暗殺嬢は轢死したい。

 ある好天に恵まれた穏やかな昼下がり。はひとりキッチンに立ち、冷蔵庫の中や戸棚の中に何があるかチェックをしていた。と、言うのも、今日は彼女が料理当番を務める日だ。そしてつい先程仕事を早々に終わらせたらしいホルマジオから、打ち上げついでに手料理を振舞って欲しいという連絡が入った。なのでいつもの簡単な物でなく、少し手の込んだものをと思ったのだが、生憎材料が足りないようだ。

 今日はギアッチョとメローネのコンビは大した仕事も無く、たまの余暇を各々過ごしていた。メローネは朝から外出していて、今のところは心静かにアジト内で過ごせている。そしてギアッチョは朝から階下に降りてこず、部屋に引きこもって寝ている。そして彼の車のキーが彼女の目の前――キッチンのカウンター上にある八センチ四方程度の硝子製の――それその物として使われた形跡は無い――灰皿――に置いてある。キーと車を拝借したところで仕事に支障はきたさないだろうし、ものの一時間か二時間程度で帰ってこれるだろうし大丈夫だろう。とは思った。

 後は、男手が欲しい所ね……。

 そんな風に思っていたところで、玄関の鍵がガチャリと音を立てて開けられた。開いた扉から顔を見せたのはペッシだ。彼はの姿を部屋に向かって右手側に確認すると同時にびくりとし、とっさに息を飲む。どうも彼はまだ彼女の存在に慣れていないようだった。今まで何度か彼がの姿を見てあからさまに取り乱しているのを確認していた彼女は、自分が怖がられているのではないか、と感じていた。だが、これは色々と好機だ。

「あらペッシ。お帰りなさい」
「お、おう。の姉貴……」
「ねえ、ペッシ、これから時間ある?」
「え!?い、いや、特に予定は無いけど……」
「ちょっと買い出しに付き合ってほしいの」

 これを機にペッシと親睦を深められれば。そう思ってはギアッチョの車のキーを右手の人差し指に引っ掛けながらペッシに笑いかけた。とたん、彼の表情は青ざめる。

「かっ……買い物には付き合いますぜ?でもよォ……それ、ギアッチョの車のキーじゃ」
「え?あの素敵な車は彼の私物?」
「私物だよ!ああ……ギアッチョ、怒るだろうなぁ。オレは一緒になって怒鳴られるのごめんだぜの姉貴!」
「そうね……。でも大丈夫よ!きっと許してもらえるわ。行きましょう」
「ええええええ~。どうなっても知らねぇぞ?」

 渋るペッシの背を押しつつ、家を出たはガレージへ向かう。リビングと同じ階層に造られた壁と天井をコンクリートに囲まれた部屋に、それはあった。幌が被さった状態で置いてあるギアッチョの車に近づき、はため息をつく。

「ああ。好きなのよね。このフォルム。少しコンパクトで見た目の迫力はイマイチなんだけど、機動性抜群で、運転してる時の躍動感がたまらないのよ。まさか自分で運転する機会が来るなんて思ってもみなかったわ!」
「いや……やっぱり、ちゃんと許可取った方が……」

 ペッシは知っていた。あの短気を極めたような男が車の手入れだけはしっかりやっていて、まるで自分のオンナか何かの様にこの車を扱っていることを。確か名前までつけて、オレのことを分かってくれるのはお前だけだぜ、とかなんとか呟きながら洗車しているところも最近確認していたのだ。そんな超絶大切な車を勝手に使われたんじゃ、絶対、確実に、ギアッチョは怒る。

「そもそも、の姉貴って運転できんの?」
「ああ、ペッシ。なめてもらっちゃあ困るわ。私はディーラーなのよ。中古車も扱っているし、試乗させてくれって言うお客様にコースを示す時とか……その他にも何千万ってする車を運転しなきゃいけない時があるの。そんな私が運転下手でどうするのよ」

 はガレージのシャッターを上げながら、背後でわなわなと震えるペッシに訴えた。

「大丈夫。私の運転は絶対にギアッチョよりも安全で丁寧なはずよ」

 そう言ってはペッシを助手席へ座るよう促した。

「お天気もいいし、せっかくだから幌は上げておきましょうね」

 がウキウキ気分で車のエンジンをかけた途端、エンジン音が響く。これは確実にギアッチョに聞こえている。自分の愛車のエンジン音を聞き逃すわけがない。そう確信したペッシは尚更に震え上がり、の話などは少しも頭に入ってこないのだった。



10:Fun, Fun, Fun



 どうしても早く帰りたい様子のペッシに急かされ、は急ピッチで買い物を済ませた。かさばる葉物野菜や数種類の肉や魚、大容量の調味料等々、ありとあらゆる物を買い込んだため、その総重量はとても女一人で店から車へ、そして車からキッチンへと運び込める物では無かった。車からキッチンは何往復かすればいいのだろうが、彼女はこれから手の込んだ料理も作らなければならないので時間は惜しい。は、やはりペッシを連れて来て正解だった、とご満悦の様子だ。

 ふたりで協力してカートから購入した物を車のトランクへ詰め込み終わった時、時間は惜しいと思いつつも、重労働に疲れてしまったはペッシにしばしの休憩を提案する。

「ペッシ。ジェラートでも食べて帰りましょう」
「姉貴ィ……勘弁してくれよォ~。おいら早く帰りたい」
「えー?まだ家を出て四十分しか経ってないじゃない。大丈夫よペッシ」

 ペッシにはギアッチョに怒鳴られる未来しか見えていなかった。なので普段プロシュートと行動を共にする彼が仕事終わりにジェラートを食べるなんてことが無い――プロシュートはペッシがミルクを大衆の面前で飲んでいるだけで苦言を呈す程に面子を気にするのだ。ジェラートなど食べることを許される訳が無い――ので、若干尾を引く気持ちは起こった。だがやはりギアッチョに怒鳴られることは恐ろしいし面倒なので、できるならば回避したいという気持ちが強かった。

 ペッシがここ数日と暮らしていて気づいたのは、彼女は異様にギアッチョの扱いに慣れているということだった。それはリゾットとプロシュートに次いで、といったところ。なのでもしかすると彼女が丸く収めてくれるかもしれない。だが、女性が怒鳴られているのに後ろでがたがた震え上がる図というのも情けない。そんな光景を彼が兄貴と慕うプロシュートに見られようものなら、殴り飛ばされた挙句足蹴にされながら叱責を食らうのは目に見えているのだ。

 だがそもそも、ギアッチョは自分たちが家を出た時点で愛車を勝手に使われていることに気づいて既に怒り狂っているかもしれない。なんなら彼のスタンド、ホワイト・アルバムで追ってきてるんじゃないかと辺りを見回すが、白い猫の着ぐるみを纏ったギアッチョの姿は確認できない。ならば今から急いで帰ったところで結果は一緒なのでは?

 渋るペッシをはニコニコと見つめ続け、果てには手を引いて近くの公園へと向かい始めた。

「ペッシ、お願い。暑いし、疲れちゃったし、甘いものが欲しいのよ。大丈夫。お肉やお魚も積んでることだし、保冷剤が溶けるほど長居したりはしないわ」

 ここまで来てやっと、ペッシはの誘いに乗り、ふたりでジェラートの露店に向かうことにした。その間はペッシの手をずっと握っていたのだが、初心な彼は気が気ではなかった。

 さっきからの姉貴に振り回されっぱなしだァ……。

 こんな姿、兄貴に見られたらひとたまりもない。やはりここでも自分を情けなく思うのだった。

「ペッシ、好きなのを頼んで」

 私の奢りよ。と微笑み、自分の財布を取り出そうとすると、彼女の右手は自然にペッシの左手から離れていった。やっと緊張から解放されたと安堵すると、今度は自分の手のひらが若干湿っていることが気になった。ズボンで手のひらの汗を拭い、嫌じゃなかっただろうかと気を揉みながらも、ピスタチオのフレーバーをチョイスしたペッシには笑いかける。

「私もピスタチオにしようと思ってたところ。奇遇ね」
「あ、ああ。そうなんだ……」

 こんな時、なんて言えばいいんだろう。ペッシは物心ついてから、こんな如何にもデートみたいなことをしたことも無ければ、女性にこんな話を振られたことも無かった。なので上手く会話ができずヤキモキしている。疑問形式で問われれば簡単に答えられるのに。彼女は一体どんな返答を求めてるんだろう。そんなことを考えている間に、自分の手元にジェラートが差し出される。

 午後三時を過ぎた公園には学校帰りと思しき子供たちが大勢いた。ペッシがそんな子供たちの様子を眺めながらペロリとジェラートをひとなめしたとき、彼はふくらはぎのあたりで小さな衝撃と冷感を受けた。ぞわりとして、ひっと情けない声を上げとっさに背後を振り返ると、ペッシのふくらはぎに激突したらしい五歳程の男の子が転んで泣いていた。傍らには無残にも地面にべちゃりと落ちたイチゴフレーバーのジェラートが見える。ペッシがひやりと感じたのはこれが原因だ。ふくらはぎのあたりは尚もひんやりと冷たく、ピンク色に汚れてしまっている。

「あああ……ご、ごめんなさいっ!」

 後ろから子供を慌てて追いかけてきた母親が、顔を真っ青にして必死で頭を下げていた。我が子がジェラートをぶつけた相手がスーツを着た社会人でもほぼ同じ反応を見せるのだろうが、それ以上に、母親の目にはペッシの風貌がギャング以外の何者にも見えなかったのだ。恐れを露わにして彼女は完全に慌てふためいている。

「気にしないでくれよ。大丈夫。これくらいなんてことない」

 ペッシは母親のそんな反応を見てすぐにしゃがみ込み、子供を優しく起こしてやった。膝小僧についた砂利を軽く払ってやる。はそんなペッシの様子を見て、胸をときめかせた。

 まあ!なんて優しいの……!

 同僚にマンモーニ、マンモーニと罵られる彼の意外な一面を垣間見たは嬉しくなって舞い上がりそうな気持を一旦抑え、狼狽えたままの母親にジェラートの買いなおしを提案した。は自分の財布を取り出して、母親にジェラートの代金を持たせる。

「い、いけません。こちらが失礼を働いたのに、こんな……」
「とんでもない!彼のことは気になさらないでください。子育て大変ですね。毎日お疲れ様です」

 とてもいい物を見せてもらったから、そのお礼ね。

 そんな思いを抱きながらがペッシの元に戻ると、男の子を諭すペッシの姿を目にすることになった。

「母さんから勝手に離れて行っちゃあダメだぞ。危ないからな」
「うん!兄ちゃん、ありがとう!おようふく、汚しちゃってごめんなさい」
「いいんだよ。拭けば済む話だ」
「ぼうや。お母さんが、ジェラートまた買ってくれるって言っていたわよ」
「ほんと!?やったー!じゃあね兄ちゃん!」

 ニコニコと屈託ない笑顔を見せて手を振りながら母親の元に戻る男の子と、申し訳なさそうに何度も頭を下げる母親を背に、2人はジェラートを食べながら車へと戻った。車のダッシュボードに積んであったウェットティッシュを取ると、はペッシのふくらはぎに付いたジェラートを拭ってやる。

「よし。これでギアッチョには怒られないわね」
「いや……たぶんもう怒ることしてると思うんだけど……」
「あはは!確かに!」

 はそんなペッシの指摘を軽く笑い飛ばして車のエンジンをかけた。十五分程度のアジトまでの道のりで、は先程一度抑えたペッシへのリスペクトの気持ちを蘇らせた。

「ペッシ。あなたとっても素敵ね!」
「…………え!?何で!!?」

 あまりにもアバウト過ぎるの誉め言葉に、彼は言葉を詰まらせた。プロシュートにいつも叱責されており、たまに褒められたりするもののやはり叱責を受ける方が多い彼は、いったいどこでにそう思わせたのか全く分からず、彼女の次の言葉を待つ。その間、心臓がばくばくと音を立てていることに気づいた彼は、とっさに右手の平で胸を押さえて心を落ち着かせようと深呼吸した。

「あなた、きっといいお父さんになるわ」
「はあ!?」
「何をそんなに驚いてるの。私さっきのあなたを見てかなりときめいたのよ。まさか年下の男の子にこんなにドキドキさせられる日が来るなんて思ってもみなかったわ」
「どっ……ドキドキ!?」
「ええ。すごくドキドキしたわ。なんて優しいのかしらって。私ね、男の人と付き合うのにあまり条件とか考えたことは無いんだけれど、長いこと一緒にいるためにはお互いに優しくなくっちゃあいけないと思うのよ。それが男である前に人としての最低条件じゃない」

 この女は殺しを生業とする人間に向かって話していることを分かっているのだろうか。だが、先程の自分の行動がまさに彼女の言う人間としての優しさであることに気づき、ペッシははっと我に返る。そしてきっと、ジェラートをぶつけられたのが兄貴でも同じことをしたはずだ。だからの言うことはあながち間違いでは無いのかもしれない。

「兄貴でもきっと、同じことをしたと思うんだ。でも兄貴なら、子供に優しくなくったって、女はみんなドキドキするだろう?いいよなぁ兄貴は、ほんと、見た目だけじゃあなくて、中身もカッコイイんだぜ!」
「ペッシ。違うのよ。私が言いたいのは、そういうことじゃあ無いのよ、ペッシ。プロシュートは関係ないの。あなたがその若さで、子供にあんなに優しく振舞えることがすごいのよ。プロシュートを見て学んだことじゃない、あなたの本質なのよ。あなたはそれを自信に思うべきだわ。好きよペッシ」
「すっ……好き!?」

 すごい熱意を持ってペッシのことを褒め称え、挙句の果てに初心な彼を惑わすような一言を吐くに彼は驚愕した。驚愕する自分の顔が燃え上がりそうなほどに熱く火照っており、オープンカーが故に風は十分に感じるものの、それでも足りないとフロントガラスを叩き割って風を頭部全面に当てたい気持ちでいっぱいになった彼は、尚もペッシへのリスペクトを語りつくさんとしゃべり続けるの話など少しも耳に入らなかった。そして車はいつの間にかアジトのガレージへと到着する。

「さ、ペッシ。運ぶのを手伝ってちょうだい」

 助手席から降りたペッシが呆然とその場に立ち尽くしていると、はトランクを開けた後に彼の目の前まで移動し、パンパンと手を打って目を覚まさせる。

「!!あ、ああ。運ぶ運ぶ。運びまくるぜ!」

 ペッシはから逃げるように買い物袋をトランクから持ち出しキッチンへと急いだ。車とキッチンまでの間を全速力で二往復程したところで全て運び終えたので、じゃ!っと言って自室に戻ろうとするペッシ。そんな彼を、は進行方向側の壁にバンっと手を突いて引き止めた。まさに、男女立ち位置が逆の壁ドンである。

「ペッシ。逃げないでよ」
「にっ……逃げてなんか!」
「いいえ。逃げてるわ。私、あなたと仲良くなりたいと思ってるの。セクハラだなんて思わないで、聞いてちょうだい。ペッシ」
「いや、もう、ほんと!仲良くなれたと思うぜ姉貴!だから、もう放してくれよォ」
「いいえまだよ。私まだ全然、あなたと仲良くなれた感触がないのよ」

 プロシュートに叱責を受ける時と同じくらいの距離――鼻と鼻が触れ合うかという程の、傍から見れば距離感が狂っているとしか思えない距離だ――にの顔がある。ペッシは顔を真っ赤に染め上げて狼狽した。女性の顔がこれほどまでに近づいたのも初めてだ。

 うぶなペッシをよそには淡々と話を続けた。

「それに、話はまだ終わってないわ。……あなたいつもプロシュートにマンモーニだなんだって言われてるけど、もっと自分に自信を持ってほしいのよ。わかる?私がさっきあなたに好きって言ったのは、冷やかしでもなんでもないの。本心よ。あなたは人に好かれる素質を持ってるのよ。分かる!?」

 鬼気迫る表情をペッシの顔面に向けて熱く彼への思いを語るに気圧されたペッシは、もう何も言い返すことができず、ふるふると小刻みに顔を縦に振ることしかできなかった。

 そんな二人の様子をリビングから観察するものがいた。プロシュートだ。可愛い弟分が女豹に狩られようとしているそんな光景を、彼はもう見ていられなかった。

「おい!オレの弟分を誑かすんじゃあねェぜ!」
「誑かす……?何のことか分からないけれど、あなたからも褒めてあげて。今日ペッシはとてもいいことをしたのよ」

 の口から語られたペッシの善行を褒める二人は、まるで彼の父母かなにかの様だった。

 そして迎えた夕餉の時間。せっかく気づかれずにギアッチョの車で買い物を済ませられたので言わなければいい物を、は自らそのことを打ち明けた。その後しこたまギアッチョから怒鳴られることになったのだが、やはりいつものように彼はに上手くあしらわれ、ものの三分で怒りを収めたという。

 そんなを見てペッシは、カッコいいとプロシュートへのリスペクトに似た感情を彼女へ抱きはじめたのだった。