毒を盛るという犯罪行為の前にも、破廉恥極まりない言葉を無知な日本人に教え込もうとした罪があるので、メローネがからこっ酷いお仕置きをくらうのは当然のことだ。とは言ったものの、女に頬をひっぱたかれて勃起するような変態をどうすれば悔やませられるのかは判然としない。
が、その点、は心得ていた。
まず、メローネが朝目を覚ますと、いつもいるはずの場所にがいなかった。前述の二件の裏切り行為が懲罰に値するということくらいは彼も分かっていたので、目覚めた当初彼は本気でが怒ってアジトを飛び出してしまったのだと思ってひどい喪失感にみまわれた。しかし、彼女の決意に燃えたような、信念を貫かんとする揺るぎ無い意志を湛えた目を見たので、次第に、まさか彼女がそんなことをするはずがないと思い始めた。
不安に高鳴る心臓を落ち着けると、彼は着替えを済ませて階下へと向かった。そしてリビングへ繋がる扉を開く。開いた扉の向こうに見えたのは、恐らく朝帰りをしたらしいホルマジオと、定位置に座る――小憎たらしい格好ですまし顔をキめこんだ――プロシュート、物珍しそうに日本人女性をジロジロ見ているイルーゾォ、その三人に前方と左右を固められているの姿だった。
メローネは目を剥いて立ち尽くしていた。ホルマジオの腕がの背後にまわされている。恐らく、の身体にあのスケコマシの身体の一部は触れてはいないが、もう少しで触れるか触れないかといったところにあることは遠目にも分かったし、それが、ホルマジオが多分に下心を胸に抱いた結果であることも分かった。
あの、身体にそれ専用の穴があれば相手は誰だって構わないとばかりに夜毎相手を変えセックスに耽る変態坊主が汚らわしいその手で、あろうことかの一切の穢れ無き美しい身体に触れ、今まさにけがそうとしているのだ! 何故プロシュートは、オレがに言葉を教えることは止めるのに、ホルマジオが今にもに触りたくてたまらなそうにしているのをそばで見ていながら止めないのか!? 極めつけに、の目の前にはイルーゾォがいて、品定めでもするように目を細め、彼女を上から下まで舐るように睨めつけている。なんて高慢で失礼なヤツなんだ。きっと今に、あいつはに吠え面をかかされることになるに違いない!
はその三人に囲まれながら雑誌――メローネが用意した教材の内のどれでもないもの――を開いていて、コーヒーテーブルの上には伊日辞典を置いていた。が、辞書を引くより聞いたほうが早いと、隣のホルマジオに簡単な単語に置き換えて教えてもらっていた。ホルマジオは人好きのする笑顔を浮かべながら、親身になっての要求に応えていた。がグラッチェと百点満点の笑顔で言うと、ホルマジオの頬も緩む。イルーゾォはその様子を面白くなさそうに眺めながら、ホルマジオの教え方は下手くそだとか文句を言っていた。
そうしている間に、はリビングの戸口で立ち尽くしていたメローネの姿を認めた。目があった。メローネは、裏切られた! と絶望したような顔でいた。はすぐに視線を手元の雑誌に戻す。そして、週刊誌のちょっとオトナ向けらしきコラムから単語を抜き出して、ホルマジオにたずねる。それだけならまだしも、彼女は猫が人間に甘えるときのようにしなやかな動きでホルマジオに身を寄せ、上目遣いに彼を見上げた。
こんなことをされたら、身体にそれ専用の穴があれば相手は誰だって構わないとばかりに夜毎相手を変えセックスに耽るホルマジオはその気になってしまっているはずだ。とメローネは思ったが、案外ホルマジオは慣れているというか、何というか、自制を効かせて辛抱強くやっていた。隣でプロシュートの目が光ってはいたものの、おかげでお咎めは無し。イルーゾォは何故か顔を赤くしてあたふたしていた。そしてメローネはというと、今にも憤死しそうに顔を赤くしてその場にうずくまり、頭を掻きむしっていた。
ホルマジオはいやらしいニヤケ顔を浮かべながら簡単な単語を組み合わせて説明を試みると、彼に簡単だとされた単語の中にも意味が分からないものがあった、とはさらに彼に身を寄せた。そんなの甘えたような声を、メローネは今まで一度も聞いたことは無かった。 もしも自分がに誘惑するような声で身を寄せられたらと思うと、それだけで息子の抑えが効かなくなるだろう、というか遠くで聞いていただけなのに既に股間が熱く固くなり始めているのが分かって、彼は立ち上がれずにいた。
ああ、なんてひどい責苦だッ!
だが、の挑戦はこれだけでは止まなかった。このようにしてメローネを午前中ずっと除け者にしていたかと思えば、は外出がしたいと言い出した。当然、メローネに向かってではない。あろうことか、最も危険な男――諸説あるが――ホルマジオが、何か欲しいもんでもあんのか? と尋ねると、は首を横に振る。観光がしたいと、メローネが序盤で教えた、教科書に載っているような例文をそのまま言った。途端に、ホルマジオは鼻の下を伸ばして快諾するのだが、これにはメローネだけでなく、プロシュートやイルーゾォも難色を示した。
「おい、女。そいつについていくとロクなことにならねーぞ」
と、イルーゾォ。
「。イルーゾォの言う通りだ。止めておけ。外に放り出したホルマジオなんか、メローネと大差ねーぞ」
と、プロシュート。
「いや、メローネと大差ねーはひどくね?」
と、ホルマジオ。男たちが揉めだしたので、はカタコトのイタリア語で言った。
「大丈夫デス。ホルマジオさん、悪い人じゃナイ。私、それ分かる」
このアジトにいるのは皆がギャングで暗殺者なので、ホルマジオも当然悪い人じゃないワケが無い。だが、人間とは大抵、物事を自分の都合のいいように受け取るものだ。ホルマジオは感激したように目を潤ませた。
「。おまえ……なんていい子なんだッ」
そして大きく両腕を開いて抱きつこうとするのをは華麗に避けた。ホルマジオは何事もなかったかのように体勢を元に戻すと、一息ついて言った。
「お兄さん頑張るからな。どこへでも好きなところへ連れて行ってやるぜッ」
「だが、足はどうする。ギアッチョにでも頼むのか?」
「はァ? ギアッチョの車なんか触らねーよ。恐ろしい。それにギアッチョ怒らせたらが怖がるだろ。な? 怖いよな?」
「うん。ちょっと怖いデス。ギアッチョさん、怒るの怖い」
別に怖くなんかない、と内心思っていただったが、ここは守ってやるべきか弱い女のコだと思わせるのが得策だと考えた。
「だろ? だからよ、車なんかその辺で盗みゃいい。さ、。行こうぜ。手始めにヌオーヴォ城にでも連れて行ってやんよ」
「ありがとうございマス!」
メローネはやっと股間が落ち着いてきたところで、これ以上は我慢ならん――というか、マジでプロシュートとイルーゾォがホルマジオを止めない意味が分からねぇーッ!!――と息巻いて立ち上がった。そして、手を愛しのに伸ばしながら言った。
「ァァァァァァァァァァ、オレも行くよ! オレも行くッ! 行くんだよーーーッ!!」
「“私のそばに近寄るなああーッ”」
日本語で突き放される。メローネはに顔面を足蹴にされ――彼が女にそうされている姿には誰も違和感を覚えなかったし、メローネがにやったことをその場にいた皆が知っていたので、そうされて然るべきであるというのはが満場一致の意見(メローネは除く)であった――誰にもフォローされることもない。もはや取り付く島も無しだ。とうとうは、憎き女たらしのホルマジオと共に、玄関扉の向こう側へと姿を消した。
このようにして、によるメローネへの折檻は行われ、メローネの心はズタボロになった。だが、これで終わりではない。メローネはこれからがアジトへ帰るまでの、地獄にいるかのような長い長い時間、あることないことを勝手に妄想しながら待つことになるのだ。しかも、明日も明後日もこんな調子で地獄は延々と続くのかもしれない。
「ヌアああぁぁぁぁぁあああッッッ!!」
「やかましいぞ、メローネッ!!」
プロシュートが新聞の影から顔を出して言った。
「なあ、メローネよォ。おまえがに嫌われるのはトーゼンなんだ。諦めろよ」
イルーゾォが何か勝ち誇ったような顔で言った。メローネは喚き散らした。
「おまえら、何だ!? はオレと一緒にいるより、ホルマジオと一緒にいたほうが何万倍も危険だッ! 何故止めなかった!?」
「いや、少なくともホルマジオは、好きな女に毒を盛るようなサイコではねぇよ」
「おい、オレが盛ったのは毒じゃあねー! 睡眠薬だッ」
「毒も薬も似たようなもんだろ」
「ああ、心配だッ心配だァァアアア」
「やかましいっつってんだぜ! 待てと言われたなら待てッ!」
正確に言うと、待て、ではなく、近寄るな、だ。つまりは別にオレに待っていてほしいなど少しも思っていない。金輪際かどうかはわからない。ほとぼりが冷めるまでかどうかも不明だが、とにかく汚らわしいから近寄るな、と言われたのだッ!
メローネの頬を一筋の涙が伝う。正直、だからと言って看過されるべき男ではないのだが、プロシュートはメローネの表情から異常を察知し、意図せず慰めのような言葉を吐いてしまう。
「まァ、そうカリカリすんな。……は、そう簡単にホルマジオに食われちまうような女じゃあねー。……そんな気がする」
「気がするだってェ!? 気がァ!?」
「には、何か強い意志を感じるんだ。見た目は可愛らしいが、どこか芯の所に――」
その時だった。ブザー音がリビングに響き渡った。
ちなみに、暗殺者チームのアジトの玄関ブザーが鳴るのはかなり珍しいことだ。誰かがネット通販で何かを購入したときか、誰かに贈り物を送りつけられたときくらい。そしてがここに届けられてから今までに鳴ったことはない。
プロシュートは眉根を寄せ、玄関の方を睨みつける。イルーゾォはメローネを顎で使う。メローネは腕で涙を拭いながら、素直に部屋の外――廊下の突き当りにある玄関へと向かった。
チェーンを掛けたまま扉を少し開き、メローネは顔をのぞかせた。すると、来訪者はその隙間を覗き込んできた。メローネはドキッとしてとっさに後ずさった。
「あの、スミマセン。ここに、ミケランジェロ・メローニって人、いらっしゃいマスか?」
女だった。そしてミケランジェロ・メローニとは、メローネの偽名だった。主に、通販サイトで買い物をするときに使う。
メローネはチェーンを外して扉を大きく開いた。何故そんなに迂闊なことをしたのか? それは、扉の向こうにいるのが、いい匂いのするお姉さんだったからだ。
峰不二子みたいな、いい女だったからだ。
05:DARE
「つかぬ事を聞くがよォ……ちゃん。それ、持ってなきゃダメか?」
ホルマジオはアジトを出てすぐ、が背負う刀を指差して言った。何か並々ならぬオーラを纏うそれが気になって仕方がなかった。殺人集団の憩うアジトのリビングでならまだしも、一般のイタリア人や世界各国からやって来た観光客が多く行き交う雑踏の中で背負っておくべきものではない。確かに、この国は日本よりかなり治安は悪いだろうから、護身用に掲げていれば変な輩は寄り付かないだろうが……。
「これ、肌身離さず、持っていたいのデス。それに、今までも何度か、このままお買い物行きまシタ」
「マジで!?」
「マジです」
「何も無かったのか? た、例えば、周りの人間に悲鳴を上げて逃げられるとか、おまわりさんに呼び止められるとか、興奮した観光客に呼び止められて写真を一緒に撮るように要求されたりとか」
身振り手振り、に伝わるように一生懸命問いかける。するとはホルマジオの顔を見上げて首を横に振った。
「そうか、なら……大丈夫、か?」
どうしても人目が気になるとなれば、その時に車のトランクにでも入れておいてくれと頼めばいい。ホルマジオはそう思い至った。
それにしても、こんなに禍々しいオーラを纏う刀をどうして無視できようか。これを目にして逃げもしないなんて、あまりにも身の危険に無頓着すぎるんじゃないか。……いやまさか、そんなはずは――
ホルマジオはそうやってひとり悶々と考えた。何故、が背負う日本刀が――どう頑張ってもイタリアでは目立ってしょうがないそれが――もっと言えば、廃刀令が発布されて百二十余年が経った今のご時世、日本刀生誕の地である日本ですら、それを所持して散歩でもしようものなら頭のおかしいヤツがいると通報されるだろう。そして現場に急行してきたおまわりさんにとっつかまり、銃刀法違反で二年以下の懲役、または30万円以下の罰金が科せられることになるだろう。ということを、ホルマジオは知らないが――人の目に留まりすらしないのかを考えた。目に留まっていれば、イタリア人なら絶対に逃げるか、逆に物珍しさに近寄ってくるはずだという直感があったので、そう考えていた。
考えている内に、彼は息をするように通行人のポケットから車のキーをスリ取って、その人がつい先ほどまで乗っていた車に乗り込んだ。あまりに鮮やかなホルマジオのテクニックには息を吞み目をまん丸にして、車の傍から運転席に座り手招きをするお兄さんを凝視した。
「ほら、ちゃん。早く早く」
呼ばれてはっとすると、は車へ乗り込んだ。
道中、ホルマジオは案外真面目に観光案内をしていた。真面目に、と言うよりも、場慣れしていると言った方がいいかもしれない。自分が運転する車の助手席に女を乗せるなんて日常茶飯事で、会話をして女性を楽しませるのは苦では無いというか、自分自身が本気で楽しんでいるような感じだ。
あまりものを素直に受け取れないには、ホルマジオのそんな態度が少しだけ気に食わなかった。可愛らしい笑顔を浮かべて拙いイタリア語で言葉を返しながらも、相手が女性なら皆にこうなんだろうな、というように、どこか冷めた思いを抱いていた。こういう飄々とした男は日本にもいたし、そういう男の下心は透けて見えた。そいつが自分に手を出して来ようものなら、鉄拳を食らわせてやった。だがホルマジオは、それほど浅はかな感じはしなかった。場数を踏んだ暗殺者の冷静さというものがあるのだろうか。自分と“同類”の彼ら暗殺者チームの皆には親近感が湧いていたし、気に食わないながらもホルマジオの優しさや紳士らしさには感謝していた。
ホルマジオは手始めにサンタ・ルチアへと向かった。卵城、ヌオーヴォ城など鉄板コースを歩いた後軽くランチを済ませると、今度はウンベルト一世のガッレリアへ行き建築美を堪能しながら食べ歩き、夕方を迎えた頃にはポジリポの丘からナポリ湾を一望して、ふたりは帰ることにした。
ナポリ観光の間、はホルマジオに幾度も腰のあたりに手を添えられ、手を引かれ、立派なエスコートを受けていた。まったくいやらしい感じは無いのだが、体に触れられることに拒絶反応を見せてしまうだ。不審に思われないようにするにはある程度の自制が必要だった。イタリアの男と言うのはきっと皆がこうで、何の躊躇いもなく気軽に女性の体に触れるのだろう。と思うことにした。心頭滅却すれば火もまた涼し、という臨済宗の禅僧が言い伝えた言葉を頭の中で何度も繰り返した。ああ。トニオ。何気なく私の体に触れてきたあなたを幾度しばいたことか。ごめんなさい、トニオ。私はあの時、イタリア男と言うものを知らなかったのです。私は我慢を覚えるべきでした。
そんなこんなで何とか無事にホルマジオとの観光を終えて帰路についたわけだ。ホルマジオは、盗んだところから一ブロック離れた所で車を乗り捨てた。そして、をまたエスコートしながらアジトへ帰ろうとした。が、は頑として動かなかった。
「ん? どうした、ちゃん」
「あれ、誰……?」
が指さした先は、通りに面したカフェだった。ホルマジオはカフェのテラス席に、見慣れた頭髪を頂いた男の後姿を認めた。その向かいには美女が――イタリア人では無い。中国か、韓国か、はたまた日本人とか、その辺りの顔つきに見えた――いた。が指さしているのは、女の方だ。彼女にはすぐに分かった。
メローネが、他の女とデートをしている。私というものがありながら!
ホルマジオは、あまりの怒りに我を忘れそうになっているを、落ち着けと宥める必要があった。
「“なんなの、あのオンナっ!! 人の男に、色目使いやがって!!”」
自分はホルマジオとデート紛いなことをしていながら、メローネが他の女とふたりきりでいるのは許せない。女は大抵、浮気をした男ではなく、その相手の方に怒りを向けるものだ。の怒りは、メローネの向かいに座る女が艶めかしい目つきでじっとメローネを見つめながら、彼の手の甲を人差し指で撫でた時、沸点に至った。
「な、何が――」
ホルマジオは“身の危険”を感じて後ろへ飛び退き、から距離を取った。が背中に掛けていた日本刀――結局が言った通り、観光中に何も問題が起きなかったため、車のトランクに仕舞うこともなかったそれ――が震えだしていた。カタカタと音を立てるそれは次の瞬間、真上から強力な磁力で持ち上げられたようにふわりと浮かび上がった。リゾットがメタリカで作り上げた鋭利な金属を宙に浮かせた時に近い挙動だ。肩掛け用の帯はいつの間にか消失していて、浮かび上がった日本刀は幾千もの針――細く長い銀色の金属――に姿を変えた。幾千もの鋭利な先端は、メローネの向かいに座る女に向いている。
「お、おいちゃん、何を――」
殺意。紛れもない殺意だ。ホルマジオはから放たれるそれをはっきりと感知した。だから、中空に浮かぶ何千もの針のような物が、どこに向かおうとしているのかをはっきりと理解できた。それに聞かずとも、が今やろうとしていることが何かもよく分かった。けれど情けないことに、彼は「何をするんだ」と声掛けを完了させる暇すら与えられずに、針がすごいスピードで見知らぬ美女に向かって飛んで行くところを傍観するしかなかったのである。