何か思い出せるかもしれない。
そんな漠然とした期待に身を委ね、ギアッチョと共にシチリア島へと赴いた。RPGから射出されたロケット弾の爆撃を受けて爆死したり、軽度の車両事故にあったり、始終ギアッチョには怒号を浴びせられたりと、とても穏やかとは言い難い旅――ギアッチョにとっては仕事――ではあったが、の心はとても穏やかだった。
リゾットに打ち明けたことで浮き彫りになった、彼女がどうしても思い出せない過去の空白の期間。それにまつわるような何かを今回の旅で得られた訳では無い。期待外れと言えばそうだったが、そんな失望感よりも満足感の方が大きかった。彼女が思い出したのは父親との美しい思い出の数々と、そして自身が父親へ向けていた途方もない愛情だ。それが今、彼女の心をあたたかく満たしていた。
ギアッチョとファヴィニャーナ島を車でざっくりと回っている間思い出すのは父親の姿ばかりだった。大人になった今でこそ島の悠然たる自然が織りなす美しい景色に目が行ったが、幼い頃の自分の瞳に映していたのは父親の姿ばかりだったのだろう。父親は優しい眼差しでの頭を撫で、時には抱きしめ、頬にキスを落とす。そんな父親の姿を思い浮かべた彼女はにわかに胸の高鳴り覚えた。それは過去に彼女が男性に“恋している”と自覚した時と同じものの様に感じられた。奇しくもそれはホルマジオを視界に入れた時の反応とも同じだと彼女は気づいたが、彼に恋しているなどという可能性についてはとりあえず否定し――あんな遊び人に恋などしているものか!――自分にとって父親がどんな存在だったのかを断定すべく、幼少期を振り返った。
これはがリコルド・リガーレ――店長の元で働き始めてからは初めての試みだった。彼女はこれまで、過去を自分から切り離そうと何故か必死になっていたからだ。
私、本気で父親に恋心を抱いていたのかしら……。
もしそうだとしたら、B級映画の題材にでもなってしまいそうな禁断の恋だ。だが過去の自分の思いを振り返ると、そうだったとしてもおかしくないと思えてくる。幼き日のは父親に出会ってからというもの、来る日も来る日も父親のことを思い浮かべていた。生活の軸は月に一度の父親のとの旅行で、父親がナポリに帰り会えない間はずっと、ガレージにこもって母親の車を勝手にいじったり、雑誌を見て知識を深めたりしていた。とにかく父親が好きな車について知ろう。そして褒めてもらおう。とばかり思っていたのだ。おかげで学校には通っていたはずなのに、友達、特に男友達の顔など少しも思い出せなかった。確かハンサムだと女子の間で話題になっていたはずの英語教師の顔も思い出せない。
ファヴィニャーナ島の観光を終えたはトラーパニからパレルモまでのハイウェイを行く間、ずっとそんな過去を思い浮かべていた。ギアッチョは珍しく喋らない彼女を不審に思いながらも、六足にギアを入れたままアクセルを踏み、ほぼ速度超過で帰り道を急いだ。時間には十分余裕があったので急ぐ必要など少しも無いのだが、彼はきっちりと制限速度を守ってハイウェイを行くような性格ではない。パレルモに近づくほど車は増えたが、彼は車間を縫うように車を走らせた。危険運転とも言えるそれについて、は釘を刺すこともしなかった。
海が見えてくると、は夕焼けに染まる美しいそれを眺めはじめた。ギアッチョはずっと彼女が自分の方を向いているような気がして気が気ではなくなる。そして一度文句を言ってやろうと彼女の顔を見た時、視線が運転席の向こうの海に向けられているのに気付いた。開きかけた口を噤み、彼は視線を進行方向へと戻す。
何だよその顔……。
ひどくノスタルジックな顔だ。まるで失ったものの大きさに打ちひしがれているような、そしてそれがもう二度と戻らないことに絶望――とまではなく、悲哀しているような。ギアッチョの目に映った、夕焼けに染まるそんな彼女の顔はひどく儚げで美しかった。
長い船旅を終えアジトへ戻り着いたのは朝八時。リゾットへの報告もそこそこに、ギアッチョは眠い!と一言叫び自室へと戻っていく。はこれから表向きの方の仕事へ行かなければならない。は今回のシチリア島での出来事について詳しい説明を求めてきたメローネに、丁度いいと職場への送迎を頼んだ。
店のオススメとして前々からホールのど真ん中に展示されている黒いボディーのコルベットはまだ売れていない。相変わらずスタイリッシュで迫力もあって美しい。は感嘆の溜息を吐きながら、出社後のルーティンとなっている朝の一杯を楽しんでいた。そしてやはり、この車を見ていると思い出すのは、ニューヨークで出会った真っ黒の大きな猫――パンテラと、その主、彼女の幼馴染であるインヴィート・マリアーニだった。
彼はパッショーネによる粛清の難を逃れニューヨークの裏社会で生き延びていた。父親の元で幼いながらもギャングとして生きていた彼は、父親を殺したパッショーネという組織を尋常では無い程憎んでいて、いずれ復讐を遂げ故郷への帰還を果たすとグラナートの墓に誓っている。どんな伝手かには分からなかったが死んだはずの彼女が生きていることを知り、そしてファジョリーノ――彼は相変わらず飄々とした態度で何事も無かったかのように受付にいるが……――から得た情報で彼女がニューヨークへ来ると知ったインヴィートは、拉致を目論み接触してきた。メローネとイルーゾォによってそれは阻止されたが、その時、身動きの取れなくなった彼は言っていた。
『お前はきっと……誰かに操られてる。そうでなきゃ、おかしいんだよ……』
言われた当初は全く理解できなかったその言葉。今になって彼女もやっと、自分はおかしいのかもしれない。と思い始めていた。
父親を愛していた、という感覚は前々からあった。だがファヴィニャーナ島へ行き、父親と過ごした時間を積極的に思い返そうと試みた結果過去の記憶を呼び覚ますまで、自身が語っていた父親への愛には実が伴っていなかったことをは知った。これまで、まるで遠い過去のように、そして他人事のように、機械的に、父への愛を口にしていたに過ぎなかったのだ。父親を愛するのは子供だから当然だと、自分がその既成概念に忠実な幼少期を送っていたと信じて疑わなかった。
父親を恋心を抱く程に愛していたならば、今、何の反感も抱かずにパッショーネの構成員として暗殺者チームに身を置き、その犯罪行為に加担しているという現状はおかしい。確かに自分はおかしいと言われても仕方がないかもしれない。――だが違和感程度に留まる。やはり絶対的に、エネルギーが足りない。恐らくエネルギーとなり得るのは、許せないとか殺してやりたいなどという、インヴィートがにぶつけてきたような“怒り”や“憎しみ”といった感情だ。そんな感情はやはり湧いてこない。つまり、死による快感を得られる機会を捨ててまでチームから脱却し、再びボスに歯向かおうと思う程ではない。
噛み合わない歯車がぎちぎちと音を立てて軋むような、心地悪さ。過去と現在を繋ぐ何かが欠落している。欠落しているのが記憶の他にあるとしたら、それはきっと感情なんだろう。はこの時初めて自覚した。だが、それが何故起こったのかが全く分からない。――一体何故?ウリーヴォの死をこの目で見て心を病んでいるうちに気勢が殺がれた?それが事の顛末の全て?
リゾットに告げられたことを思い出す。パッショーネに対するどうしようもない怒りや憎しみ、復讐心を思い起こしても――と。あの話をしていた時は、まさかそんなことになるはずは無いと思った。だが今は気付いてしまった。そんなことが起こり得る可能性もゼロではないかもしれないと。
は胸をざわつかせる。そして、このことについてはもう考えたくないと思った。彼女は暗殺者チームに身を置いている今この時に、これまでの人生には無かったような幸福感を得ていたからだ。
世間的に死んだことになっている彼女は堂々と生きていくことができない。自身の欲求も異質なので、他人とは深く関わることもできない。おかげで恋をしても男性との関係が長続きすることもなかった。属するコミュニティも必要最低限に留めていたし、積極的に他人と関わろうともしなかった。総じて寂しい人生を送っていた。
そんな彼女にとって、本当の自分を偽ることなく幸福を追求でき、そんな自分を受け入れてくれる人間がいる暗殺者チームという居場所はとても居心地が良かった。手放したくない。しかし、自分の過去によってチームに迷惑をかけるようなことだけはあってはならない。過去が災いしてインヴィートが自分を追ってくると言うのならば尚更だ。そんな相反する思いが心の中で対立し、彼女を悩ませる。
こんな煩わしい思いとは早く決別したいわ……。
「!おはよう」
思考の渦に囚われていた彼女の肩にリコルドの手がかかる。いつになくぼうっとしているを心配してか、彼は心配そうな表情をへ向けた。
「どうしたんだい。何か悩み事かな?」
「ああ、店長。おはようございます。……ちょっと考え事してただけです。あ!そうだわ店長!折り入ってご相談したいことが!」
はそう言ってパシンと手の平を合わせ、リコルドにある“友人”の話をした。
「私のお友達でロードスターに乗っている子がいるんですけど、昨日ちょっとぶつけちゃったらしくて。修理を頼めないかって言われたんです!お友達価格でどうにかならないかしら」
「友達……」
リコルドはの口から出てきた友達という単語に首を傾げた。彼女にそんな親しい友達がいるとは知らなかった。そう言いたげな表情だった。
「そうかそうか。損傷の度合いにもよるけど、ある程度は値引きできるかもしれないね。何はともあれ、まず車を持ってくるように言ってごらん」
「実は……店長ならきっとそう言ってくれると思って、昼過ぎにでも持ってくるように言ってあるんです!」
「はは!そうかそうか。ちなみにどのロードスターかな?」
「マツダのユーノス・ロードスター!素敵な車だから早く修理してあげたくって!」
「初代のか!確かにあれはいい車だ。メカニックに伝えておくよ」
そう言ってリコルドは社長室へと戻っていった。
36:No Ordinary Love
ギアッチョは昼過ぎに目を覚ました。まだ十分とは言えないが、ある程度身体は休まった。そんな実感を得ながらおもむろにベッドから立ち上がる。そして身支度を整えると、洗面所へと向かうために自室を後にした。
に破損した車を持ってくるように言われている。午後五時時に店は閉めるから、それまでに。とのことだった。ギアッチョは車があんなことになったのはあの厄介な電話の所為だ。そう思っていたので、メローネに修理費を払わせる腹積もりでいた。まあ、でもいい。あいつなら喜んで払うだろう。とにかく彼は、あの破損に対して金を払うつもりは無かった。
ガレージに向かい、改めて損傷している部分を見る。まあ、このままずっと走ろうとは思えない、というくらいにはへこんでいる。昨晩ハイウェイを走っている間にヘッドライトを点灯させた時、蓋が持ち上がる時の挙動に若干の心許なさはあったが、ライトが付かないということも無かったので、走行するのには何の支障もない。が、見た目の問題だ。人間で言うと顔に当たる部分だ。このままにしておくわけにはいかない。
ギアッチョはガレージから車を出し、の職場へと向かった。度々丘の上からの監視と銘打って建物は見ていたが、そこに客として訪れるのは初めてだ。カーディーラーであるにも関わらず、車の購入の他にメンテナンス、板金修理、カスタマイズ、車検とワンストップでなんでもできる店は珍しい。そんなことを考えながら、ギアッチョは車を走らせた。
店に着くと、目ざといがすぐにギアッチョの乗る車の傍へ近寄った。
「お待ちしていましたわ!ギアッチョさん!」
「……ギアッチョ“さん”ってなんだ気持ちわりぃな……」
「だってお客様だもの!ささ!車のキーをちょうだい!うちの優秀なメカニックがロードスターちゃんの容態を確認するわ!」
そう言われギアッチョは車を降り、キーをの隣でニコニコと営業スマイルを向けてくる、筋骨隆々の作業着の男に渡した。はギアッチョを店内に招き入れ、ショーウィンドウの傍に設置されたテーブル席に案内する。が客との商談に使っているスペースだ。その様子は丘の上からよく見えたし、何より客と話しているだけのの姿を双眼鏡で覗きながら、メローネが枕営業がどうのこうのと騒ぎ立ててやかましかったな。なんてことを思い出して顔をしかめ、ギアッチョは椅子に腰掛けた。
給湯室へ向かったが来客用のグラスに注いだアイスコーヒーをギアッチョに差し出すと、彼の向かいに腰掛けた。
「店長がお友達価格で修理できるかもって!きっと安く済むわ」
「言っとくがオレは金を払うつもりねーからな。見積書はメローネに渡せ」
「え!?どうして?」
「あの事故が起きたのはあいつの所為だ。当たり前だろうが。お前から見積書を渡されたら喜んで払うことだろうぜ」
「そんなのメローネが可哀想だから私が払うわ!うふふ。また私があのロードスターちゃんに手をかけられるのね。私の財産がつぎ込まれていくのよ。もうほとんど私の車だわ」
「横暴にも程がねーか」
「そうかしら?なんならフロントバンパーのパーツ変えてもいい?カスタムパーツを取り寄せちゃおうかしら!楽しみだわ!」
「頼むから品のねーしゃくれた顎みたいなごついパーツ付けてくれんなよ」
そんな他愛のない会話をと交わしながら、ギアッチョは店内の車をぼうっと眺めていた。見飽きると店内を見渡す。受付のカウンターでは、ギアッチョが以前車から様子を伺っていた男がパソコンをカタカタとやって仕事をしている。メローネの盗聴の結果ヤク中ということが分かったが、いたって普通に仕事をしているように見えた。その男の観察にも飽きると、ギアッチョは出入り口付近にあるカウンターから視線をへと戻そうと首を振る。その時、恐らく従業員専用の通路と思しきところからこちらの様子を伺う初老の男の姿を捉えた。
男はギアッチョの視線に気付いたからか、とっさに通路の奥へと身を隠した。ギアッチョはそれを不審に思った。どうも何かひっかかる。
……あのジジイ、どっかで見たことが……。
ギアッチョはに差し出されたアイスコーヒーを口に含みながらぼうっと考えた。三秒と無い間見ただけだったが、ギアッチョはその驚くべき動体視力と観察眼で男の特徴を大方把握できていた。白髪の目立つ頭髪をオールバックにした、ウェリントン型の眼鏡を掛けた初老の男性だ。綺麗に狩り揃えられた口ひげが印象的だった。
彼はその性格故に、昔から属してきたコミュニティの数も限られていた。深く関係を持つ人間もそう多くない。基本的に他人に興味も無いので、彼が意に留めたことのある人間など、アジトにいる者以外だと片手で数えきれるくらいしか存在しない。
――ギアッチョは生まれながらに殺し屋だった。
生まれた瞬間、産声と共に母親の体を凍結させた。なんの怪奇現象かと医者も父親もわが目を疑った。結果、その時はギアッチョに疑いの目は向けられなかった。そして母親は死んだ。父親は嘆き悲しんだが、何とか妻の生んだ子を一人で育て上げようと懸命に働いた。そして乳飲み子の育児に祖母を宛がった。すると祖母も凍死した。この家には悪魔でも憑りついているのだ。ギアッチョの父親はそう思い家を移る。次に、移った先で雇ったベビーシッターが凍死した。そして父親は、ギアッチョをパッショーネの元に安値で売り払った。悪魔の子と罵って。
そんな自分の幼年期――物心がつく前の過去をギアッチョは知らない。よって彼には、母親の記憶も父親の記憶も無かった。だが少年と呼ばれるまで彼の成長を助けた者のことは覚えていた。
ギャングの癖にひどく優しい男だった。ギアッチョに食事を与え、読み書きを教え、たまに遊びにも連れて行った。男と過ごす内に、ギアッチョは不思議と怒りに任せて人を殺してしまうこともなくなっていた。そしてある程度感情をコントロールできるようになると、彼の元から男は離れていった。確か十歳に満たないくらいだ。ギアッチョにとってはほとんど育ての親のような存在だった。男が自分から離れて行くときの喪失感は、今も覚えている。
その男に、よく似ていたような気がした。
……まさかな。
恐らく自分の記憶の中の男と特徴の一致する人間などこの国にはごまんといるだろう。あの通路の向こうに消えていった男も、きっとそのうちの一人にしか過ぎない。
ギアッチョは思い浮かべた過去を頭から往なそうと、ショーウィンドウの向こうの国道に視線を投げた。いつの間にか席を離れていたが、何やら明細書のような物を手に持ってギアッチョの方へ戻ってくる。受け取った紙をぼうっと眺めたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。