聞いていた話と違う。と、は今さらながら思った。
するとかしないとか、そんな話でメローネというイタリア男を釣ってしばらく経った後、彼女はメローネのベッドの上であぐらをかいて、メローネは床の上に正座をさせられていた。いや、に彼を正座させた覚えは無い。いつの間にか自主的に正座をしていたのだ。正座なんか慣れなくて膝が痛いだろうに、そのことに関して彼は何ともなさそうに、熱心にを見つめていた。
彼女を見つめる、期待に満ち溢れた輝く瞳。それは一見純粋に見えたが、この男がとんでもない下心を持っているということはつい先程確認したばかりだった。生存戦略の一環として彼の下心を開けっぴろげにさせたのが誰かと言うと本人に違い無いが、恥ずかしげもなく開けっぴろげにする素質を持った男だったというところが、日本人だろうとイタリア人だろうと関係なく恐らく特異であり、彼を変態たらしめているのだ。
こんな変態――それにしても何だこの男のいやに露出度が高い変なジャンプスーツは。さらに、薄紫色の帯でできたアイマスクがひどく変態くささを際立てている――がいるなどとは聞いていない。そもそも、箱から出てすぐにあんな大勢に取り囲まれるなんて聞かされていなかったし、レストランと聞いていたのにそれらしい雰囲気――美味しそうな料理のにおいとか、食器が鳴る音や客の気配など――も無い。
祖国は杜王町のレストラン・トラサルディオーナーシェフ、トニオ・トラサルディーから聞いていたのは、還暦を迎えた柔和な雰囲気の男性が、自分が木箱に箱詰めされてくるのを知って待ち構えている、ということだった。だがここには、還暦を迎えた柔和な雰囲気の男性なんてひとりもいなかった。それどころからまったく予期せぬ出来事に腰を抜かして騒ぎ立てる大きな男たちに取り囲まれ、危うく祖国へ強制送還させられそうになっていた。
まったく、話が違う。全然違う。
はメローネに、念のためにたずねる。
「ここって、レストランなの?」
「いいえ。違いマス」
「じゃあ何なの」
メローネはうーん、とうなった。彼が、自分たちが暗殺者であるなどとあけすけに話すことに抵抗を覚えるのは当たり前のことだ。がもしも、ただか弱い女性というだけなら絶対に言わないだろう。ギャング組織の暗殺者なんて、この世で最も関わり合いになりたくない部類の人間だろうから。
だが、メローネはの所持する日本刀の鋒が木製のドアを穿たんとする音を真近で聞いて、青白く光る刀身を見たばかりだった。彼女が刀を抜く瞬間など見えもしなかった。日本刀は、鞘から抜くだけでも相当な力が必要だと聞くし、それを瞬く間にやってのけるのだからは剣術の達人に違いない。――つまり、はカタギではない。
カタギではない女がヤクザを怒らせて逃げ果せてきたのだから、恐らく自分たちと肩書きは大して変わらないはずだ。メローネはそう考えた。
「ここは、ギャングのアジトです」
一応、暗殺者の吹き溜まりであるということは伏せておいたが、それもじきに知れることだろう。ともかく、聞いたはキョトンとした顔で言った。
「……それ、ホント?」
「ええ。ホントですヨ」
「それはそうと、ここにトラサルディって名前のおじさんはいる?」
「いいえ。そんな人、ここにはいない」
レストランでもなく、トラサルディもいない。つまり、何かの間違いで私は今ここにいるんだ!
「ってことはつまり私は……本来ならここには来なかったはずなのね。間違って届けられたんだ。……でも、じゃあどうして……あなたは木箱を受け取ったの?」
メローネは再三に渡る焦燥に唇を引き結んだ。それについてはさっきまで階下で散々話して汚点をさらけ出すはめになったのだが、そういえばイタリア語でしか喋っていなかったと思い出す。
「私、インターネットで日本の会社から買い物をしたんデス。それが届いたと思った」
「なるほどね」
が、メローネが何を買ったかについて大して興味を示さず深掘りもしなかったので、メローネはほっと胸を撫で下ろした。
「運命だわ」
「え? 今、なんて?」
もまた、目を輝かせていた。
「これは運命なのよ。メローネ」
メローネは大いに勘違いをする。そして溜めに溜め込んだ性欲を迸らせながらに襲いかかろうとするも、驚くべき反射神経をもって鞘に収めたままの日本刀により薙ぎ払われる。
「さっき言ったでしょう。私と一緒に日本のヤクザと戦ってほしいって」
「ヤクザと戦うとは聞いていませんが、やはりそうでしたか」
「え、私とシたくないの?」
はあぐらをかくのをやめ、メローネの顎の下につま先を差し込み、彼の視線を上に誘導した。スカートの中が見えそうで見えない、そんなけしからん光景に彼の息子が再びジャンプスーツの布地を下からギチギチと押し上げ始める。
「シます、シますよ! ヤらせてほしい! ココロから!! 日本のヤクザなんか私がイチコロシにしてくれますヨ!」
「ふふ、あんた面白いわ、メローネ。……とにかく、私はこの国に強いギャングを探しにきたのよ。本当なら、日本でレストランやってるイタリア人のつてで、その人のおじさんの元に届けられるはずだった。レストランに届けられたら、しばらくそこでアルバイトでもしながらイタリア語を学んで、自由時間に助っ人を探し歩くつもりでいたの」
「そのレストランが見つかったら、あなたはどうシますか?」
メローネはいささか気落ちしたような顔で問いかけた。は答えた。
「どうもしない。むしろ、まったく見当違いな所を探し歩く手間が省けて好都合よ。だって、箱から出てすぐに、もう仲間がひとり見つかったんだもん」
仲間――もとい、エサで釣り上げた魚だ。目的を果たした途端に逃げないとも限らないから、この体だけはなんとしても死守しなくては。
「そうでしょう?」
にそう言って微笑みかけられると、メローネの心臓はまた激しく音を立てて全身へ熱い血液を送り出しはじめた。自分が今生きていると、痛いくらいに感じる。最近めっきりなくなっていた感覚が、美しい日本の女によって呼び覚まされたような気がしていた。そんな彼女との出会いを、彼もまた運命だと感じた。
「そうデスね。良かった。……あなたには、私とずっと、一緒にいて欲しい」
とくん、と胸が高鳴った。は初めての感覚に違和感を覚えて、少しだけ眉間に皺を寄せた。不快なわけでは無い。ただ、初めての感覚に戸惑っている。
これまで散々――まだ邂逅から一時間程度しか経っていないにも関わらず――メローネのことは変態だなんだと心の中で罵倒していたが、この男、変態のくせに顔はいいのだ。
日本人からしてみれば、イタリア人なんて皆、鼻筋が通っていて目が大きくて二重で彫りが深くて手足が長くて、羨ましさの詰め合わせみたいな美男美女の集合体――あくまで、島国の単一民族国家の中で生活をする日本人に限った話だが――でしかないかもしれない。街を歩けば、美容室などの広告に写し出されているのは自国のモデルではなく金髪碧眼の白人か、赤髪の白人ばかりだ。憧れを通り過ぎて、敗戦から五十年以上が経過した今もなお劣等意識に苛まれつづけているとすら思える。あるいは、GHQによる洗脳の賜物かもしれないが、とにかく日本人は敗戦したにも関わらず、欧米諸国の人や文化を寛容に受け入れ続けてきたのだ。
とにかく、メローネは日本人から見た外国人、というだけではない、何か中性的な優美さを持った男だった。本当に本当に、変態という所さえなければと悔やまれる。が、逆にそうでなければ彼とは今ここで時と場所を同じくしていないだろうとも思った。彼は何と言ってもギャングで、自分と同じ爪弾き者――の暗殺者――なのだ。彼にどうしようもない変態性が無ければ、それこそミラノでまっとうにモデルでもやっていそうだと。
「さん」
がぼうっとしている間に、メローネが名前を呼びつつ差し出した手を、彼女は無慈悲にも鞘に収めた刀身で払い除けた。メローネの手は所在なさげにしばらく空中で浮いて、そのあと仕方無しにベッドのふちに落ち着く。そして気を取り直して続けた。
「外国語を習得する一番の近道を知っていマスか?」「いいえ。……どうすればいいの?」
「外国人の恋人を作るんです」
「どうしてそうなるのよ」
「相手のことを心から知りたいと思えば、まずは相手の思うことを熱心に聞いて理解しようとするからデスよ。だから、私があなたの恋人になりたい」
「っ――」
ダメダメ! 騙されてはダメ。この男は、私とヤりたいってだけでこんなことを言っているかもしれないんだから。岸辺露伴も言っていた。イタリア男には注意しろと、イタリア男の目の前で。聞いていたトニオは苦笑いをしていたっけ。
トニオ曰く、日本人は逆に感情を押し隠しすぎとのことだった。もっと、美しい物には美しいと素直に言うべきで、こと女性に対する賛辞においてはとくにそうでなければいけない。
いやしかしだな、トニオ――
個人の持論と持論のぶつかり合いが始まったので、私は別に男を漁りに行くわけじゃあないからどうだっていい。と切り捨てたのは記憶に新しい。だが、切り捨てたはずの煩悩が、ここに来て初めて頭角を現したのだ。
今まで一度でも、男に恋したことなんてあっただろうか。……いや、無い。男に優しい扱いを受けた事なんてない。最愛の人を奪われ、ただ沈み行くだけの人生に辟易した。そんな暗い日々から私を救い出してくれる男性なんて、ひとりもいなかった。だから自力で、ただ無自覚に過ぎていくだけの日々を抜け出そうとした。そうやって今、ここまでたどり着くことができたんだ。
生まれ変わるため。今を変えるため。
遠く離れたこの場所で、自分が何者かを全く知らない人々に囲まれたかった。愛する人などもう二度と必要としない。もう二度とそれを失いたくないから。だから、ただ共に戦ってくれる仲間を見つけて、戦いの末に目的を果たし、過去との決別を果たすことができたなら、その後はどうだっていい。
そう思っていたのに。何故ここにきて――しかもこんな変態相手に――決意が揺れるの。
目的に一步近付いたと思ったその瞬間に、目的を果たすのに最も支障となる問題が生まれたのだということをはまだ、明確には自覚できていなかった。
「――あなただいぶ日本語が上手だけど、日本人の恋人がいたことってあるの?」
「いいえ。ドクガクです。シュウネンですよ」
「なら、私だって独学できるわよ」
「近道をするならと、私は言いまシタよ。遠回りをしたいなら、どうぞ。それはそれで、あなたとこうして、あなたの生まれた国の言葉でおしゃべりをしていられる。私は、それでも構わない。そうしているうちに、きっとあなたは私の恋人になっているでしょうから」
03:遠く離れても
レストラン・トラサルディは月曜が店休日だ。扉にはCLOSEDと書いたプレートが掛けられている。その向こうから店主の嘆きが漏れ出す。
「ああ! 心配で心配でたまりまセンッ!」
未だイタリアのおじとは連絡がつかず。トニオ・トラサルディーは自分の店の客席に腰掛け頭を抱えていた。そんな彼の姿を見て、岸辺露伴はあきれた様子でため息をついた。
「君は、一体何がそんなに心配でたまらないって言うんだよ」
「あなた、露伴さんッ!!もうさんのことを忘れたんですかッ!?」
「……ああ、彼女のことか。彼女のことならますます、何も心配いらないだろう」
岸辺露伴はあっけらかんと言ってのけた。そして昼食にと分けてもらったスパゲッティを頬張る。緊張感のかけらもない露伴の態度を受け、トニオはこめかみに中指の腹をあてながら首を横に振った。
「あなたはイタリアが今どうなっているかを知らないんデスよ。だから、そんなことを言えるんデス」
露伴はむすっとした顔でトニオを睨み付けた。
「知るもんか。ボクはイタリアという国は好きだけれど――建造物とか彫像、絵画がとても美しいからね――イタリアの現状を逐一報告してくれるような友人なんかがあっちにいるワケじゃあないんだ。いればいいとは思うがね」
「いいえ、露伴さん。私は、さんを送り出す前に彼女に忠告しました。あなたはその時、確かに居合わせていましたよ。話を聞いていなかったんです」
「あいにく、興味のないことまで覚えておく容量なんて、ボクの頭には無くてね」
「いいですか」
トニオは、の国外逃亡を助けた協力者のうちのひとりである露伴に、協力の余地はまだあるのだと、場合によってはイタリアへ行って、彼女の安否を確認する必要も出てくるかもしれないのだと教え諭す。
岸辺露伴はなんか死んでもいいとは思っていないが、武に秀でたあの女が簡単にイタリアの路上で野垂れ死にする姿なんて想像すらできなかったので、トニオに諭されても全く心配する気にはなれなかった。
「イタリアでは……特にナポリですが、犯罪件数がここ数年で爆発的に増えているんデス」
「それは、バイアスだよトニオ。犯罪件数が爆発的に増えたというのなら、ここ最近の杜王町だってそうだった――」
「そう。問題はそこ、なんデスよッ」
とある殺人鬼をめぐる一連の騒動をふたりは思い出した。つい最近、殺人鬼は死に、杜王町は元の平穏を取り戻したのだ。その間にこの街では、多くの人――人に限らず、ネズミやネコといった動物までも――が“矢”に射られ生死の境を彷徨った後、スタンド能力を会得した。スタンド能力を開花させた者は必ずしも皆善良ではなかったので、杜王町では一時期、不可解な殺人事件や傷害事件が多発していたのだ。
「ナポリも今同じことになっているンですよッ。……いや、この町の方がむしろ後かもしれない。噂ではギャングが例の“矢”を持っていて、コマにできるスタンド使いを量産しているとか……。ですから、あのお強いさんでも、スタンド能力の前には手も足も出ないかもしれない」
「……なるほど。まだ、おじさんと連絡は取れないのか?」
「だから心配で心配で仕方がないと言っているんじゃあないですかッ」
「そう熱くなるなよ、トニオ。君って案外キレやすいんだな」
露伴は言いながら自分の鞄をごそごそと漁り、目当ての物を見つけて取り出した。手帳だ。スケジュールがポツポツと書かれたカレンダーのページをじっと見ると、次にペンを取り出した。そして日付を示す数字をラフな円で二、三箇所ほど囲んだ。
「君がどうしてもと言うなら、ボクの気が向いたときにナポリへ行ってみてもいい」
「グラッツィエ!! さすが露伴さん、素っ気なさそうなのに実はさんのことを――」
「勘違いするなよな。あくまで取材のためだ。取材ついでに、を探してみてもいいというだけだ」
パタン、と音を立てて手帳を閉じると鞄の中の元の場所へと戻し、露伴は席を立った。そして珍しく満面の笑みを浮かべ、トニオに向かって言った。
「おごちそうさま。美味かった。毎回思うんだが、君の料理は今まで食べてきたどんなレストランや料亭のものよりも美味いよ。……ところで、いくらだい?」
トニオは首を横に振って答えた。
「お代は結構です。……さんのこと、よろしく頼みますよ」
「まったく。すっかりその気になってんじゃあないか」
露伴が店を出た後になっても、トニオは閉じられたばかりの向かいの扉をしばらくじっと見つめた。見つめながら、と初めて出会ったときのことを思い出していた。
雨風の強い、とある日の夜。はずぶ濡れの姿で、しかも穴開きのボロ服を血――強い雨でも流れないほどの血痕だった――や泥まみれにして店に入ってきた。幸い暴風雨のおかげで店に先客はいなかったので、血濡れの――しかもやや小ぶりとは言え、日本刀を背負った――女が現れたと騒ぎ立て、警察に通報しようなどという者もいなかった。
トニオは少しばかり驚きはしたが、気を取り直してすぐにいらっしゃいませ、と声をかけた。すると女は、ぐぎゅるるると腹を鳴らして言った。
「おなか、すいた……」
そう言ってすぐに、彼女は顔面から床へ倒れ込んだのだった。
トニオにとっては、どのような格好で訪れようと、戸口を通り抜けたのが生物であればそれは皆客だった。たとえ金を払って貰えそうになくても、客がうまいうまいと唸りながら、最後に笑顔でおごちそうさまと言ってくれればそれで良かった。
意識を取り戻したは、トニオの作った料理を食べている間に泣いていた。泣いて、本当に美味しい。こんなに美味しい料理は、ばっちゃんの肉じゃがを食って以来初めてだ。なんてことを言ってくれた。彼女は誠実で律儀だったから、お代は結構ですとトニオが言っても引き下がらず、店の仕事を手伝って恩を返そうとしてくれた。その間、まかないとして出した料理という料理をすべて平らげ、最後には必ず、最高の笑顔を見せてくれた。
こうして何ヶ月か共に過ごす内、トニオはすっかりのことを気に入ってしまった。彼にはイタリアにガール・フレンドがいて一途な思いを貫いているので、を異性として意識しての好意では無い。ひとりの人間として、彼は彼女を尊敬し認めていたのだ。だから彼女が助けを求めるのであれば、どんなことでもしてやりたいと思った。
その結果、にもしものことがあったなら、それは私の責任だ。とまで、心優しき料理人、トニオ・トラサルディは思っていた。
「どうか、どうか神様……。さんにご加護を」
一方その頃は、トニオの心配を他所に、多大なる強運のもと、とある変態とパートナーシップを結んでいたのだった。