「おいおいおい!誰だァ!?便所の壁に座って小便しろとかワケの分からねぇ張り紙したやつはよォー」
明朝八時。不機嫌そうに頭を掻きながらリビングへと足を運んだギアッチョの“プッツン”が始まった。白いVネックのTシャツにグレーのスウェット姿で姿を現した彼は、ポケットに手を突っ込んでリビングに朝食を食べに集まっているであろうメンバーに、自分の行動に制限をかけようとする不届き者がいると睨んで怒声を浴びせた。
が、しかし、そこにいるのはまだプロシュート一人だけだった。キッチンに近いダイニングテーブルにつき、コーヒーが淹れられたマグカップ片手に新聞を見ていた彼はギアッチョを一瞥してため息をついた。もちろん、こんな反応をされることは分かり切っていたことではあったがすがすがしい朝のコーヒーブレイク中に聞きたい声ではない。眉根を寄せて不快感をあらわにしたプロシュートは、手にしていたコーヒーを一口啜った。
「てめーかよプロシュート!」
「朝からやかましいぜ、ギアッチョ」
「あ~てめーだなァ?下でガタガタうるせぇなぁと思っていたがよー。朝っぱらから掃除なんかしやがって。なんだかよォ……便所でお花の香りがすんだよォ!去勢でもしたかぁ?」
「やかましいと言ってるんだぜ、ギアッチョ。さっさとメシ食っちまえ」
再びため息をついたプロシュートは空いた皿にビスコッティと小さめのアップルタルトを取り分け、マグカップにコーヒーを注いでテーブルの向かいに置いた。座って食えと促すプロシュートの言う通り、ぶつぶつと文句を言いながらも席に着き朝食に手を付けるギアッチョ。プロシュートはチームの中で彼の扱いを、リゾットの次に心得ていた。だが黙って食べているのも束の間、プロシュートの思惑に反してギアッチョは肝心の質問の回答を聞いていないと答えを催促してきた。
02:True Colors
なぜ突然、必要以上の掃除と利用にあたっての制約を課したのか。座ションは前立腺が肥大して尿が出にくくなるだとか、将来的にガンになるとか、どこで仕入れたのかも分からない話を捲し立てる。大をするわけでもないのに、わざわざズボンを下げて便座に座って小便をするのは面倒くさいし、用を足す最中花の香りのフレグランスが鼻腔をつついてきて癇に障るなどとと続けざまに訴える。
プロシュートはギアッチョの話を半分も聞いていなかったが、とりあえず彼の話の主旨は理解していた。朝から五月蠅いのと、トイレが綺麗になっていることが何故だか気にくわないということだ。うるさかったのは悪かったが、とプロシュートは落ち着いた様子でギアッチョをなだめにかかった。
「おめー知ってんだろ。オンナがこれからここで生活するんだぜ」
「ああ?もう来てんのかよ」
「昨日の夜中からな。ソルベが前使ってやがった空き部屋にいるみてーだ」
「ふぅん……」
「……女にあのしょんべんくせぇ便所使わせるワケにはいかねぇだろうが。ちょうどオレが掃除当番だったので、いつもより入念にやっといたってだけだ。感謝こそされても、ぶちギレられる筋合いなんかねぇんだよ」
「別にそこまで汚れちゃいなかっただろぉーがよォ」
公衆便所ほどに便器の手前側の床に黄色いしみがこびりついていたり、歩くとべたべたしたりといった不快感は無かったはずだとギアッチョは思いだす。思い出すと同時に男子便所特有のアンモニア臭がよみがえる。
「って、なんでメシ食ってるときに便所の話なんかしなきゃならねェんだ!クソが!」
そんな理不尽極まりない怒号がリビングルームに響き渡った時、控えめな音を立てて玄関側の対面に位置するドアが開いた。ギアッチョが感じたことの無い人間の気配に気づき後ろを振り向くと、トイレに張り紙がされた原因となる人物が部屋の中の様子を伺っていた。胸部の下に切り返しのついたベージュのワンピースに身を包んだ女は、次にプロシュートとギアッチョの佇むダイニングテーブルの方を見据える。
「……リゾットが挨拶しろって。朝はリビングにいるように言われたんだけれど」
そう言って、・と昨晩名乗った女はプロシュート達の方へと近づいてきた。プロシュートはギアッチョにしたのと同じように朝食を皿に取り分け、彼女を席へつくようにと促した。彼が指さしたのはギアッチョの隣だ。
「腹ァ減ってんだろ。食えよ。朝メシだ」
「……ありがとう」
そんなやり取りがある間、睨みつけるかのようにギアッチョはの様子をうかがっていた。彼の彼女に対するファーストインプレッションはプロシュートが昨晩思ったことと大して変わらない。なんでこの女が。表情こそその辺のオンナに比べて乏しいものの、身なりからは柔和な雰囲気が感じ取られる。暗殺者はもとより、ギャングなどという裏社会に生きる人間の対極にカテゴライズされる人種にしか見えない。
「……おい女。名を名乗りやがれ」
「・よ。ボスの命令でここに配属されることになったの。よろしく」
から差し出された手のひらは握手を求めていたが、ギアッチョがそれに応えることはなかった。すこし寂しそうに手をひっこめた彼女は上品に朝食を手に取って食べ始める。なぜこれほど上品な女がギャングがはびこる裏社会に足を踏み入れることになったのか。恐らくこれから知ることになるであろう彼女の経歴が気になるプロシュートだったが、別に今聞くことではないと口を噤んでいた。ただ、“ボスの命令で”という言葉から察するに、かなりの実力者か、並々ならぬ事情があるかのどちらかであると考えられた。普通は幹部連中の“就職試験”を受けて合格したものだけがパッショーネへの入団を許される。それ以外の人間はごくわずかで、裏表問わずかなりの人脈を持っているだとか、医者だとか薬学研究者だとか、組織の利益に繋がるような頭脳を持った人間が数名いるくらいだ。それでもボス直々に推薦されるというのは例外中の例外だ。
「メンバーは七人よね。あなたたちは……プロシュート、に……ギアッチョ。間違いない?」
は自身の記憶を辿るように、ゆっくりと確認していく。二人は声を出さないまま、合っていると頷いた。
「昨晩、そこのテレビの前でサッカーの試合観戦してた、坊主のお兄さんが確か……ホルマジオで、その向かいに座ってた緑色の草みたいなのが頭に生えてる子が、ペッシだったわよね」
「おい。オレの舎弟をバカにしたような口をきくんじゃあねーぜ。身なりはギャングらしからねぇが、礼儀ってもんは知らねえらしいな」
唐突にカワイイ弟分を軽視するような発言を受け、プロシュートはかなり真面目にの発言に苦言を呈した。
「ごめんなさい。気を悪くしたなら謝るわ。人の名前を覚えるときに特徴になるものを印象付けるようにしないと、すぐに忘れちゃうのよね。どうしてもあの緑色の髪の束がラディッシュの葉のようにしか見えなくて」
「じゃあこいつは?ギアッチョはどうやって覚えた」
「えーっと……くるくるパーマ」
「誰がくるくるパーだァ!喧嘩売ってんのか!てめぇ殺されてーのか、ああッ!?」
そんなことは言ってない。と普通なら反論しそうなものだが、プロシュートはギアッチョに殺されたいのか、と怒声を浴びせられた瞬間、が一瞬だけ口の端をピクリと吊り上げて不敵な笑みを見せたのを見逃さなかった。興奮のせいなのか、若干上気しかけたようにすら見えた。それが彼の見間違いだと言ってしまえばそれまでだが、プロシュートは何か目の前の女性の異質な――しかし、それが暗殺者としては似つかわしい猟奇的な――性質を彼女に感じた。
どんなに怒声を浴びせても微笑んで落ち着き払った様子で応答してくるに手ごたえが感じられず、ギアッチョはいつの間にか自然と怒りを収めて彼女への口撃をやめていた。普段彼に怒声を浴びせられる相手がオドオドしたり黙りこくっていたりすれば、その行動自体にも腹を立て増々キレて収拾がつかなくなることが多く、事態を収めるには他のメンバーの介入が必要になる。
にもかかわらず、彼女は初対面の、しかも常人にはかなり扱いづらいギアッチョをいともたやすく宥めてしまったのである。これにはプロシュートも内心で彼女にパチパチと拍手を送った。
「あ、そうだわ。プロシュート、昨日はごめんなさい」
「一体何のことだ」
「昨日、夜道で心配して声をかけてくれたでしょう。私も少し勘繰っていたところがあって。だって、まさか組織の人間だなんて思わないじゃない。だから警戒してしまったの。まあ、私の場合、万が一襲われたってどうということは無いんだけれど、念のためにね」
「ああ。そのことなら気にするな」
の弁明を聞いてプロシュートはやっと客観的に考えることができた。普通、女なら誰だってスラムに近い夜道で見知らぬ男に声をかけられたら警戒するだろう。それがどんなに魅力的な男性であっても、である。
「オレもまさかおめーが組織の人間だなんて思わなかったぜ」
何のためらいもなく素直に謝罪の言葉が出てくるのは、ギャングと呼ばれる種類の人間には珍しい。このことからもの育ちの良さがよく分かる。とにかく、なめた態度の新人ではないし何より女なので、はプロシュートの洗礼――ペッシは入団当初こっぴどく鳩尾に蹴りを入れられた――を免れた。
こうしてプロシュートの心内で沸き起こった七割の苛立ちは解消し、という新参者に対する純粋な興味と関心がそのほとんどを満たしていった。
そしてリビングへはぞくぞくと他五人のメンバーが集まり始めていた。