暗殺嬢は轢死したい。

 ――そしてオレの動体視力が確かなら、あの“死神”は鎖による拘束を解こうと、抵抗するような素振りを見せていた。何故だ?あれはあの“メガデス”の一部じゃあないのか?

 メローネがのスタンドの姿についてあれやこれやと考察している間、はあたりを見回していた。イルーゾォのスタンド能力が鏡の中の世界を創造するものだというのは話には聞いていたが、実際に足を踏み入れるのは初めてだった。だが、建物の位置関係が現実と左右逆に見えるというだけで大して面白みがない。

「……なんか普通ね」
「ハンプティ・ダンプティもライオンもユニコーンも出てこないんでがっかりしているところ申し訳ないが、いい加減オレの話を聞け」

 イルーゾォは尚も痛みに耐えて床に転がるインヴィートの腹部に足を乗せ、腕組をしてメローネとにそう訴える。

「こいつをどうする?」
「……殺さないで」
「なんだァ。こいつはお前とどんな関係なんだ」
「……今はどんな関係でもないわ。ただの幼馴染よ。殺したって何の意味もないし、無駄な殺しは今回に限ってはご法度でしょう?」

 は焦燥感を少しだけ露わにしていた。イルーゾォは殺しても意味は無いと言って明らかに男を庇うような素振りを見せるに苛立ちを覚えた。

。オレには、こいつが恐らくパッショーネに居場所を追われたギャンググループの残党だというところまでは分かってるんだ。そして。お前の本名を知っている。隠し子だったお前と親しくするギャングの人間なんて数は限られてる。つまりこいつは、お前の父親の小姓か何かだったんじゃあないのかって睨んでるだぜ」
「……勘が鋭いわね。その通りよイルーゾォ」
「そしてオレが危惧しているのは、こいつをもし始末もしないで帰ったら、またお前が付け狙われるんじゃあないかってことなんだ。お前の居場所まで突き止められちまったら、パッショーネを良く思っていないこいつが何をしようと考えるかくらい察しは付くだろう?そうしたら、迷惑を被るのは誰だ?」
「あなたたちね」
「そうだ。だが、お前が言う通り、証拠の残るような殺人は控えなきゃならない。そこで、こいつをどうするかについて考えろと言っているんだ。お前もだメローネ。てめぇ……いったいいつまでそこでぶつぶつ言っているつもりだ。表のでけぇ猫にかみ殺されそうになってしょんべんでもちびっちまったか?ああ?」
「……それなら、考えがある」

 メローネはイルーゾォの煽り文句に何の反応も見せずに、おもむろに立ちあがった。

「そいつの血液をオレが保存しておく」
「……ふむ。なるほどなァ」
「もしそいつが に何かしようとしたら、オレがそのへんのあばずれにベイビィを生ませて、地の果てまで追い回してやる」

 後は、メローネのスタンド能力がどんなものか良く聞かせてやって、インヴィートに脅しをかければいい。だが、もう一つ問題が残っていた。彼がスタンド能力を解除し、大型のネコ科動物を黙らせなければ、鏡の外の世界に出られないと言うことだ。この期に及んで自分が語りかけたところで望み薄ではあるが、とは思いつつも、はゆっくりとインヴィートの傍へと近寄って行った。

「……イルーゾォ。彼を放してあげて」

 がそう言うと、イルーゾォはインヴィートの腹の上に乗せていた足をどけ、一歩後ろへと引き下がった。は床に身を預けたままの彼にできるだけ目線を合わせようと、数歩手前でしゃがみ込んだ。

「……。オレはお前が、何でそんな簡単に鞍替えできたのか……その理由をまだ聞いてない」
「……私はそもそも父の娘ってだけで、あなたたちファミリーとは何の関係もないのよ。鞍替えも何も、私はそもそもギャングじゃなかった。そしてあなたと私をつなぐのは、父の存在だけ。あなたが幼き日にどれだけ私に優しくしてくれたか、それを忘れたわけじゃあ無いの。でも、それはもう昔の話。それでもあなたに死なないで欲しいって思っているのは、あなたが父を慕ってくれていたからよ。私の愛する父をね。でも、父親を殺されたことに対する憎しみだとか、怒りだとか、そんなものより……今の私には満たさないといけない欲求があるの。だから、パッショーネに身を置いてる。それは誰に強制されたわけでもないわ」

 このの話を聞いて、イルーゾォとメローネのふたりは彼女の真の異常性に気づいてしまった。それは、彼女がメンバーの前で自己紹介をしたその日、皆に“狂ってる”と思わせた時にも一度に微かに感じたものではあった。だがあの時ののイントロダクションは、彼女のスタンド能力だとか、快楽を得るため死にたがることだとか、他にも異常な性質のオンパレードだったのでそのことについて熟考する余裕がなかったのだ。

 親族を大切に思うのは、万国共通の既成概念だ。血のつながりのあるものは皆愛して然るべきというその既成概念を強制されて、息苦しく思う人間も少なからず存在する。だが、大抵の人間はそれを既成概念とも思わず血縁者を愛し、その血縁を絶やすまいと生きている。

 そんな愛は縁遠くなるに従って薄まることはある。だが、は血のつながった実の父親をパッショーネに殺されているのだ。しかも、彼女のこれまでの話からして、はかなり父親を慕っていたはずだ。それなのに彼女は今、憎しみも怒りも抱かずに父親を殺せと命じた者――つまりパッショーネのボスの元に身を寄せている。そして、父親を殺されたと言う過去に当然沸き起こったであろう感情よりも、今は優先すべき彼女の欲求がある。それが、彼女のスタンド能力によってもたらされる、彼女曰く至上の快感を得ることだというのだ。

 彼女はインヴィートを諭そうと話をしていた。だが、その話は客観的に聞いているメローネとイルーゾォにとっても解しがたいものだった。冷酷無比な暗殺者ふたりがそう思ったのだ。インヴィートが怒りを彼女にぶつけるのも無理は無い。

「オーケー。分かった。お前は今、完全にオレ達を……オヤジさんを裏切って狂っちまってるってことなんだな?」
「……言ってるじゃない。そもそも裏切るも何もないのよ」
「ああ。お前はきっと……誰かに操られてる。そうでなきゃ、おかしいんだよ……」
「心当たりが無いわ」
「スタンドなんてもんが存在するんだ。お前に気づかれない内に、記憶を抜くとか、感情を縛るとか……そんなもんがあるんだろう。知らねぇけどな。そうじゃなきゃ、おかしいぜ。絶対にな……」

 ……感情を縛る……?

 メローネはインヴィートが恨めし気に呟く声を聞いて何か閃いた。メローネは今しがた、鎖でぐるぐるに縛られたのスタンドの姿を見たのだ。

 スタンドは言わば、能力者の精神を具現化したものだ。精神とはつまり人間の心。その心を、は縛られている?もしあの鎖が、あの悍ましい格好をしたスタンドに付帯したものでは無かったとしたら……?

 は誰かに操られているのか……?

 そもそもあの悍ましい姿のスタンドは何だ?もしもあれが彼女の怒りや憎しみが具現化したものだとしたら?――それを他の誰かが縛っているとしたら?

 の今の意思を聞いて、違和感を覚えたのはイルーゾォも同じらしかった。イルーゾォは眉を顰め、の異常性がただならないと感じている様子だ。だが、彼はのスタンドを恐らく見ていない。メローネだけが、インヴィートがうわ言のように話した仮説にもしかすると妥当性があるかもしれないと考えていた。

 他三人に異常性を見出されている当の本人は、まるで話の通じない子供を見るような目で幼馴染を見つめ、溜息を吐いていた。



21:Dread and the Fugitive Mind



「理解してとは言わないわ。放っておいてほしいのよ。そして、もう私を追うのは止めて頂戴。私が憎らしくって殺したいっていうなら殺してくれて構わない。その代わり、彼らに迷惑をかけるのはやめて」

 インヴィートは完全に戦意を喪失していた。恐らく、に失望させられたところが一番大きいのだろう。彼が尊敬して慕っていたギャングの娘に、仇討の意思がかけらも無いと知ってうちひしがれているのだ。そしてこの鏡の中の世界では、スタンドも使えない。自分には、自分より立派な体躯と体力を持っていそうな男ふたり相手に勝てるだけの筋力も体力も無い。万事休す。殺されても仕方ない。完全に慢心していた。インヴィートは静かに内省していた。

 メローネも同様にインヴィートの傍に近寄り、肩掛けカバンから例の小瓶と採血用の器具を取り出した。ピンチのついたチューブでインヴィートの腕を縛り、関節近くの静脈を浮かせると、荒々しい手つきで採血針を薄い皮膚へと突き刺した。医師免許も看護師資格も持たない暗殺者の彼が痛くないようになどと配慮して針を刺すワケも無く、痛みに眉を顰めたインヴィートがクソっと悪態をついた。

「大量に取っておかないとな……。さて、インヴィートとか言ったな?オレがこれから、今度を誘拐しようとしたり危害を加えようとしたり、ましてやイタリアの地に赴いたりなんてふざけた真似をお前がやったらどうなるかってことをよぉーーーく言って聞かせてやる。いいか――」

 そう言ってメローネは、三本分の空のホルダーいっぱいに容赦なくインヴィートの血液を満たしながら、自身のスタンド能力について詳しく言って聞かせた。その話を聞いているうちにインヴィートは、に馴れ馴れしくしていたこの男が変態なのは見た目だけではなかったのだと顔をしかめていった。

 ともあれ、彼がメローネに血液を採取されてしまった以上、下手に動き回ることはできない。だが、殺されもしない。

 おやっさんが死んでから、別に命を惜しんだことは無いが……。諦める訳にはいかない。これをチャンスに変えるんだ。お前らとの出会いを……パッショーネ壊滅の足掛かりにしてやる。クソ野郎共が……。

 彼はのことを諦めてはいなかった。今、アメリカに一緒に残れとは言わない。今回のところは追いもしない。だが、いずれイタリアに戻ってやる。この変態の目を掻い潜ってイタリアに戻るなんて容易なことだ。

 彼女を改心させてやる。そんな方法があるのかどうか分からないし、誰かに操られてるなんて確証なんか無いが、必ず見つけ出してオレのモノにしてやる……。

 戦意と大量の血液を失くした彼は、ただ茫然との姿に見入っていた。その間、メローネが何か恨み言のようなことを話し続けていたが、彼の耳はその話の一切をシャットアウトしていた。

 メローネは気が済むまで話し終わると、戦意を完全に喪失したと思われるインヴィートの様子を確認して、イルーゾォから手渡されていた手鏡を手に取った。そして周囲をざっと見まわして、インヴィートの飼い猫が姿を消していることを確認する。その際、自分とがいた場所に目を向けると相変わらず“メガデス”が鎖に縛られたまま、高速でコマ送りされたり再生されたりを繰り返す動画の様に、緩急をつけて藻掻く様を見て固唾を呑む。悍ましいその存在は除いて、表の世界の様子をイルーゾォとのふたりに伝えた。

「あの猫は消えてるぞ。こいつ、完全に戦意を喪失していやがる」
「けっ、情けねェ。おいメローネ。そいつをちょいと起こして座らせろ」
「……これでいいか?」
「そのまま支えてろ」

 メローネはイルーゾォに言われた通りにし、イルーゾォが何をするつもりなのかと彼の挙動を見守った。イルーゾォはインヴィートの傍に座り込み、利き手で手刀を構え、それを一気にインヴィートの首の側面へ叩き込んだ。

 こうしてインヴィートの視界は暗転し、直後に彼は意識を手放した。

「インヴィート……。ごめんなさい」

 はその一部始終を悲し気に見つめながら呟いた。一件落着。皆がほっと一息つくと、イルーゾォのスタンド能力が解除された。その時、イルーゾォもまた、の背後に迫る“死神”を見て声を上げる。

「……い……一体、なんだァ……ありゃあ……」

 イルーゾォは狼狽えて数歩後退する。“死神”のような、大きく迫力のある成りをしたスタンドは浮遊してゆっくりとこちらへ近づいていた。そして皆のすぐそばまでたどり着くと、背を向けるを後ろから覆うように包み込み、まるで彼女の身体に融合するように姿を消していった。

 はケロッとした顔で、何故か恐怖におののくイルーゾォの表情を見て小首をかしげた。

「どうかしたの?イルーゾォ。顔色が悪いわよ」
「お前……そりゃあ、一体……」
「……?」

 イルーゾォがの背後を指さしていたので、彼女はそこに視線を向けたのだが、ぽつぽつとところどころに明かりを灯した高層ビルが聳え立っているだけだった。

 メローネは額に汗を滲ませながら、イルーゾォの言動を見守っていた。彼にはイルーゾォがあのスタンドを縛り付ける鎖にまで気づいたかどうかは分からなかったが、頼むから下手なことを言うな。そんな視線を送っていた。

「……いや。何でもない」

 イルーゾォは額に指先を当て、かぶりを振った。

「まるで幽霊でも見たみたいな顔……」
「イルーゾォ。気絶させたは良いがこれからどうする?ここに放っておく訳にもいかないだろう」

 確かに幽霊だ。メローネは思った。しかし、彼女がこれ以上そのことに探りを入れようとする前に、メローネはふたりの会話に割って入った。

「部屋に連れて行けばいいんじゃあねーか?あれだけお前が脅したって目を覚ましてから何かしてこない保証はねェからな」
「その部屋って、私の部屋?」
「あたり前だろう。他にどこがあるって言うんだ」
「大丈夫だ。君の安全はオレが守る。安心して寝てくれて構わない」
「……あなたたち二人とインヴィートと、私が、あの部屋で寝るのね?」
「オレが寝ずに見張るさ」
「メローネ。お前この期に及んでまだを襲ってやろうなんて考えているんじゃあねェだろーな」
「普段オレが考えていることは少しも理解できないのに、こういう時に限ってイヤに勘が働くじゃあないかイルーゾォ」
「……私今夜安心して眠れそうにないわ。イルーゾォお願い。起きてて……」
「あっ!!イルーゾォだって男なんだぜッ!?君を襲わないって保証なんかどこにもないんだぞ」

 イルーゾォは反駁すればするほど終わりが遠のくメローネとの言い争いに疲れ、ひとつ溜息を吐く。そして完全に脱力したインヴィートを担ぎ上げ、階段へと向かっていった。メローネとのふたりも、イルーゾォの後に続いた。

「……女みてーに軽いな。本当に男かこいつ……」
「男だな。オンナの臭いがしない」
「冗談だ。真面目に答えるんじゃねーよ」

 一行は人目を盗んでホテルの一室に戻った。意識を失ったままのインヴィートの片手に手錠をかけ、それをベッドの足に通してもう片方の手も手錠で拘束した。ベッドと壁の隙間は六十センチメートル足らずしか無かったが、インヴィートの身体は壁に背を預けて体育座りする格好でも少し余裕を残してすっぽりと収まった。

「彼、意識を取り戻したらどうするの?」
「オレがロヒプノールの錠剤を持っているからそれを飲ませる」
「ろひ……何?何を飲ませる気?」
「ロヒプノール。催眠鎮静剤だ。レイプドラッグとも呼ばれるくらいだから割と強いやつだ。ちなみにこの国じゃ違法薬物。まあだが、適量なら死にはしない。オレの手元が狂って溢れんばかりにそいつの口に放り込まない限りの話だが。……ああ、あとは……虚弱体質だと常人の適量でも安全性は保障できない」
「……殺さないって約束でしょうメローネ」

 が困ったような顔でメローネを見ながら小首をかしげるので、メローネはこれ以上何も言うまいと口を噤んだ。がそれを望むなら、それがオレの望むことだ。と、まるで自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。そうこうしているうちにインヴィートが意識を取り戻し、鉄分不足で気分でも悪いのか、目を閉じながら唸り、頭をふらつかせ始めた。はその様子を見てすぐさまコップに水を注ぐため、備え付けの小さな冷蔵庫の前まで駆け寄った。

「インヴィート、大丈夫?気分、悪いの?」
「……いや、最高だぜ。またお前をこの目で拝めるとは思わなかった」

 完全に蚊帳の外になりそうな予感に苛立ちを覚えながら、暗殺者ふたりは何か言いようのない不安を抱えてとインヴィートが会話する様子を黙って見ることになった。