ホテルの窓にかかるブラインドのすき間から漏れた朝日がの顔を照らしている。
メローネはの寝顔をじっと見つめていた。ほとんど初めて見る、彼女の安らかで美しい寝顔。彼女は今、どんな夢を見ているだろう。そんな想像をする。その夢の中に自分がいて、彼女を抱きしめていればいいと思った。
昨晩はととてもセンチメンタルに時間を過ごした。だからか知らないが、に添い寝したというのに、驚いたことにメローネの息子はぴくりとも動かず柔らかなまま――つまりその存在をに悟られることなく、彼女とメローネの間に横たわっていた。だが、今朝は打って変わって息子が元気だ。例えの清らかで美しい寝顔を見ていたからといって、彼に自重する気は毛頭無いらしい。
情動とは無関係の生理現象だ。だから、責められるものでもないので、このままタヌキ寝入りを決め込もう。メローネはそう心に決めた。そして彼は寝たふりをしたままこちらを向いた横寝の状態でいるの枕と頭の間にできた空間に片腕をねじ込み、ぎゅっと抱きしめた。幸い彼女の眠りは深いようでまだ目を覚まさなかった。さらにメローネの固くなった息子はの柔らかな太ももと太ももの間に程よく収まっている。身体がほぼ反射的に前後に揺れそうになるのを我慢して、彼は固く目を閉じた。
そして、と愛を交わす妄想をする。頭の中のはひどく従順で、それでいてひどく艶かしかった。けれど時には恥じらいを見せて、目尻に涙を滲ませ狂おしそうにメローネ、メローネと何度も声を上げる。
「あッ……、ダメだ、もうッ……」
夢想によって膨らんだメローネ自身が、今にも空蝉として欲を吐き出さんとするその時だった。
「……鐵芯」
「え」
メローネは目を開けてを見た。まだ瞼を閉じたままでいる彼女の寝言だった。そしてメローネが記憶する限りそれは日本人の名前で、その名を持つのはの、死んでもなお愛する祖母を殺したかもしれない男だ。
憎いんじゃないのか。殺したいほどに。
彼の夢想世界と欲はみるみる内に萎み、メローネはただの安らかな寝顔を見つめることしかできなかった。
「で、これがそうって訳か」
リゾットは朝刊の片隅に載った記事と、彼の前に置かれた日本刀とを交互に見ながら言った。
――博物館から突如消えた日本刀。忍者の仕業か。
なんとも稚拙な発想と言うか、あまり真面目に犯人を探そうとはしていない風が漂う見出しにどこかほっとした様子を見せた後、リゾットは朝刊を脇に置いた。
「楽勝だったぜ」
「それはそうだろうな。おまえの能力ってのは、こそ泥になるにはうってつけだ」
イルーゾォが鼻で笑いながら言った。これはいつものことなので、あしらうのなんかホルマジオには朝飯前であった。
「うるせーよ。ちゃんには大変ご満足いただいてんだ。ちゃんのためならオレは何にだってなりさがるさ」
イルーゾォは呆れて首を横に振った後の方へ顔を向けて言った。
「で、使えそうなのかよ」
はリゾットの前から鞘付きの刀を取り上げ、ソファーが置かれたスペースから離れると、抜刀し空をバツ印に斬り裂いた。目にも留まらぬ早業だった。暗殺者チームの面々は皆一様におおと感嘆の息を漏らし目を見張った。
「素晴らしいな」
リゾットが手放しで他人の技を称賛するのは珍しい。それだけ、口の重い彼を突き動かす美しさがあったのだろう。
「研ぐ必要がありマス」
は刀身をゆっくりと鞘に収めていく。体全体でその振動を増幅させ、神経を研ぎ澄まして振動を感じ取る。こうすることで、この長らく放置されてきた刀にどれだけ手を施す必要があるのかについて概ね把握することが出来た。
「けど、概ね良好デス。博物館で定期的に油を塗り替えてくれていたみたい」
丁子油――クローブの精油が必要だ。砥石も。切れ味も試してみたい。何か斬っていい丸太みたいなものがあれば……。
「メローネ。買い物付き合って」
丸太まで買えるかどうか知らないが、とりあえず買い物だ。はメローネの方へ顔を向けた。そう言えば、彼は昨日の朝ホテルを出たあたりからいつもの元気がない。どこかずっと上の空でぼうっとしているのだ。ホルマジオが同行してくれたおかげで大した役回りは無かったとは言え、肝心の盗みの時ですらそうだった。いつものしつこいくらいのスキンシップも少なくなって、調子が狂うというか、は寂しさすら感じていた。
「メローネ! 聞いてる?」
そう目の前で言われ顔をのぞき込まれてやっとの声に気付いたのか、メローネは慌てて返事をした。
「……あ、ああ。すまない。……買い物、買い物に行くんだよな。買い物に。何を買うんだい?」
「クローブの精油。研いだ後、刀身を油でコーティングするために。古い油を落とす時と、新しく油を塗る時に使うフランネルの布も欲しいな。それと、砥石と丸太」
「ああ……。わかった」
言われて、それがどこに行けば買えるか見当が付いているようでいないような、やはりぼうっとした様子でメローネは答えた。は小首をかしげながらも、とりあえず自分の言う通りに行動してくれそうなメローネにいつも以上のありがたさと安心感を覚えながら、立ち上がった彼の後についていった。
同様、残された面々もまた、いつもと様子が違うメローネの様子に小首をかしげていた。
「あいつら、旅先で何かあったのか?」
リビングでエスプレッソを嗜みながら朝刊を広げていたプロシュートが言った。視線はホルマジオの方へ投げられる。
「さあな。ただ――」
ホルマジオはがメローネに向けて語った話の内容を頭に思い浮かべた。サッカーの試合をテレビで観戦しながら酒瓶を呷っていたし、がちょいちょい日本語を交えて話していたがために理解できない所もあったので、ホルマジオが覚えているのはほんの断片である。
「――一昨日の晩はしんみりと話し込んでたな。日本の話だ。なんでちゃんがここに来たのかってことを、彼女の育ちから何から、全部話してたような気がする」
「で、おまえに言えるのはそれだけか? 同じ部屋にいたってのに、重要なとこ聞き逃してんじゃあねーぞ」
「なんだ、イルーゾォ。おまえも何だかんだちゃんのこと気にかけてんだな」
「……うるせぇよ」
イルーゾォだって鬼じゃない。女ひとりがヤクザに追われてるなんて、男なら誰だって放っておけないはずだ。珍しく反論も程々に押し黙ったイルーゾォの様子を見て、ホルマジオは眉毛を寄せ懸命に細い記憶の糸を辿った。
「育ての親を……ばあさんを、ヤクザ連中に殺されたって……その敵を討つために組織に入って、念願叶って殺しかけたやつってのが見当違いで……しかもそれがヤクザのボスで……追われてんのはそのせいとかなんとか、そんな話だったかな」
「ってことは何か。あの女、ボスを半殺しにしたってのか!?」
自分たちの組織に置き換えてみると身の毛がよだった。というか、イルーゾォにはボスを半殺しにするということが想像できなかった。何と言っても、パッショーネのボスに関しては、その名前、姿かたちすら分からないのだ。構成員の中には、本当はボスなんて存在しないんじゃないか、などと存在そのものを疑う連中さえいる。
しかし暗殺者チームは、その残虐性、冷徹さ、強さを知っている。彼は実在し、自分たちは重い枷をはめられ操られているということを既に思い知らされている。ボスを倒すという想像はできないが、ボスに目をつけられるということがどういうことかはよく知っているのだ。
「なんて……強い女なんだ」
「ああ。でも、さすがに……昨日は怖気づいてるみたいに見えたぜ」
「追手が来そうなんだろ」
つい先日、街なかのレストランから帰ってきたメローネとが言っていたことを思い出して、プロシュートが言った。
「ああ。らしいな。その追手を迎え撃つために、とりあえず刀をって考えで、オレたちはジェノヴァへ行ってきたってわけだ」
「ふん。日本のヒョロガリ野郎なんざオレたちが寄って集って袋叩きにすりゃいい話だ」
「ああ。だが、はスタンド使いだ」
リゾットは神妙な面持ちで続けた。
「――なら、元の仲間もスタンド使いである可能性は十二分にあるということを忘れるな」
トニオ・トラサルディーはいつものようにレストランを一人でやりくりし、今日も何事なく店じまいをし、少し遅めの夕食を作っていた。
いや。何事もなく、という表現にはいささか語弊があろう。店じまいをしたはずの店の客席には、ここ数日居座っているヤクザの殺し屋と思しき小僧の姿があるからだ。
トニオは作った料理をふたつの皿に分け、それを持ってヤマトと名乗る小僧の前に行き、招かれざる客の分と自分の分とをテーブルの上に置く。すっかり日本の習慣に染まったトニオは、無料のミネラルウォーターまで丁寧にヤマトへ差し出し、自分の分もコップに注ぐと、いただきますと手を合わせた後に食事を始めた。
「あんた、やっぱ変だ」
ヤマトはさも珍しいものを見るような顔で目を見開き、ふにゃふにゃとした笑みを浮べた。いただきますとは言わずに、フォークを手に取って、付け合わせのサラダの葉をいじる。
「無駄口をたたいてないで、さっさとお食べなサイ。せっかくのおいしい料理が冷めてしまいマスよ」
「フツーさ。敵にメシなんか出さないだろ」
「それなら、私にだってあなたに言いたいことがありマスよ。私がそれに毒を混ぜていたらどうするんです? フツーは警戒しませんか?」
「えー? 毒入れてんの? おーこわー。いただきまーす」
怖いと言ってすぐ、少しも臆することなくスープを飲むヤマト。恐らく、彼にはどんな毒も効きはしないのだろう、とトニオは思った。
「……はは。そんなことはしまセンよ。そんな、料理を穢すようなことはね。いくら客が憎かろうとデス。それに、自分の名誉のために言っておくと、私はあなたをこの店に招き入れたことを後悔なんてしていませんよ」
「ふーん。それってに対してもそう思うの?」
「ええ。むしろ、あんなに凛々しく美しく義理堅い女性に出会えたことを嬉しく思っています」
「義理堅い……? てか、あいつのせいであんたとあんたの叔父さんの命が危険にさらされてるってことわかってる?」
「ああ……そう言えば、そうでしたネ。忘れていましたよ」
そう言ってにこやかに笑うトニオの顔をじっと見て、ヤマトは小首をかしげた。
「やっぱあんた、変なやつだな。逃げようともしないしさー。マジでつまんねえ」
「逃げなんかしませんよ。私には戦闘能力なんか少しも無い」
パール・ジャムに戦闘能力は皆無。その能力はもっぱらトニオの良心に基づき治療目的で使うものだった。強いて言えば、料理を食べた被治療者が少々グロテスクな治り方をするので、攻撃されていると勘違いする者がいる程度。実害は一切無いどころか、身体に巣食う病魔を綺麗さっぱり除くことができる、医者いらずの能力なのだ。
さすがにを追ってヤクザの元に連れ戻そうとする男に快調となってもらっても困るので、食事のために能力は発現していないが、そもそもヤマトには、自分がスタンド使いであると明かしていない。スタンドという概念を理解できるかどうかすら分からないのに、ヤマトの警戒心を煽ったっていいことは無いからだ。
とは言え、ここ数日生活を共にして――というか、付きまとわれる中で――ひとつ感じることはあった。恐らく、ヤマトもスタンド使いだ。スタンド使いは引かれ合う。この街ではよくあることだ。トニオは本人には伝えず詮索もしなかったが、と一緒にいた時にも同じような雰囲気を感じ取っていたのである。
「相手の力量を測ることだってできマスから」
「これだよ。だから賢いヤツってのはつまんねーんだ」
この男、やはり危険だ。さすが、単身敵地に乗り込もうとするだけのことはありそう。ハッタリでもなんでもない。本気で狩るつもりだ。……できる事なら、ここでこの男が言っていた期限を引き延ばしたいところ。
しかし、トニオの思惑はすぐに打ち砕かれることになった。
「あーそうだ。明日、ちょうど店休日だろ? イタリアに行こうぜ」
「……!? ま、まだあなたが言っていた期限は先ではないですか!」
ヤマトは素っ頓狂な顔で、焦るトニオの顔をじっと見て言った。
「あのさ、守る訳ないじゃん。そんなの。油断させるために決まってんだろ。あっちだって嘘ついてんだ。これでやっとフェアになるくらいだぜ」
「嘘……? どういうことですか?」
「電話の向こうにがいたんだ」
「……!? 電話に出たのは、露伴センセイでは」
「そいつのそばにさ、確かにいた。あいつの息づかいが聞こえたんだ。……あいつ、あっちでだいぶ気ぃ抜いてるみてーだな。情けねぇ」
ヤマトはトニオが手がけたスパゲッティをフォークで巻き取りながら、異国の地で腑抜けきっているであろうのことを考えた。
結局、お前は最後まで気付かなかったな。お前が悪循環に陥ってるってことに。
教えてくれよ。どうして全てを――生きることを諦めたのか。俺には理解できないんだ。どうして俺の言うことを聞かなかったんだ。お前が落ちぶれるのを見てきた。何を期待していたんだ。
責めるなよ。警告したはずだ。お前が聞かなかっただけだ。苦しめばいい。そして自分を責め続けろ。
もう、終わりにしよう。
「美味かった。ごちそうさま」
ヤマトは律儀に手を合わせて言った。
「風呂借りるぜー」
「どうぞ」
いつの間にか同居人と化していたヤマト。勝手知ったる他人の家といったところか、彼は家主の返事を聞く前に風呂場へ向かいズケズケと部屋の奥へと進んでいく。その後ろ姿を見届けてトニオは皿を片付けながら固定電話の方を伺った。すると、まるでそれを察したかのようにヤマトが壁の向こうからひょっこりと顔を覗かせて釘を差した。
「あ、オレが風呂入ってる間、露伴センセーに電話なんかすんなよ。サプラ〜イズってやるんだからな」
「……わかりました」
ああ、どうか神様。さんを、露伴センセイをお守りください。
トニオはそう祈ることしか出来なかった。