南イタリアは夏真っ盛り。そして明日からのヴァカンスが始まる。職場のショーウィンドウから炎天下の陽炎に揺らめく国道を眺めながら、は珍しく心を躍らせていた。
と、言うのも、彼女はこれまで天涯孤独の身だった。恋人どころか血のつながった家族すら誰一人としていないので、長期休暇などあったところで特段行きたいと思うところも無かった。あまりにも孤独でどうにかなってしまいそうだという時にひと夏の恋を楽しんだこともあったが、自分のことを知られまいと彼女から何も言わずに男性から離れて行く。そんな夏を何回か繰り返していた。
だが今年の夏は“名前も分からない彼女”でいる必要は無い。暗殺者チームのメンバーはもちろん恋人でも何でも無いが、ありのままの自分を受け入れてくれる友人たちではある。ギアッチョの車でドライブにでかけたり、メローネでも荷物持ちにしてどこか遠い国を訪れてみたりしたい。はそんなことを考えていた。
「先輩、夏の休暇フルで取ったんですね。珍しいなあ。ボーイフレンドでもできたんですか?」
例の一件以来絡みにくる回数が減ったファジョリーノが、同様マグカップのコーヒーを啜りながら尋ねた。絡みの回数こそ減ったが変化はそれだけで、相変わらず反省の色など少しも見せない飄々とした雰囲気を纏った彼をが見上げる。
「気になる?」
にっこりと笑う彼女に、ファジョリーノは笑顔で返した。
「気になりますね。先輩が突然アパート引き払ってからオレの相手してくれる機会が減って面白くないんですよ。だからオレから先輩を奪った男の顔が見てみたいなって」
「あなたって結構ヤキモチ焼くタイプなのね。安心して。ボーイフレンドなんかできてないわ。でも友達がたくさんできたの。だから最近とっても毎日が楽しいのよ」
は幸せそうに微笑んだ。こんなに自然に、穏やかに笑う彼女を今まで見たことがあっただろうかとファジョリーノは思ったが、少なくともこの職場だとか、アパートで隣同士だった時には無かった。彼女の言う友達とやらを憎らしく思ったファジョリーノは、彼女が自分から顔を逸らしている間に眉根を寄せてむすっと顔を歪ませた。
「それは良かった。明日からのお休み存分に楽しんできてください。でもくれぐれも怪我とか体調には気をつけて。オレの長期休暇は先輩が帰ってきてから始まるんですから」
「ええ。明日からお店のことよろしくね。売上落とさないように」
「任せてください。先輩の売上げを超えて見せますよ」
ファジョリーノは歯を見せて笑い、いつも居座っているカウンターへと戻っていった。は自分から離れて行く彼の後ろ姿をじっと見つめた。
……依存症、ひどくならないといいけど。
彼はパッショーネが市井に蔓延らせているコカインやヘロインといった薬物の犠牲者だ。はそのことについて本人と話をして以来彼を心配して、少しでも彼の精神的な支えになれればと振舞ったが、それを察するとファジョリーノは嫌がった。こればっかりは本人の意思が変わらないかぎりどうしようもないことだし、頭ごなしに赤の他人がダメだと言ったところで何の意味も無い。自分がそうだから、彼女には彼の気持ちが良く分かった。ただ漠然と、週の大半で顔を合わせていた彼と1ヵ月近く離れることを不安に思った。
……きっと大丈夫よね。恋人が彼のことを支えてくれるはずだわ。
彼に今恋人がいるかどうかは知らなかったが、彼は飄々とつかみどころのない性格ではあるものの顔もスタイルも良いので、ガールフレンドくらい作ろうと思えばすぐに作ることができるだろう。
「。おはよう」
ふとの肩に手が置かれる。いつもの穏やかな声音で名前を呼ばれ、後ろを振り返る。
「店長。おはようございます」
「明日から長いこと会えなくなるね」
「そうですね。でも、店長も1週間後にはお休みでしょう?今年はご家族とどう過ごされるんです?」
「今年は妻とスウェーデンにでも避暑に行こうかと思ってる。残りはこっちで新婚の娘夫婦とゆっくり過ごすさ。君はどうするんだい?」
「まだ何も決めてません。でもきっと、素敵な夏になるわ!今からすごく楽しみなんです!」
例の友達とか。そう言いたげな顔で、リコルドはを見つめていた。彼もまた、今まで最小単位である一週間でしか夏に休暇を取ったことのなかった彼女が突然一ヵ月も休みが欲しいと言ってきたことに驚いていた。
「くれぐれも、事故なんかには気を付けるんだよ。体を大事にね。君がいなくなったらウチは終わりなんだ」
「心配してくださってありがとうございます。必ず元気に戻ってきますよ。私はお仕事も大好きですから!」
がそう言うと、リコルドはにっこりと笑って社長室へと戻っていった。
37:Bitchin' Summer
「……一ヵ月のヴァカンス?」
リゾットはリビングのいつもの席での言ったことをオウム返しに呟いた。のヴァカンス初日の朝のことだ。ダイニングテーブルについて朝食を摂る彼女はウキウキとした表情でリゾットに笑顔を向けている。対するリゾットは、だからどうしたとでも言いたげな顔を彼女に向けている。
「……まさかオレ達にそんなものがあると思ってないだろうな?」
「え!?無いの!?コンプライアンス的に許されるの!?」
「……お前はコンプライアンスの意味を分かって言っているのか?」
リゾットは溜息をついた。リビングにはリゾットの他にラップトップPCのキーボードを叩くメローネとホルマジオがいた。メローネはの口から発された“ヴァカンス”という言葉に何やらロマンを感じたのか空想にふけっていて、ホルマジオは「コンプライアンスってどういう意味だ?」と首を傾げていた。
「法令遵守。休暇は労働者の有する当然の権利だわ!」
「法令の外で働いてるオレ達に法令が適用されるワケが無いだろうが。お前がいくら表向きの仕事で休みだからって、こっちの仕事まで休みにしてやれないぞ」
「えー。そんなことって……」
はとても残念そうな顔でテーブルの上に顎を乗せて落胆する。だがよくよく考えて見れば、仕事と行ってもこれまでそれほど裏の仕事を仕事と思ったことは無いんじゃないか?何と言っても、暗殺という身体を張った仕事において彼女は死なないので、大して緊張やらストレスやらを感じたことが無いのだ。今まで彼女が暗殺のために赴いた所と言えば、煌びやかなパーティ会場、豪勢なカジノ施設に美しいシチリア島……。どれも休みみたいなものだった。仕事を仕事と思ったことがないなどと、リゾットの前では口が裂けても言えない――言ったところで死にはしないし、なんなら彼に彼の能力で手を下してもらうのもイイかもしれない――が、実のところ、その行く先々で大なり小なりのハプニングはあったものの、総じて辛いと思ったことは一度も無かった。もちろんつい最近仕事中に自分の過去を思い出し、その記憶に散々に泣かされたことは覚えているが、その件に関しては仕事そのものが直接的な要因では無い。
ならば、夏の間に運良くどこか国外で暗殺の仕事があって、それに連れ添ってしまえばもう旅行のようなものでは?と、は思い至った。そんな中、を放置して何やら仕事の話を進めている三人。何の気なしにその話に耳を傾けていたは、ふとリゾットが発した“リオ”という単語にすぐさま反応し、目をランランと光らせてリゾットを凝視する。彼はその突き刺すような視線を感じ取ってはいたが、敢えて知らないふりをして仕事の話を進めた。
「――で、そのPCCとかいう秘密結社に寝返った裏切り者ってのはどこにいるんだ」
「リオのファヴェーラの中に身を隠している」
「ふむ……今回はそこそこ危険な仕事みたいだな。リオのファヴェーラと言えばブラジルきってのギャングの巣窟だ。そして毎日の様にギャング同士の抗争だとか、サツとギャングの銃撃戦なんかが繰り広げられてる」
「ああ。だから今回は能力的にイルーゾォかホルマジオが適任だが、イルーゾォは今別の仕事で出払っている」
「……いやちょっと待てよ。オレはポルトガル語なんか喋れねーぞ。ポルトガル語どろか英語もからっきしだぜ」
リゾットにシカトされながらも懸命にブリーフィング内容に耳を傾けていたは、通訳なら私が適任ではないか。しかも銃弾飛び交う中に居ても死なない私は超適任ではないか!?と思ったが、パートナーはあのホルマジオだ。
リオデジャネイロでホルマジオとふたりっきり!?
考えただけで心臓が爆発しそうになる。だがブラジルには行ってみたい。だがだが、情熱の国と呼ばれるブラジルでホルマジオとふたりっきりなど、変な気を起こしてしまいそうで、絶対に良くない。だがしかし、旅先としてはブラジルのリオデジャネイロなんてうってつけじゃないか!コルコバードのキリスト像は前々から行ってみたいと思って――
「――い、おい。聞いているのか。何頭を抱えて悶えてる」
リゾットがいつもより少し大きな声でに呼びかけた。その声にドキリとし、彼女は弾かれたように彼のいる方へと身体を向けた。
「ご、ごめんなさい!何?」
「ホルマジオとブラジルに行ってこいと言っているんだ」
「ほ……ホルマジオと!?」
「リゾット!ファヴェーラにを連れていけって言うのか!?危険すぎる!!」
「何も死んで来いと言っている訳じゃあない。メローネ。お前の能力は貴重だし死なれちゃあ困るんだ。万が一むこうのギャングに狙われて銃口でも向けられてみろ。ちんたら子供をこさえて教育してる暇なんかないぞ」
「褒めてるのか褒めてないのか分からない妙にトゲのある言い方だな」
「たかが通訳のためにお前を失う訳にはいかんと言っているんだ。その点は適任だろう。銃撃を受けようが刺されようが死にはしないんだ」
「いや、彼女が死ねないくらいの狙撃で身動きが取れなくなった場合が一番危ないだろう?まさか、苦しむ彼女をほったらかしておけって言うのか?」
「それはお前にも言えることだろう。生き返らない分お前がそうなる方が問題だ。違うか?」
以降も合理主義のリゾットと、にただならぬ愛を注ぐメローネの大論争が繰り広げられる。間に挟まれるホルマジオは眉根を寄せ、顎に手をあて唸っていた。しばらくして、ふたりの言い争いに一石を投じる。
「しょうがねーなぁ。オレ抜きで盛り上がるんじゃあねーよ。言っておくと、変態野郎かイイ女か、どっちを通訳で連れていくかって聞かれてオレが変態野郎を選ぶ可能性なんざ万に一つもねー。そしてオレはを連れて行って死なせるなんてどっかのプッツン野郎みてーなヘマは犯さねぇ」
「あれは不慮の事故……いや、確かにヘマだな。あんなラッキースケベはディ・モールト許されない」
「メローネは少し黙っていろ。……いいかホルマジオ、。準備が整い次第ここを発て。ターゲットの情報については入手次第伝える。とにかく、ターゲットが横領した組織の金がPCCに流れる前に殺さなくっちゃあならない」
PCC――ブラジルのファヴェーラ――不法占拠者が無計画に広げた行政サービスの行き届かない貧民街――を支配する犯罪組織――に組織の金を献上することで、PCC内での高い地位を約束されたパッショーネの元構成員が今回のターゲットだ。パッショーネを抜けたてで組織の金を盗んだともあれば追手が来ることは百も承知らしく、ターゲットはPCCの手厚い護衛を受けながら、ギャングが蔓延るファヴェーラに身を隠し難を逃れるつもりでいるらしい。
情報管理チームの追跡によりターゲットの粗方の居場所は絞り込めた様だが、いかんせん身を隠している場所がネット環境どころか上下水道や電気、ガスと言った公共サービスすら整っていないスラムとあって特定が難航しているようだ。
という、メローネによって語られる今回の暗殺に関する話がほとんどの耳には入ってこなかった。
私今度こそ心臓発作を起こしそうだわ……。
結局、メローネの思いも話も何もに受け止められないまま、朝の打ち合わせは終了した。すぐにホルマジオとは支度を済ませ次第ローマの国際空港へと向かう。空港までギアッチョに送迎を頼み――ホルマジオは2時間もの間スタンド能力によって小さくなることでツーシーターの車に同乗することを可能にした――ふたりは情熱の国、ブラジルはリオデジャネイロへの一歩を踏み出した。
「それにしてもふたりで仕事ってのは久しぶりだな。頼りにしてるからな!!」
ホルマジオは車から降りてギアッチョに別れを告げるなり、に屈託のない笑顔を向けて彼女の肩に腕を回しながら言った。ホルマジオに触れられるだけで胸が高鳴って、はまともに進行方向にすら顔を向けられないでいる。
「え、ええ……通訳は任せて」
の気も知らず、隣で友人さながらに彼女の肩を抱くホルマジオ。前回仕事で一緒した時はどうということもなかったそれに、は過剰反応を見せる。死にはしないが死にそうだ。と彼女は思った。
前回の仕事の最中に話したことでふたりの関係は複雑になっていた。もっとも複雑と感じているのはだけだったが、彼女がチームのメンバーの中で唯一自分だけを明らかに意識している、ということをホルマジオは分かっていた。
意識というのが恋する女性が男性に向けるそれならばいいのだが、の場合はかなり趣が異なる。あろうことか彼女は愛する男性に殺されることで彼女にしか分からない“快感”を得たいという願望を持っているのだ。ホルマジオはそれに気づいていた。
はホルマジオの能力によってもたらされる死をいたく気に入っており、彼に是非手を下して欲しいと思っている。あくまで愛し合うふたりの間で行われてこそ最高の快感を得ることができるという彼女なりの“美学”が災いして、殺されたい人=愛すべき人という訳の分からない等式が成り立っている。一方で、絶対にお前を殺しはしないけど懇願するなら聞いてやるかもな?と挑発してくる、そして遊び人でもあるアブない男――ホルマジオに、殺し方が素敵だからっていうだけで身を委ねてしまっていいものか?後悔しないか?と、自問を繰り返す日々を送っていた。
全くもっていい迷惑だ。そもそもお前を殺すなんて趣味の悪いことをするつもりは毛頭無いし、そんな悪趣味な願望なんかさっさと捨ててオレと楽しいことしようぜ。っつーか観念してはやく抱かせろ。
ホルマジオは屈託ない笑顔の裏でそう思っていた。
これから始まるのは単なる仕事――と見せかけて、を抱きたいがために悪ぶるホルマジオと、ホルマジオに殺されてみたいが彼と恋には落ちたくないという訳の分からない心理状態のの、ひと夏のアヴァンチュールである。