暗殺嬢は轢死したい。

 フランスの国際空港での乗り換えの後、ホルマジオとのふたりは夜九時頃リオデジャネイロの地に降り立った。ホルマジオは到着ロビーのターンテーブル前で荷物が流れてくるのを待つ間、しきりに伸びをしていた。ぶっ続けでは無いにしても、合計十四時間もエコノミークラスの狭い座席に拘束させられたことに並々ならぬストレスを感じているようだ。

「おい。ホテルまで何分だ。機内じゃまともに眠れなかったんでクソ眠いんだが」

 は機内に持ち込んでいたショルダーバッグからメローネに渡されたメモを取り出して宿泊先の情報を確認する。

「ホテルまではタクシーで三十分ね。イパネマの海岸沿いのホテルよ」

 イタリアは夏だが、ブラジルは冬真っただ中。恐らくハイシーズンであれば人気で予約も難しいであろう立地のホテルだった。冬とは言っても日中は運が良ければ初夏くらいの気温にはなるので海水浴も可能だ。は仕事が終われば――リゾットに早く帰ってこいと言われない限り――ホルマジオには延泊を提案する腹積もりでいた。もちろん自費でだが。

「三十分か。案外すぐだな。早くふかふかのベッドにダイブしてェぜ」

 ホルマジオはそう言いながらポケットに手を突っ込み携帯電話を取り出した。電源を入れて通知を確認するが、アジトからの連絡は何も入っていなかった。ターゲットの情報が入り次第リゾットから連絡が来ることになっているので熟睡はできない。ホルマジオは深いため息を吐くと携帯電話を元の場所へと戻した。

 ふたりは荷物を受け取り空港前のロータリーにまで足を運んだ。冬のリオデジャネイロは日中と夜の気温差が著しい。赤を基調としたオリエンタル柄の半袖シャツの下に薄手の黒のTシャツという格好でいたホルマジオは寒さに身震いした。対するは準備が良く、厚手のパーカーを羽織ってしたり顔を見せる。

「何だそのドヤ顔。寒がってるオレを温めてくれんのか?」
「ど、どうしてそうなるの?車の中もホテルの部屋も寒くないわ!」

 は顔を真っ赤にしてタクシーへと駆け寄った。

 改めて、ホルマジオは思う。別に遊びに来ているわけじゃない。とふたりでホテルの一室に泊まるが、別に遊びに来ているわけではない。彼女と同じ部屋に泊まることになっているのは監視のため。

 だが、彼女が見せる反応ひとつひとつがホルマジオには可愛らしく見えてしまい、一連の会話はどうも付き合い始めのカップルのじゃれ合いのように思えて仕方がなかった。前回とは打って変わって、は完全にホルマジオを――理由はどうあれ――意識している。今まであらぬ誤解を植え付けてしまったり、他の女と一緒にいるところをうっかり見られてしまったりした。もしかすると、これは彼女の誤解を解いてモノにする最後のチャンスかもしれない。

 これは仕事だ。だが、仕事が終われば少しくらい遊んで帰ったって罰は当たらないだろう。

 ふたりは各々リオデジャネイロでの余暇に思いを馳せていた。



 女にがっつくのはオレのポリシーから逸れる。いくら同じ部屋にいるからと言って条件反射的にに跨るのは良くない。そんなのモテない男がやっちまうことだ。それに何よりクソ眠い。

 ホルマジオはに先立ってシャワーを浴びた後、すぐさま自分のベッドへと向かった。は入れ替わる様にバスルームへと向かったが、彼女が出てくるのを確認する前にホルマジオは眠ってしまっていた。

 いつアジトから連絡が来てもいいように携帯電話の着信音は最大に設定して眠っていたが、結局彼が寝ている間に連絡は無かったようだ。朝七時に目を覚ましたホルマジオは起き抜けに寝ぼけまなこを擦りながら携帯電話の着信履歴を確認したが、やはり留守電メッセージも着信も何も無かった。彼は大口を開けてあくびをかますと、隣のベッドで寝ているの寝顔を見た。起こすのは忍びないと思えるほど安らかに寝息を立てている。だがいつ仕事が始まってもおかしくはない。早めに朝食を済ませ、準備万端にして待機していなければならない。

 ホルマジオは立ちあがり背伸びをすると、の肩に手を置き声を掛けながら体を揺すった。やがては半開きの寝ぼけまなこを擦りながらむくりと起き上がる。

「……もう朝?……」

 縦に開かれた口を手の平で隠しながらはあくびをした。わざわざふたつのベッドの狭間でふらふらと立ち上がった彼女は尚も寝ぼけた顔でおはようとホルマジオに声を掛けたものの、眠そうにその場に立ちすくみ頭を下げたまま動こうとしない。

「おい。立ったまま二度寝するつもりか」

 ホルマジオはの顎を掴み無理矢理上を向かせた。はっと驚いた彼女はみるみるうちに顔を紅潮させ鷲掴みにされた顎から彼の手を振り払って、あわててバスルームへと向かって行った。そんな彼女の後姿を眺めながらホルマジオは下唇を突き出して頭を掻いた。

 ……なんなんだよ。

 すやすやと眠る彼女も、寝ぼけた顔で見上げてくる彼女も、覚醒した途端に顔を真っ赤にして逃げていく彼女も……全てがホルマジオの男心をくすぐった。今までありとあらゆる女を抱いてきた彼だったが、純粋に恋をしたことなど無く、今しがたに対して頂いたときめきは初めて感じる物だった。

 ガキじゃあるまいし……。

 ホルマジオはもう一度頭を乱暴に掻いて身支度を始めた。



38:Uma Thurman



 ふたりは身支度を済ませるとホテルのプールサイドにあるラウンジへと向かった。ビュッフェ形式の朝食を一通り楽しんで、食後のコーヒーを飲んでいる間に、ホルマジオの携帯電話がけたたましい音を立てて鳴りはじめた。音量設定を変更し忘れていたために客の視線が一斉に集中することになったが、ホルマジオは然して慌てる様子も無く携帯電話を取り出して応答ボタンを押す。ホルマジオの向かいに座るも、黙って会話の内容に耳を傾けた。

『ターゲットが金を引き出すためにファヴェーラから出るという情報が入った』

 リゾットは開口一番、ホルマジオにそう告げた。金とは、パッショーネの稼ぎを横領したものだ。今回の任務の内容は暗殺に留まらず、横領された組織の金を取り返し、指定された口座にそっくりそのまま振り込むことも含まれる。

『恐らくターゲットの男が引き出しに行くはずだ。場所はメールで知らせる。銀行に到着し次第もう一度電話しろ』
「分かった。すぐ向かう」

 ホルマジオがそう応答すると、ブツリと音を立てて向こうから通話を切られた。

「リゾットから?」
「ああ。ターゲットがスラムから抜けて銀行に行くらしい」
「組織の金をPCCに献上するつもりね」
「ああ。そこを突けって話だ」

 マネーロンダリング防止のためか、年々海外での銀行口座の開設は厳しくなりつつあった。そのためターゲットは、まだサービスが開始されて間もないネットバンキングを利用していたらしい。情報管理チームの情報収集能力とハッキングスキルの賜物と言うべきか、ターゲットがいくら組織から横領し、それをどこで引き出すか――ネットバンキングサービスを取り扱う銀行はまだまだ数少なく、現金で引き出すともなればそれが可能な場所も更に絞り込めた――が粗方分かったのだと言う。該当の銀行まで赴き、ターゲットを殺す。今回の仕事も案外簡単に済みそうだとふたりは思った。

「そう。じゃあ、すぐに行かなくちゃね」
「ああ」

 朝食は十分済ませていたので、ふたりは何の躊躇いもなく席を立った。そしてリゾットから送られてきたメールに記された場所へと向かうためタクシーに乗り込んだ。目的地はターゲットが潜伏しているらしいファヴェーラに最も近い地元銀行だ。ふたりは到着するなり銀行の建物の前に観光客を装い張り付いた。ホルマジオは言われた通りリゾットへと折り返し電話を掛ける。応答したのはメローネだった。

「到着した。で、手はずは?」
『ネットバンクで何時何分に金を引き出されたかって情報は、情報管理チームからリアルタイムで送られてくる。アタッシュケースか何かに現金を詰め込んで、それをPCCの幹部か何かに献上するはずだ。ターゲットが現金を手にしたのを確認した後、お前の能力で攻撃してやればいい。小さくなったところを踏みつぶすなりなんなりして金を奪い返した後、指定口座に送金してミッション終了だ。なんだ、ファヴェーラに行かないなら別にオレでも良かったな?』
「バカ野郎。だとしてもお前は選ばねーよ」
『それはともかく、ホルマジオ。に手を出したらただじゃおかないからな』
「ああ?お前ら別に付き合ってるわけじゃあねーんだよな?お前にそんなこと言われる筋合いあるかよ?」
『あるな。は確かに現時点ではオレのモノじゃないが、それはお前も一緒だろう。彼女に指一本触れる権利すらやりチンのお前には…………おい。ターゲットが近くにいないか?』

 くだらない言い合いの最中、唐突にメローネに問われホルマジオはあたりを見回した。銀行の入り口付近で張って出入りする人間はしっかりと見ていたはずだが、ターゲットと思しきイタリア人など一人も通らなかった。一応にも確認したが、彼女もまた首を横に振ってターゲットは見ていないと言う。

『おかしいな。ふたりが張ってる銀行からたった今金が引き出されたらしいんだが』
「……マジか。確認する。まだ窓口にいるかもしれねー」

 ホルマジオはの腕を引き、銀行の中へと足を踏み入れた。商業ビルの一階にある天井の高い空間だった。入り口から最も遠い隅の一角に、資金運用者向けの窓口が設けられていて、磨りガラスで仕切られたスペースにひとり誰かが腰掛けている。その周辺を屈強な黒人男性が四名ほど取り囲むように立っていた。

「……あれだな。メローネ。窓口をギャングっぽい連中が取り囲んでるのを見つけた。だが恐らく、今窓口に座ってるのも別人だろうな……。代理に引き出させてんじゃねーか?どうすりゃいい。ターゲットの居場所は分からねーんだよな?このままじゃあ金もろとも見失っちまうんじゃあねーのか」
『……参ったな。だが、金を取り返すのは必須条件だ』

 ホルマジオが神妙な面持ちで携帯電話を握りしめているのを見て、は彼から携帯電話を奪い取った。

「あっ、おい何しやがる」
「ねえメローネ。私にGPSの発信機、相変わらず付けてるのよね?」
『ああ!声が聞けてディ・モールト嬉しいおはよう!ああ、無論。君の所持品には複数取り付けてるぞ。財布、携帯電話、君が今履いてるサンダルのウェッジソールの中、バッグの中、スーツケースの中……他にもいろいろあるが、それがどうしたんだ?』

 は――恐らく――日に日に増えていっているであろうメローネに仕掛けられた発信器の量に驚いて絶句したが、すぐに気を取り直して続けた。

「例えばホルマジオがアタッシュケースを持った男だけを彼の能力で切り付けて、お金だけ奪って逃げるとするじゃない?それと同時に私がワザとホルマジオの仲間と分かるように騒ぎを起こすのよ。リトル・フィートで突然姿をくらましたホルマジオを呼び寄せて金を取り戻そうと考えて、PCCの人たちはとりあえず私を人質として捕らえると思うの。私が敢えてイタリア語ばっかりで話していれば、恐らく言葉が分からなくて通訳代わりにターゲットの元に連れていかれるんじゃないかしら。そして私のいる場所にホルマジオが来てくれれば、ターゲットを殺せると思うの。ちょっと考えが浅すぎる?そうすんなりはいかないかもしれないけれど、私死なないから、失敗したって戻ってこれるわよ」
『ああ。それはオレも考えた。だが、ディ・モールト危険だ!殺されてその辺に打ち捨てられればまだいいが、捕らえられて殺されもせずにギャング連中の性処理に宛がわれたりしたらどうするんだ!?』
「ああまたそんな妄想ばっかり。大丈夫。きっとうまく行くわ。それとも、他に何か打開策があるかしら?とにかく、早くしないと……あ、窓口から男が出てきたわ。やっぱりターゲットじゃあ無いみたい。黒人男性が大きなアタッシュケースを持ってる。もう考えてる暇はなさそうだわ。ホルマジオ、準備はいい?」

 そう言ってホルマジオを見上げるはいたって冷静だった。そして今朝方寝ぼけまなこを擦りながらぼーっとしていた彼女と同一人物とは思えないほどの気迫を身に纏っている。

 彼女を囮にするという作戦にはホルマジオも眉根を寄せて嫌悪感を示したが、今のところターゲットの居場所を知る他の方法が思い浮かばない。あの情報管理チームでさえターゲットの居場所の特定に手も足も出ていないという現状に鑑みると、の提案は名案という他無かった。

 大丈夫だ。が何かされちまう前にターゲットをぶち殺して救い出してやりゃあいい話だ。

 ホルマジオは覚悟を決めて頷いた。

はオレが必ず救い出す」
『……分かった。が動かなくなったら伝える。おそらくそう遠くには行かないだろう。その間にお前は奪った金を送金してくれ』
「ああ。分かった。とりあえず切るぜ。が連れ去られた後こっちからかけ直す」

 自分以外の人間やその人間の持ち物の縮小には時間がかかるので、現時点で大金の入ったアタッシュケースを持つ男を切り付けておく必要がある。ギャング一行が、ホールのベンチに腰掛けていたふたりの前を横切った瞬間、ホルマジオは自身のスタンドに攻撃させた。攻撃を受けた男はひいっと声を上げ、何の前触れも無く血が噴き出し始めた左腕を押さえ慌てふためいた。周りを取り囲んでいた護衛担当の者たちは男を宥めながらも、不思議な現象を目の当たりにして怪訝な顔を見合わせていた。だが、周囲を見回して原因が全く分からないと結論付けると、一行は足早に最寄りの立体駐車場へと向かって行った。

 十五メートル程距離を置くと、とホルマジオは席を立ってギャング達の後を追った。

「おい。見ろよクッソ笑えるぜ。アイツ自分が小さくなってきたことに気付いてねーのか?歩幅が変わって視点も下がってるってのによォ」

 薄暗い立体駐車場内には、ギャング一行とホルマジオ、以外に人間はいなかった。場内に停められた車も少なく閑散としていたので、敵が乗り込もうと歩み寄る車がどれかもすぐに検討がついた――GMCの黒い大型のバンだ――。先程ホルマジオに切り付けられた男は元の身長が百七十センチメートル足らずで、メンバーの中で最も身長が低かったからか、歩幅が変わり視線が低くなっても気づかれにくいという点で良かった。だが、金を運んでいるのに少しも気に留めず車へと向かうのはどうか。不憫になってきた。ホルマジオはそういった理由で笑いを堪え、立体駐車場の柱の裏に身を隠していた。

 アタッシュケースや身に付けている服、靴もろとも縮んでいるので、視界でしか異変に気付けないのだが、彼はどうやら周りの仲間たちが競歩でもしているかのように早歩きをしていると勘違いしている様だ。既に男の身長は1メートル程にまで縮んでいた。

「さて、そろそろ行くぞ
「ええ。わかった」
「……気を付けろよ」
「ええ。大丈夫。任せて」

 ホルマジオはの背中を軽くタップして士気を鼓舞すると、縮んだ男に駆け寄った。はそれを上回る速度でギャング一行に走り寄り、行く先を阻むように前に立ちふさがった。

 お互いに言葉は分からない。敵は何のつもりだ、とホルダーから拳銃を取り出しそれをに付きつけて脅しをかけ始める。はわざとホルマジオに意識を向ける様に後方に立つ彼の名を呼んだ。皆が後方に視線をやると、大金を入れいていたアタッシュケース――彼らが最後に目にした時よりも幾分縮んでいる――が見知らぬ坊主頭の男の手に握られていて、仲間と思しき男――こちらも幼児並みに縮んでいる――が床に転げ坊主頭の男に背中を踏まれ動きを封じられているという何とも奇天烈な光景が広がっていた。

 そして一瞬のうちに、坊主頭の男は忽然と姿を消した――厳密に言うと坊主頭の男が自分の身体も自由自在に伸縮可能と認識していない人間には見つけるのが困難な程度にまで縮んだだけなのだが――ギャング一行は組織に入るはずだった金が消えたと大騒ぎを始める。

 当然、坊主頭の男と仲間と思われるに視線が集中した。みるみるうちに彼女は取り押さえられて手足を拘束され、バンのトランクに乱暴に押し込まれてしまう。まるで予期していないことが起こったと慌てふためいたふりをして、彼女はずっとイタリア語で適当に騒ぎ続けた。するとメンバーのひとりにShut Up!と大声で怒鳴られる。は怯んだふりをして口を噤んだ。

 ――今のところ計画は順調だ。後はホルマジオが迎えに来てくれるのを待つだけ。

 簡単に済むと思われた仕事は案外長引きそうだ。はイパネマの青い海に思いを馳せながらも“ギャングに囚われてしまったか弱い女”を演じ、慌ただしく市中を走り抜けるバンに揺られていた。