できればえんじ色の布が欲しかったのだが、日本刀を収めるのに相応しい色と手触りのものがイタリアの市場で簡単に見つかるはずもなかった。は刀を包むものというよりも、ピアノの鍵盤の上に乗せておくカバーのような色のキルト生地を手に、縫物に勤しんでいた。
ホルマジオはビール瓶片手にテレビでサッカー中継を見ていて、メローネは感心しながらの手元をじっと見つめていた。
「前々から思っていたが……。君はディ・モールトいい嫁になれそうだ」
隣でぽつりと零された一言には耳を真っ赤にさせたが、メローネの発言に対する反応はそれだけで手元は狂わず、リズミカルに布地に波を立てては針で貫き糸を這わせ続けた。
「もちろん、オレの嫁だ。君は料理も上手いしな」
「あんたもね」
いつぞやの薬物混入事件を思い浮かべながら幾分かの皮肉を交え返してみたのだが、メローネは気づいているのかいないのか、はたまた完全に忘れ去ってしまっているのかただ聞こえていないだけか分からないように、感心した様子での手元をじっとみつめたままだった。
やりづらい。
至近距離で、ただただじっと手元を見つめられ、たまに何か口にしたかと思うと、嫁になるとかならないとか、そんな話をし始める。胸は早鐘を打って、喉が締め付けられたかのように息苦しい。その戸惑いを悟られぬよう、は一心不乱に手を動かした。そうして、30分たらずで裁縫を終えた。盗んだ刀を背にしてたすき掛けができるような巾着袋だ。
「君の刀は――スタンドじゃない、本物の刀ってのは――君にとって何なんだ」
唐突に、メローネは作品を誇らしげに掲げてご機嫌なに向かって訊ねた。は成果品を掲げた手を膝の上へ落とすと、そのまま空の袋を見つめて答えた。
「前も言ったでしょ。……ばっちゃんの形見だよ」
「その、ばっちゃんのことを、オレに教えてくれないか」
「……なんで」
「。君のことを知りたいんだ。いつか、その形見を取り返すために日本へ帰ってしまうであろう君のことを。それがどれだけ大事な物なのか。君の命をかけてでも、取り返す必要があるものなのか。その問いに対する君の答えはどうも、君の過去に――おばあさんの死因にあるように思えてならないんだ」
そう。確かに、メローネの言う通りだった。私はいつか日本に帰るだろう。それが一時的なことになるか、永久のことになるかは分からない。永久にここには戻らない――つまり、次に日本へ帰った時に死んでしまうかもしれないということだ。
ヤマトは強い。しかしそれ以上に鐵芯は強く、そして恐ろしかった。彼はこれまでの世界の全てであり、のすべてを彼は支配していた。目に見えぬ強大な底しれぬ力を彼は持っていた。彼はの前で力をふるうことはなかった――それはもっぱら、とヤマトの仕事だったからだ――ので、がそれを目にすることは無かったが、彼の気迫、殺気、その他もろもろの負の意識をそばにいるもの全てに根付かせる何かを、は感じ取らずには居られなかった。
は逆らえなかった。祖国から抜け出そうと決意するまで、彼の作り出す世界しか知らなかったからだ。しかし、はその世界をぶち壊し、無念を晴らすため、己が信念、正義のために仇を討つことに決め、今ここにいる。
そう決めたはずなのに、このメローネという男を前にすると、そんな信念が揺らいでしまう。そして初めて、死ぬのが怖いと、嫌だと、心の底から思うようになってしまった。
しかしあの刀は、私の命をかけてでも取り返す必要があるものだ。私の命そのもの。私が私である所以なのだ。
は今さら後に引き、逃げる訳にはいかなかった。例えこの国で何の成果も得られずとも――実際、そうなってしまいそうだ。むしろ、力を得るどころか目に見えない刀すら失くしてしまっている分、マイナスかもしれなかった――時が来れば確実に、私は祖国へ帰る。帰りたいか、帰りたくないかじゃない。帰らなければならないのだ。
何故そうなのか。これもまた、メローネの言う通りだ。
メローネになら、話してもいいかもしれない。話した所で私は心を変えたりはしない――日本へ帰ることをやめたりしないということだ――し、何も問題はない。彼もまた同じ穴のムジナだし、私の信念についてとやかく言って思いを遂げることを阻みはしないだろう。それにもう別れの時はすぐそこまで迫っているかもしれないから、彼が、そして私自身も、思い残すことがないように――。
「私を育ててくれたのは、ばっちゃんなんだ。両親は、私がまだ赤ん坊だった時に死んだって。それが本当かどうか知らないけど」
「事故か何かだったのか?」
「さあ、どうだろう。調べようが無いんだ。そもそも、ばっちゃんの言う事を疑いもしなかったというのもあるけれど……両親には、戸籍どころか国籍が無かったらしいから、いつどこでどんな風に死んだかなんて、記録のひとつも残って無い」
戸籍が無い。これがどれほど稀なことか、メローネには知る由も無かった。何と言っても、イタリアに戸籍制度はないからだ。世界的に見ても、家族単位でその構成がどうかを役所に届け出る国は珍しい。また、特異なことに、日本では戸籍を有することが日本人たる証明、つまり日本国籍を有する証明となる。イタリアでは、イタリア国籍を有する親から生まれた子は、日本で言う所の出生届を提出した時点で、イタリア国籍を持つことになる。
しかしながら、イタリア国籍を持たない不法移民は珍しくないし、彼らから生まれたどの国の国籍も持たない人間も存在し、そんな彼らがギャングの世界には山程いる。むしろ国籍が無いことは、様々な行政サービスを受けられないという代償と引き換えではあるものの、ギャングにはかなり重宝されるのだ。主に、鉄砲玉として。
メローネもまた、真の国籍を有さない人間のひとりだった。ただ、偽りの国籍であれば一応の用意はある。やはり、身元を証明するものを何かしら持っていないと、仕事に支障があるからだ。
「つまり、君もそうなのか」
は静かに頷いた。
「日本人としては、今時かなり珍しいらしいね。国籍制度だか戸籍制度だかの歴史はよく知らないけどさ。まあそもそも、国籍すらないから両親が日本人かどうかすら怪しいんだけどね」
メローネはの顔を改めてじっと見つめた。確かに、韓国人とか中国人と紹介されても疑わないかもしれない。正直な話、普段から見慣れない人種だと、国の違いによる顔貌の違いはよく分からないものだ。日本語を流暢にしゃべっているから日本に幼い頃からいるか、日本語の達者な大人の元で育ったのだろうということは想像がつくが、だからと言って日本人の血統を持つ両親から生まれたとはもちろん断言できない。今よくよく観察してみれば確かに、が東アジアのいずれかの国の出身であるということしか、顔からは判断できなかった。
「でも、君は紛れもなく日本人だと思うよ」
普段は物静かでしとやかで他者を慮り礼節を重んじる。優しくたおやかで、それでいて強く凛としている。という女を褒める言葉など、いくらでも湧いてきそうだった。そしてその言葉たちは、メローネが文献で学び知ったことでしかないけれど、どれも日本人女性の特性としてよく挙げられるようなものだった。ステレオタイプと言い捨ててしまえばそれまでだが、西欧諸国の人々との違いは確かに感じられた。
言われては嬉しそうに笑った。
「ありがとう。日本人らしく生きなさいって、ばっちゃんによく言われてた。だから、うれしい」
にとって、自分の血筋が本当に日本にあるか否かよりも、日本人らしくあるかどうかの方が重要だった。
「ばっちゃんは、血のつながったばっちゃんじゃないの。私は本当のお祖母ちゃんのように慕っていたけど、ばっちゃんには戸籍がちゃんとあったし、いつも私の隠れ蓑になってくれた。……ばっちゃんはね、道場の先生だったんだよ」
表向きは道場としている、ヤクザお抱えの暗殺者養成学校だった。自分たちに都合よく仕えさせる人間――身寄りの無い、無戸籍の子どもを育てるための道場だ。
元は大日本帝国陸軍の特務機関として派生した間諜養成機関だったと、にばっちゃんと慕われた故人――八尋しのぶは言った。第二次世界大戦が開戦するより前に、陸軍と、当時製薬や外国との商取引を生業としていた伊勢谷通商の出資によって設立されたそれは、表向きは生理化学の研究を行う機関だった。つまり、兵を訓練で鍛え養成するのではなく、医学的見地から兵の増強をしようという意図で設立されたのである。
しかし、第二次世界大戦の渦中、兵器による圧倒的な破壊行為を見聞した帝国陸軍は、化学、機械工学の発展による自国の繁栄すら牽引する大量破壊兵器の量産が、兵士ひとりひとりを強くするよりもはるかに効率良く国へ利益をもたらすことができると知る。そして、この機関の存在意義はすぐに薄れていき、いつしか諜報機関となり果てた。
そして、間諜という“卑怯”な汚れ仕事を担う機関――どの国も大抵、CIAやMI6、KGBなど、政府が諜報機関を所有しその存在を公表するが、日本には大日本帝国軍設立当初からそのような機関を表向きには設立してこなかった。これは日本人特有の“美徳”に関係するのかもしれない――へは、米国との対戦により疲弊し資金力の低下に悩まされ初めたころから徐々に金が回らなくなり、組織は消滅することとなった。
諜報員は皆、貧民街や田舎の家族から売られた子どもや孤児たちの内から育てられた。彼らを養い、間諜として育て上げることで生計を立てていた道場の師範を務めていたのが、八尋しのぶの父だった。
しのぶの父は、帝国陸軍から資金が届かなくなってからも、行く宛の無い子どもたちを養うことをやめなかった。しかし、とうとう資金繰りに困り果て、道場は閉鎖の一歩手前というところにまで至った。そこに目をつけたのが、伊勢谷會だった。
伊勢谷會はその潤沢な資金を与える代わりに、頭脳明晰で身体能力の高い暗殺者を道場で育てるよう提案した。はじめ、しのぶの父はこの提案を丁重に断った。ヤクザ連中が子どもたちに何をさせるつもりでいて、その末路がどうなるかまでを容易に想像できたからだ。それに、会合に出席し、しのぶの父と顔を向かい合わせたのはインテリを思わせる物腰柔らかな通商の人間だったというのもあり、難色を示すことはそれほど困難なことではなかった。すると通商の人間は、是非ともお考え直しくださいと告げておとなしく席を立った。
二度目は、そのインテリの口調が気持ち強くなった。先祖代々続く道場を畳み、幼い身寄りのない貧しい子供たちがこれからどんな人生を歩むことになるか、よく考えろと言い出した。それでもしのぶの父は難色を示した。すると今度は、その質のいいスーツを身に纏ったインテリが背後に、見える限りの肌に墨を入れた強面の大男を複数連れてやってきた。男たちの顔面には火傷跡や切り傷が散見され、その立ち居振舞いは明らかに堅気の人間のそれではなかった。
いずれこうなるだろうと予想はしていた。それでも折れるまいと、戦ってでも断ろうと最後の最後まで考えていたと、しのぶは父に聞いた。しかしそうなれば、子供たちの命運は当時まだ15歳だったしのぶひとりに託すことになってしまい、そのしのぶ本人にも危険が及ぶことになるだろう。ひとりひとりの力は自分らに及ばずとも、彼らは数で圧倒してくる。数の暴力から逃れるには、逃亡に費やすための莫大な資金が必要だ。しかし肝要の金が、自分たちにはびた一文残っていない。
しのぶの父は、一度ヤクザに目を付けられ弱みを握られようものなら二度と抜け出すことはならないと悟り、3度目になくなく伊勢谷會の要求を呑んだ。
父亡き後はしのぶが道場を継いで、暗殺者の養成を続けた。そうして、訓練を積んだ若き暗殺者達は、日本各地に蔓延る伊勢谷會の屋敷へと送られていった。
はその、最後のひとりだった。
15: Snakeskin
どこまでも紅い夕焼けの中、その血だまりは酷くドス黒かった。まるで畳にぽっかりと穴があいているように見えた。ばっちゃんは、その穴の真ん中で橋渡しするみたいにうつ伏せになって、ぴくりとも動かなかった。
「ばっちゃん……ばっちゃん!」
私は駆け寄って、肩を掴んで少し揺すってみた。すると、ほとんど虫の息だったけれど、ばっちゃんは反応を返してくれた。
「なん……しよるとね、。刀を持って……逃げんしゃいって……言ったやろう」
「やだよ、やだよばっちゃん! ばっちゃんを置いてなんて、行けないよ! ばっちゃん、今、今救急車呼ぶから!」
「いかん。はよう……逃げんね」
そう言うばっちゃんを置いて私は道場の廊下にまで急いで駆けて行って、玄関付近の電話台に乗った固定電話の受話器に掴みかかった。震える手で119と押す。けど、どこにもかからなかった。不思議に思って機器の後ろから伸びる電源コードを下へ向かって目で辿ると、もろとも電話線が途中で断ち切られていた。
私は救急箱を取り出して、ばっちゃんの元に戻った。人の殺し方と、自分が怪我をした時の対処法しか教わらなかったけど、それでも何もしないよりはいいだろう。なんとか一命を取り留めた後――その時は、何とかできるはずと信じて疑わなかった――近くの病院か、消防署にまで走って行けばいい。
「無駄よ」
ばっちゃんは言った。私がばっちゃんの手当てをしようと体に触れると、続けた。
「仰向けには……せんで」
「でもばっちゃん、このままじゃ……!」
「こんまま……静かに、死なせて……くれんね」
「やだよ、やだよばっちゃん……!」
「あんたは、ほんと……優しか……子よ。強く……生きて、いきんしゃい……。私がおらんでも……あんたは、だい……じょう――」
「……!? ばっちゃん、ばっちゃん!!」
握っていたばっちゃんの手からすっと力が抜けた。体をゆすっても、もう二度と返事をすることも、眉毛を動かすことも無かった。ただ、瞼は持ち上がったまま、どんどん侵食を続ける穴を見つめていた。
ばっちやんは死んだ。この後、まるでここがこうなっていることを知っていたみたいに、伊勢谷鐵芯が登場したのだった。
「邪魔するでー! しのぶのばあさん!」
玄関から声を張り上げて、あいつはズカズカと道場に上がり込んできた。私は泣き腫らした目で、鐵芯を睨みつけた。あいつは私に一瞥もくれずに、血の海に伏したばっちゃんを見て慌てた様子で言った。
「な、何や……これは!! おい、おまえ!! なんで……こんな、誰が、こんな酷い……、せや、せや救急車、呼ばな」
鐵芯は慌てて、さっきの私とほとんど同じルートを辿って固定電話のところにまで駆けていった。そして、私と同じように、電話線が切られていて使い物にならないことを知った鐵芯は戻ってきて続けた。
「おい、女! 人呼んでくる! おとなしゅうそこで待っとれよ!!」
こうして、救急車が意味も無く駆けつけて、死んだばっちゃんを病院へ運んでいった。その後のことは、よく覚えていない。いつの間にか私は鐵芯のそばにいるようになっていて、いつの間にかばっちゃんの葬式に立ち会っていた。――親族はいない。線香を上げたのは、私と、他数名。さみしい、さみしい葬式だった、
「この後私は、伊勢谷鐵芯から、どうやら自分の父親――伊勢谷虎徹がばっちゃんを誰かに殺させたらしいことを知らされた。そしてその父親っていうのが、日本で一番勢力を持つヤクザ一門の頭取であるらしいことも教えられた」
鐵芯は、今はまだ時期じゃないとか、おまえが仇を取れるよう取り計らってやるとか、そんなことを言ってを懐柔したのだ。自分の父親でしょう? と彼女が問えば、彼は自分の出自と命運を嘆きながら言ったのだった。自分もまた、父親を恨んでいるのだと。
「そして私は、鐵芯の元で“仕事”をしながら、あいつが副組長の座にまでつくのを手伝った。そしてやっと、あいつの父親に近付いて……やっとばっちゃんの仇を取れるって所にまで辿り着いた。長かったよ。その間、私は一時もばっちゃんのことを忘れなかった。ばっちゃんの仇を取ることしか考えられなかった」
こうして、悲願の復讐を遂げられるという所で、は胸に刃先を添えられた虎徹に聞かされたのだ。
八尋しのぶを殺したのは、彼の息子――伊勢谷鐵芯だと。