「“やーめたっ!”」
エツコは両手を上げて降参のポーズを取りながら、心底興ざめした様子で高らかに言い放った。鏡の中にいる男たちの視線がまたも彼女に集中する。イルーゾォとギアッチョのふたりには、エツコが何と言ったかまでは分からなかったが、ジェスチャーと表情から「あの女は、メローネとセックスすることを諦めたのだ」と解釈した。
「メローニさん。……いえ、メローネ? あなたが、私とする気が無いのは良くわかったわ。ここまで拒絶されても尚食い下がるなんて……ちょっと潔く無い。みっともないわよね。それに――」
エツコは腕を抱きかかえてどこか遠くを見つめながら言った。
「――リンクが切れてる」
「……人形とのか?」
「そう。そんな気がする」
イルーゾォの、浮世とは隔絶された死の世界に取り込まれた際、エツコと人形との間で感覚を共有するための、所謂“通信網”のような物が切れた、と彼女は言った。
「本当なら、私が満足しない限りリンクは切れないのよ。そして、ひとつの個体とのリンクを切らない限り、私は新たにリンクを形成できない。だから、これだけ躍起になってたの」
「だが、ここナポリにある人形との繋がりが切れたので、もうメローネに用は無いと……そういうことだな? もう、男ひとり巡って女と醜い争いは続けないと」
「ええ。もういいわ」
エツコはに歩み寄った。は手負いの獣のように、敵だった女を睨みつけた。
「“お互い、今回のことは綺麗サッパリ、水に流しましょう?”」
「“……もう、完全に諦めてくれたってことでいいの?”」
「“ええ。あなたがメローネに愛されていることも、あなたがメローネのことを大好きなのもよーく――”」
は至近距離で彼女を抱き締めた態勢のまま肩に手を添えていたメローネを突き飛ばし、エツコに真正面から向き直った。その顔は真っ赤に染まっていた。
「“べっ……別に、大好きとかじゃないから!”」
「“んふふ。その、分かりやすいところとってもカワイイわね。でも、男性にはたまに素直に甘えるといいわ。あと、シ方を教えて欲しかったら連絡して。いつでも相談に乗るわ”」
「“予定無いので結構です”」
メローネがものすごく残念そうな顔でを見つめている理由について、イルーゾォとギアッチョのふたりは知る由もなかった。とは言え、一件落着。――のはずが、エツコは無念やる方なしと頬をぷっくり膨らませて続けた。
「あーん、でもでも。せっかく遠路はるばるイタリアまで来たのに、収穫ゼロなんてつまんなーい」
「さくらんぼでも狩りに来たみたいな言い方だな」
「……イルーゾォてめぇ。そこでメローネでなく、このオレに目を向けるのは何故だッ!? オレが童貞だとでも思ってんのか!?」
「え、おまえ童貞だったのか? ならお姉さんにご指南いただけ」
「オレは童貞じゃあねーッ!!」
あ、そう言えば。イルーゾォは思い出した。お誂え向きといった男を、外にひとり待たせていることを。そして、鏡を探した。通りの左右を見渡しても、イルーゾォがホルマジオに持たせたでかい鏡は見当たらなかった。ホルマジオのヤツ勝手に動いていやがる、と舌打ちをしたが、冷静になってみれば、あのまま通りにひとり鏡を持って突っ立っていても目立つし皆も外に出し辛いと思いなおした。
あの男のことだから、通りから外れた薄暗い人目につかないところで、エツコが鏡の中から出てくるのを、鼻の下を――というか、ナニを伸ばして待っているに違いない。
イルーゾォはホルマジオが行きそうな路地に入り込むと、30メートルほど先の暗がり――不法投棄されたような木箱が数個積み重なって出来た物陰――に、鏡が置いてあるのを認めた。思ったとおり。そして、落ち着きを取り戻した皆をそこまで呼び寄せて言った。
「マン・イン・ザ・ミラー。ここにいる全員が、鏡の中から出ることを許可しろ」
こうして、鏡の中の世界に囚われていた者達は、現世へと帰還を果たしたのである。皆が鏡の中から出てくるのを見るなり、ホルマジオは怒り心頭にイルーゾォに掴みかかった。
「おいこらイルーゾォてめぇ、よくもオレを置いてけぼりにしやがったな! めちゃくちゃ暇だったじゃあねーか!!」
イルーゾォは面倒そうに横へと目を流す。
「しょうがねぇだろ。ちょうどおまえが、全員の姿が鏡に映るとこにいたんだ」
イルーゾォが引きずり込もうとする鏡に引きずり込もうとする人間の姿が映っていないといけないという仕様のおかげで、鏡は立てて置かなければならず、ホルマジオはひとり取り残されることになったのだ。最初からスタンド付きの鏡を買っておけと、こんな目に遭って初めてホルマジオは思った。
「人をフレームスタンド代わりにしやがってこの――」
「ああ、ほら。おまえとヤりてぇって女がそこにいるから、鬱憤はそれで発散しろ」
「え、マジマジ? なにそれなにどこ誰なに?」
イルーゾォはエツコを指差した。目が合った途端にふたりは意気投合したようで、瞬く間に身を寄せ合って通りへと向かい歩いていった。そしてエツコは、まばゆいばかりの笑顔を後ろのみなへ向けて手を振った。
「チャオチャオ〜! またどこかでお会いできるのを、楽しみにしてるわ〜!」
手を振り返すのはイルーゾォとメローネだけだった。
「こんの歩く18禁オンナッ!! もう二度と会いたかねぇってんだよ!! さっさと祖国へ帰りやがれビーーーーッチ!!!」
ギアッチョは高らかに中指を突き立て応答した。
「と、言うわけで、ホルマジオ以外は皆帰ってきたってわけだ」
「……浅ましい」
プロシュートは嫌悪感に眉根を寄せて言った。
「それはそうと、のやつはどうしたんだ。ひどく元気が無さそうだったが」
はアジトへ戻るなりメローネの部屋へと向かった。プロシュートは、メローネが項垂れたの背を押すようにしてリビングから出ていくのを、ついさっき見送ったばかりだった。
「宝物を失くしたって」
「宝物……。あいつのカタナか」
戻ってきたは、いつも肌身離さず携えていた日本刀を持っていなかった。いつだったか、がつたないイタリア語で、あの刀について一生懸命伝えようとしていたのを、プロシュートは思い出した。
あれは、が亡くなった祖母から受け継いだ、伝家の宝刀だ。
――いや、ヤクザに殺された祖母から受け継いだ形見なのだ。
08:The Ghost That's Haunting You
はメローネのベッドの上で膝を抱え、ふさぎ込んでいた。
「ごめん。メローネ」
「どうしたんです。突然」
は、鏡の中の世界から元の世界に戻るなり、通りに出て取り乱しながら探しものを探した。彼女は鏡の中の世界にいた時と同じようにあたりを一通り探し回り、喫茶店の店員や通りすがりの一般人にまで、刀みたいなものを見なかったか、そのような物を拾っていった者を見なかったかなど、たどたどしいイタリア語で訊ねてまわった。しかし、皆一様に首を横に振るばかりで、は探しものを見つけ出すことが出来なかった。そして、最後にメローネに当たり散らしたのだった。
「私、元に戻ればあるって言ったじゃないって……あんたに八つ当たりしたじゃない。ごめん」
「いや……。君に落ち着いて欲しくて、それだけで言ってしまったでまかせの言葉でしたから、怒って当然デスよ」
珍しくしおらしく、そしてひどく悲しそうな顔をしているを前に、メローネは戸惑っていた。彼女の過去を良く知らないし、あの日本刀がどれだけ大切なものかを聞かずにここまできてしまったので、慰めようにも白々しくなってしまいそうで嫌だった。ならば、問題解決の糸口になるような話をしなければと思い至った。今ここには、実に珍しく、真摯なことを思っているメローネがいた。
「失くしたと気付いたのは、鏡の中の世界に引きずり込まれた時ですか」
「……正直、あのオンナ――エツコと戦りあっている時のこと、よく覚えていないの。だから、そう……初めて自覚したのは、そうよ。その時なの。……我に返ったというか」
メローネは、がよく覚えていないと言った間の一部始終を見ている。そして、彼はの持っていた日本刀についてある“仮説”を立てていた。それは、には恐らく自覚の無いことだ。
「。スタンドというものを知っていマスか」
「スタンド……?」
「エツコさんの体と……あなたの体に纏わりついていた、人間ではないもののことです。あれを、私達はスタンドと呼んでいマス」
メローネは、ガンズ・アンド・ローゼズがの体に纏わりついていた、あの光景を思い出しただけで鼻根のあたりと男根のあたりが熱くなった。だが、今はその時では無い、いい加減にしろと、内心必死に自分を抑えていた。
「スタンド……。あの、幽霊みたいなのをそう言うのね。あれ、一体何なの」
「一部の限られた人間にだけ、見えたり、発現したりする……特殊能力を持つ……術者の魂が具現化したみたいなものです。今はまだ詳しく言えませんが、ここのアジトにいる皆、その能力を持っていマス。一部の限られた人間でなければ、見ることも、それに攻撃することもできない。つまりです、」
メローネはの手を取った。牙を失くし、気勢が殺がれているとあって、彼のボディタッチに躊躇いがなくなっている。もで、彼の手を振りほどこうとはしなかった。彼女は、いつになく真剣な眼差しで見つめてくるメローネの顔をじっと見つめ返した。
「あなたもまた、スタンド使いなのかもしれナイ。あの刀が――」
スタンドなのだ。だから、この国の一般人には、日本刀の姿が見えずに騒がれもしなかった。そして、能力者しかいないアジトでは、皆が実物とほとんど変わらないであろう刀の姿を見ていたから、それがスタンドだとは夢にも思わなかった。実際にそれが、戦闘の場で使われるまでは。
メローネは見ていた。エツコに斬りかかったのもつ日本刀の刃がぐにゃりと柔らかく変性した後、刀身をエツコの喉元に突っ込んだまさにその時、刃が元の姿に戻っているのを、確かに。の刀が、もしかするとスタンドなのではないかと仮説を立てたのもその時だった。
総じて、あれが本物の日本刀であるはずが無い。
はメローネから目をそらし、窓の外を見やった。眉根を寄せ、何か記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……声が……そうよ。声が、したの。あれが、そうだったのかな……」
「その声は、何と言っていたんですか」
「トリヴィアムって……言ってた。それが名前だって。おまえが望めば……何度でも蘇るって」
「何度でも、蘇る……ですか」
もしかすると、最初にエツコの横っ面に降り掛かった銀色の横殴りの雨も、のスタンドが形を変えたものだったのかもしれない。あの場でエツコに敵意をむき出しにしていたのは、だけだった。何度でも蘇るという、内なる声の言ったことが本当なら、その直後にが日本刀を手にしていたことにも合点がいく。
「なら――」
望めばいい。メローネはそう言おうとした。けれど、は希望よりも絶望の色を濃く顔に浮かべていたので、言えなかった。
「――いつ? いつなの?」
はメローネの手を振り払い、頭を抱えた。
「私は、いつから……そうしていたの?」
「?」
「私はいつ、本物を手放したの!?」
メローネは、きっと、日本であの木箱に入った時からそうなのだろうと思った。ほとんど寝ないようにして、彼女はスタンドの姿を保ち続けていたのだ。
「私、日本に……残してきたってこと……?」
途端、はベッドから飛び降り、部屋の出口めがけて駆け出そうとした。メローネはとっさに、彼女の腕を掴んで引き止めた。
「。冷静になって下さい」
「でも、でも私、行かなきゃ。取り返さなきゃ……!」
「取り返さなきゃって……どこにあるか見当がついてるみたいな言い方だ。それは誰ですか。……あなたを追う連中でしょう?」
「っ、そうだよ。そうとしか……」
は床に目を落とし、唇を噛んだ。メローネはの腕を引き、そっと抱いた。その体は小刻みに震えていた。
こんなに弱々しいを見るのは初めてだ。こんなに、彼女の熱を、鼓動を、近くで感じたのも……。
メローネは場違いにこみ上げる喜びをしずめるように深呼吸をする。の香りで、肺が満たされる。手放したくない。ひとりにしていたくない。心から、メローネはそう思った。
「なら、まず力を取り戻しましょう。このまま行ってしまったら、何も果たせないままになってしまいマスよ。あなたが日本に戻る時は、私も一緒です。でも、まだその時ではない」
「……メローネ」
はメローネの胸板にこめかみを押し付け、しがみつくようにして言った。
「ありがとう」
その夜、は眠った。ひどく疲れた様子で、メローネの前にその操を放りだした。けれどメローネは、沸き起こる劣情にまかせて彼女の眠りを妨げようとはしなかった。今が、心を許して、安心しきって、自分の前で眠ろうとしているのはまさに信頼の証だと思った。その喜びが、充足感や幸福感が、メローネを満ち足りた気分にさせていたからだ。
それにしても、今までずっと、気を張っていたなんて……。可哀想に。
「ブォナノッテ」
絹のように滑らかで、しっとりとしたやわらかなの髪を撫でながらメローネが言った言葉を、彼女はうつらうつらのうちに聞いた。ひどく優しく、慈しみに満ちた声に満ち足りた気分になって、そのまま深い、深い眠りに落ちていった。
それからほとんど丸1日と半日、は眠りから目覚めなかった。が眠り始めてから2回目の夜を迎えた時、さすがにメローネの我慢が続かず、彼が寝る時になってを後ろから抱くようにして眠ってしまった。そうしてもは目覚めなかったので、メローネは心ゆくまで彼女の香りを、軟らかさを堪能して――反対に、彼の息子は固くなっていたのだが、それをどうこうする前に――深い眠りに落ちた。
翌朝、メローネは微睡みの内に、目覚めたによって自分のベッドから蹴り落とされたのだった。