リゾットの穿くズボンの後ろポケットで、ホルマジオは鼻息を荒げていた。
ミラノの中心街から離れ郊外に向かうにつれて建物の数もまばらになってきたころ、適当な路地裏の暗がりにが入っていった。リゾットは路地の入り口に立ちに背を向け人が来ないようにと見張っていた。いくらイタリア第二の都市に近いと言えども、駅から離れてしまえば夜の12時をまわった街では人通りなど無いに等しい。若い女が突然路地裏で下着もろとも服を脱ぎ出し、その女がどういうわけか獰猛なネコ科の動物に変身するなどという奇想天外な光景を一般人に目撃される心配はまず無いだろうが、それでも暗殺者リゾットは気を抜かずに神経をとがらせていた。さすが我らがリーダー、リゾット・ネエロ。
おかげでホルマジオは今眼福だ。
彼がの裸を見るのは初めてではない。忘れもしない。まだ交際を始めてもいない頃真夜中に酒に酔って帰った時、自分のベッドで真っ裸になってすやすやと寝息を立てていた彼女の姿。うまい具合に横向きに寝ていた彼女の上になった方の腕に隠れて見えなかった乳房の大部分とその突端と、張りのある形のいい太ももに挟まれて見えなかった秘部。見えそうで見えない。けれども見たい。だから男は興奮するのである。
今もそうだ。壁に沿って置かれた鉄製の大きなダストボックスの影に隠れた。否、本人は隠れているつもりなのだろうが、人間が使うゴミ箱なので背丈など腰までの高さしかなく、彼女の上半身は突き抜けて見えている。それに一応リゾットにも背を向け――暗殺者にとっても恐らく猫にとっても、それは信頼の証だ――前面は見られないようにという配慮をしてはいるようだが、女が自分に背を向けて恥じらいながら服を脱ぐなんてたまらない光景だ。今の彼女は別に自分に向けてそうしている訳ではないし恥じらっている訳でもなさそうだが、ホルマジオの情欲を誘う光景には違い無かった。
そしてもし、自分がの相方に就くことをリゾットに許可されたならと想像した。――彼女が脱ぐたびに興奮して仕事にならないだろう。なので、やはりリゾットの判断に間違いはないようだ。金輪際、彼女がリゾットと仕事に行くことに対して文句を垂れるのはよそう。ホルマジオはそう心に誓った。
やがてはダストボックスの向う側で身を屈めた。そうして暗闇からのっそりと姿を現したのは、ジャガーの黒化個体――ブラックジャガーだった。
一突きで殺す者。アメリカ先住民の言葉でそういった意味が込められた名を冠する動物だ。水を恐れず高い場所を恐れず、銃を持った人間をも恐れない彼ら。一度ターゲットとされると逃れられるものはいないし、天敵がいない常に狩る側でいるというジャングルの王者だ。人間の頭脳を持ったそれが真っ黒で闇に紛れるというのだから、これほど暗殺に適した動物もいないだろう。
ブラックジャガーになったを見て、ホルマジオの妄想はさらに暴走する。ジャガーはもとより、トラやらライオンやらといった凶暴で飼育には適していない猫科の動物にゴロゴロと喉を鳴らされて、その音を柔らかな体に顔を埋めながら聞いてみたい。絶対癒されるはずだ。がいればそんな素敵な夢が叶えられてしまう。最高か?今度頼んでみよう。イエネコに留まらず、猫科動物が大好きなホルマジオであった。
そんな風に浮かれていると、がこちらに向かって近づいてくる。ホルマジオは咄嗟にポケットの中に身を隠して息を殺した。
は自分に背を向けるリゾットに、準備が済んだことを伝えようと彼の足を額で小突いた。そうして足元に目をやったリゾットは手を下に伸ばし、彼女が口に咥えたトートバッグを受け取ると、行くぞ、とそれだけ呟いて駆け出した。
長距離のランニングを経てターゲットの邸宅のある敷地に隣接する雑木林に一行は到着した。闇に紛れながら一呼吸置くと、はまたゆっくりと歩き出す。戸締りがしっかりなされていようと、防弾ガラスでもなんでもない普通の家の窓など、ジャガーの太い前足による猫パンチで簡単に割ってしまえる。二階のテラスによじ登って寝室の窓を割り、その強靭な牙と顎を駆使してターゲットの後頭部を噛み砕く。とても簡単な仕事だ。
リゾットは雑木林の丘の上――が宅内に侵入しようとしている寝室横のテラスが見える位置――からを見守っていた。万が一彼女が仕事をしくじった場合に備え、すぐにカバーできる距離にいた。目測八十メートルほどが離れたところで、彼は小さく声を上げた。
「いるんだろう、ホルマジオ。そろそろ元に戻ったらどうだ」
それを受けて、元の姿に戻ったホルマジオが闇から姿を現した。能力の持続力には自信があるし、息を殺して動かず運んでもらっていただけだ。とは言っても、だいぶ長い間小さくなっていた。それに、耳も鼻もいいに気づかれないようにと神経を使いながらただ黙って身を潜めているのは簡単では無かった。リゾットの気遣いがありがたい。ふうとひとつ溜息を吐いて、ホルマジオは伸びをした。
「どうだ。おまえの不安は解消したか」
リゾットはから目を逸らさないように前を見ながら続けた。
「ああ。もう文句は言わねーよ」
そんな彼の返答を聞いて、リゾットは思った。の気が逸れるリスクを負ってでも、今回彼を同行させて良かったと。完全に自分の所為では無いのだが、身の潔白を証明できたようだ。今後、の裸を見て欲情し襲うんじゃあないかとあられもない疑いをかけられることも無いだろう。――だが何故、オレがこんな心配をしなきゃならない?
「なら良かった。だが、オレからひとつ文句を言わせろ」
「ん?あ、ああ。何だよ」
「飼い猫の躾をしっかりとしておけ。何故オレがわざわざおまえら恋人たちのために気を遣わなきゃならないんだ。おまえは良くとも、オレはまだ気が晴れない」
「あー。そりゃ……もっともだ」
リゾットは言うべきかどうか迷うようにしばらくの間沈黙した。ホルマジオは、を見守る彼の横顔を眺めながら次の言葉を待っていた。
「が初めて仕事をこなした夜のことだ。あいつは、今でこそ物陰に隠れてある程度配慮を見せているが、前は何の躊躇いも無くオレの目の前で服を脱いでいた。オレはショックを受けた。彼女の生い立ちなんて知らないし、彼女に話す気が無いのであれば詮索するつもりもない。だが……分かるだろう。好きでもない男の目の前で裸になれてしまえる彼女のことが、心配なんだ」
まるで父親のような眼差しだ。彼は彼で、のことを家族同然に、大切に思っているのだろう。
「そんながおまえの物になったというのなら安心かもしれない。だが、それも永遠には続かない」
リゾットは、別におまえらは相性が悪いから続かないと言っている訳ではない。彼が言いたいのは、自分たちはいつ死んでもおかしくないということだ。ホルマジオが一人残されることもあるかもしれないが、が一人残されることもあるかもしれない。そういう世界なのだ。そのことは、ホルマジオも重々理解していたはずだった。
「素行の悪いギャングが蔓延る裏社会でこの先生きていく彼女が、今のままだと心配だと言っているんだ。おまえが一緒にいてやれるうちにしっかり教えてやれ。オレの話は全く聞かないが、ひどく懐いてるおまえの言うことならまだ耳に入れるだろう」
は、両親からそう易々と男に肌を見せるもんじゃないとか、そういう教育を受けて来なかったのだ。そして恐らく、生き延びるために体を売っていた。ホルマジオは薄々勘づいていた。想像するだけでを食い物にしてきた男たちをぶち殺してやりたい気分になる彼だったが、生き延びるためにやむを得ずやってきたであろう行為を、そうやって生き延びてきたを咎めるつもりなど毛頭ないし咎める権利も無い。さらに教育に関して偉ぶって物を言える立場では無いことも重々承知している。だが、これだけは確かだと言って聞かせてやれることがある。
おまえは美しい。おまえには、男を惑わす魅力がある。そう言い聞かせてやれる。そしてそれを言えるのは、いや、言っていいのはオレだけだ。
ホルマジオは頷いた。
「分かった。あんたに心配かけなくて済むように、オレが言って聞かせる」
「分かったならいい。……そろそろが仕事を済ませて戻ってくるころだ。そこに置いてるトートバッグにでもまた隠れていろ。おまえがケツに張り付いていると思うとどうも落ち着かん」
「りょーかい。……リゾット。ありがとうな。仕事の間はのことよろしく頼むぜ」
「当たり前だ」
窓は開いていたのだろうか。特段ガラス窓が割れる音も聞こえない内には邸宅の中へと侵入していた。そして何の音も聞こえない内に、彼女は再び姿を現してこちらに戻ってくる。それを確認するなり、ホルマジオはまた瞬時に身を縮ませトートバッグの中へ潜り込んだ。さあ着替えようというタイミングで、裸のに見つけられることになるのだろうか。なんてまた浮かれたことを考えながら、の香りのする服に身を預けた。やがてトートバッグはリゾットによって持ち上げられる。また一時間弱縮んでいなければならない。だが、この疲れもと対面すれば瞬時に吹っ飛ぶはずだ。
ホルマジオはが自分を見つけたらどんな反応をするだろう、と思った。そして、その後のことが楽しみでならなかった。
トートバッグの中から下着を取り出そうとさぐるの手に、ホルマジオの体が触れた。は得体の知れないその感触に一瞬身を固くして手を引っ込める。そして袋の中を覗き込んだ。暗がりでよく見えない。朝方の空は白みかけてはいたが、影の中の物までよく見えるほどの光を路地裏に与えてくれていない。なのではトートバッグと腕と頭だけを暗がりから突き出して、再度良く中を確認してみた。
「え!?ホ……ホルマジオ……!?」
小さくなったホルマジオが、にっこり笑顔を浮かべながらバッグの中で手を振っている。彼のスタンドがどんな能力を持っているかは話に聞いていたが、実際小さくなった彼を見るのは初めてだった。は驚きつつも嬉しくなって、ホルマジオに向けて掌を差し出した。まるで妖精のように可愛らしい動きで、自分の掌によじ登る彼。微笑ましいことこの上ない。は彼が掌に乗ったのを確認するとゆっくりとトートバッグの口から手を引っこ抜き、それを目の高さにまで持って行ってホルマジオをじっと見つめた。
「いつからここにいたの?」
「おまえがターゲット狩りに行って戻ってくる時からだな」
「と言うことは、ずっとついてきてたの?」
「おう。列車に乗った時からずっと、おまえのこと見てたんだぜ」
はふと、ミラノ駅から出た時に聞いた足音を思い出した。あれはきっと、ホルマジオの足音だったのだ。そして、そうと気づくと増々嬉しくなってしまう。
「あああ、というかよ、。まず服を着ろ!」
「わ……分かった。下ろすよ?」
が地面に手の甲が付くまで掌をやると、ホルマジオは彼女から離れ能力を解除した。そしてすぐさま身を翻し、リゾットとは反対側を向いて人が来ないかと見張った。その間には着替えを済ませトートバッグを持ち上げ肩に掛けると、ホルマジオを後ろから抱きしめた。ホルマジオは振り向き様にの頭に手を添えて、軽く彼女の頬にキスを落とす。
「来てくれてるとは思わなかった。……ちっちゃなホルマジオ、とってもカワイイね」
「おいおい。カワイイって言われて喜ぶ男はあんまりいねーぞ。でもまあ内容はどうあれ、おまえに褒められると嬉しいもんだな」
そう言われてにっこりと笑ったは、思い出したように身を翻してリゾットのいる方へと向かった。
「リゾット、報告する。ターゲットは二階の寝室で窓を開けて寝てた。音を立てないように侵入して、頭を噛み砕いてきたよ」
「良くやった。他に何か報告しておくことは?」
「特段言うことはないかな。監視カメラとかも見当たらなかったし、ボディーガードを雇ったりもしてなかったみたい」
猫は暗闇でよく物が見えるというのは本当らしい。ホルマジオは感心した。ターゲットの寝首をかこうという時、自分ならカメラのあるなし問わず見られても生物と思われない程度の大きさにまで縮んで距離を詰めるしかない。その場合やたら目標地点まで走らなければならないのだ。それが面倒だとつくづく思っていた。だが、ブラックジャガーに化けたなら暗闇で目を光らせるカメラの有無を調べることもできるし、映ったとしても人間の仕業と取られることもない。全くもって暗殺に適した能力だ。加えても猫もカワイイときている。なんてできた女だろう。最高だ。
「分かった。ボスにはオレから報告しておく。どうせおまえたちはすぐに帰るつもりなんか無いんだろう」
ホルマジオとは顔を見合わせて笑い合う。そしては顔を真っ赤に染めて下を向く。ホルマジオの方は腑抜けた顔をリゾットに向けた。
「ちょっと観光して明後日にでも帰るわ!ああ、なんか、仕事があったら電話してくれよ」
「いや。仕事が済んですぐだ。もし新しい仕事が舞い込んできてもに振るつもりはない。今の浮かれたおまえにもな」
「いやーこれからのデートが済んだら、また気を引き締めるからよ!多めに見てくれよな」
「……言ったからな」
リゾットはふたりに背を向けると、駅へ向かってまた歩き出した。
「気をつけてな!」
そう背中に投げつけられて、リゾットは振り向くことなく手を振って見せた。ホルマジオとには見えなかったが、怒る時以外で滅多に表情を変えない彼がこの時珍しく微笑みを浮かべていた。
リゾットの背中を見送ると、ホルマジオは隣にいるの腰に手を回し体を密着させる。そしてゆっくりと、リゾットが向った方とは別の方向に歩き出した。
「疲れてるだろ?」
「うん。ちょっとだけ」
猫は睡眠時間が長い。それは狩りに備えて体力を温存するためだ。も狩りに備えて昨日の昼は寝ていたようだが、スタンド能力を使って長いこと変身し続けたおかげで睡眠で培い温存していた精神エネルギーは底をついていた。いつも以上に精神披露が著しい。ちょっとだけと言ったが、この疲れ様はちょっとどころではなかった。もしこのまま列車でナポリに帰っていたとしたら座席で爆睡しているところだ。リゾットはきっとアジトに帰りつくまで寝たりしないのだろう。彼の体力も精神エネルギーも無尽蔵にありそうだ。
ホルマジオは、今回リゾットとのふたりに同行するにあたってデートスポットやホテルの下調べを完璧にしていたが、朝の五時なんていう時間にチェック・インさせてくれるホテルなどは見つけられなかった。そこで苦肉の策として考えたのが公園での野宿だ。
「なあ、。今の時間じゃあ、ホテル開いてねーんだよ」
「うん」
「だから、公園で野宿な。膝貸してやるからさ」
本来ならミラノに前日入りしてホテルの部屋を取っておくべきだったんだろうが、そんなことをしていたらきっとに気付かれる。だから泣く泣くの提案だ。公園で野宿しようなんて、今まで付き合ってきた女なら絶対に顔を顰めるような話だ。だが、は違った。
「ホルマジオのお膝で寝ていいの?この姿のまま?」
「何だ?またオレに気を使って猫になろうとしてんのか?んなことしたら休めねーし、そもそも寝てる間は精神エネルギー保てねーだろ」
だが待てよ?公園の芝生の上で猫になったを膝に抱え、撫でながら休憩するなんて最高だ。だが、それはまたの機会に取っておくとしよう。
「オレが見張っててやるから、ゆっくり休め」
「……ありがとう。ホルマジオも疲れてるだろうに、ごめんね」
「どうってことねーよ。気にすんな」
こうしてふたりは近場の公園に向った。途中、は眠たくて混濁した意識の中ではっと我に返った。
「ねえ、ホルマジオ」
「ん、どーした」
「私、こっち泊まるつもりなかったから……その、下着の替えとか服とか……お金も少ししか持ってきてなくて」
今の格好もとてもデート向きとは言い難いものだ。ここはミラノ。イタリアだけでなく、世界のファッション業界を牽引する街だ。また肩身が狭い思いをすることになりそうだと、は身を縮こませた。
「んなこと気にしてたのか?買ってやるに決まってんだろ」
「ありがとう。ごめんね。あとで、お金返すから」
「バカやろーおめー好きな女に服の一つや二つ買ってやらねーで何が男だよ。金のことなんか気にすんな」
今度はプロシュートのセンスで買った服ではなく、オレ好みの服を着せてやる。そして、オレ好みの下着もだ!
「ところでおまえ、ティーバックとか穿かないのか」
「え!?わ、私……あれ、なんのために着けるのか分からないから……買ったこと……ないの」
「じゃあこの機会に挑戦するしかねーな!」
ホルマジオが屈託のない笑顔で言い放つ。は顔を真っ赤にしてまた俯くと、今度は火が出そうな程に火照った顔面を両の掌で覆い隠した。
「何だよおまえ。オレの前で裸でいるのは平気なのに、ああいうやらしい下着穿いてオレに見せるのはだめなのか?」
「た、確かにそうだけど……!」
「見たいなー。ま、すぐ剥がしちまうだろうけど」
「……!?ホルマジオのえっち!」
そう言って頭をわしゃわしゃと撫でられ、こめかみにキスをされる。胸の音がうるさい。恥ずかしいんだか嬉しいんだか分からない。さっきまでを襲ってきていたはずの睡魔はいつの間にか姿を消していた。
「はっはっはっ!!やっぱかわいーなーおまえ!かわいいからいじめたくなっちまうんだ。からかい甲斐があるっつーか!あーおいおい機嫌悪くすんなよー。この会話の主旨は、オレにはおまえがかわいくてたまんねーってところなんだぜ?」
「それ絶対嘘。えっち」
「そう何回もえっちえっちって言うんじゃあねー!煽ってるようにしか聞こえねーんだよ!」
早朝から飼い猫にちょっかいを出して牙を剥かれる飼い主の姿がそこにあった。猫の方は牙を剥いても甘噛で、それがおかしなことに快感だったりする。だからやめられない。詰まるところ、ホルマジオは今とても幸せだった。愛でられる方もまた然りである。