液が集まっていくようで、さらに痛みが増してしまう。彼女は唇を固く閉ざし、大きく開いた目からぼろぼろと大粒の涙を零しながら、鼻から大きく息を吸って、吐いてと繰り返す。その度に口の中いっぱいに広がる血の臭いが際立った。足掻こうにも右足も血だらけで動かせば動かすだけ痛むので、自分の痛覚を誤魔化すことすら叶わない。
車に轢かれても、爆撃を受けても、凄まじい痛みを感じるのは一瞬だ。そしてその直後に最高の快感が待っている。だから彼女はこれまで死にたがってきた。だが、今は違った。
いや……もう、だめ……死にたい……。
仲間のため、決して口にできないその願望を、は必死に押し殺した。朦朧とする意識。霞ゆく視界に浮かぶターゲットの男の歪な微笑み。頬を手のひらで叩かれ意識を連れ戻され、彼女は再度泣いた。口に入ってくるのが涙なのか汗なのか、それとも鼻水なのかわからない。塩味と血の味が混ぜ合わさった液体を嗚咽の合間に飲み込むと、喉の奥に張り付いた。
ひくひくと身体を揺らしながら、男の顔を見つめた。すると男の背後に突如として影が現れる。焦点の合わない視界で揺らめくそれが何なのか、今のには判然としなかった。
「おい。気をしっかり持て。男はどこに――」
男の言葉はそこで止まった。そして目を見開いたまま、の視界から消え失せた。代わりに現れたのは、彼女が拷問を受け始めてからずっと恋焦がれ、頭の中にその姿を思い浮かべていた男の姿だった。
「……ホル、マジオ……?」
ホルマジオは床に突っ伏した男の項部から、深々と突き刺したダガーナイフを抜き取った。――これにて任務完了だ。
だがホルマジオは、まったく晴れやかな気分になれなかった。彼はベッドの傍に立ってはいたが、見るも無惨な、酷くいたぶられたの姿を彼は直視できないでいる。
……このクソ野郎……!
死んだターゲットの男を足を使って仰向けにすると、ホルマジオは顔を踏みつけた。何度も何度も、鼻が折れ、皮膚が裂けて剥げ、血がにじみ出るほどに踏みつけた。だが既に死んでしまっている無反応の男の顔面を踏みしだいたところでまったく気は晴れなかった。
「……ホルマジオ……」
蚊の鳴くような弱々しい声で、は彼の名を呼んだ。
「何だよッ……!?」
ホルマジオは苛立たし気に、尚もから視線を外したまま応答した。
「……お願いがあるの……」
「やめろ……言うな……」
彼には分かっていた。苦しみに耐え抜いた彼女が今、渇望しているものが何か。
「――私を、殺して……」
死だ。ホルマジオが絶対に与えてはやらないと宣言していたそれを、は渇望していた。