Give Me(w) Your Love!

 待ちに待ったホルマジオとのデート当日、午後三時頃。はプロシュートの伝手で予約していたヘアサロンを訪れていた。

 昨日ガレージで取り組んだ特訓の所為で、つま先の痛みはまだ少し残っている。それに最初からハイヒールを履いてアジトを出たのでは、約束の時間午後七時を迎える前に足が壊れてしまう。このような配慮の結果、サロンへは普段通りの格好――黒のパーカーとジーンズとスニーカ―――で訪れていた。だが、店の敷居を跨いだ瞬間からすでに自分が場違いな気がしてならなかった。

 オーガニックシャンプーか何かのベルガモットの香りが充満する店内。BGMはこれでもかとおしゃれな雰囲気を演出してくるスローテンポなボサノヴァ。カラフルな髪の色の美容師たち。メイクをばっちり決めてリラックスした様子でいる女性客たち。窓の少ない薄暗い店内を照らす電球色の照明。店のいたるところに配置された青々と茂る緑の観葉植物。受付の女性のにこやかな営業スマイル。

 全くもって居心地が悪い。はぎこちない笑顔をつくり、いらっしゃいませと言った受付の店員に話しかけた。

「三時に予約していた、です。
様、ですね……。お待ちしておりました。……少々おまちください」

 受付の女性はふわりと笑って店の奥を見やり、目当ての場所へと駆け寄った。客の頭にドライヤーの風を当てる背の高い男性に声をかけている。その様子をぼうっと見ていると、こちらを振り向いた男性と目が合った。はとっさに顔をそらした。

 プロシュートの伝手だからと、自分の髪のメンテナンスをするのはすっかり女性の美容師だと思い込んでいたのだ。は焦った。

「すみません。担当の者がすぐに参りますので、そちらのソファーにおかけになってお待ちください」

 戻ってきた受付の女性がに微笑んだ。は無言でこくりと頷くと、彼女が掌を向けた先にあった深紅で革張りのチェスターフィールドソファに向かって浅く腰掛けた。そして手持ち無沙汰な間アジトから持ってきた紙袋の中身を覗いて、まだビニールの袋から出してもいない黒のワンピースを上から眺め思索にふける。

 ――今日私はここで、女になるのだ。

 生まれてこの方、髪のトリートメントなどしたことが無かった。前髪は作ったことがないので伸びても耳に掛けて済ませてきたし、毛量が気になってきたとき、たまに美容院に行って切って整える程度の手入れしかしてこなかった。ヘッドスパなんてもってのほかで贅沢極まりないものという認識だ。金に余裕がないのにやることじゃないし、正直やる意味さえいまいちよく分からない。だがプロシュート曰く、頭皮の毛穴の皮脂の詰まりやよごれを浮かして落とす効果はもちろんのこと、マッサージで血流が良くなって、毛根に栄養がたくさん送られるようになるので美容を気にするならやって当然、らしいのだ。

 プロシュートは仕事の際、自分の能力で他人を老化させるだけでなく自分自身も老化させて陽動作戦に出たりするらしい。だから人の何百倍も毛根を酷使しているんだろう。ヘッドスパの効能に詳しいのはきっとそのせいだ。

 はにやりと口角を上げて、吹き出しそうになった口元を掌で覆った。まだ見たことは無いが、あの眉目秀麗なプロシュートがしわっしわのおじいさんになったところを想像すると笑えてきたのだ。

「お待たせ!」

 ひとりで楽しそうにしているの頭上から男性の声が降ってくる。先程店の奥に立っていた男性だ。は担当の美容師を見上げてしげしげと見つめた。

 人懐っこい笑みを浮かべた男の唇から覗く白い歯が眩しい。趣味はアウトドア系の何かなのか肌は小麦色に焼けている。そしてウェーブのかかった栗色の髪を、こめかみの辺りから横一線に刈り上げている。セリエAのサッカー選手にでもいそうな髪型だ。プロシュートに負けず劣らずカッコイイ。――まあ、ホルマジオには負けるけど。

 ホルマジオの猫可愛がりも大概だが、の依怙贔屓も大概である。

「プロシュートの紹介で来てくれた子だね。えーっと、ちゃん。かな?」

 はまた無言でこくりと頷いた。

「この後プロシュートとデートなの?」

 男性がデートと言い終わるや否や、は激しく首を横に振って否定した。

「じゃあ、他の誰かとデートなんだね」

 そして再三にわたって無言で頷いた。

 担当の美容師は名をカルロと言った。プロシュートとはたまにバーで飲む仲らしい。へえ、男とも飲むんだ。とは思った。カルロは手荷物を預かると言っての持っていた紙袋を取り上げると、紙袋の中身を見て言った。

「これ、デートで着るの?」
「……終わってから着替えようと思ってるんです」
「ならもう着てくれない?ヘアメイクとメイクまでやってあげるよ。服のイメージに合わせて仕上げたいからさ。大丈夫!お金は取らないから」
「え……お金、無い訳じゃないから」
「いいんだよ。プロシュートにはいつも世話になってるし。着替える場所はトイレしかないけど、中は広いから……さ、どうぞ」
「ありがとうございます……!」

 カルロから紙袋を受け取ると、はにっこりと笑って案内されたトイレの個室へと向かった。

 これは……儲けたな。兄貴に感謝しなくちゃ。

 着替えを済ませ、気に染まない様子でハイヒールパンプスに足を突っ込んだ。トイレから出てきた彼女から改めて紙袋を預かったカルロは、鏡前の客席へと彼女を案内した。そして手触りを確かめるためと、ブロッキングのためにと髪を掻き分けた時、背中のジッパーからぶら垂れるタグを発見する。

ちゃん。タグ付いたままだけど……返品するつもりでいる?もしそうじゃなきゃ、切って捨てちゃうけど」

 はひっと息を呑んで少しの間硬直した後、顔を赤くして言った。

「きっ……切って捨ててもらえませんか」
「りょーかい」

 カルロはハサミでタグの紐を切り、近くのゴミ箱に投げ入れた。持ち場に戻って鏡を見ると、は顔を真っ赤にして狼狽えた様子で視線を泳がせている。初々しくて、どこかあどけなさを感じさせる彼女の姿を見たカルロは微笑んで、この先の彼女の幸運をこころから祈ったのだった。



 かくして、は大変身を遂げた。

 痛んだ毛先を切り落とし、スチームを浴びせられながらトリートメント剤を揉み込まれた髪は水気が無いはずなのにしっとりとした手触り。後頭部で毛先までしっかりと纏め上げられた髪から敢えて少量残されたおくれ毛がセクシーだ。ヘッドスパのおかげで何だか頭はスッキリと軽くなり、顔色まで良くなった気がする。血色のいい肌は前日の配慮もあいまってつやつやもちもちといいコンディションで、化粧ノリもいいとカルロに褒められた。すっきりと今風に切り揃えられた眉と、アイシャドウを塗ってアイラインを引いた目元はの美しい瞳をより一層印象深いものにして引き立てていて、目を瞬けば長いまつ毛が悩まし気に揺れた。シェーディングとハイライト、頬紅に口紅――。こんなに色んなものを肌に塗りたくったのは初めてだった。塗りたくるとは言っても、厚塗りにならないように要所要所で加減がされている。彼女が化粧品の名称すら知らないものをまるで自分の手指か何かの様に自由自在に使ってをレディに仕立て上げたカルロは、最後に感嘆の声を上げた。

「ブラヴィッシモ!!すごく綺麗だよちゃん!」

 はまた顔を真っ赤にしてしばらくの間黙った後、ありがとうございますと呟いた。

 受付に戻って会計を済ませ手荷物を受け取る。着てきた服と靴を入れた紙袋は預かっていても大丈夫だというカルロの申し出をは受け入れ、ワインレッドの小さなハンドバッグひとつを持って店を出た。荷物を預かってもらえるのはとてもありがたかった。こんなハイヒールを履いているのだから、身軽であるに越したことはないのだ。

 日が傾きかけた午後五時頃の街を歩く。いつもは少しも気にならない、人の目線が気になった。特に、男性からの目線が。こんななりをしていても、実のところはギャングで暗殺者だ。あまり目立ちたくないのだが、そんなことで怖気づいていると逆に怪しまれると思い、は無視に徹し歩行訓練もかねて胸を張って歩いていく。

 待ち合わせの時間まではまだ二時間ほどある。暇な間どうしようかと、街の広場にある噴水のプールの縁に腰掛けて足を休める。あまり歩き回って足を酷使するわけにはいかない。何せこの拘束具――もとい、ハイヒールを履いているのだ。極力歩かないようにして暇を潰す方法を考えなければ。

 思い浮かんだのは喫茶店で時間を潰すという方法だった。喫茶店のコーヒーもにとっては高級品で、貧民が手に付けていい代物では無いという認識だ。だが今日に限ってはそうも言っていられない。コーヒー代というより場所代を支払っているのだと自分に言い聞かせ、裏路地に入ったところにある老舗の喫茶店へと足を向けた。

 そして午後六時半頃に店を出た。あたりはすっかり夜の帳が下りていた。家の窓からもれる明かりだけを頼りに大通りへと向かう。もう少しで大通りというところで、は溜息をつきたくなった。

 大通りに面したレストランの裏口にゴミ置き場があるのだが、そこにチンピラ連中がたむろしているのだ。たむろしているだけなら良かったのだが、その内の数名がニヤニヤと不快な笑みを浮かべながらこちらを見ている。そしてゆっくりと立ち上がり、彼女が立つ方に向かって歩き始めた。

 は深い溜息を吐いた。そして怯みもせず、足も止めなかった。あんたらに構っている暇は無い。頼むから構わないでくれ。だが彼女のそんな願いとは裏腹に、男たちが隘路を塞ぐようにして立ちはだかった。は立ち止まり、瞬時に出来上がった壁をねめつける。

「なぁ、ねーちゃん。オレたち今暇してんだ」
「どっか遊びに行かねー?ホテルとかさ」
「うっわー、イキナリかよ!ド直球だなてめー!」

 の意志など関係なく勝手に盛り上がってゲラゲラ笑いながら、男たちはじりじりと彼女との距離を詰めていく。距離を詰められても、は引かなかった。

 別にどうということは無いのだ。男たちは荷物の少ないを見て全く警戒などせず安心しきっているが、彼女に武器が無いと断定するのは間違いだ。武器そのものを持っている必要が無いだけなのだ。

 とは言え、いつも通り百パーセントの憑依率でブラックパンサーに変身する訳にはいかなかった。変身したが最後、せっかくカルロにセットしてもらった髪が解けてしまう。もしかするとメイクは残ったままでいられるかもしれないが、高確率で崩れるだろう。せっかく新調した服もビリビリにはならないまでも、胸下の切返し部分がブチっと音を立ててダメになってしまう。

 だから、手だけを変えるのだ。手だけを、猛獣の前足に変える。スタンド能力を持たないどころか、筋骨隆々というわけでもないドラッグに体をおかされたチンピラ風情なら余裕で戦闘不能状態にできる。

「さっきっからどうしたんだよねーちゃん。逃げねえってことはよぉ、オレたちとのデートに乗り気ってことでいいのかな?」
「男が待ってんじゃねーの?ビッチだねぇ、やらしいねぇ〜」

 下卑た笑みを浮かべ、男のひとりがの肩を抱こうとした瞬間、男たちの背後から唸るような声が聞こえてきた。

「女ひとりに三人がかりかよ。みっともねぇ」

 ああ?と言ってひとりが振り向いた瞬間、男の頬に拳がめり込んだ。軽く脳震とうを起こして体勢を崩し尻もちをついた男は、焦点の定まらない目で頭上を見やった。坊主頭の男だと認識したところで、男は意識を手放した。

 突如現れた坊主頭の男は残りふたりのチンピラにも同様の制裁を下すと、大して息も上がっていない様子での肩を掴んだ。

「おいねーちゃん。大丈夫か?」

 は気付いていた。男を殴り倒そうと背後に立ったのがホルマジオだと。だから彼女はオオヤマネコの大きく太い足に変えた手を振りかざす寸前で停止し、呆気に取られていたのだ。だが対するホルマジオはと言うと、彼女の肩を掴みしげしげと眺めるまで、男たちに囲まれていた女性がだとは気付かなかった。

「ん?待てよ……、なのか……?」

 ホルマジオは瞼をめいいっぱい持ち上げて、彼女の姿を上から下までじっくりと見た。右手がネコ科動物のそれに変わっている。そして足元には、昨日履いて歩く練習をしていたワインレッドのハイヒールパンプス。なるほど。で間違いない。

「み、見違えたぜ……」

 ホルマジオはごくりと唾を飲み込んだ。そしての両肩に手を掛け直し、目を見て言う。

「すげぇ綺麗だ」

 言われてすぐに、は恥ずかしそうに真っ赤になって熱く火照った顔を見られないようにと下に向けた。

「あ、ああダメダメ。顔は下げるな。このままずっとでも見つめていたいくらいだぜ

 するとすかさず、ホルマジオに顎を掬い上げられて上に向き直ることになった。チンピラ三人組が尚も隘路に転がったままうめき声を上げる中、恋人たちは時が止まったかのように見つめ合っていた。

 確かに、そういった類の誉め言葉をホルマジオから言われることを期待してはいた。だが、実際に言われてみるとやはりこっぱずかしい。褒められるのには慣れていない。それに、裏路地で男に絡まれるなんて初めてのことだった。絡まれて助けられるなんて、まるで映画やドラマのワンシーンみたいなのも初めてだ。助けてくれたのは、大好きでたまらないホルマジオ。夢でも見ているような気分だった。

「それに、なんだよこのおてては……」

 あ、スタンド能力解除するの忘れてた。気持ち悪がられちゃうかもな。せっかくおしゃれをしていても、手がこんなんじゃ台無しだ。

 ホルマジオに綺麗だとお褒め頂いたものの、内なるはかぶりをふって言った。――惜しかったわね、

 だが、彼女の意に反してホルマジオは興奮している。

「おててがにゃんこじゃあねーか!?肉球が、肉球がついていやがる!!」

 ホルマジオはの掌――肉球のある面――を表に向け、持ち上げつつ己の鼻先を近づけた。

「おひさまの匂いがするぜ!!しかもさいっこうにぷにぷにしている!!たまんねええええ!!なあ、!!今度手も足もにゃんこのに変えてオレを踏んでくれねーか!?」

 ――気に入っていただけたなら何よりです。

 恥ずかしそうに微笑むだけで、踏んでくれという要求には応じないを見て、ホルマジオはより一層に息巻いた。

「あああああそうやってオレを見て微笑むんじゃあねー!可愛すぎる!今すぐにでもおまえをさらっていってしまいたい気分だ!だが、生憎オレは腹が減っている。おまえもだろ?

 結局さっきまで入り浸っていた喫茶店では飲み物以外オーダーしなかった。昼に軽くパニーノを胃に入れてからは何も食べていない。はホルマジオの問いにこくりと頷いた。

「予約したのは、チーズ料理専門店だぜ」
「チーズ!?」

 は目を輝かせた。チーズは彼女の大好物なのだ。

「カプレーゼ、ラクレット、フォンデュにラザーニャ、デザートには超濃厚と噂のベイクド・チーズケーキ!オレの奢りだから、好きなだけ食えよな!さ、行こうぜ」

 ホルマジオは道に転がった男たちを足蹴にして、が歩きやすいようにと道をあけた。そして彼女の横に立つと腰を抱き寄せて予約している店へ向かった。

Side Story:
長靴ならぬ、ハイヒールを履いた猫 《後編》

 レストランでの食事の後、暗い小道をホルマジオはゆっくりと歩いていた。もちろん、ハイヒールを履いたの歩みに合わせてというのもあったが、何よりホルマジオはアジトに帰りたくなかった。その気持ちが彼の足取りを重くしている主な要因だ。

 まだ夜の九時にもなっていないのでリビングには暇を持て余したチームメイトたちがたむろしていることだろう。そんな中にこんなに美しい姿のを連れて帰るなど、腹を空かせた猛獣がひしめき合う檻に肉を放るようなもの。できれば脱いでほしい。いや、脱いで素っ裸にしたいとかそういうアレでは無い。そんな下心は断じて無い。いや、無いとは言いきれないが、と面識を持つ前までのノリなら完全にホテルに向かっている足だ。いったいオレはどうしちまったんだ。

 どうしちまったんだという自らの問いかけに答えが出せず、一度頭をクリアにしようとため息をついて考えることを止める。すると、今まで自分のそばで聞こえていたはずの、ヒールが石畳を叩く音が聞こえなくなっていることに気付いた。

 はっとして後ろを振り返る。また勝手にオレから離れたんじゃ、とか、こんな夜道をあんな格好でひとりうろつかせるなんてとても、とかと瞬時に考えて自身の落ち度を反省した。だが幸い、彼女は五メートルほど後方で、道の端にある家屋の壁に片腕を預け立ち止まっているだけだった。ホルマジオはに歩み寄った。

「どうした?食い過ぎて腹でもこわしたか?」
「ううん。……ちょっと、足が痛くて」

 よく見るとは、片足だけパンプスのストラップを外して踵を上げていた。ホルマジオはしゃがみこんで彼女の足を手に取って見つめた。暗くてよくは見えないが、見た限り、足裏に水ぶくれができていて、踵は靴擦れを起こしているようだ。

「よくここまで歩けたな?すげー痛そうだぜ」
「……ちょっと見栄はりすぎちゃったみたい」

 はにかんだような笑みを浮かべ、は顔を伏せた。伏せてホルマジオから見えなくなった顔は、情けないと悔し気な表情に変わっていた。

 これは好機だ。が怪我をして痛そうにしているのに、こんなことを思うのは不謹慎だと分かった上で、一方のホルマジオは心の中でガッツポーズをしていた。とは言え、足を怪我して歩けない程度なら彼女を担いでアジトへ戻ればいいだけの話である。酔ってへべれけでどこへ連れ込もうとも分からないような状態ではないし、もとよりをそんな状態にして無理矢理肉体関係を迫ろうなどとは――ホルマジオにしては非常に珍しいことに――微塵も思っていない。ただ一歩、踏み出すための時間が欲しかった。のことはまだ抱きしめるまでしかしていないので、今日中にキスくらいはしておきたいと思っている。だが、このまま帰ってしまえばそれも叶わない。

 ここからアジトまではまだ一キロメートル程の距離がある。途中に公園があるので、そこまでを担いでちょっと休憩しよう。小高い丘の上にある公園なので夜景も見渡せる。ロマンチックさは申し分ない。

「ちょっと休憩していくか」
「ごめんなさい。……眠くない?」
「まあ腹いっぱいで眠いっちゃ眠いが」
「そうだよね……。じゃあ、我慢してこのまま歩――っ!?」

 ホルマジオはヒールのストラップをかけなおそうと、痛みに顔を歪めながらしゃがみ込むを横抱きにして担ぎ上げた。

「んなことさせられるかよ」

 はホルマジオの肩にしがみついて顔を引きつらせていた。彼女が猫の姿だったなら、きっと毛を逆立てて耳を伏せていたことだろう。

 どうにか独特の心もとない浮遊感に慣れたを次に襲ったのはまた別の緊張だった。ホルマジオの顔が目と鼻の先にある。息がかかる距離だ。そう気付いた途端、心臓が早鐘を打ちはじめる。

 猫でいるときに抱き上げられて、鼻先をこすりつけられたことはあった。だが、猫でいるときと素の自分でいるときとでは心理状態がまるで違うのだ。彼女のスタンド能力、プッシーキャット・ドールズはいわば心の鎧だ。彼女は自分に自信が無いので、素の自分を覆い隠し強くありたいという変身願望が、そのまま彼女の能力となったのだ。いくらホルマジオに好きだかわいい愛してると言われても、染み付いた習性というのはそう簡単に変えられるものではない。

 もっと見ていたいから下げるなと言われた顔を、は両手で覆った。ホルマジオは歩きながら彼女を窘めた。

「顔、隠すなよ」
「は……恥ずかしいよ!下ろして!」
「足痛いんだろ?黙って抱かれてろ。あ、猫みてーに爪立てて暴れるんじゃあねーぞ」
「そうだ!イエネコになれば、軽くていいよね?」
「ダメだ!今はそのままでいろ。恥ずかしがってるおまえもかわいい。ほら、オレは今手がふさがってんだ。さっさとその顔を覆ってるおててを自分でどけねーか」

 はまた、ホルマジオに言われるがままゆっくりと手をどけた。目があってよくできましたと言いながらにっこりと笑ったあと、ホルマジオは進行方向を見やった。

 を抱えたまま、公園に向かう階段を軽々と上がっていく。そして街を見下ろせるベンチに彼女を座らせた。ホルマジオは少しだけ息が上がっているようだが、ゼーハーと息を荒げるほど疲れてはいないようだ。は力強い彼の姿に胸を熱くした。

 私を抱えてここまで上がっただけじゃない。レストランに向かう前も、私のことを助けてくれた。ただのチンピラとは言え、スタンド能力も使わず拳一つで三人をやっつけた。強くて優しいホルマジオ。今夜のことでますます彼のことが好きになってしまったみたいだ。

 は高鳴る胸に手を当てて、立ったまま眼下の夜景に目を向けるホルマジオの横顔を見つめた。足の痛みがすっと引いていくようだった。胸の方が痛いくらいに高鳴っているから、気にならなくなったと言う方が正しいかもしれない。

 今夜のことで、ホルマジオが私に好意を持ってくれているということは分かった。ただ、恋人らしいことはまだほとんどしていない。抱きしめられたり、恥ずかしくなるくらい褒めちぎられたり、ディナーを一緒にしたりはしたが、まだ遊んでもらっているとも取れる程度の関係。迷惑がられるかもしれないし、何もせがんではいけない。――今ここでどんなに彼とキスをしたいと思っていても、自分からは言い出してはいけない。例え言い出したとして何も問題が無いとしても、結局自分からは言い出す勇気がないけれど。

 またのネガティブシンキングが始まった。普通に考えれば、ほとんどペットが着けるような首輪に見えるチョーカーを纏わせながらおまえはオレのものだと言われれば、恋人になれと言われていることには気づきそうなものだ。現にホルマジオはのことを完全に恋人だと思っている。それにこんな彼女の胸の内を赤裸々に話せば、ホルマジオには十中八九ネガティブシンキングをやめろと窘められ、しょうがねぇなぁと言われながら抱き寄せられた後キスをすることになるだろう。だがはそれを知らない。ホルマジオが関係を一歩前に勧めたくてここに彼女を連れて来たことも当然知らないのだ。抱き合いながら大好きだと言い合った仲なのに、驚くことに、はまだホルマジオのことを恋人だと思っていないし、ホルマジオの恋人であるという自覚が無いのだ。

 引き寄せても足踏みをして一歩下がって、遠目でホルマジオを見ようとする。のその習性が、ホルマジオを困惑させているのかもしれない。それが、彼がいつも通りでいられない原因かもしれない。

 こんなにかわいくて、かと思えば綺麗で、でもやっぱりかわいくて。オレのことを大好きだと言ってくれて。オレの物だと言ったのに、どこかまだ完全に手に入れた気にならなくて。まるで家の中と外を行き来する放し飼いの猫を飼ってる気分だ。気を抜けばすぐにどこか遠くへ行ってしまいそうで、もう帰ってこないんじゃないかと心配でならない。

 そんな心配を払拭しようと、ホルマジオはキスをするよりも先に彼女を抱きしめるのだろう。ふと、首輪を付けたくらいで安心するなという、プロシュートの言葉が彼の脳裏をよぎった。うかうかしていたら他の男に奪われてしまうのではないかと彼を不安にさせるくらい、今日のは格段に美しい。

 ホルマジオはから受け取った薄地のハンカチを公園の水飲み場でかけ流しにされている水に浸し、ベンチに座る彼女に渡した。それを軽く傷口に当ててある程度清潔にしたあと、はショルダーバッグから絆創膏を取り出し靴擦れを起こした踵に貼り付けはじめる。

「足、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。兄貴に絆創膏持って行っとけって言われたんだ。絶対こうなるからって」

 奇しくも、ホルマジオがあのいけ好かない同僚を頭に思い浮かべた途端、がその名を口にした。ちょっとむっとしてホルマジオは眉根を寄せる。だがやがて、こうなると知っていてもオシャレをして来たかったという彼女のいじらしさにいっぱいになる方で彼の心は忙しくなった。

 ホルマジオは今までこんな感情に悩まされたとは一度もなかった。胸がいっぱいになって苦しくなってどうすればいいかわからない。それこそ思春期の少年のような心境だ。今まで女性に何気なくやってきたことが、には何故かできない。大切にしたいと心から思った女だから、彼もまた嫌われたくないと思って足踏みしている。

 キスがしたい。その後優しく抱きしめて、またキスを。そう思っているのに、出てくるのは彼女を気遣う言葉ばかり。核心に迫れない。こうなったらやけくそだ。

 ホルマジオは隣に座るをじっと見つめた。彼女もまた、彼を見つめていた。顔と顔の距離はそう遠くない。ふたりの間には綺麗な月が浮かんでいる。下には星屑を散りばめたような美しい夜景が広がっている。ムードは完全に出来上がっている。

 の瞳はやはり綺麗だった。透き通るような、見ているだけで心が洗われるような、美しい瞳。それに吸い込まれていくように、ホルマジオは顔を近づける。だが彼の顔は、もう少しで鼻と鼻が触れ合うという距離でその場にとどまった。途端、唇が震えだす。

 ――あれ……キスって……どうやるんだっけか……?