明朝七時。イルーゾォはの宿泊する部屋を訪れた。ノックで呼ばれた彼女は既に身支度を整えていた。
「おはよう」
「おう。メシ食いに行くぞ」
「食べたらすぐ出るわよね?」
「ああ。そのつもりだ」
はハンドバッグを取りに部屋へ戻り、イルーゾォの待つ廊下へ出てエレベーターホールへと向かった。タイトなグレーのツイードワンピ―スに身を包み、赤いピンヒールで床を鳴らす。いかにも仕事のできるイイ女という雰囲気を醸し出している。普段から小綺麗な格好をしてアジトを出ていく彼女だったが、今日の彼女は南イタリアのカーディーラーで働いているとは思えない――つまりニューヨークのビジネス街を闊歩していても何の遜色も無い出で立ちだ。イルーゾォの目には、いつも以上に彼女が輝いて見えた。
中々グッと来るもんだな……。
イルーゾォは彼女の後姿を眺めながら、顎に手を当てて唸った。大理石が敷き詰められたエレベーターホールに着くと、ふたりは扉が開くのを待ちながら何気ない会話を交わす。
「仕事に付き合わせちゃうことになってごめんなさい」
「いや。メローネは今日一日を調査に費やすらしいからな。オレはお前の監視役だ」
「そうか……そっちもそっちで仕事だったわね」
一階に降り、昨晩イルーゾォがメローネと夕食を取ったのと同じレストランに足を運んだふたりは、窓側の席について朝食を取った。九時開幕のモーターショー。百年と長きにわたり毎年開催されてきたそれに、一度でいいから参加したかったのだと、食事の間はとても楽しそうに話していた。イルーゾォはイタリアの地で育ちながらも大して車に興味が無かったので完全に聞き手に回っていた。
「私、欧州の上品なスポーツカーも好きなんだけれど、所謂アメ車に目が無くて。特にマッスルカーと呼ばれてるカマロ、マスタング、チャレンジャーは本当に見た目がかっこいいのよ。タイヤもすごく太いの。排気量も時代を逆行してるのかってくらい半端じゃなくて、ガソリンを湯水のように使うし、エンジン音なんて窓ガラスが割れるんじゃないかって言うくらいおっきくて痺れちゃう。一度でいいから轢かれたいわ。でも残念なことに職場の前の国道眺めてても全然見ないのよね。イルーゾォが買って私のこと轢いてくれない?」
「自分で買ってどうにかしろ。……それにしたってお前、何でそんなに車が好きなんだ?」
「……父がよくドライブに連れて行ってくれたから」
彼女は物悲し気な表情をちらと見せると、そんな顔を見せまいと、向かいに座るイルーゾォから顔を逸らし、アメリカンコーヒーを軽く啜った。
「……薄いわ」
「アメリカンだからな」
アメリカの薄いコーヒーに文句をたれたのを最後に、今までマシンガンのごとく車への愛を語っていた彼女の口は突然開かなくなった。
はあまり自分のことを話そうとはしなかった。好きな物や死に関する話題については率先して口を開くのだが、自分の過去についてはあまり触れられたくないのか、出身がどこで、これまでどんな経験をしてきたのかという話は聞かないと話さないし、聞いても二言三言で会話は終了する。
暗殺者チームの面々は、彼女が十年以上前に衰退したギャンググループの幹部の隠し子で、制裁を受けながらも持ち前のスタンド能力で生き残ったということ以外、彼女の出自について詳しいことは知らされていない。思い出したくない過去であろうことは皆が分かっていたので、そのことについて問いただす者はいなかった。あの気の赴くままにへセクハラを働くメローネでさえもがそうだった。
イルーゾォは、パッショーネに殺された父親がドライブによく連れて行ってくれたからと言う理由で、車に並々ならぬ愛情を注ぐまでに至るまでは何とか理解できた。だが、そこから車に轢かれたいという願望に繋がる理由が、彼には全く分からなかった。彼は精神科の医者でも無ければ心理学を学んだ博士でも無いので、きっと父親の死によるショックで頭がおかしくなったのだろうと雑な考察をする他無い。一見ギャングなどとは関わり合いにすらなっていなさそうな聡明な女が、一体何を契機にクスリを求めてスラムを徘徊するジャンキーさながら訳のわからない自殺願望を抱くようになってしまったのだろうと思った。
朝食を済ませたふたりはそのままホテルを出て、徒歩圏内にあるモーターショーの会場まで向かった。会場にはスーツを着た者、際どい格好をしたコンパニオン、いかにもメカニックという身なりをしたカスタムカーの展示主、ラフな格好をした一般観覧者と様々な人間が大勢ひしめき合っていた。
イルーゾォは人酔いしそうになり今すぐにでも鏡の中の世界に行きたいと思うのだが、隣を歩くは目を輝かせ、あれもいいこれも素敵たまらないと、まるで散歩を嫌がる犬のリードを引っ張る飼い主の様にイルーゾォを連れまわす。カメラのレンズを覗き込み、頬を赤らめてはぁと感嘆の溜息を吐きシャッターを切る。そんな彼女の姿に若干引きつつ、イルーゾォは監視を続ける。
「やあちゃん!遠路はるばるようこそ」
イルーゾォは会場に着いて初めて流暢なイタリア語を耳にして驚き、声のした方へ振り向いた。メタリックブルーの車体に、緋色の炎の中を突っ切るように施された派手なペイントが目を引くスポーツカー。その脇に、五十代後半と思しき恰幅のいいイタリア人男性が立っており、パシャパシャとシャッターを押しまくるに話しかけてきた。その存在に声をかけられるまで気づかなかったのか、彼女はびくりと肩を揺らして驚く。
「わっ!マルコさん!お久しぶりです。……やだ、私ったら、夢中になってマルコさんのブースに足を踏み入れてることにすら気づかないなんて!」
「相変わらず仕事熱心だねェ」
彼女が会場に到達するまでにイルーゾォに伝えていたミッションのうちの一つに、彼女の店で買い付ける予定のカスタムカーの視察があった。この男がきっと、この派手な車の創造主なのだろうとイルーゾォは納得する。
「あれ?隣のイケメン君は彼氏かい?でかいなー!」
「そうです!彼、アメ車に興味があるらしくて……買って帰ろうかって話を。ね!イルーゾォ」
「あ、ああ。まあ……」
いやそんな話してねーし金ねーしそもそも要らん!
多分に彼女の願望が織り込まれた嘘に内心でツッコミを入れるイルーゾォ。
それにしても彼氏という言葉に全く動じず思いっきり肯定するとは。この女……悪女だっ!
困惑するイルーゾォを他所に、はオーナーを質問攻めにして得た回答を手帳に書き込むなどして、熱心に仕事に打ち込んでいた。しばらく話し込んでいた彼女だったが、聞くべきことはすべて聞き終えたのか、オーナーに頭を下げた後、二、三歩下がってを監視していたイルーゾォの元へ戻る。
「お待たせ。さ、あとは残りのブースを徹底的に視察して、ドリフトショー見て帰りましょう!」
「つーかよ。誰が誰の彼氏だって?」
「あーごめんなさい。とっさに他の説明が思い浮かばなくて。まさか暗殺者に四六時中監視されてるなんて口が滑っても言えないじゃない?」
「そんなアホな説明するよりマシだったと納得させるつもりか?この性悪女が……。おい。何かのショーを見るとか言っていたな?それはお前の仕事に何か還元できるのか?できればさっさとここを出てだな……」
イルーゾォはに完全にペースを乱され、その苛立ちで彼女に当たり散らすのだが、彼女は彼の口から繰り出される文句の一文節ごとに相槌を打つなどの反応は全く見せなかった。はある一台の車の前で立ちすくんでいた。カメラを持った手はだらりと力なくおろされている。そんな彼女の様子を不審に思い、イルーゾォは彼女の右肩に手を乗せ、正面に回り込んで顔を覗き込んだ。
「おい、聞いてるのか!」
イルーゾォはの顔を見て驚いた。彼女は音も無く、両目から大粒の涙をぼろぼろとこぼしていたのだ。その表情は、さめざめと悲しみに暮れ泣いていると言うものでは無い。まるで魂を抜かれたかのように、眉をひそめることもなく呆然としている中、何故涙が流れてくるのか本人も理解していないような、そんな不自然なものだった。
「……どうした」
そうイルーゾォが問いかけても彼女は返答すること無く、ただ目の前にある一台の車をじっと見つめていた。
彼女が見つめているのは、赤いオープンカーだった。フロントバンパーにはアルファロメオのエンブレムが掲げられているクラシックカーだ。60年代~70年代の間に製造されたマシンではあったが、ボディーは綺麗に磨かれており、デザインの原型をとどめながら今風にカスタマイズされてる。
「父が乗ってたの。私、よく助手席で、ルッキング・グラスのブランディを歌ってたわ」
周りの目が気になったという訳ではなかった。周りの人間が何事かと目を向けるほど、彼女は泣きじゃくって声を上げているわけでは無かったからだ。ただ、理由もよく分からず静かにぽろぽろと涙を流す彼女を見ていると無性にやるせない気持ちになったので、そのままにしておけず、イルーゾォは知らない内に彼女を抱きしめていた。彼女の涙に濡れた頬を隠すように。
「オレが泣かしてるみてーじゃねーか」
「……私、泣いてるのね。ねえ、イルーゾォ。私、大切な何かを忘れてる気がする……」
彼女はそれ以上口を開くことなく、しばらくイルーゾォの胸を借りていた。
はアジトで笑うことはよくしていたが、それ以外の感情を見せたことがなかった。あのメローネに対してさえも、彼の執拗な絡みにさして苛立ちを見せることなく笑顔で応対していた。ギアッチョの“プッツン”も、川の水面を流れる落ち葉が立ちはだかる岩を避けるように、何の抵抗も無くさらっと交わす。怒りだとか悲しみといった、ヒステリーな女ならすぐにぶちまけるであろう感情を、表に出すことは絶対にしなかった。
普段のそんな態度を見てきた分、今のはひどく感傷的に思えた。イルーゾォは、彼女の涙にたじろいだのだ。彼が彼女を胸に抱きよせたのは、彼女を慰めてやりたいというのが主な理由ではあったが、自分の心を落ち着かせるためでもあった。
「ごめんなさい。ありがとう。もう、大丈夫。……やだ、マスカラ、黒く滲んでないかしら?」
「……大丈夫だ」
イルーゾォは離れていく彼女の体温を名残惜しく思ったが引き止めることはせず、彼女の心配事に対してしっかりと反応してやった。はショルダーバッグからハンカチを取り出し、濡れた頬を拭う。
彼女の言う忘れてしまった大切な何かとは何だろうとイルーゾォは考えたが、当然答えなど得られるはずもなく、程なくしてそのことについて考えることを止め、後にその疑問自体を忘れることとなった。だが、が涙を見せたこの日の出来事は彼の胸に深く刻まれ、それと同時に、彼女のことをもっと知りたいという欲求をイルーゾォに湧き起こさせる根源ともなった。
15:All That I've Got
「遅かったな。イルーゾォ」
彼がホテルの客室に戻るとメローネはベッドに腰を下ろし、あらゆる資料をいたるところに散らかしてラップトップPCをいじっていた。その散らかっている資料はイルーゾォが寝るベッドにまで渡っていたので、内容を確認するついでに資料をどけつつ、彼もまたベッドへと腰掛ける。
イルーゾォが手に取ったのはタワーマンションの不動産情報誌だった。住所はホテルの位置する現在地から北に二ブロック歩いたところだ。その最上階に位置するペントハウスの主が、今回のターゲット、ヌーブ・キャンベルだ、との解説がメローネからなされる。高さは百八十メートルの五十階建て。その最上階から突き落とされる恐怖とは一体どんなものなのだろうか、とイルーゾォは今は亡き若手女優の最期に思いを馳せる。
「今夜、男の血液と顧問弁護士の女の連絡先を手に入れに行くぞ」
「今夜だと?また急な話だな」
「ターゲットは夜遊びが大好きなようだからな。今日はそのペントハウスで誰だかの誕生日パーティーと称して乱痴気騒ぎをしているらしいので、確実に家にいる。以降は居場所を突き止めようがない。酔っ払い共が酔いつぶれているであろう3時頃にでも、お邪魔しようじゃあないか」
「男の血液の採取なんかせずに、もう殺しちまえばいいんじゃあないのか?」
「事故死とか自殺に見せかけろとリゾットが言っていただろう?証拠なんてものは間違っても残したくないからなァ。ジュニアに殺らせる」
メローネの言うジュニア、とは彼のスタンド能力が生み出す――正確に言うと、ターゲットの男性の血液から得られる遺伝子情報を元に母体に生み出させる――実体を伴ったスタンドのことだった。そのスタンドは誕生して短時間で急激に成長するが、成長の過程で“殺す”という概念を学習させる必要があり、メローネによる教育によってそのスタンドの能力が決まる。そして、ある程度学習した“ジュニア”は母体となった女性を養分として取り込み殺す。自分で移動できるまでに成長すると、自分と同じ遺伝子を持つ男性を自動追跡し、殺す。つまり、ターゲットとなる男性の血液を得て、女性と直接コンタクトを取り受胎させることさえできれば、遠隔地からターゲットを暗殺することができるのだ。まさに一石二鳥。いつもなら全く関係ない女性に受胎させるのだが、目立たないようにとのリーダーからのお達しがあるので余計な殺人は控えなければならなかった。それが今回のミッションの難関だ。
「ヌーブとかいうボーカルはステージに上がる時とかメディアに露出するとき、絶対に腕の関節を隠してる。恐らく日常的にドラッグをキメているので、静脈注射の痕を隠そうとしてるんだ。そこからなら採血しても目立たない。採血はオレがやる。お前のマン・イン・ザ・ミラーでヤツの近くまで移動させてくれればいい。その間に、お前は鏡の中でヤツの寝床付近にでもあるだろう携帯電話から、顧問弁護士の連絡先の情報を抜き取ってくれ。きっと女の私用携帯と事務所の電話番号、どっちも登録されているだろう」
「なるほどな。……ただ鏡の中だからって、全部オレの思い通りってワケには行かない。おそらく、マンションの入り口あたりから天辺までスタンドの射程距離には入るが、玄関がオートロックだったりしたらそもそも侵入すらできねーぞ。窓ガラスを割って強行突破するってんなら話は別だが……」
「その点はぬかりない。配線工事の業者を装って、今日の昼頃カメラを仕掛けてきた。住民がパスコードを入力する手元が映るようにな。ちなみにその時、おしゃべりなヌーブの家政婦たちが今夜のパーティーの話をしてたんだ。お前が楽しくとデートをしている間にオレはしっかりと仕事をしていたんだぜ」
「オレのも仕事だろうが」
その後、イルーゾォは嫌味ったらしくメローネから今日の出来事について根掘り葉掘り聞かれることになった。しかし、あの印象的な出来事と、彼が彼女を抱きしめたという事実だけは伏せた。日常的に率先しての監視をやると進言する彼は近頃、一日中己が眼かモニターで彼女を見ていないとイライラするという禁断症状が出てくると宣っており、への執着は日に日に増していた。
こいつもビョーキだな……。
夜七時ごろ夕食を済ませ軽く仮眠を取ったりした後、定刻の一時間前にふたりは部屋の鏡から外へ出て、ターゲットの元へと向かっていった。