暗殺嬢は轢死したい。

「なぁ……オレのこと、覚えてるかよ?」

 すっかり暗くなり、星の一つも見えない夜空を見上げ、男は言った。冷たい夜風が吹きつけて、男の髪で隠れた左半分の顔を露わにする。切り傷やタバコの火を押し当てられたような跡があった。はその顔を見て、悲し気に眉をひそめた。

 はこの男を知っていた。だが、何故この男がこんな行動に及んだのか、その理由は分からなかった。そこで彼女は何故自分が今、何の抵抗もできないまま、このまるで骸骨の死神のようななりをした男に見下ろされているのか、その経緯を振り返ってみるとことにした。



 彼女は意気揚々と、ニューヨークの夜の街に繰り出そうとしていた。しかし、イルーゾォとメローネの後ろについて、ホテルのフロントを横切った先、玄関口に向かっている途中で、突然、意識が混濁し始めたのだ。しかし不思議と、頭痛だとか吐き気だとかそんな不快感は無く、むしろ何か芳しい香りにさそわれるかのような、ふわふわとした感覚に身を包まれた。そして彼女は踵を返してエレベーターホールへと向かった。それが何故かは今でも思い出せないが、何かその芳しい香りに誘われるように、無意識に身体が動いてしまったことは思い出せた。彼女が向かったエレベーターホールの先にはレストランやバーがあって、それに面する廊下の突き当りに外へと通じる勝手口がある。そこに、動物のようなものが、彼女が瞬きをしたタイミングで忽然と現れたのだ。

 不思議の国のアリスと言う童話で、主人公のアリスが白いウサギを追うように、もまた、何かにとりつかれるようにその動物のようなものを追った。

 にはそれが、遠目からだと黒く大きなネコ科の動物に見えた。だが、普通の動物が持つ毛並みだとか肉を持っている感じは無い。ごく最近日本で発売された犬型ロボットを雌ライオンくらいの大きさにして、ボディを黒く塗りつぶし、垂れた耳を失くして猫耳に挿げ替えてやれば、ちょうど彼女が見ているそれになる。要は、生き物ではない。そして、勝手口を使って外に出て一服しようとしたりし終えて戻ってくるシェフたちがそれを次々に透過していく様を見て、は理解した。

 ――あれはスタンドだ。

 だが、そう思ったところで、の足が連れのいるであろう方向へ向くことは無かった。彼女は誘われるように動物のような姿をしたスタンドの後を追った。勝手口を開けた向うでそれは待っていたのだが、彼女はすぐに襲い掛かられ、意識を手放したのだ。



 そして今、彼女は冷たくざらざらしたコンクリートの上に身を横たえていた。恐らく、宿泊しているホテルの屋上だろう。男は力の入らない彼女の身体を後ろから抱き上げ、肩にその鋭利な顎を預ける様にして耳元で再度囁いた。オレを覚えているかと。
 
「覚えてる。けど、あなたそんなに細くは無かったはずよ。雰囲気も昔と全然違う。本当に、インヴィート……あなたなの?」

 ――インヴィート・マリアーニ。がまだ十歳の頃、父親の忠僕としてファミリーで可愛がられていた男だった。彼は当時十五歳。やけにの父親のことを慕っており、たまにナポリから遠く南に離れた田舎町に住むの元についてきたりもしていた。当時の彼は、適度に筋肉も付いていて、程よくカールした黒髪を短く切り、オールバックにしていた好青年だったはずだ。

 今や見る影も無いその姿に、は愕然としていた。彼の左半分の顔から、これまで幾度となく死線を掻い潜ってきたであろうことが推察できた。まだそんなに年齢を重ねているわけでもないのに、ギャングとしての貫禄を感じさせる彼の顔を、は複雑な心境で眺めていた。

「それに、あんなに大きなペット、あなた飼ってたかしら?」
「お前、こいつが見えるのか?」

 こいつと呼ばれたスタンドは、大きく口を開けてあくびをしてキャットストレッチを終えた後、まるで猫がそうするように前足を綺麗に折りたたんで寝始めた。

「パンテラって呼んでるんだ。カワイイだろ?」
「……さっき私はこの子に襲われたのよ。カワイイと言うよりも恐ろしいわ」
「許せ。お前を連れ去るためだ。なあ、。お前、何で生きてるんだ?オレはてっきり死んだとばかり思ってたんだぜ」

 も、インヴィートが生きてアメリカに逃亡しているということを今、初めて知った。彼は何をするにも父親の傍を離れなかった。その忠犬さながらの様はも父親から聞きいていたし、父親に忠誠を誓う彼を快くも思っていた。だから尚更、パッショーネの人間に粛清を受けたとばかり思っていたのだ。

 ――生きていてくれて嬉しい。だが何故、今私を捕らえる必要がある?はそう思った。そして何故こうも身体がぴくりとも動かないのか。

「……あなた、私をどうしたいの。さっきから身体を少しも動かせないのはどうして?」

 インヴィートはしばらく口を閉ざしていた。下唇を噛み締めて、彼は夜空を仰ぐ。そして突然、堰を切ったかのように彼の口から次々と怒気にまみれた言葉が へと投げかけられた。



19:This Love



「――お前の身体が動かないのは、“パンテラ”の能力だ。だがな、そんなことは今どうでもいいんだ。なあ。オレはお前が生きてて死ぬほど嬉しい。そんなオレがお前をどうするかなんて決まってるだろう?誘拐するんだ。誘拐してオレのもんにする。今お前が働きに出てるカーディーラーの店主にもオレから伝えておいてやる。はここニューヨークで、インヴィート・マリアーニの嫁になるので、イタリアには帰りませんってなァ。だがな、。おれはおやっさんの墓に誓ったんだよ。お前の父親である、おやっさんの墓の前でだ。オレは絶対、ニューヨークで力をつけて、イタリアの地に戻って必ずおやっさんの無念を晴らすってなァ。パッショーネの連中を一人残らずぶっ殺してやって、オレ達がイタリアで返り咲いてやる。……そう思ってる矢先でだ。クソみてーな信じがたい噂を耳にしたんだよ。は生きてる、けど、パッショーネに懐柔されちまってるってなぁ……」
「……一体何を根拠にそんなことを言ってるの」
「なあ、今日お前と一緒にいた二人組の男は一体誰なんだ」
「……同僚よ。一緒にモーターショーの視察に行くように言われたのよ」
「ああ。オレに嘘を吐くなよな。今、オレは怒りを抑えるのに必死なんだ。……それが何故嘘か分かるか教えてやろうか。イタリアの南の連中にはな、そりゃーもうクスリが欲しくて欲しくてたまらねーって若者が多いんだぜ。クスリを手に入れるためには何が必要だ?ああ、そうだ。金だ。金が必要なんだ。オレはその金をちらつかせて、代わりに“情報”を提供してもらってるんだ。お前の働いてるディーラーにハタチのファジョリーノってやつがいるだろう?お前がニューヨークに来るってことは、そいつから聞いたんだ。お前が、ひとりで、ニューヨークに来るってことをよォ。ひとりで、だぜ?だのに、なんでおめーの宿泊してる部屋に、男が二人も入り込んで仲良さげに会話してんだ!?あァ!?なあ、。正直に答えろ。あの二人は何者だ?」
「……友達よ。イタリアの、ただのお友達」
。頼むから、オレに嘘はつかないでくれよ。分かるんだよ。鼻が利くっていうのかな、相手が嘘をついてるってすぐにわかっちまう。オレが完全にキレちまう前に、本当のことを話せよ」

 ――別にこの男がキレたって、私は死にはしない。

 なので、本当のことを話さず、逆上して殺してもらえれば、それがむしろベストかもしれない。パッショーネのボスに迷惑がかかるかどうかはさておき、このままでは監視の命をそのボスに受けているメローネとイルーゾォに迷惑がかかる。この男にそうやすやすと誘拐されてやるわけにはいかなかった。

 ただ、には気になることがあった。表向きの仕事仲間がヤク中だったという衝撃的事実も然ることながら、インヴィートが、自分が生きているという事実をどうやって知り得たのか、それがとても気になった。そして自身がパッショーネに懐柔されているとの情報を掴んでいるとも言っていた。イタリア中のヤク中から情報を得ているのか?そして何故、この男は今怒っているのか。

 インヴィートと言う男がに向けている怒りは“裏切り者”に対するものだ。つまり、が、の父親と自分を“裏切り”、パッショーネのために働いていると、何か確信を持って話している。しかしには、それに対して怒りを向けられる理由が全く分からなかった。彼女には、“裏切り者”に憎悪を抱くというその思考回路が理解できなかった。そしてそもそも、彼女には父親を裏切っているつもりは少しも無かった。
 
「懐柔された……か。まあ確かに、私はパッショーネの管理下に置かれてるし、今私はパッショーネのために働いてる。でも、そのことについてあなたが怒る理由が分からないわ」

 インヴィートは怒りに任せ、今まで優しく抱き抱えていたの上半身を乱暴に床に押し付けた。そして馬乗りになり肩を両手で押さえたが、そのうちに右手だけがゆっくりと彼女の首元に向かっていった。その手には徐々に圧力が加えられ、は苦しそうに眉を顰めた。自分の首を絞める男はほとんど骨と皮だけしかないんじゃないかという見かけなのに、それはものすごい力だった。まるで3重くらいに束ねられた針金で締め付けられているような感覚だ。

「…………?お前、マジにどうかしちまってるんじゃあねェのか?お前は家族も住処も何もかも奴らに奪われたんだろう?どうやって今まで生きてこれたのか検討もつかないが、生きてるならよォ、“憎らしい”と思わないのかよ?何で大人しくパッショーネの言いなりになんかなってるんだ!?」
「……だって、私にはもう……どうしようもないことでしょう。恨んでない……って言ったら、嘘になるかもしれなけれど……私、最近……恨むって、怒るって……何か分からないのよ……」
「……?」

 唐突にの目尻から零れ落ちはじめる涙。インヴィートはそれを見て、とっさに彼女の喉を押さえつけていた手を離した。

 ……奴らに、何かされてるのか……?

 彼が思い浮かべた、その“ヤツら”の影が背後で蠢くことに気づかぬまま、インヴィートはがさめざめと涙を零す姿を呆然と眺めていた。