暗殺嬢は轢死したい。

 発信機の信号を追ってイルーゾォとメローネのふたりが行きついたのはホテルの屋上だった。ホテルよりも背の高い高層ビルから発される人工的な明かりのおかげで、階段を上がった先の扉の向こうに二つの人影を確認できた。ひとりは身を横たえ、もう一人はその上体だけを背後から抱き上げその胴回りに腕を回している。

 身体を横たえている方がだということはすぐに分かった。しかし、彼女を後ろから抱きしめているのが男なのか女なのか判然とはしなかった。ひどく肉付きの悪い、線の細い身体つきだ。だが、のものではない低く気だるげな声が前方から怒気をはらんで響き始めたときはじめて、それが男であるとイルーゾォとメローネは認識できた。メローネはその瞬間にピキと額に青筋を立て、おもむろに懐からナイフを取り出した。

「……アイツ何者だ?と言うか、何であんなに馴れ馴れしくを後ろから抱きしめてるんだ?元カレか何かか?なあイルーゾォアイツ殺してしまおうぜ」
「落ち着けメローネ。ここであの男をスタンド能力でも何でもなしに、お前が今その手に持ってるナイフで殺しちまったら、せっかく隠密に暗殺こなしたのが一気にパーだ。それよりアイツ、何を言ってやがる。ここからじゃあよく聞こえねぇな……」

 を背後から抱く男が語調を強めて、何かに訴えかけるかのような話し方をし始めたことは分かっても、何を話しているのかと聞き耳を立てていたイルーゾォはその内容まで聞き取れないでいた。もともと気合を入れて大きな声で発声するタイプでは無いのか。なるほど、腹に力を入れる筋力も声を響かせるための脂肪もなさそうだ。とイルーゾォはひとり納得する。相方のメローネはそれどころではない様子だった。すぐ隣のイルーゾォにも聞き取れないくらいの声量で何かぶつぶつと呟いている。恐らく恨み言だろう。

 そのうちに、男はを床に押し付け彼女の首を絞め始めた。メローネはついに怒りを抑えきれず男に襲い掛かろうと身を乗り出したのだが、イルーゾォは恐るべき反射神経でメローネの胸板を押さえ制した。

「……それにしても、アイツらの傍で寝てるでけェ猫みたいなのは一体何なんだ?」

 イルーゾォがその存在に気づいた時、彼が猫と表現したものの眼孔がふたりを捕らえ、威嚇するようなそぶりを見せる。

「……おい、そこに誰かいるのか?」

 とっさに扉の陰に身を隠したふたり。まるでシンクロでもしているかのように男が反応を示したところから察するに、あのデカい猫は男のスタンド能力だろう。とイルーゾォは想定した。しかし、依然その能力は計り知れない。が首を絞められて少しも抵抗しないのがスタンド能力によるものなのか、彼女の意思なのか判然としないのだ。彼女は殺されても生き返ることができるので、殺されそうになってもその暴力行為に抵抗しないのはおかしいことではない。

 イルーゾォがこれからどうするべきか、と思考している間、カツカツと皮のブーツがコンクリートの床面を叩く音が近づいて来ていた。

 メローネのスタンド能力は敵と対峙するには不利な能力だ。しかし、自分のスタンド能力で男を丸腰にし、鏡の中の世界へ引き込めれば何も怖いことはない。

「メローネ。これを……。後は、分かってるな?」

 イルーゾォは常日頃から携帯している手鏡をメローネに渡し、自身はその鏡の中の世界へと移動した。メローネは手鏡を手に持ち、扉に身を沿わせながら立ち上がると、意を決したように男の前へと姿を現し、両手を上げて見せた。――攻撃するつもりは無い。世界中で通じるジェスチャーだ。

「インヴィート。彼は丸腰よ。攻撃しないであげて」

 身を横たえたまま、が声を上げる。

「おめーは黙ってろ。丸腰かどうかはオレが確かめることだぜっ!おいお前。名前は何だ?」
「人に物を尋ねる時はまず自分から名乗るもんじゃあないのか?それにしても、イタリア語がうまいな?イタリア出身なのか?」

 両手を上げたまま挑発的な発言をするメローネに、少なからずイラつきを覚えたインヴィートはメローネの手前三メートル程度のところで足を止めた。彼のスタンド“パンテラ”は、身体を低く屈めたまま威嚇するようにインヴィートの傍に佇んでいる。

「さっきがオレの名前を呼んだのが聞こえなかったか?ところでよォ……もう一人いたよなァ?黒髪で五、六本おさげ作ってる図体のデカいのが。そいつはどうした?」

 メローネはゆっくりと両腕を降ろす。手鏡を取り出そうとポケットに手を入れると、インヴィートは身構えた。しかし、そのポケットには全く膨らみが見られない。銃やその他殺傷能力を持つ武器が入っているようには見えなかったので彼は注意して様子を見守っていた。

 ――相手が危害を加えようとしてきたらパンテラが瞬時に反応して攻撃する。

 その慢心が、自身を丸腰にするとは少しも考えなかった。

「……何だ?鏡……?」

 そう言って彼がメローネに差し出された鏡を覗き込んだそのとき、インヴィートの背後に立つ男の姿を鏡の中に見た。それは、彼が夕時にホテルの一室で見た男だった。インヴィートはとっさに後ろを振り返るのだが、五、六本のおさげをぶら下げた図体のでかい男はいない。不審がって正面に向き直り、目の前にいる男にふざけるなと抗議しようとすると、今度は紫色の髪の男が姿を消していた。

「おい」

 そう背後から声をかけられ、インヴィートは再度背後に顔を向ける。すると、イルーゾォが彼の前に姿を現した。――ここはイルーゾォのスタンド能力、“マン・イン・ザ・ミラー”が創造する鏡の中の世界。そこにインヴィートは知らぬ間に引き込まれていた。

 インヴィートは慌てふためき、とっさに彼のスタンドの名を叫んだ。しかし、彼の傍に先程までいたはずの“パンテラ”は忽然と姿を消していた。

「お前は一体何者だ?という彼女の本名を知っているあたりから察するに、生前の彼女の知人か何かか?」

 はアメリカへの渡航にあたって、偽名のパスポートを使っていた。イルーゾォはそれが組織に準備されたものなのか、彼女が個人的にすでに持っていたものかどうかは知らなかった。しかし確かなことは、彼女がそうせざるを得ないのは、既にという女性が世間的に死んだことになっているからだということだった。

 そして彼女が世間的に死んだとされたのは、十数年前にパッショーネによって、彼女の父親が属していた別のギャンググループの主要人物が粛清にあった後のこと。

 彼女が自身を死んだことにして、政府に感づかれることなくこれまで生きてきたのは、彼女がそれを望んでいるからだ。生きていく上で必要最低限の人間関係しか築いてこなかったはずだし、そんな彼女の周りの人間にすら率先して真の出自を言いふらすようなことはしていないはず。

 つまり、が生きていると知っている者は限られている。そのことから、今イルーゾォの前で目を白黒させているインヴィートと呼ばれる男が何者なのか、大方の検討を付けるのは困難なことでは無かった。

「イタリア語がわかるようだな。オレは英語なんてからっきしだから助かったぜ。お前さてはイタリアから尻尾を巻いて逃げてきた“残党”だな?可哀想に。イタリアはそんなに生き辛かったかよ?」

 可哀想と哀れみの言葉を吐くイルーゾォの顔には嘲笑が浮かんでいる。インヴィートは怒気を込めてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「……さっきまで右手に見えてたエンパイア・ステート・ビルが今は左手に見えてる。……鏡。鏡の中?そんなバカな話ある訳がねーよなァ。そんなバカげた話、鏡の国のアリスを読んで以来聞いたことがねェー」
「バカげてるって言えば、お前もそうだぜ。まさかこうも簡単に引きずり込めるとは思いもしなかった」
「Shut the fuck up!! 何でだ!オレのスタンドはどうした!?」
「これはスタンド能力を持つヤツには毎回言うことなんだが……おまえと一緒に“闘えるモノ”をここに引きずりこんだらオレが危険にさらされだろう。ここには、“スタンドエネルギー”はオレの許可なくして入ることはできない。オレにとって安全で無敵な“鏡の世界”。それがオレのスタンド、“マン・イン・ザ・ミラー”の能力だッ!」
「おい聞け!ぺらぺらとクソみてーに講釈垂れやがって。いいか。オレのスタンドは、オレが何かされたと判断したら主人の在、不在に関わらず攻撃する。今すぐにこの能力を解かねーと、の命が危ねェー!!」

 の命が危ない。インヴィートはそう言った。彼はが無限に死に続ける――つまり無限に生き返るスタンド能力を持っていることを知らない。外にいるのがだけならば何の躊躇いもなくこの場で男を気絶させられたが、問題はメローネだ。彼もまたスタンド使いではあるが、彼のその能力は瞬発力に著しく欠ける。そもそもあの屋上の場面で、彼がスタンドにジュニアを生ませるのは著しく困難だし、そもそもを母体として使うことは無いだろう。自身の命が危険にさらされてもだ。今の彼はそれほどに心酔している。

「そういう大事なことは早く言いやがれ!!」
「――っカハッ!!」

 イルーゾォはインヴィートの鳩尾に拳を叩き込んだ。インヴィートはそのまま床に打ち捨てられ、横向きの体制のまま身をかがめて痛みを堪えている。

 ったく。手のかかるヤツだ。

 これからこの男をどうするかについて、鏡の中で会議をしなければ。

 イルーゾォは彼のスタンドの名を呼び、とメローネだけを彼の創造する世界へと招き入れた。



20:Mouth For War



 メローネはインヴィートが鏡の中の世界へと引きずり込まれるのを確認するや否や、の元へと駆け寄った。インヴィートのスタンド“パンテラ”は、急に主人が傍から消え去ったためか、あたりの様子をキョロキョロと見回している。

!大丈夫か?」
「メローネ、ありがとう。助けに来てくれたのね」

 メローネは大きなネコ科動物を模したスタンドの様子を伺えるよう、屋上の柵側に背を向けての上体を抱き上げた。は大して衰弱しているようには見えなかったが、どうも身体は動かせないらしく、普段ならさっと交わすメローネのボディタッチにも今は抵抗できないでいた。

「何があったんだ?」
「それがよく思い出せないの。あなたたちふたりとホテルのフロントを横切ったところまでははっきり覚えてるの。その後は……あの子に誘われるがまま……気づいたらここに寝そべってた。インヴィートは、私が身体を動かせないのは自分のスタンドの能力の所為だって言っていたわ」

 ……これは、身動きが取れないを好きにできる絶好のチャンスじゃあないのか?

 の暖かく柔らかな身体が今、彼の腕の中に何の抵抗も無く収まっている。これは今後訪れるかどうかも分からないチャンスだ。メローネは場違いにも程がある下心を抱いたが、さすがに自分でも場違いだと思ったのか、彼は心の中でかぶりを振った。何よりも今警戒すべきは目の前の猫。――おそらく豹だ。

。もしオレの見立てが正しければ、あれは豹だ。古代ローマじゃ豹の吐く息はそれはもう芳しいので、それに魅了された動物たちが寄って行って狩られてしまうと信じられていたそうだ。あの男がそんな伝承を知っているかどうかは知らないが、キミはその芳しい香りってのに誘われたんじゃあないか?」
「メローネ。あなたって恐ろしく博識なのね。確かにそうだわ。私、甘い香りでふわふわとした感覚になってしまったの。それからは我を忘れてその香りの元を辿ったわ。そうしたら、あの子がホテルの外の非常階段に繋がる勝手口の前に座っていたの。……勝手にいなくなってしまってごめんなさい」
「おいおい。君の所為じゃあない。そんな悲しそうな顔をしないでくれ。キスをして慰めたくなる」
「……ちょっとメローネ。そんなこと言ってる場合じゃなさそうよ」

 はほとんど身体を動かすことができなかったので、雰囲気を察知しただけだった。それほど大きな鳴き声ではなかったが、ガルルという獣のそれが耳をかすめた気がしたのだ。メローネがの唇に自分のそれを近づけるのをやめ、“パンテラ”を見やった瞬間、それは牙を剥きだしにして二人の方へ襲い掛かろうと駆け出していた。距離はおよそ六十メートル。豹の走る速度は、優良ドライバーの運転する自動車が一般道を走る速度とほぼ同じという。トップスピードだけを思慮に入れて単純に計算してもとメローネのふたりがいる場所まで四秒足らずだ。

「クソ!まずいな……!」

 メローネはイルーゾォに手渡された手鏡を再度手にして覗き込んだ。神頼みをするようで格好悪いとは思ったが、自身のスタンド能力の短所をこれほど如実に体感させられたのは初めてのことだったので、なりふり構う暇は今の彼に無かった。

 間一髪と言ったところだろうか。黒豹の牙がメローネの喉元に届くか届かないかというタイミングで、彼は共々イルーゾォの鏡の中の世界へと引きずり込まれはじめた。黒豹は攻撃を止め、危険を察知したのか瞬時に後方へと飛び退いた。

 鏡の中へと引きずり込まれる際、メローネはとても悍ましいものを視界にとらえた。それはの身体から引き剥がされるように、現実世界へと取り残されていく。

 簡単に言ってしまえば、目元を鋼鉄のマスクで覆った骸骨だった。死神よろしくぼろぼろの灰色のローブを纏ったそれは“鎖”で全身を拘束されていた。骸骨の腕は棺桶に死人が入る時の様に胸の前で交差していて、その上にも“鎖”が纏わりついている。そうやって拘束された腕の前には頑丈そうな錠前が掛けられていた。骸骨の背後にはまるで後光でも差しているかのように、おびただしい数の核弾頭を模したようなものが放射状に並んでいた。その全長は2m程度と大きく、迫力は抜群だ。

 スタンドだった。このスタンドの主は誰か?消去法で考えるとそれは以外存在しない。

 その無限の蘇生能力との見た目から天使みたいなナリを想像していたが……。とんでもない。真逆だ……。

 メローネは鏡の中の世界に引きずり込まれた後、しばらくを抱きかかえた格好のまま彼女の様子を伺っていた。彼女は身体が動かせなかったからなのか、彼女の精神エネルギーを投影しているはずのスタンドを見ることができなかったのだろう。あの悍ましいスタンドの姿を目にして恐れおののいているのはメローネだけだ。

「おいメローネ。オレに感謝しろよな。……さて、こいつをどうするか。みんなで会議でもしようぜ」

 はいつの間にか身体が動かせるようになっていることに気づき、おもむろにメローネの身体から離れ立ち上がる。

「メローネ?」

 がそう言ってメローネの顔を覗き込んでも、彼はしばらくその場から動こうとはしなかった。

 ……あの鎖……。何で自分の能力を縛るみたいに、鎖で拘束していたんだ?錠前もあったな。鎖と錠前だけが……異質だった――

 再度イルーゾォに名を呼ばれるまで、メローネはのスタンドについていろいろと考えを巡らせていた。