暗殺者チームの日常はすぐに戻ってきた。そして今のところ、を追うヤクザなんかがアジトにカチコんでくるなどという珍事もなく、平穏無事な日々が続いている。
ところで、夜型の生活を送っている彼らは昼過ぎ頃にのろのろ起き出す者が大半だったが、プロシュートは違った。彼だけは――仕事がなければ――、毎朝きっかり七時までには起き、七時半までにはリビングにいて、その時すでにスーツを着て髪をセットするという行動は終わっている。そして近頃は、彼のそのきっかりさに拍車がかかっていた。
プロシュートの記憶によれば、がこのアジトに送られてくる前までのメローネの生活リズムは、日によって昼とか夕方とか、気まぐれに早朝などに寝床から抜け出すというめちゃくちゃなもののはずだった。しかし、それはあの可憐な日本人女性が来た途端に一変した。ふたりは毎朝八時までには必ず一緒にリビングに降りてきて、メローネはに朝食をふるまい、コーヒーを淹れるなどしたあと、イタリア語講座を開くのだ。しかも、みっちり三時間だ。どこからかっぱらってきたのか、絶対にうちに前から無かっただろうという代物――伊日辞典、ノート、鉛筆、消しゴムなどなど――をダイニングテーブルの上に並べて。
プロシュートは新聞や雑誌を読みながら、ふたりのイタリア語口座に耳を傾けていたのだが、時折彼はメローネの視線を感じることがあった。どこか鬱陶しそうにチラチラとこちらを伺ってくるのだ。ああチクショウ、今日もいやがる。とでも言いたそうな顔で。そうと気づいたとき、プロシュートは察した。何故奴がめちゃくちゃな生活リズムを改め、朝しっかり起きるようになったのかについて。
この時間は他のチームメイトがリビングにいる可能性が最も低いからだ。奴は皆の目の届かないところで、イタリア語が分からないを自分のいいように教育し、自分のいいように育てあげ、自分が気持ちよくなるための言葉を吐かせるべく教育しているのだ。
言語とは自己表現の基盤だ。周りの人間が使うのと同じ言語で適宜適切に言葉を選びながら、現況や心境、動機の言語化が出来なければ他者と意思疎通は図れず自由に生きてはいけない。コミュニティを持つためというのは言わずもがな、己のキャラクターを形成し、コミュニティからの恩恵を受けるためにも言語――コミュニティと交わるための言語――とは必要不可欠なものなのだ。
という女のあるがままをあるがままに正確に表現するため、あるいは時に偽言をもってして巧みに他人を意のままに動かしたりするためにも、要は生きやすさを追求するのであれば、言語には明るい方がいいのは言うまでもない。人は一人では生きていけないし、人は人を一人では生かしてくれない。それが何故かについて考えたことは無かったが、プロシュートはたった今悟った。誰にも迷惑をかけず、誰にも何も教わらず、誰とも愛を交わさずに今生を生き抜ける完璧な存在など、神はつくらないからなのだ。完璧な存在として許されるのは神だけ。
無論、メローネは完璧とは程遠い社会不適合者である。生命を貶める代わりに生命――のようなもの――を生み出せるからと言って、彼は創造主ではない。もっと言えば、生み出したものを“教育”できるからと言って、彼は教育者になれる程のモラルを持ってはいない。仮にそうなれるだけの知性を有していたとしても、それを利己的に使うことしか考えない正真正銘の悪であることをプロシュートは知っている。不幸なことにはそのことを知らないだろうし、教えてやれるほど日本語に達者なのは呪わしいことにメローネだけときている。
そして今、の肝心な基盤が、そのメローネによってつくられようとしているのだ! プロシュートはぞっとした。誰かがきちんと監督していないと、メローネ専用の痴女に仕立て上げられかねない!
そういうわけでプロシュートはここのところ、新聞や雑誌を広げて視界は閉ざし、さも興味が無いようなふりをしながら、メローネやの発する言葉に聞き耳を立てていた。そうするために彼は、なるべく用事の無い日のせめて午前中、他の誰かがリビングへ下りてくるまではそこにいるようにしていたのだった。
そして、が来てから三週間ほどが経った頃、いよいよ恐れていた事態が発生した。
「さあ、。イタリア語で、愛してるって言いたいとき、何というか教えてあげます。あとに続いて言ってくだサイ」
メローネが発した愛してる、という日本語くらいはプロシュートにも分かった。そして、日常会話を少し逸脱し始めた。と、彼は思った。今までは、買い物に行ったときとか、バスに乗るときとか、道をたずねる時とか、旅行客が使うことになるであろう初歩的な例文を、みっちりとやっていたのだ。おかげでか、が覚えがいいからなのかは分からないが、最近はひとりで言葉少なに買い物に行くくらいはできるようになったと評判だった。まあ、大人なら買い物なんか喋らなくてもできるが。
「それくらい知ってるよ。ミ・アモーレでしょ」
「ん、何かちょと違うな。“ミオ・アモーレ”とは言いますが、愛してマスじゃない。愛する人、とかそんな意味ですそれ」
「なんでもいいよ。そもそも、愛してるとか言わないから、私」
何か日本語でごねあっている。プロシュートはソワソワしながら会話に聞き入っていた。どうやら、あのメローネが愛について何か講釈を垂れるつもりでいるらしい。愛について理解していない男全イタリア代表みたいな男が愛についての言葉を教えようとしているのだ! 日本語の部分はほとんど何を言っているのかわからなかったが、それでも聞かずにはいられなかった。嫌な予感しかしないのだ。
「いいからいいから。この文法を覚えれば、どんな要望を伝えるときにも応用できるんデスから」
「よ、要望?? 愛してるって、この国では要望の形でしか表現できないの? ……何かすごい他意を感じるんだけど」
「他意なんてありまセンよ。さあ、あとに続いて! “あなたと”」
「“あなたと”」
「“体液を”」
「“体液を”」
「“交換したい”」
「“交か――」
「“おいちょっと待てメローネ”」
プロシュートは手に持っていた雑誌をローテーブルの上に叩きつけると、勢い良くソファーから立ち上がり、早歩きでダイニングテーブルに向っていった。は目を丸くして、すごい気迫で距離を詰めてきた金髪碧眼のモデルのような男を見上げる。
「チッ」
「おい、今舌打ちしたか。……おまえ、何も知らない女になんてひどい例文を教えてんだ」
「愛してると、教えてやっているだけだが?」
「いや、おまえが今しがた言った“愛してる”と、さっきに教えようとしていた言葉は明らかに違ったぞ。オレの聞き間違いじゃあなけりゃなあ」
プロシュートは人差し指をメローネの顔面に向けて突出した。メローネはやれやれと首を横に振りながら、プロシュートの人差し指をそっと手の甲で退けると、呆れた、と言わんばかりに首を横に振った。プロシュートはその態度にカチンときた。
「そんな気持ちの悪い“愛してる”をオレは知らねぇし、おまえ以外の誰かの口から出てくるのを耳にしたこともねぇ!」
「それはおまえが知らないだけだし、たまたま聞かなかっただけだ。おまえの経験とか、それに基づくってだけの常識をオレに押し付けるんじゃあないぜ。……まあ、聞けよ。教育ってのは絶対に、教える側の経験とか常識だけであっちゃあいけないんだ。可能性について考えるように促して、それについて考えるための地頭を作るのが教育だ。たった一つだけってのはダメなんだ。例えば算数の問題で、解き方一つを正しいと教え、それ以外の解答を、オレが教えたのと違うけしからんとペケにするのと同じようなもんなんだ。つまり、一つの確固たる答え、あるいはまだ答えの無い問題に見出した仮定――要は、希望に向かって、ありとあらゆるやり方ってものを考える頭を作るのが教育なんだ。だから、愛してる、にだっていろんな伝え方があるだろうって話だ。それを教えているんだぜッ! いいか、プロシュート。おまえは知らないかもしれないが、かの有名な夏目漱石も英語の“I Love You.”を、月が綺麗ですね、と訳したッ。オレがに教えようとしていたのは、その対極にある表現というだけだ。と言うか、おまえらの言う愛してるはとどのつまりがそういうことだろうが」
「は……はァ? 何、言ってんだ……おまえは……」
本気で、メローネの言った最後のあたりのことがまるで何も理解できなかったので、プロシュートの頭の中は一瞬真っ白になった。
と、言うのも、北野武を知るプロシュートだが、夏目漱石は知らなかった。だから、月が綺麗ですね、が私はあなたを愛しています、になる意味が全く理解できなかった。日本人が奥ゆかしいとか日本人の感性は豊かで一つの物事を表す言葉が複数あるだとか、そんなことを任侠映画で学べるはずも無いし当然といえば当然だ。そして、愛情と性欲を混同するような発言に全く共感できない彼の脳は、そんな獣同然の認識を、この世に生きとし生ける全てのオスに通じる常識のように話し、あろうことかこの自分をオスという生き物として十把一絡げにしてくるメローネという人間の存在を認めることを拒絶した。
しばらく硬直していたプロシュートがやがて正気に戻ると、これはメローネの戦略――口八丁で煙に巻いてこちらが諦めるのを待つという卑怯なやり方――なのだと解した。結果、プライドの高いプロシュートはこのまま負けてなるものかと意固地になり、メローネの言うことに反駁し言論をもってして勝つのではなく、無理やり物理的に、の目前という教壇を盗ることが先決だと思った。
「……我慢がならねぇ。やっぱりおまえに人間の教育なんて無理なんだ。今すぐにそこを退けッ」
メローネはひどく勝ち誇ったような顔でプロシュートの顔を見やった。
「日本語を喋ることができるのは、オレだけだ。彼女とまともに意思疎通を図ることができるのは、オレだけだってことだ。さっきのが愛してるではなく、厳密に言うと体液を交換したい、という意味だと日本語で言えるのか?」
「いいからそこを退けってんだ。そんなもん、言葉が通じなくったって、紙とペンがありゃあ何とでもなる」
プロシュートによって半ば強引に椅子から退去させられたメローネは、略奪者との様子をただ指を咥えて黙って見ることしかできなかった。
それにしても、小首をかしげながらも、真摯に相手の言わんとすることを読み取ろうと頑張るの姿が、どれほど健気で可愛らしいことだろう。
メローネはやがて、口をポカンと開けた呆けた顔で、の横顔を見つめるだけになった。すると、の顔色がころころと変わっていることに気付く。最初は困惑していて、次に愕然として、その後にみるみる内に顔を真っ赤に染め上げて、今度はそのまま泣きそうな顔をこちらへ向けてきたのだ。
泣きそうな顔。とんでもなく、メローネのに対する庇護欲を掻き立てる顔。ああ。早く抱き締めて慰めてやりたい。慰めて、慰め……いや、待てよ。何でそんなに泣きそうな顔なんだ。プロシュートにいじめられたのかッ!?
そう思い、とっさにへ駆け寄ろうとしたその時だった。
「メローネ……。あんた、頭おかしいんじゃあないの!?」
日本語でそう言って、彼女はメローネの頬をひっぱたいた。
「……おい。てめー、何ひっぱたかれて顔を真っ赤に……期待に股間膨らませてんだ」
04:おかしいやつ
プロシュートが近くにいる手前、は一芝居打つ必要があった。もしもメローネという男の途方のない変態さにはすでに気付いていて、自分が貞操の危機などモノともしない強気で強い女だとメローネ以外の皆に知られてしまえば、“保護”する必要は無いとリゾットに判断され、安住の地を失うことになるからだ。
イタリアという異国の地で、着の身着のままほっぽり出されるなんてゴメンだし、ここの連中――暗殺者チームの面々――はほとんどの者が料理が上手い。今のところ食料や賃料などの代金を請求されもしていないので、これほどまでに好条件なアンダーグラウンドへの入口――というか、只中――は他には無いだろう。
とにかく、はメローネがヤバい男であるということは分かった上で彼と付き合っている。とはいえ、さっきのように変な言葉を覚えて恥をかかされるのはイヤなので、そろそろ少しヤキを入れてやったほうがいいかもしれない、と考えた。
プロシュートが勝ち誇ったような、すっとしたような顔で外へ出た後、メローネはキッチンで昼食を用意し始めた。は復習も兼ねて、キッチンカウンターのそばにあるダイニングテーブルについて、ノートを見直しながら――もちろん、メローネが教え込もうとした卑猥な例文を除いて――イタリア語の例文をぶつぶつと呟いていた。たまにメローネがカウンター越しに発音について指摘をして、はメローネの抑揚を真似して言い直す。
そうこうしているうちにメローネが、自分が作ったスパゲッティーを皿に乗せてやってきた。
はメローネの作る料理が好きだった。日本にいる恩人、トニオ・トラサルディーのそれと比べるのは酷だ――というか、にはあれが何か妖術の類の何かだと思えるほど、食べると元気になった。料理による栄養の摂取という目的を超えた何かなような気がしてならなかった――が、一般人の作るものと思えば上手いと言って差し支えの無いレベルの代物が毎回出てくるのだ。料理人でもない男性が料理をして、それをあろうことか女性に振る舞うなんてことは、日本の、少なくとも自分が成長してきた界隈では珍しいにも程があって新鮮で、手放しに称賛するしか無いということもあり、メローネに対する好意は、彼の料理を食べる度に増していった。
それにしても、なんてみどりみどりした食べ物だろう。緑色の何かをまとったスパゲッティ? の中に、ごろごろとじゃがいも、サヤインゲンなどが見え隠れしている。真ん中には飾りの双葉。美味しそうなにんにくの香りが鼻腔をくすぐってきて、の脳は空腹を思い出した。
がよだれを垂らしそうになるのを堪えながら、皿の上に乗ったものを目を丸くして見つめているとメローネが言った。
「トレネッテ・アル・ペスト、です。バジリコと松の実なんかをすり潰して作ったソースを、トレネッテというパスタと和えました」
「バジリコってなに」
「その、真ん中に乗っている葉っぱ……ハーブです。そんなに緑色をしているのは、そいつのおかげですよ」
「ふーん。……それじゃあ。いただきます」
はおずおずとフォークを手に取って一口分を巻き取ると、それをゆっくりと口に含んだ。
「……っ!! お、おいしい!!」
「ふふ。それは良かったデス。たくさん、たくさん食べて下さいね」
メローネに我慢の限界が来た。そして彼は、とうとうやってはいけないことに手を染めてしまった。まあ、すでに暗殺者として幾人もの命を奪ってきた彼の狂った倫理観の元においては大したことではないのだが。ともかく、一般社会においてそれをやってバレれば、ムショ行きは確実ということを今やった。留まろうともした。だが、できなかった。彼の内に棲み着く性欲という魔物を、彼自身がどうにもできなかった。
は食欲が旺盛だ。恐らく、一般的な日本人女性の食べっぷりと比較すると、その二倍くらいの量は平気で平らげる。そして、パスタ一皿分くらいなら十五分もかからず平らげる。
十五分経った。するとはケロッとした顔で、皿を持ち上げて言う。
「おかわり!」
「は、はい。……わかりました」
メローネは小首をかしげながらキッチンへもどった。
どういうことだ? そろそろ効いてきてもおかしくない頃なのに。
メローネ特性のペストの作り方はこうだ。バジルの葉と松の実と、隠し味にロヒプノール錠――睡眠薬――をミキサーにかける。塩やオリーブオイルなどの調味料を加え、ペースト状にする。普段はこんな手間をかけて料理などしないが、錠剤を粉砕するついでにやってみる気になったのだ。
ロヒプノール錠。普通、重度の睡眠障害や、精神疾患患者の鎮静のために処方される薬だ。酒と混ぜると効果が出すぎて健忘状態になるので、レイプドラッグなどとまで呼ばれる薬である。お察しの通り、彼は――レイプなんて穏やかじゃない言葉は思い浮かべてはいないまでも――を眠らせて部屋へ連れ込み、お人形よろしく“相手”をしてもらおうと考えていたわけだ。
こんなことが出来るなら、他の女でやってみれば良かったな。なんてことを彼は料理をしている内に思った。だが、今日の今日までそう思えなかったのは、今まで出会った女たちのことをそこまで好きになれなかったからなのだと気付いた。どうしても一夜を共にしたいという女では無かったのだ。
は、オレがおかしいやつだという認識がある。けれど、それを知った上で一緒にいてくれる。屈託のない笑顔を向けてくれる。それが、とんでもなく可愛らしい。だから愛しい思いは日に日に募っていくし、全くスキを見せてくれない彼女にはヤキモキしてばかりで、ウズウズしてたまらなくなる。シたい。シたい。。君と、セックスがシたいッ!!
そんな感情が溢れ出し、とうとう堰が切れたのだった。
それでもメローネは、過剰摂取になりはしないだろうかと心配になりながらも、の可愛らしいおかわりに応えてやった。
は、どこかぎこちないメローネの表情から何かを悟ったらしい。
「無駄だよ」
「……え?」
は笑って言った。
「何か入れてんのね。この料理。何かは知らないけど……効かないよ。慣れさせられてんの。毒も、薬も……大抵のものが、私には効かない」
の冷たい微笑みに、メローネは戦慄した。そして、後に控えるであろうお仕置きを想像する。恐れおののくのと同時に、ある種の興奮を覚えていた。
ああ、!! 君はどうしてこうもエキセントリックなんだ!! 君はオレの興味を引き付けてならない! 君への愛が、留まるところを知らないッ!!