「ただいま帰りました~」
がニューヨークでの仕事を終えて帰国した次の日。彼女が職場に出勤すると、店長が大手を振って彼女を出迎えた。
「ああ!君がいなくて寂しかったよ!」
ふたりは抱き合ってチークキスを交わした。はすぐに離れようとしたのだが、店長はなかなか彼女を熱い抱擁から解放してくれない。は店長の背中に手を回すと、とんとんと何回か軽くタップしながら、まるで赤子をあやすかのように優しく宥めた。
「店長。大げさですよ。たったの三日じゃないですか。そのうち私が出勤すべきだった日はたったの一日ですよ?」
「ああ、違うんだ。私の可愛い娘が、ついこの前よその男のものになってしまったんだ。君のことは実の娘の様に思っているんだ……。頼むから君まで結婚するなんて言わないでおくれ……」
「ああ店長。お気の毒に……。でも、きっと素敵な式だったんでしょう?今度写真を見せてくださいね。あと、私結婚するなんて言ってませんから、まだまだあなたの娘でいられるわ」
店長は涙を流し、彼女の肩に顎を乗せたままうんうんと頷くと、やっとを解放した。
「ああ。ありがとう。しかしなァ……君がいなかった間、いくらうちの店に損害が出たかって考えるのが恐ろしいよ」
「たった一日ですってば!」
「いや。たった一日でも、もしかしたら1台売れていたかもって考えるとなぁ。ファジョリーノのやつは確かにイイ男だが、いかんせんうちの店の客は男ばっかりだから。やっぱりとあいつだと客の食いつき方が違うんだよ……」
「人を男娼みたいに言うの止めてくださいよ」
受付のカウンターで書類整理をしていたファジョリーノが面白くなさそうな顔をして店長に抗議した。
「それって私を娼婦みたいに考えてるってことなの?ファジョリーノ」
が悪戯っぽく後輩を問いただすとバツが悪そうな顔をして頭を掻く。
「あー違いますよ先輩。オレが言いたいのは、うちは別に営業で車売ってるんじゃあなくて、いい車を最高のアフターサービスと確かな技術力で売って、後の購買意欲につなげるってのが理念でしょうってことですよ。先輩が美人だから車が売れてるわけでも、ましてやオレがイイ男なのに客が男だから車が売れないってわけでもないってことを言いたいわけで……」
「ああ、その通りだ。悪かったよファジョリーノ。君の勤務態度は極めて良好だ。ただちょっといけ好かない感じがするってだけさ」
店長は大口を開けて笑いながら、社長室へと戻っていった。ファジョリーノは肩を竦めてやれやれと顔を横に振った。はくすくすと笑いながら更衣室のロッカーに向かい、荷物を置いて軽く化粧を直すと、給湯室でコーヒーを淹れ、マグカップ片手にホールへと戻った。
今の店の推しはシボレー社のコルベットだ。黒いボディーとやや角ばった後姿が何とも力強く、しかし横から眺めると曲線美が目を引くふたり乗りのスポーツカー。ホールの中央に展示されているそれを眺め、は感嘆の溜息を吐く。うっとりしながらコーヒーを一口飲むと、ふと思い出したことがあった。この黒いボディはに、つい昨日まで会っていた昔の幼馴染のスタンド――パンテラを彷彿とさせた。
そう言えばインヴィートは、私がニューヨークに行くことを知っていた理由について何て言っていたかしら……。
はコルベットを黙って眺めつつ、一昨日の晩のことを思い出していた。
「ファジョリーノ」
は同僚の名を呼んだ。先程と変わらず、受付で書類整理を続けていた彼はに呼ばれて面を上げた。
「はい。何でしょう」
はカツカツと床にヒールを打ち付けながら、ファジョリーノを見据えて彼に歩み寄った。常日頃から背筋をピンと張ってきびきび歩く彼女だったが、今日の様に何かすごみを持って男性に迫るのは珍しかった。ファジョリーノはの妙な気迫に若干怖気づいて身体をこわばらせ、彼女が再度口を開くのを待った。
「ごはん行きましょう?今夜時間ある?」
「え……?あ、はい。もちろん!嬉しいなァ、先輩直々のお誘いなんて」
「ちょっとお話したいことがあるの」
はファジョリーノににっこりと笑いかけるとすぐに踵を返し、窓際の商談スペースに腰を降ろしてコーヒーを飲みながら来客を待った。
彼女が来客を待つ間考えていたのは、自分の過去についてだった。普段、あまり気が進まないので自分から思い返そうとすることは無かったが、今回のインヴィートによる誘拐未遂、それが何故起こったのかと原因を追究するためには、避けて通れない問題だった。
そもそも、彼女がパッショーネの一員となったのは、医者と偽ってこの店に訪れてきたチョコラータという男に攫われてからだった。それからまだ一年と経っておらず、その短い間にインヴィートへがパッショーネに懐柔されているなどという情報を提供できる人間など、数は限られている。インヴィートは南に蔓延るヤク中から情報提供を受けていると言っていたが、その言葉を信じるとするならばファジョリーノがパッショーネの存在も、チョコラータという男がパッショーネの一員であると言うことも知っていたと考えるのが妥当と思えた。
……彼には可哀想だけど、ちょっとお灸をすえてやらないといけないかもね。
彼女は過去から逃げたかった。それが何故かは漠然としていたが、今自分が身を置いている環境がすごく居心地が良かったので、インヴィートが自分をそっとしておいてくれないというのならば、自分で何とかして安息の地を脅かされないように努めるしかない。彼女はイタリアへ戻るまでにそう決意していた。
自分の欲求を誰の目も気にせず解放することで自分の幸福を心おきなく追及できる。そんな場所を提供してくれる暗殺者チームの面々に、自分の過去のことで迷惑をかけるわけにはいかない。ひとまず目先の内通者をどうにかしなければ。
夜を迎え、ファジョリーノと共に近場のバーへと向かった。メローネとギアッチョのふたりが、いつものように尾行し、を監視していた。メローネはふたりの間に割って入ってふたりの仲を引き裂いてやりたいという衝動に駆られたが、隣の男――のいけ好かない爽やかぶった見た目の同僚に自分たちの存在を知られるわけにはいかないので、彼は下唇を血が出そうなほどに噛み締めながら怒りに打ち震えていた。
「何なんだあの男は……殺すか」
「の隣に男がいたら二言目には殺す殺すってうるせーぞメローネ。ただの同僚だろうが。同僚とメシ食いにいくくらい普通だぜ」
「おかしいな。オレも同僚だよな。誘われたことがないぞ……」
「そりゃお前がメローネだからだよ」
「……何だそれは。哲学か?」
メローネはヘッドセットを付けていた。そのヘッドセットには、にあらかじめ仕掛けておいた盗聴器が拾う音が届けられている。つまり、とファジョリーノの会話は彼に筒抜けである。店に着くまでは他愛無い世間話や仕事の話をしていたふたりだったが、席に着くや否や、は核心に迫った。これはただのデートという訳では無さそうだ、との気迫から察知すると、メローネは安堵した。
24:Disturbia
「あなた、私に何か言うことがあるんじゃない?」
は前菜に手を付けながら言った。ファジョリーノはにこにこと屈託のない笑顔を彼女に向けながら、何のことかさっぱりといった雰囲気で首を傾げた。
「何のことですか?」
「あなた、クスリやってるでしょ」
「……と、突然、何を言うんですか先輩!やだなーこんな好青年がまさか」
「普通それ自分じゃ言わないわよ。あなたがクスリを買うお金と引き換えに私の情報を提供した男が、ニューヨークで接触してきたの。危うく連れ去られるところだったわ」
ファジョリーノは一瞬緊張して息をのんだが、すぐに持ち前の飄々とした態度を取り戻す。
「まさかそんなことになるとは。すみません」
「……ずいぶん軽い返事ね。でもまあ、許してあげる。あなたとはいい同僚同士でいたいしね。別にあなたがクスリをやっていようがやっていまいが、私にそれを咎める資格も無いし、別に店長に言いつけてやろうなんてことも思ってないわ。ただ、ラリったまま出勤してお店の評判落としたりしなきゃね」
「ほんと、先輩って仕事熱心ですよね~」
「好きなのよ。だから、仕事の邪魔しないなら黙っておいてあげるわ。ただもう一つだけ聞きたいことがあるの」
「なんでしょう?」
「どこまで知ってるのか話してほしい」
「……?今度こそ何のことかさっぱりですけど」
「貴方、どうして私が情報を搾取されなきゃならないかって考えなかったの?」
「え?……オレはただ、・の仕事の予定と住所を教えろってメールで言われただけですよ。相手がどんなヤツなのかも知らない。ただ、そんなこと教えるだけで金がもらえるならラッキーだって思って。最初は半信半疑でした。けど教えた次の日には金が振り込まれてて」
どうやらファジョリーノがヤク中だというのは本当らしい。は怪訝な顔で目の前の男を眺めてそう思った。何故そんなことをしなければならないのかということを少しも考えず、他人の個人情報を見ず知らずの人間に流すことに何の罪悪感も抱かなかったというのだ。増してや独り身の女性の住所を会社の社員名簿を盗み見て、どこの誰かも分からないネット上の人間に流すなどどこの鬼畜かと神経を疑う行為だが、も人のことをどうこう言える身ではないと自覚しているので、そのことについて窘めるつもりはなかった。
普段から飄々としていて掴みどころのない男だとは思っていたが、その原因がまさかクスリだったとは。その事実をインヴィートに聞いた時は信じられなかったが、は今しがたそれが事実だと確認させられることになった。
目の前の男が、自分と寸分たがわぬ快楽主義者であるということは分かった。だが、だとしたら何故、私がパッショーネの一員だ、などという情報をインヴィートが知っていたのか?には、どうもファジョリーノが本当のことをすべて話しているように思えて仕方がなかった。
「私を連れ去ろうとした男に話したのは、本当に私の住所と仕事の予定だけなの?」
「ええ。それだけですよ。待てども待てども、それ以降メールは届かなかった。せっかくいい小遣い稼ぎ先見つけたと思ったのに……」
「いい機会じゃない。これを機にクスリなんかやめたら?」
「……やめれたらとっくにやめてますよ。そうだなァ……先輩がオレのこと慰めてくれるなら、立ち直れるかも」
「……それなら今ここでやってあげる。なんて言って欲しいの?」
ファジョリーノはテーブルの上に置かれていたの左手におもむろに手を伸ばすと、それを手に取って軽く掴み、親指をゆっくりと動かしながら彼女を見つめた。
「やだな先輩。男の慰め方くらい知ってるでしょう?こんなとこじゃできないようなこと。言って欲しいんじゃあなくて、やってほしいんですよ。オレがキメてハイになってるときに。良ければ先輩もどうですか?ふたりで五、六回楽しめるくらいはストックありますよ。オレの家に」
「……私、クスリはやらないの。ごめんなさいね。他の趣味の合う子と楽しんで」
はそう言うと、ゆっくりと手をテーブルから降ろした。そのタイミングで頼んでいたメインの料理が運ばれてきたので、彼女はそれを言葉少なに胃に収めると自分が食べた分の代金をテーブルに置いて席を立った。
「あ~ああ。デートだって思ってたのオレだけか」
「あなたがクスリに頼らなくてもよくなったら、今度はあなたから誘って。そのときは喜んで夜をご一緒させてもらうわ」
ファジョリーノは自分の肩に置かれたの手から伝わる彼女の体温が、ゆっくりと離れて行くのを名残惜しく思いながら、彼女が店の出口から出ていくのを黙って見送った。
が会社の同僚と夕食を共にした店から出て、アジトへと向かい歩き出した後、メローネは車から降りての後を歩いて追い、ギアッチョは車に残り店内の様子を伺っていた。
ファジョリーノは窓際の客席で頬杖をついて、何やら物悲しそうに外の景色を見ていた。携帯電話を取り出してどこかへ連絡しようとも、店を出ての後を追おうとする様子も無い。ギアッチョは十分程度その場に留まってファジョリーノの様子を眺めていたが、どうにも動く気配の無い彼に痺れを切らし、とメローネを拾うため、ふたりの進行方向に向かって車を走らせた。
「!何をやってるんだ!?相手はヤク中なんだぞ!迂闊にも程があるっ」
「メローネ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。私死なないから」
「ああ頼む。もう少し危機感を持ってくれ。君みたいな美人、男ならだれも放っておかないさ。アイツがキメながら君とセックスしたいって言ったとき、オレは気が気じゃあなかったんだぜ!?オレが君とセックスしたいっていうのに!横取りされてたまるか!」
「ふふっ。あなたってそればっかりね」
は盗聴されていたということに大して反応も見せず、いつものようにメローネを軽くあしらうと、彼と並んで歩きながら今日のファジョリーノとの話を思い返した。
はあまり踏み込んだ話はしなかった。
彼のクスリの入手先は間違いなくパッショーネのディーラーだ。パッショーネというギャングの存在くらいは耳にしていることだろう。は自分がイタリアを席捲するパッショーネの一員だとほのめかすわけにはいかないので、ファジョリーノが“シロ”であった時のことを考慮し、直球で“自分がパッショーネに懐柔されたと、お小遣いをくれた男に言ったのか”などという質問しなかった。
だが、には確信があった。あの男は本当に、自分の住所と仕事の予定しかインヴィートに伝えていないと。彼はクスリで侵された脳で何も考えていない。まともな思考回路が途絶えていなければ、公共の場でヤク中でも何でもない女性相手ににキメながらヤろうなどととんでもない誘い方をするはずがない。もうヤク中だとバレているならと、堰を切ったかのように自らの犯罪行為を自供しはじめたのだ。そんな男が組織のことを探ろうなどと、どこから手を付けていいかも分からない危険な依頼を受けるはずがない。メールのやり取りをする男が何者なのか、何故そんな情報を提供しなければいけないのかなどと少しも考えず、目先の利益のために自分が簡単にできることをやっただけ。
彼女もヤク中と変わらないという自覚はあった。そして、死んで果てた後から数日間、夢見心地でふわふわした感覚になるのは良く分かった。その間、あまり物事を深く考える気分にはならないのだ。
そんなの確信を裏付けるように、ギアッチョがすぐにふたりを拾うために車で追いかけてきた。数メートル先に停車した車の助手席にが乗り込み、メローネがトランク上に乗って運転席と助手席の間に足を降ろすと、車はゆっくりと動き出す。
「どうだった?何か男に動きはあったか?」
「……いや。ただ、だいぶセンチになってたみてーだな。ぜーんぜん席から離れようとしなかったぜ。どっかに電話かメールでもすんのかって見張ってもいたが、ポケットに手を突っ込みもしなかった」
「やっぱり、彼じゃないんだわ……」
「もういいじゃないか。君の周りはオレ達がしっかり見張ってる。君のことを探ろうとするやつがいないかどうか、しっかり見ておく。だから、リゾットに確認も取らないでひとりで勝手に動くのは止めた方がいい。君がオレたちに迷惑をかけたくないって思ってくれてるのはちゃんと分かってるんだ」
「そうね。本当に私、迂闊だったわ。ごめんなさい」
ファジョリーノへの尋問で、全てが解決するとは思っていた。だが、そうではなかった。自分を探る者がファジョリーノの他に確かに存在している。そんな気味の悪さが彼女を不安にさせた。――彼女は死にはしないが、過去を、自分の存在を探られることに、何か言いようのない不安や恐怖心を抱いていた。だが、何故そう思うのかは本人もよく分かっていない。
「ところで。会社に伝えてる住所ってまさか、おれ達のアジトの住所じゃあないよな?」
「まさか。昔住んでたところよ。もう十年くらい前?とにかく良く覚えていないんだけれど……」
はそこまで言うと黙り込んで、流れ行く景色に視線を映し黙り込んだ。メローネにはそんな彼女のしぐさが、零れ落ちた涙が頬を伝っていくのを見られまいとしているように見えた。