祖国発遊侠青春珍道中

 私は世界を失くした。自分が自分として存続すべき世界を見失ってしまった。

 はその瞬間の絶望をありありと思い起こすことができた。動揺によって手元は狂い、刃先は心臓から脇にそれ虎徹は一命を取り留めた。そして未遂ではあるが、組長殺しに手を染めた自分は逃げざるを得なかった。

「何が真実かなんて分からない」

 メローネはやはり静かにの言葉を聞いていた。まるで死を間近に控えた人の言葉を聞く親族のように。
 
「死にたくなくてそう言っただけかもしれない」

 けれど違うだろう。はあの日の自分の直感を今でも疑うことができない。虎徹の胸目がけて突き立てようとした刃は、寸前で目標を反れた。普通ならあり得ないことだった。人を殺すときに迷いなど生じないように散々訓練されてきた。事実仕事をしくじったことは一度も無かった。とは言え、それは自分の人生とはおよそ関わりの無い“どうなろうが知ったことじゃない”人間を殺すときの話だ。そこには一切の私情が絡まない。けれども、虎徹は違った。私の大切な人を奪ったはずの憎くて仕方のない、殺さずにはおいておけない存在だった。そんな存在であるはずだったのだ。

 殺されると悟った虎徹が、今にも突き立たんとする刃先を見据えて顔をしかめ「しのぶを殺したのはわいの愚息や」と言ったその一瞬の間に、は確信したのだ。鐵芯がしのぶを殺したのだと。自分はただ、鐵芯が簡単に階段を登ることができるよう便利に使われていただけだったのだと。そして虎徹は、深い傷の痛みに悶えながら言った。息子に残念だったなと伝えろと。

 悔しくて仕方が無かった。無知でお人好しな自分を心の底から恨んだ。

「それで決めたんだ。私は虎徹と鐵芯を――ばっちゃんを苦しめ私の心を踏みにじった元凶を――今度こそ必ず殺すって。そのために私は、助けてくれる人を探しにここまで来たんだ」

 は手元の空の鞘袋をじっと見つめながら続けた。

「あの刀はね、覚悟の証なんだ。ばっちゃんは殺される前、私にあの刀を『どこか遠くへ逃げろ』って言って渡してくれた。ばっちゃんは私がヤクザの鉄砲玉にされる前に、自由になって欲しかったんだ。最初に言われたときは、言われたとおりに出来なかった。だから今度こそ、私は仇を討って――自分を追ってくるヤツをみんな殺して――自由になってやるんだ。それがばっちゃんの望みで、私の望みでもあるから」

 しのぶは生前、に愚痴をこぼしていた。今まで、多くの子どもたちの未来を奪ってきた。もうこんな仕事はやめにしたい、と。だから彼女は生涯独身を貫いた――もし子孫を残せば、後継ぎにまでこの因果が受け継がれてしまうからだ――し、意図的に引き取る孤児の数を少なくしていった。その結果残ったのが、ヤマトとの2人だった。

「あの刀は、ばっちゃんの魂そのものだと、わたしは思ってる。ばっちゃんの魂をアイツらの所になんか置いたままにはしておけないし、あの刀が無きゃ私は一生アイツらから自由になれない。そう思ってる」

 刀なんか日本に置いておけばいい。やってくる敵を倒し、できなければ逃げ隠れ続ければいい。どう考えても、解決のために自分から日本へ出向きヤクザ相手に戦争を始めようというのが無謀だ。それはも重々承知していた。

 けれど、そうしないでは自分の心が、魂が死んでしまう。私は一度も、自分の人生を自分のものとして歩むことなく人生を潰えてしまう。――理屈じゃないのだ。

 メローネはの覚悟を決めたような、迷いの無い瞳の中に光を見た。彼女は力を取り戻しつつあるような気がした。けれど、もし彼女が力を取り戻してしまったら? ひとりで地の底へでも行ってしまいそうな彼女の瞳をもう一度みつめた。いやだ。離れたくない。せっかく手に入れた愛を、むざむざ手放すなんてことは絶対にできない。メローネは知りたかった。そうならずに済む方法を。そのためなら、何だってする、とメローネは思った。

「オレは……君のために、一体何がで――」
「いーかげんオレをハブってふたりで仲良くすんのやめろよなー!」

 ビール瓶片手にサッカー中継を見ていたホルマジオが突如、メローネの背中に降ってきた。酔っ払いと呼ばれるほど酔ってはいないが、いい塩梅に機嫌が良くなっているようだ。そんな彼の様子を見て緊張が解けたのか、はふっと笑って造った鞘袋をベッドの上に乗せると、立ちあがって言った。

「私お風呂入ってきマス」
「ホルマジオ。オレも行くからどいてくれないか」
「は? おまえが行くならオレも行くぜ」
 
 呆れた様子で首を横に振りながらこれ幸いとバスルームへ逃げると、は後ろ手に扉を閉めて鍵をかけて服を脱いだ。その後、何とかホルマジオを振りほどいたらしいメローネが扉を開けようと試みる音がしたが、すぐに諦めたようだった。これまでも何度か、メローネがの後を追ってバスルームについて来たことはあったが、ピッキングまでして入ってこようとしたのは、出会ってすぐのころに1度あったきりだった。そんなことを思い出しながら体を洗い終えた後、はバスタブに湯を張り心行くまでつかった。パッショーネは暗殺者チームのアジトではこうはいかなかった。7人が生活するアパートのバスルームは共同で1室しかない。なかなかゆっくり風呂には浸かれない。

 満足したが部屋に戻った頃には、ホルマジオは静かにベッドの上で大の字になって眠っていた。メローネはがバスルームから出てくるのを見るや否やベッドから立ち上がった。シャワーを浴びるつもりでいるのだろうと思い、彼がバスルームへ向かいやすいように扉の前から退くと、の動きに合わせてメローネも軌道を変え、彼女の向かいから歩いてきた。それを見た瞬間には足を止めた。普通なら相手と距離を取るようなシチュエーションだけど、と彼女は思った。けれど警戒心を解き、メローネを信用するまでに至りいまや彼を愛する彼女にとってはむしろ心が落ちつくことだった。はただじっとメローネの顔を見つめ、彼もまたの顔を見据えながら歩いた。メローネはの前で立ち止まると、長い腕を背中にまわして彼女をぎゅっと抱きしめた。彼の鼻先が耳の上をかすめ、止まる。そのままメローネは深呼吸をして呟いた。

「いい香りがする」
「風呂上がりだからね」
「……いや。オレがこの鼻で嗅ぎとっているのは君の香りだよ、。風呂上がりだからとか関係ないし石鹸のかおりとかでもない。今の今まで、ホルマジオの目がある手前君と密着するのが憚られたから、今やっと君の香りをかげた。そのタイミングがたまたま風呂上がりだったってだけの話だ」
「へえ……。意外だね。そんな配慮をしてたの」
「だって君とオレがあいつの目の前で抱き合ったりしていたら、あいつの肉欲が搔き立てられるに違いないからな。これからそうなるように、オレの目が届かなくなる危険な時が生じるんだから当然の配慮だ」
「なるほど」

 は面白くなって笑った。朗らかに笑うの顔を見て、どこか安心したような表情を浮かべ、メローネは一際強くを抱きしめた。

「オレが戻るまで、起きていてくれるかい?」
「ん? うん、いいけど、どうしたの?」
「……まだ、話の途中なんだ。さっきは、ホルマジオの邪魔が入って最後までできなかった」
「ああ。そう言えば」
 
 メローネが何と言いかけたかは忘れてしまった。けれど、彼が喋り出してすぐ、上からホルマジオが降ってきたんだった。そのことは覚えていた。
 
「いいよ。分かった。起きておく」
「グラッツィエ」

 メローネはの柔らかな頬にキスをすると、今度こそバスルームへ向かっていった。は火照った頬を指の腹で軽くおさえ、彼が扉の向こうへ姿を消すのを見届けると、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してベランダへ向かった。

 港の明かりと月明りを返す海原が、キラキラと光って見えた。血のように紅く燃える太陽はすっかり海の向こう側だ。は深く息を吐くと、鉄柵に両肘を据え身体を前方に預けた。ボトルを掴みキャップを開け、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。そしてまた深く息を吐いた。

 イタリアの夜は涼しかった。今は夏に入りかけたころだ。日本なら昼も夜もさぞかしじめじめしていることだろう。湿気が少ないのは快適だが、反面少し肌のカサツキが気になりだしていた。日本では夏に入念に化粧水やら乳液やらを塗りたくったりはしなかったが、ここでは流石に何もしない訳にはいかなそうだと感じはじめ、つい最近やっとドラッグストアへ向かいスキンケア用品を一通りそろえたところだった。しかしこの度は、遠出の際にそれらを持っていかなければならないという認識が欠けていたがために、チェックインの際フロントでもらったアメニティのお世話になった。あまり肌に合っていないらしいそれらが表皮を突っ張らせている感覚があったが、忘れ物をしたのは自分なので文句は言えない。いただけただけありがたいと思わねば。それはそれとして、湿気を帯びていない涼やかな夏の風はを優しく撫ぜて慰めた。

 イタリアはいいところだ。景色はどこをとっても美しいし、ごはんは美味しい。人も優しくて、皆朗らかでおおらかだ。けれど、いつまでもここにはいられない。そう思うと、胸がずきりと痛んだ。

 私は世界を失くした。そう思った。けれど違った。失くせていればどれほど良かったか。あの世界は、まるで暗い森の足元に蔓延るいばらのように、振り払おうとすればするほど私を絡め取ろうとする。一度足を踏み入れれば、決して逃れることはできない世界。相手か自分、そのどちらかが死なない限り。

 死にたくない。失いたくない。せっかく、愛と言うものが何かが分かったのに、それを失くしたくない。新しい世界を――それはもしかすると、幻想にすぎないのかもしれないけれど、例えそうだとしても――失いたくない。なら、勝つしかない。ヤマトに。虎徹に。鐵芯に。

 でも私に、そんなことができるだろうか。



16: Until the World Goes Cold



「身体を冷やすのは良くない」

 シャワーを浴びて戻ってきたメローネが、夜風に当たるの肩にブランケットをかけた。メローネの気配すら察知できなくなってしまっている。こんなんじゃダメだ。は海を睨みつけた。

「さあ、ベッドに入ろう」

 メローネはブランケット越しにの肩を優しく掴んだ。は振り返って、ホルマジオの様子を伺った。彼はセミダブルのベッドの真ん中で大の字になっている。さすがにメローネには、ホルマジオとふたりで寝ろと言えない。それに、今夜はひとりで寝たくは無かった。話の続きもあるようだし、メローネを信用して一緒にゆっくりと眠りに落ちるのも悪くないかもしれない。

 ふたりはベッドの両サイドにそれぞれ立ち、どちらからともなく気兼ねせずにマットレスへ身を横たえた。ふたりはしんとした部屋の天井をしばらく意味も無く見つめていた。その内に、メローネが口火を切った。

「話の続きだ。
「うん。なに、メローネ」
「君のために、オレは何ができるだろう」

 はそのことについて考えた。メローネに会う前までは、本気で助っ人を募る気でいた。けれど。

「今思えば無謀だった」

 答えにはなっていない。しかしメローネはそのことを指摘することなく、黙ってが話し続けるのを待っていた。
 
「誰が見ず知らずの外国人のために、日本のギャングなんかと闘ってくれるってんだろうね」
。君を守るためなら、オレは何だってやる」
「気持ちは嬉しいんだけどさ。私は、あんたを失いたくないよ」
「それはオレだって一緒だ。オレも、君を失いたくない。絶対に」

 は寝返りを打って、メローネの腕に腕を絡め体を密着させた。柄にもなくメローネが緊張しているようだ。体が不自然にこわばっているのが、には感じられた。それは気にせず、続けた。

「私、あの時――謀反をはたらいた時――どうしようもなくひとりでいるのが怖かったんだ。それで、勢いで飛び出した。後先考えずに。さっき言ったのは――要は、助っ人を募るためにここに来たっていうのは――ほとんど後付けだよ。……私はばっちゃんが死んでから今までずっと孤独だったんだって知って、悔しくて悔しくてたまらなかった。私の居場所はもう、この世界のどこにも無いんだって思い知った」

 メローネは何か言いたげだが、辛抱しての言葉を聞くことにしたようだった。尚も天井を向く顔は苦悶に歪んでいる。
 
「でもね、メローネ。私は、あなたに会えた。偶然の巡り合わせにしてはできすぎてる。運命だったんだよ。そして幸運だった。このクソみたいな人生で、数少ない楽しい時間を過ごすことができた。だから、もう……満足した。私は例えあの力を取り戻せなくてもひとりで日本に戻って、戦ってくる」

 愛しい人。この人の愛があると信じられる世界がありさえすれば、私は戦える。
 
……オレは――」

 はメローネに口付けをして、言葉を遮った。
 
「もし、生き残れたら……また会いに来てもいいかな?」
。違う。なんで一人で――」
「いいの。今はただ、うんって言って。それだけでいい」

 私には戦う用意が――死ぬ用意ができている。

 メローネに抱きしめられる。絶対に離さないと言わんばかりの、必死の抱擁だった。そして彼は言った。

「ダメだ。言わない。オレはこれから先、君をひとりにはしない。だから、君がオレに会いにくるなんてことは起こらない」

 そう言って優しく抱きしめてくれる人に出会えた。それだけで、はもう死んでもいいというくらいに幸せだった。