暗殺嬢は轢死したい。

 ギアッチョとが仕事を済ませた日の午前十時。ふたりは定刻ギリギリにホテルをチェックアウトして駐車場に向かった。幸い今日もシチリア島は好天に恵まれている。おかげでオープンカーの幌を閉める必要も無く、ロードスターの狭い車内に閉じ込められる心配もなさそうだ。

 ギアッチョは運転席に着くと、目の下にクマを浮かべて眉を顰め、ひどく機嫌が悪そうな顔で大口を開けて欠伸をした。が嬉々として、運転を代わると身を乗り出して申し出るが、ギアッチョは彼女の顔面を鷲掴みにして助手席側へと押し返した。一日眠れなかったくらいどうってことはない。ギアッチョはそう言い放ったが、行きの高速道路での彼の運転を思い出したは一抹の不安を覚える。

 パレルモ発ナポリ着のフェリーが港に着くのは二十時だ。帰途につくにはまだ早く、十時間程の自由時間があった。

。お前、どっか行きてーとことかねーのかよ」

 ギアッチョが車のエンジンをかけながら言った。とりあえずホテルの駐車場から出てどこかで朝食を取ろうと、ギアッチョは車を走らせ始めた。はふと過去に思いを馳せる。――写真。父親と、愛車が写っているそれを思い出した。ファヴィニャーナ島へ行った時、美しい入り江を背景に撮った写真だ。丁度トラーパニからはフェリーが出ている。三十分も船に揺られていれば着く距離だ。

「ファヴィニャーナ島……」
「何か見ときてーもんでもあんのか?」
「父親と一度ドライブした時があって。その時に撮った写真が、私の唯一の宝物だったのよ。もう燃えて無くなっちゃったんだけどね。あの写真を撮った場所に行って景色を見てみたいわ。父との思い出の場所に行けば、何か思い出せるかもしれない」

 ギアッチョは儚げな微笑みを浮かべるの横顔をチラと見ると、アクセルを踏み込んだ。

「行ってくれるの?」
「ああ。だがよ、そう長居はできねーんだ。あんま感傷に浸ってっと置いて帰るからそのつもりでな」
「私のこと置いて帰っていいの?ボスに殺されちゃうんじゃない?」
「……揚げ足取りやがっててめぇ!!!」
「ああ。ほら。すぐそうやって怒るんだから。落ち着いてギアッチョ。事故っちゃうわよ。ギアッチョが殺されるのは絶対に嫌だから、すぐに済ませるわ。心配しないで」
「すぐに済ませるとだけ言やあよォ!!!オレがわざわざぶちギレなくて済むってのにおめぇってオンナはよォ~~~~~!!!」

 ギアッチョは度重なる睡眠不足が原因で、を前にしているにも関わらず、怒りのメーターが振り切れたかのようにぶちギレ始める。怒りの沸点はもともと酷く低い彼だが、今日はことさらに低いようだ。驚くことに、はそんなギアッチョとの会話を楽しんでいた。

 ちなみにが会話と思っているのは、第三者からしてみれば到底会話と呼べるようなものでは無い。耳を突き抜けていくようなギアッチョの怒号は、普通の人間であれば耳を覆いたくなるほど苛立たしく、身の危険すら感じるようなものだ。だというのには、ニコニコと笑みを浮かべ、むしろ怒り狂うギアッチョを煽っているのではないかと思えてしまう様な表情を彼に向けている。そんな表情を向けてくるのがでなければ、きっと彼は喧嘩を売っていると判断してとっくの昔に手を上げているだろう。しかしを前にすると逆に、彼はみるみるうちに気勢をそがれていき、いつの間にか平常心に戻っている。あれ?おかしい。オレは今まで何であんなにキレていたんだっけか。彼は後にそう思う。そしてこの流れはこれまでに幾度となく繰り返されている。

 には死に対する恐怖心が無い。痛みには恐怖心があるのだと当人は言っているが、実際のところ、その恐怖心も彼女以外の人間が抱きうるそれとは比べ物にならないほど希薄なのだろう。そうでなければ自分に向かって突っ込んでくるスーパーカーを避けもせずに受け入れるなんてことができるはずも無い。

 そう言う痛みだとか、死に対する恐怖心が希薄だから、彼女は自分と一緒にいられて、あろうことか笑顔なんかを向けられるんだ。怒り狂った男が自分に手を上げるかもしれないという危機感は、普通の女なら絶対に持っている。だが、にはそれがない。――要は変態だ。自分と一緒に長く時間を共有できる人間なんて、物好きで頭のネジがどっか吹っ飛んじまってる変態しかいない。

 そこでメローネを思い出したギアッチョは、車を黙って走らせながら焦り始める。メローネはにGPS発信機を持たせていた。そしてギアッチョは、変態ストーカーに成り下がるようで気分が悪いと思いながらも、自分のラップトップPCにメローネと同じアプリケーションを導入し、クルーザーを強奪しようと一時的に自分から離れて行くを追跡していた。そして恐らく、メローネもナポリで彼女の動向をつぶさに確認しているはずだ。

 一糸まとわぬ姿で帰還を果たした。GPS発信機をメローネが彼女の体内に埋め込むなんてまるで宇宙人のようなことでもしていない限り、GPSの信号はティレニア海沖でとどまったままか、爆撃によって破壊され途絶えているはずだ。の居場所が把握できず慌てふためいたメローネがそろそろ電話をかけてきたりするんじゃないか。そして、何があったのかをつぶさに聞かれて……。

 ギアッチョのそんな心配は的中してしまう。シフトレバーの手前の受け皿に放り投げていた携帯電話が鳴り始めた。絶対メローネだ。メローネの考えていることが手に取る様に分かるなんてどういう以心伝心だよ気持ち悪い最悪だメローネ死ね。彼は止むことの無い呼び出し音にイライラを募らせる。

「電話取るわね」
「ああ!?いいんだよ!鳴らしとけ!!!」
「運転中に気が散るじゃない。良くないわ。それに仕事で大事な用かもしれないわよ?」
「バカ野郎!仕事が終わって車に戻った後すぐリゾットに報告したし今更大事な用なんかあるかよ!取るな!あ、おい取るなって!!」
「もしもし。でーす」
「おいいいい!!!!!」
「あらメローネ?おはよう。…………ええ。ギアッチョは今運転中なの。え?心配?どうして?……うん。ああ、それのこと……」

 ギアッチョは歯をひん剥いて般若のような顔でハンドルを握りしめる。

「海の上でね、私海賊さんたちからRPG?っていうの?ロケットランチャーの弾を打ち込まれて吹っ飛ばされたの。それで壊れちゃったのね……とにかく、私は無事でいるわよ。え?裸?まあそりゃあ……服は直せないから……まあ、いいじゃない。そのことは気にしないで。……………………ふふふ、メローネ。あなたって本当に妄想力ゆた――」

 そこまで聞いたところで、ギアッチョは体を右へ傾け腕を命一杯伸ばし、携帯電話をの右手から奪い取った。それを感づいた電話の向こうにいるメローネが喚きたてる。

『おいギアッチョ!!!何お前だけおいしい思いしてるんだ!!!やっぱりオレも行くべ――』
「うるせええええええええええ!!!!!!!!!」
「あああギアッチョ!ギアッチョ!!!前!ぶつかる!!!」

 車は交差点で停止していたところだった。右折しようとハンドルを回し、本来ならギアチェンジをして一速から二速へと徐々にスピードを上げていくべきところでシフトレバーから手を離し、あろうことかハンドルからも手を離し、携帯電話を逆パカしたギアッチョ。怒りのあまりギアッチョはアクセルを踏み込んで、車は低速ではあったが中央分離帯のブロックに乗り上げ、植え込みのブロックに車体の右前部分をぶつけてしまった。大破するほどの衝撃は無く、幸い助手席から見る限りだとリトラクタブル・ヘッドライトのカバーが歪んで少々内部が見える程度の損傷で済んでいる。が、正面から見れば、ぶつかったことが明らかなくらいには、バンパーとボンネットの一部がへこんでしまっていた。

 ギアッチョは見るも無残な姿になってしまった携帯電話を後ろへ放り投げ、まるで何事も無かったかのように車を切り返し、元のルートへと戻る。

「ああロードスターちゃんが……。あ、でも心配しないでギアッチョ!うちの店、日本からのパーツを安く輸入できる伝手があるの!だから、これくらいの修理なら安く済ませられるわ。店長にもお友達価格で修理できないか聞いてみるから!」
「おう。もう何でもいい。さっさとメシ食って島行って帰るぞ」

 運転にはまったく支障が無い。ただ、見た目が悪くなっただけだ。そんな車を、ふたりはトラーパニ県内の船着き場近くにある市街地へと走らせて、遅めの朝食を済ませるためにレストランを探した。



35:Ocean Avenue



「私大きくなったら、絶対にお父さんと結婚するの!」

 そろそろ思春期を迎えようという年頃の少女がベンチに腰掛け足をぶらつかせながら、すぐ隣でジェラート屋の壁にもたれかかる少年に話しかけた。少女よりも少し年の離れた少年は、緩くカールした艶のある黒髪を潮風になびかせて溜息を吐いた。

 父親のいぬ間に頬を染めたがそんなことを言うのは初めてではなかった。だが年齢的にそろそろおかしいことだと気づいてもいい頃なのではないか。そう思い、少年は眉根を寄せる。は十歳とは思えない程大人びて見えて、女としての色気すら感じさせ始めている。そんな見た目で父親と結婚するだなんて世迷言を言うんじゃない。周りの観光客に聞かれてみろ。白い目で見られちまう。頼むからいい加減大声でタブーに抵触するような発言をするのはやめてくれ。

 インヴィート・マリアーニは、何故親近者間、特に親子間で結婚すること――性交渉および子供をもうけること――がタブー視されてきたのかという問題について考える。そしてどうすれば、明確な根拠を示しつつ十歳の子供相手にも分かる言葉で論理的解を説けるだろうかと考える。五秒ほど考えてどうも無理そうだと諦めると、彼はおもむろに口を開いた。酷く気だるげな様子だ。

「あのなあ。何度も言ってるだろ。父親とは結婚できねぇ」
「どうして?」
「どうしてって……ダメなもんはダメなんだよ」

 はふくれっ面を向けて少年に不服の意を訴える。

「だって聞いてよインヴィート。お父さんのこと見てると胸がときめくの。学校の男の子なんか見たってぜんぜん何とも思わないわ。だってお父さんが世界で一番カッコいいんだもの」

 は六歳になるまで父親が生きていることすら知らなかった。そして世間一般で言う父親が、家庭においてどのような役割を持つのかをよく知らなかった。

 “ウェスターマーク効果”という社会学的見地から提唱された理論によれば、人間は幼少期から同一の生活環境で育った相手に対して性的興味を持つことは少なくなるという。なので逆説的に、幼少期、ひいては現在にいたるまで父親であるグラナートと生活環境を同一にしていないが、彼に性的関心を持つことはあり得ないことでは無いとも言えた。

 が、だからと言っての父親に向ける感情は世間的に認められるものでは無い。何より、インヴィートという少年はと結婚するつもりでいるので、そんなことは実現し得ないのだと早々に諦めてもらわないといけなかった。

「確かにおやっさんはカッコいい。だが結婚はできねーんだ。。諦めろ」
「いやよ!!」
「ああ、面倒くせーな。お前はオレと結婚すんだよ」
「いやだってば!!」
「そんなにきっぱり断られると傷つくんだが」
「おいインヴィート!誰がと結婚するって!?」
「……おやっさん、いつの間に戻られてたんです」

 二人分のジェラートを手にしたグラナートは鬼のような形相で小姓にしている少年を睨みつける。普段温厚なグラナートも、娘のこととなるとひどく敏感になり沸点も急降下するような子煩悩だった。

「お父さん気にしないで!私、インヴィートなんかと結婚するつもり無いわ!」
「ああ。おれの可愛い子。それを聞いて安心したよ。おいインヴィート。お前オレの娘に手を出してみろ。お前の皮かぶったナニを使い物にならなくしてやるからな」 
「おやっさん。いい加減皮くらいは剥けてますぜ」
「なんの皮が剥けてるの?ナニってなあに?」
「ああ。お前は知らなくていいことだ……はい。ジェラート。お前が大好きなピスタチオのフレーバーだっ!……ほらインヴィート。こっちはお前の分だ」
「あざっす」

 グラナートはジェラートを手放すとの隣に腰掛けて、通りの隅に停めた赤いアルファロメオを眺めた。天気は快晴。コバルトブルーの海が、水面で太陽光を反射してキラキラと眩しい夏の昼。愛娘と一緒に洗車したばかりの愛車もキラキラと輝いて、最高にイカしている。グラナートは心躍らせた。

「ねえお父さん!これからどこに行くの?」
「島を一周しよう。整備もろくにされてないから道は悪いが、景色は最高だ」



 そう言って父に連れられて訪れた、どこだかの入り江で撮った写真だった。そう言えばあの時もインヴィートがいたんだ。

 は十数年前の過去を思い出す。そしてその記憶の中で座っていた場所と全く同じ所から、記憶の中の赤いアルファロメオと寸分たがわぬ位置に停車されたギアッチョの赤いロードスターを眺めていた。

 ファヴィニャーナの船着き場から内陸に向かって道なりに進んですぐのところに、小さなジェラート屋があった。その店の軒先には入り口を挟むように3人掛けのベンチがふたつ設置されている。は今も昔も、店に向かって右側にあるそのベンチに座り、ピスタチオフレーバーのジェラートが手元に届けられるのを待っていた。

「ひっ……冷たい!」

 突然口元にジェラートを当てられは目を瞑る。視線を上に向けると、ギアッチョがむくれた顔でを見下ろしていた。彼の手にはジェラートがひとつ握られていて、それがの口元に押し付けられている。

「ありがとう!」

 ギアッチョはポケットに手を突っ込んでの隣に座り込む。まったく。この女はオレをパシるなんていい度胸をしていやがる。そう思いながらも、彼女の屈託のない笑顔を見るとどうにも調子が狂って文句の一つも言えない。これはいつものことだった。

 ギアッチョは向かいに停めたロードスターを眺めた。なけなしの金を叩いて手に入れた愛車だ。つい先ほどぶつけて板金をへこませたのだが、幸い今のところは彼らから見える位置に傷は無かった。

「で?これからどうする」
「島を一周しましょう!たぶん、3時間もあれば大体見て回れるはずよ」

 ギアッチョは腕時計を見た。時刻は昼を少し回った頃だ。これから三時間程度ドライブし、再び三十分船に揺られてトラーパニに着くのは午後四時だ。そこからパレルモまで高速道路を使えば、余裕を見て二時間かかったとしても夜六時。帰りの船の時間までは二時間も余裕がある。港付近で夕食をゆっくり取る時間も確保できるだろうし、問題は無い。

 そんな計算をざっと頭の中で済ませると、ギアッチョは黙ってがジェラートを食べ終わるのを待ちながら海を眺めていた。すると、プラスチック製のスプーンに乗せられた鶯色の塊が目の前に唐突に現れる。

「ギアッチョも食べる?」

 そうに言われギアッチョは眉間に皺を寄せる。メローネと一緒にいる時とあまり変わらないが、と一緒にいると眉根を寄せていない時ですら眉間に皺が寄っているんじゃないかと思うほどしかめっ面になることが多い。ドスの効いた声でギアッチョは文句を言う。

「……ガキ扱いすんじゃねー」
「あら。恋人同士だってジェラートの食べさせあいっこくらいするでしょう?別にあなたのこと子供扱いなんてしたことないわよギアッチョ」
「ああああああ!?こっ……こいび……」

 ギアッチョは“恋人同士”と聞いてみるみるうちに顔を真っ赤にさせる。

 思わせぶりなこと言いやがってこのアマああああ!!!

 ギアッチョは照れ隠しに大口を開けて差し向けられたジェラートを口に含むと、ぶんっと音がするくらい勢いよくから顔を背けた。そして色々な思惑が頭を過る。自分が口に含んだスプーンをは使っていたのか。使っていなかったとしたら彼女は直接ジェラートを舌で舐めとっていたのか。自分が食べたジェラートはが舐めとっていたところからすくわれたものなのかそうでないのか。どちらにせよ、ジェラートをが食べ始めてから5分近くは経過しているので、が口を付けていない場所なんて限られているし、もしかしたら自分はと間接的にキスをしてしまっているのではないのか……。

 オレは童貞か!!?

「ギアッチョ。あーん」
「あーんじゃねーよ!!!もういらねぇからさっさと黙って食え!!!!!」
「はーい」

 はギアッチョの怒りなど意に介さず、ニコニコと笑顔を浮かべ、上機嫌でジェラートを舐めはじめた。スプーンもたまに使っている。ギアッチョは頭を抱えた。

 その後、ギアッチョとのふたりは赤いオープンカーでファヴィニャーナ島内を駆け巡った。なるべく海沿いを走り、入り江が見えれば車を停め、青い海を眺めてはまた車を走らせる。それを数回繰り返した結果、の記憶と一致する景色を目の当たりにする。半時計周りに島を周ったせいでたどり着くのは最後になり日も傾きかけてはいたが、燃えて無くなった写真とほぼ変わらない景色がそこに広がっていた。カーラ・ロッサ。ファヴィニャーナ島と言えばここ。そんな景勝地だった。

 観光客が海に浮かべるクルーザーは、透明度の高い水を湛えた海の上で宙に浮いているように見える。白い砂地が透けて見える岸辺から沖に向かって色濃く変わる海のグラデーションは、見る物の目を飽きさせない美しさだ。

「ギアッチョ。写真、取りましょう」
「何だァ?カメラなんか持ってきてたのかよ」

 が笑って。と声をかけても、ギアッチョは恥ずかしがって笑わない。カメラレンズには、青く美しい海の入り江と空を背景に、赤いオープンカーと、仏頂面で運転席のドアに寄りかかるギアッチョが収められている。は、いつかギアッチョの笑顔が拝めますように、と念じながらインスタントカメラのシャッターを押した。

 この写真もきっと宝物になる。はインスタントカメラを両手で包み込んで胸に当てると、俯きざまに微笑んだ。