暗殺嬢は轢死したい。

 ギアッチョは密輸船の船首付近の縁に腰掛け、暗い海面に視線を落としてあてどなくの姿を探していた。船の照明はクルーザーがあったあたりを照らしているが、必ずしもそこから彼女が姿を現すとは限らない。海は穏やかだが潮の流れは多少なりともあるわけで、もしかするとの体は既にどこかへ流されてしまっているのかもしれない。そうも思ったが、むやみやたらと動き回るよりは、が声を上げるのを待った方が賢明だ。船の燃料も限られている。彼は辛抱強くが声を上げるのを待った。

 そんなギアッチョの様子を操舵室から眺める運び屋3人は何も言わずに待っていたが、こちらも仕事だ。信用に関わるので早くコルシカ島へと向かわなければ。と、ギアッチョの目に触れないところで焦燥感を露わにしていた。それに加えて彼らは、が生き返ることなど露とも知らない。ギアッチョは死なないと言ったが、そんなことをスタンド能力も何も知らない人間に信じられる訳がなかった。もちろん、人智を超えたギアッチョの能力をつい先ほど目の当たりにしていたが、さすがにあの爆撃を受けて人間が生きていられるとは思えなかった。船員たちは、仲間の死を受け感傷に浸っているようにしか見えないギアッチョに、徐々に怒りをも覚え始めていた。だが、いくらイラついていても、あの恐ろしい能力を持っている若者にそれを感づかれたら殺されてしまう。静かなギアッチョの背中が、そう告げているようだった。だから誰も口を開かずに黙っていた。

 がクルーザーごとRPGから発射されたロケット弾を食らい、海の藻くずと化して三十分が経った頃。サーチライトの照らす場所よりも二十メートルほど陸側――ギアッチョのいる場所からは五十メートル程離れている――から声が上がった。

「ギアッチョーーー!」

 ギアッチョはその声を聞いてすぐに立ち上がり、発生源と思しき暗がりに目を凝らした。女性の声を聞いて驚いた様子の船員たちが、サーチライトを動かして、声のした方へと照明を当てる。そこには手足で水を掻きながら、器用にギアッチョのいる船の方へ大手を振るの姿があった。

「……嘘だろ」
「マジかよ……奇跡か?」

 さすがのギャング達もこれには仰天である。自分たちが瞬きをする間にでも操縦席から間一髪逃れた?いや、それはあり得ない。操縦席からすぐ海に身を投げられるような構造をしたクルーザーでは無かった。確かに彼女は爆撃を受けた。それはここにいる皆が確認している。あんな爆撃を受けて生きていられる人間なんているはずがない……。なのに、あの女は何故、元気に声を張り上げて大手を振っているのだ。

「泳いでこれるか!?」
「ええ!今行く!」

 船を寄せるまでの距離でもない。ギアッチョは安堵の溜息を吐いた。吐いて落ち着いたのも束の間、彼は再び焦燥する。

 待てよ。あいつ今服……着てなくねーか。

 そう思い至った後、ギアッチョは操舵室に押し入った。

「おいコラ!!」
「は!はいいいい!!!」

 完全にギアッチョを恐れている運び屋の男ふたり。彼らはギアッチョに、バスタオル等の体を拭えるものと、身体を温められるブランケット。そして男物でも何でもいいのでとりあえず洗濯されてる服を用意しろ。と言われ、船内を駆け回り始めた。ばたばたと手下たちが船内を駆け回る音が響く中、リーダー格の男が操舵席から振り返ってギアッチョを見やった。

「……なんであの娘、生きてんだ……?」
「なんでって聞かれて理屈付けて説明できるようなもんじゃあねーんだよ」
「……あんたが氷を操ってんのと一緒ってワケか」

 男にはギアッチョ達の属する暗殺者チームが、噂以上に畏怖すべき存在だと思えて仕方がなかった。特にこの、目の前の若者の能力は恐ろしい。能力が発動してしまえば最後、有無も言わさず凄まじい速さで氷漬けにされてしまう。その相方は絶対に死なない女。……両者の能力によってもたらされた現状が、男には最早神の御業としか思えなかった。

 ギアッチョは男に向けられた目を見て眉を顰めると、何も言わずに操舵室を後にした。あんな目を向けられるのには慣れている。最早怒りすら最近は湧いてこない。ギアッチョは外に出るなりの姿を探した。泳ぎが得意なのか、彼女はあと5メートルで船底に手が付くといったところまで近づいていた。



34:Sweater Weather



「ギアッチョ、手を貸してくれる?」

 は船に身を寄せて、上で彼女を見下ろすギアッチョに向かって手を伸ばす。

「ちょっと待ってろ。……おい!タオルくらいあんだろ!?早く持ってこい!!ちんたらしてると氷漬けにして海に沈めるぞ!!」

 ギアッチョは怒気を込めて声を張り上げ、使いに走らせた運び屋の男を急かした。慌てた様子でバスタオルとタオルケットを持ち寄った男の手からそれらをぶん取ると、右手をに差し伸べて彼女の体を引き寄せた。

 髪から水を滴り落とし、ギアッチョを見上げる。綺麗に修復され、爆撃を受けたのが嘘の様に滑らかな肌を纏う腕。そして腕の付け根あたりに何となしに視線をやると、形のいい乳房が海面に浮いているのを見つけてしまう。ギアッチョの心は、見てはいけないという理性と、どうしたって見てしまう男の性とでせめぎ合っていたが、結局男の性に負けて見てしまっていた。無論、彼女は裸だ。ふとギアッチョは、タオルとタオルケットを持ってきた男が一人背後に佇んでいることに気付く。の裸を男に見られることはもちろん、それを見ている自分を見られることが、彼にとっては非情に良くなかった。

「……おい、まだそこにいんのか!!!?さっさと操舵室にでも戻ってろこのスケベ野郎がッ!!!」
「す!すいませんっ!!!」

 “スケベ野郎”という言葉が自身に突き刺さる。完全にブーメランだ。そんな情けない気分になりながらも人払いを完了したギアッチョは、から顔を背けたまま船上へと引き上げた。は何とか船体に乗り込み船の縁に膝をかける。そして床に足を置いた瞬間、濡れた床で足を滑らせ体勢を崩し、小さく悲鳴を上げる。再び背後から海へ落下しそうになるの体をギアッチョはとっさに抱きとめた。瞬間、ギアッチョはの顔を見る。きょとんとした顔で、はギアッチョを見上げていた。

「ったく何やってんだどんくせーな!気ィつけろ!!」
「……あ、ありがとう。ギアッチョ」

 抱きとめたはいいものの、オレは今とんでもない状況になっているのではないか。とギアッチョの理性が、今更ながら現状に追いついた。左手の平が濡れたのくびれに吸い付いている。そして、柔らかな、何にも包まれていない胸が、彼の胸板に密着している。そのまま視線を下にやってしまったギアッチョは、船の縁に乗り上げている、の水に濡れた形のいい尻を目にした途端、額の汗腺から汗が噴出すのを感じ取る。そしてとっさにやってしまったことを後悔する。別に死ぬわけじゃあるまいし、もう一度海から引き戻せば良かったんだと。どうしてこうなった!

 彼があれやこれやと思考を巡らせている間、は何も言わなかった。そのせいで、ギアッチョがの裸体を抱きしめたまま結構な時間が過ぎてしまっていた。さすがのも恥ずかしくなってきたのか、彼の耳元で静かに声を上げた。

「ギアッチョ、すごくあったかい」

 その声で再び我に返ったギアッチョはもろとも前傾していた体勢を元に戻し起立すると、対面する彼女の肩に両手を当てて、裸体を自分から引き剥がした。ギアッチョは、完全に慌てふためいて声すら出せずに口をパクつかせ、の顔を凝視していた。全裸のはまだ抱きしめられている方が良かった。と、突然風通しの良くなった体の前面の大事な部分をとっさに両手で隠した。ギアッチョが自分の左肩に押し当てているバスタオルが欲しい。そう思った矢先に、ギアッチョは彼女の体から手を離し、バスタオルを彼女の体の前でバサっと音を立てて勢いよく広げた。

「ありがとう」

 は笑顔で広げられたバスタオルを受け取って、それを胸部より下に巻き付けた。夏で水温もそこまで低くは無かったが、日差しの無い夜に水浸しになるのはさすがにこたえた。何となく、ギアッチョの能力の名残と思われる冷気が漂っているような気もした。そう思っていると、まるで心の声でも聞かれているかのように、フリース生地の大きなブランケットを肩から掛けられた。ギアッチョは頬を赤くして、そっぽを向いている。

「ギアッチョ、ごめんなさい。手間をかけさせちゃったわね」
「……別にお前が謝ることじゃあねーだろ。……体、何ともねーのか」
「ええ。大丈夫。いつも通り」
「なら良かった」

 ギアッチョはの髪がずぶ濡れになっているのをちらと見ると、先ほど追い払った男に別のハンドタオルも持って来いと追加で注文をした。完全に手懐けた運び屋の男からタオルを手に入れたギアッチョは、乗り込んだ場所と寸分たがわぬ場所に立ったままのの頭にそれを乗せて、操舵室の壁に背を預け座り込んだ。

「帰れなくなっちゃったわね」
「エンジン付きのゴムボート積んでるんだと。倉庫の傍に置いといてくれりゃあいいって言われた」
「ほんと!?よかった。でもそれって海難事故用に積んでるんでしょう?借りちゃって平気かしら」
「んなこと知るかよ。これから十時間もかけてサルデーニャ島に行って、十時間もかけてまたフェリーでシチリア島まで戻って車に乗って、そっからさらに十時間かけてナポリに戻るとか頭おかしくなりそうだ!そんなのオレはぜってーイヤだぜ。絶対にだ。こいつらが海に沈もうが何しようが知ったこっちゃねー!」
「ああ、ギアッチョ。私がちゃんと気づいて爆撃回避できてたら良かったのよね……本当にごめんなさい」
「別にお前のこと責めてねーだろうが!大した距離も無かったってのに、あんなもん避けられるワケねーよ!!!」
「あれ、結局何だったの?」
「ロケットランチャーだ。お前ロケット弾ぶち込まれちまったんだよ。マジで、たかが海賊風情がなんでRPGなんか持ってんだ。聞いてねーよ。っつーかパッショーネは他所のギャングになんつーもん売りつけてんだよ……うちのボスぜってー頭おかしい。キレてやがる」
「私が想像してたのとは全然違ったんだけど、あれはあれで……良かったわ」
「あ!?何の話だ」
「ブリーフィングの時、爆弾がどうとかって話をしていたでしょう?だから、もしかしたら爆死できるんじゃないかなって期待してたのよ。今思えばどこにもそんな機会無かったのに変な話よね。そしたらほんとに爆死できちゃった。私、持ってるわ」
「お前よォ……一体オレがどんだけ心配したとッ……」
「え?心配……?」



 以前、が轢死することでターゲットの男を事故死させた際、彼女の無残な轢死体が普段通りに戻るまでに要した時間は十分程度だった。方々に散った体の一部だった物が、心臓を中心にし集まるまでにかかる時間だ。まるで生き物が地を這うように集合していたので、スピード感は皆無だった。ギアッチョは、グロテスクにもほどがある現場を一足早く後にして、彼女を車で迎えに行った。それを追いかけてきたメローネも、額に汗を滲ませ嫌なものを見たとでも言いたげに眉根を寄せ、しばらく黙っていた。普段喋れと言わずとも下世話な話を好き勝手に振ってくるメローネが、珍しく黙っているのを、無理もないと思った。

 そして彼女の二度目の死を、彼は今宵目の当たりにした。幸い、ミンチ状になってしまったであろう肉片やら臓物やらは、暗い水面に飛散したからか見ずに済んだ。だが、が爆撃に遭うのをむざむざ許してしまった自分が許せなかった。いくら生き返るからと言っても、そして彼女自身が例え死を望んでいたとしても、彼女の命をぞんざいに扱うべきではない。否、べき論などどうでも良く、ただギアッチョ自身が、彼女が無残な姿となって死ぬのを良しとしていないだけだった。

 そんな後悔から始まり、彼女が爆死して十分が経過すると、ギアッチョは次第に気がきでなくなりはじめた。が声を上げない。色々と考えもした。時速百二十キロメートル――崖の上から確認していた限りだと、恐らくそれくらいの速度は出ていた――で突っ込んできたスーパーカーに胴体を真っ二つにされた時よりも、体の一部だった物は四方八方に飛散しているだろうから、あのスピード感でいけば十分より多く時間はかかるかもしれない。

 そんな考察をしているうちに二十分が経過すると、あまりにも長すぎる。と焦り始める。まだ一度しかが死んで生き返るところを自分は見ていない。だから、どれだけ粉微塵にされても絶対に再生するかどうかなんて、オレは知らない。再生能力に限界はあるんじゃないか?今度ばかりは流石に無理だったのか?本当に生き返るのか?どうしよう。オレのせいだ。オレがを連れてきたばっかりに、こんなことになっちまったんだ。。頼む。死ぬな。――早く戻って来いよ……!



「あークソッ!!!お前がいつまでたっても戻ってこねーから、お前のこと今度こそガチで死んじまったんじゃあねーかって思って心配してたオレがバカみてーじゃねーか!!!オレがらしくもなくすげーブルーになって気をもんでる間、テメーはそのいっちまってる頭で気持ちよぉーくラリッてやがったってのか!?ふざけんなこの変態オンナ!!!おめーはメローネよりやべーよ!!!ずっとあいつと一緒にいるオレが言うんだ間違いねー!!!お前マジで!!!!!」
「ギアッチョ、落ち着いて」

 興奮して立ちあがっていたギアッチョの両手を、が優しく取り上げる。ギアッチョの手は暖かかった。今まで氷を装甲のようにして纏っていたことなど嘘の様に。すぐに熱くなるところも彼の能力とは真逆だと思うと、は何だか微笑ましく思えた。そして変態だと罵られたばかりなのに、憤慨することもなく微笑を浮かべる。

「心配かけてごめんなさい。ちょっと修復に時間がかかっちゃったみたい。すごい爆発だったから、身体があちこち散らばっちゃったみたいね。心配してくれてありがとう。あなたは、私に戻ってきて欲しいって本気で思ってくれていたのよね。私もね、あなたの所に戻りたいって思ったから、メガデスに聞かれた時生き返りたいって答えたのよ。今回のは、すごく奥手で草食系だったはずの彼氏に突然ベッドに押し倒された時並みの衝撃的な死に方だったから、それはもう最高に良かったんだけど。でも、それじゃあダメなの。私、まだ死ねないのよ。どんなに気持ちよくなれたって、私が永遠の死を選ぶのは当分先になりそうだわ。だから、ね。安心して?そんなことより、狙われて爆死したのが私で本当に良かった。あなたが無事で……本当に良かった」

 ギアッチョの手を取っていたの片方の手が、いつの間にか彼の頬に添えられていた。遅れてそのことに気付いたギアッチョはぴくりと身体を揺らす。遅きに失した反応だ。完全にその手から逃れる機会を失い、彼は顔を真っ赤にしての顔を見つめるしかなかった。

「私、あなたのそういう優しい所が大好きよ」

 自分の記憶が確かなら、“優しい”という言葉も“大好き”という言葉も、人生で初めて言われた言葉だ。ギアッチョはそう思った。故に、そう言われて何と答えればいいのかが彼には分からない。ただひとつ分かることがあるとすれば、彼女の言うそれは、少なくとも異性に対して向けられたものではないということだった。行きのフェリーでも思ったことだ。彼女は、自分のことを弟か何かのように思っている。そうでなければ、男に向かってこうも簡単にそんな言葉を吐かないはずだ。優しいとか大好きだとか、身体が温まって痒くなってしまうような言葉を聞いて、こんな反感が生まれるのは何故だ?オレは、になんて言って欲しかったんだ?――オレはをどうしたいんだ?

「おい!ボートの準備ができた。さっさとシチリアに帰れ」

 リーダー格の男が操舵室から顔だけを出してとギアッチョのふたりに呼びかけた。その声を受け、ギアッチョはぐるぐると巡っていた思考回路から抜け出して、背後を振り返る。

「あと、ねーちゃん。まともな服が無いんで、これで我慢してくれねーか」

 そう言って投げ渡されたのは、男物の白い半袖シャツ――恐らく下着だ――とグレーのスウェットパンツだった。

「ごめんなさい。ありがとう船長さん。このブランケットもお借りしていいかしら?半袖だけだと寒そうだから」
「好きにしな。貸したもんは全部倉庫に置いて帰れ」

 男はその言葉を最後に操舵席へと戻り、長らく停止させていた密輸船にエンジンをかけた。

「ギアッチョは先にボートに乗ってて。私、ここで着替えてすぐに行くわ」
「……おう。早くしろよ」
「ええ」

 着替えを済ませたを乗せ、ゴムボートは一時間かけて無事パッショーネの所有する倉庫のある埠頭へとたどり着いた。そこから車に乗り換え、ホテルに着いたのは午前四時。チェックアウトの時間まであと六時間しかないことを嘆きながら、ふたりはシャワーを浴び、床に就いた。

 はすんなり眠れているようだ。ギアッチョは、すぐ隣の別のベッドから聞こえてくるの寝息を聞いて、そう思った。対する彼は、色々な思考が頭を過って今晩も十分には眠れそうになかった。目を閉じると、否が応でもの生まれたままの姿を思い浮かべてしまう。

『ギアッチョ、すごくあったかい』

 耳元でささやかれたの言葉が脳内でリプレイされる。

 クソがッ!!!何クソみてーなこと考えてんだメローネじゃあるまいしよォ~~~!!!クソッ、クソッ、クソがあああ!!!っつーか完全に安心しきって眠りやがってこのアマあああ!!!オレだって男だっつーんだよマジでふざけやがってナメてんのか!!!

 そう心の中で叫んでいるくせに彼女を襲えないでいる自分を情けなく思いながら、彼は幾度となく寝返りを打ち、眠れない夜を過ごすのだった。