午前三時。行きつけのバーの店主から店じまいだと言われて追い立てられたホルマジオは、ふらふらと覚束ない足取りでアジトへ向かっていた。皆が寝静まって、少ない街頭が辺りを照らすだけの仄暗い帰り道。まわりのしんとした空気は酔いを覚ますのにちょうど良かった。
結局町中での姿を見ることは無かった。男と一緒にいる所を目撃しなくて済んだのは良かった。だがだからと言って彼女が今夜、どこの馬の骨とも分からない男と一緒にいないと言える訳ではない。もしかすると男の家に転がり込んでいるだけかもしれないし、今頃転がり込んだ先であられもない姿にひんむかれていたりして……。
危惧の念だか嫉妬だか妄想だかよく分からないもので頭をいっぱいにしたホルマジオは、最近なぜこうもという新入りのことで頭がいっぱいなのかと改めて考えてみた。
彼女の凛とした瞳を見るたびに覚える既視感。きっと自分はその瞳を初めて見たときに綺麗だと思った。だから忘れられないでいる。だが恐らく、当時はその美しい瞳に見入る以外のことをしなかったので、瞳の色、目の形、そしてその持ち主が恐らく女だったということ以外覚えていない。その瞳の持ち主がどんな顔をしていて、どんな格好をしていて、どんな声をしていたか、なんてことはまるで覚えていなかった。そして出会ったのはいつどこでだったか。
酒が入ると、妙に感覚が冴え渡る時がある。いつもならすぐには出てこないような難しい言葉や、忘れていたはずの記憶がふっと戻ってくることがある。その調子で、ホルマジオはいつ、どこで、と考えた時、ふと建材が不法投棄された空き地の景色を思い出した。
雨の降りしきる中、口径一メートル程の鉄筋コンクリート管の中で、膝に弱った仔猫を抱え雨宿りをしていた。あの瞳を見たのは、確かその時だ。
肝心の瞳の持ち主に関することはやはり思い出せなかった。だがきっと、あの瞳を昔見たことがあるとするなら――彼女に昔会っているとするならば――その時以外にはない。間違いない。
酔った頭でなんの根拠もなくそう断定すると、ホルマジオは決意した。前に会ったことあるよな、オレたち。そう問いかけてみようと。新入りと出会ってもう1ヶ月以上経つ。出会い頭にそんな話を振るよりは幾分マシだろう。あとはそんな話をするキッカケをどうやって作るかが問題だった。彼はつい先程、新入りの教育係という任を解かれてしまったので、仕事以外でふたりきりになるタイミングを掴まなければならない。
アジトに着いたのは三時半頃だった。当然のことながらリビングにはもちろん、チームメイトがいるわけもなかった。誰もいない静かな暗闇の中を電気もつけずに進み、ホルマジオは自室へと向かう。階段を上がってすぐの自分の部屋の前に立つとズボンのポケットから鍵を取り出して開け、ドアノブに手をかけた。
そう言やぁネコのやつ、今晩は来たのかな。
猫がホルマジオの部屋を訪れるようになってから、例の毎夜の逢瀬をすっぽかすのはこれが初めてだった。扉を開けた向こう、ベッドの上でネコが寝ていてくれれば少しは慰めになるのにな。などと思いながら、ホルマジオはゆっくりと扉を開けた。部屋に入り、後ろ手に鍵をかけ、クワッと大口を開けて伸びをしながらベッドへと近づいていく。
………………ん?
ベッドの上を見て、ホルマジオは眉間に皺を寄せ目を細めた。ブランケットが盛り上がっている。そして盛り上がった山は、呼吸でもするかのように小さく上下している。恐らく何か生物が丸くなって寝ているのだ。
丸くなって寝る代表的な動物と言えば猫だ。だがあいつにしては膨らみが大きすぎる。じゃあ、いったい何がここで寝るってんだ?
警戒心と好奇心が半分ずつ。そんな心境でブランケットをつまみ上げ、ゆっくりとめくっていく。めくってすぐ、人間の肌が見えた。滑らかに湾曲した、柔らかそうな背中だ。女だ。ホルマジオは事態を呑み込みきれず、思考することに全神経を奪われ手を止めた。
現時点でわかるのは、上半身に何も纏っていない女が――何故かホルマジオのベッドの上で――彼に背中を向けた横向きの状態で寝ている。
いやいやいやおかしい。マジにやべえ。幻覚見るほど酒を飲んだ覚えはねーぞ。どうしてだ。つーか誰だ。てかこれは現実か?女と会う約束でもしてたか?いや、仮にしてたとしてもここには絶対に呼ばねーし、部外者はアジトにゃあ入れねーよ。ってことは、つまり?部外者じゃねー女ってしかいねーよな?あーおい勘弁してくれよ。そんなにショックだったかよ。が夜ここにいねーってことがよ。いい加減にしろよホルマジオ。目を覚ませ目を……。
ホルマジオは一度目をきつく閉じて数秒待ってから目を見開いた。目の前の景色が変わることに、これがただの夢幻であることに期待して。だがそんなことをしても景色は変わらないし、背中に受けるひんやりとした外気など気にも留めずに不法侵入者は寝息を立て続けている。
この不法侵入者がであると大方の見当を付けたホルマジオはごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。まだこれが本当にだと確認は取れていないので、彼はブランケットを剥ぎ取らねばならない。
意を決して、ホルマジオはひと思いにブランケットの裾を掴んだまま勢い良く腕を引いた。
ブランケットをすべて剥ぎ取ったベッドの上。そこには上半身どころか、下半身にさえ何も纏っていないが横たわっていた。
――なんでだよ!!??
さすがに寒くなったのか、は小さく声を漏らして更に背中を丸くしたが、しばらくすると異変に気づいたのかさして慌てる様子も無くゆっくりと上体を起こした。彼女は寝ぼけ眼をこすりながら人の気配を感じて背後を振り返る。呆気に取られたホルマジオがぽかんと口を開けて彼女を見下ろしている。
「お……おい。何だってお前がオレの部屋のベッドで、しかも素っ裸で寝てんだ……?」
そう問いかけられてようやっと覚醒したは、みるみるうちに顔を真っ青にしていく。そして反射的にホルマジオの腕からブランケットを奪い取った。
普段からホルマジオの前ではうまく喋ることができないというのに、この奇想天外極まる非常事態においてが上手く弁明できるはずもない。
自分は猫科の動物に変身できるスタンド能力を持っている。貴方のことが大好きなので、猫の姿になって毎晩会いに来ていた。
などと、赤裸々に胸のうちを証した上で何故こんなことになってしまったのかと説明できるわけがない。だから彼女は、道路に飛び出した後になって自身に車が迫ってきていることに気づいた猫のように、頭を真っ白にして硬直するしかなかった。
「オレ……部屋に鍵……かけてたよな?」
先程自分が鍵を開けて部屋に入ったはずの扉を指差して、ホルマジオは困惑を極めた表情で目の前にいる素っ裸の女に問いかけた。問いかけられたは尚も硬直したままブランケットを握った拳で胸を押さえ、ホルマジオを見上げていた。今の彼女にはどくどくと激しく高鳴る自身の胸の音以外聞こえていない。仮にホルマジオの言うことが聞こえていたとしても、きっと口は思うように動かないだろうし、どちらにせよホルマジオは今の彼女から彼の求める答えなど得られるはずもなかった。
「どうやって入った?……ピッキングでもしたのか?それとも……そういう能力持ってんのか?つか何で素っ裸なんだよ……」
ホルマジオがに対して矢継ぎ早に繰り出す質問は全て、“私のスタンド能力の所為です”という返答で解決する話だった。
“プッシーキャット・ドールズ”とは自身のスタンドに名前を付けていた。スタンドの名を呼べば、彼女がなりたいと思ったネコ科の動物が幽体として出現し、まるでシャーマンの様にスタンドを体に憑依させることができる。その憑依率によって身体の変化の度合いが変わるのだが、百パーセント憑依させて丸ごと変身することを基本形態としていた。そして憑依させた瞬間から身体が思い描いた通りのネコ科動物へと変化していく。思い描いた動物によっては人間の体で纏っていた衣服を大きな身体で張り裂いてしまいかねないので、基本的に変身前には脱衣する。つまり能力を発現させた場所に衣服があるので、今この時、ホルマジオの部屋に彼女の衣服は無い。
そして彼女はこの部屋で寝るつもりなど少しも無かった。だがいつもの様に猫の姿になった後自室からベランダや屋根を伝ってホルマジオの部屋に向かい、なんだかよく分からない経緯でセンチメンタルになって、これで最後にすると自分に言い聞かせながらホルマジオのベッドに猫の姿で潜り込んだ結果、ホルマジオの匂いだとかブランケットの暖かさだとかの所為で心地よくなってしまい、結果寝てしまった。
は寝てしまえばこんなことになると分かっていたのだが、ホルマジオが傍にいないのでつい気を緩めてしまっていた。寝ると精神エネルギーは途切れるので当然スタンド能力も発動しなくなる。つまり、素っ裸の女の姿に戻るわけだ。猫の姿のままでいられたならば、猫が本来持つ警戒心の強さと聴力の良さを発揮して、ホルマジオがアジトに戻ってきた瞬間に目覚めることができただろう。だが残念なことに彼女はとっくの昔に人間の姿に戻ってしまっていた。
「あ、あの……ほっ……ホルマジオ……その…………」
落ち着いたのか、それとも何も喋らずにいても仕方がないと腹をくくったのか、は顔を真っ赤にさせてホルマジオからは視線を逸らしたままぼそぼそと呟くように話し始めた。
「お、おう……」
「あ……あたし……自分の部屋に戻っても、いいかな?」
「………………ダメだな」
「……どうして?」
「いや、どうしてもこうしてもおめーな!この状況でオレがお前をすんなり部屋に返すと思うか!?酒飲んで帰ってきたら素っ裸のおっさんが泥酔して自分のベッドで寝てる、なんて状況に比べりゃ比べもんにならねーくらいオイシイ状況ではあるが、お前はまずどうやってこの部屋に入ったのか説明しなきゃいけねーだろ!ギャングの殺し屋相手に不法もへったくれもねー気はするが、お前はオレの部屋に不法侵入してんだ。しかも素っ裸でだぞ!?素っ裸って、いやまじで何で素っ裸なんだよ!?わけわかんねーよもうホントありがとう!!!」
ありがとう……?
ホルマジオは必死の訴えの最後で何故かに感謝していた。には何故彼に感謝されなければならないのかが分からなかった。だが一つだけ確かな事は、彼の疑問に全て答えない限り“人間の姿のまま”ではこの部屋から出られないだろうということだった。一応人間の姿のまま何とか言い逃れられないかと考えてはみたが、完全に酔いが醒めて血気盛んな様子のホルマジオを納得させるに足る嘘は思いつかなかった。恐らく無理に出て行こうとしても、男の力でねじ伏せられてしまうのが落ちだろう。
は覚悟を決めた。きっとこれからやることは、ほとんど自分の心中を明かすような行為だ。だがホルマジオが酷く鈍感なら有耶無耶にできなくもない。人間の姿のまま一から十まで事細かに説明するよりはきっとマシなはずだ。
「プッシーキャット・ドールズ……」
はスタンドを出現させる。いつもホルマジオが夜だけに会えたあの、長毛の美しい白猫が突如としての傍に現れた。
「……?……そいつは……!」
そして幽体のその猫はの肩に跳びかかり、首筋に噛みつくようにして彼女の身体に頭部から浸透し融合していく。スタンドと融合してオーラを纏ったはみるみるうちに体の先端から中心に向かうように猫の姿へと変化していった。いつもこの部屋に訪れるあの白猫が、ベッドの上に実体を伴って現れた。
「――っ!!お前……、だったのか……!?」
「ニャーッ」
ネコ、もといはホルマジオの横をすり抜け、開いた窓の方へと駆けていった。
「お、おい!待てよ!逃げるんじゃあねー!」
ホルマジオは弾かれた様に猫に向かって駆け出し、窓の縁に腹を打ち付け身を乗り出した。待てと言って逃げる猫が待つわけもない。その猫は実のところなワケでホルマジオの言っていることは分かっているはずなのだが、そんな彼女が待つわけもない。はベランダの柵を伝い屋根に跳び乗り、角を曲がって姿を消した。曲がった先には彼女の部屋がある。
今からの部屋の前に行って扉をけたたましい音を立ててノックして、引き続き説明を求めてやってもいい。だが朝方から騒がしくするのも、騒がしいと目を覚ました男たちに先ほどホルマジオが目の当たりにした夢のような光景について説明するのも面倒だ。と言うか、恐らく妄言も大概にしろ気持ち悪いと罵られるのが関の山だ。
ホルマジオはとりあえず心を落ち着かせようと、部屋着に着替えて真っ裸のが先程まで身を横たえていたベッドに寝転んだ。シーツもブランケットもまだ温かい。の体温が残っている。そのが一糸纏わぬ姿でここで寝ていたのだ。そう考えた途端、ホルマジオの胸は高鳴った。
クソ……眠れるかよ!
完全に酔いが醒めていたし、何故?と考えれば考えるほど脳はホルマジオに寝ることを許さなかった。二日酔いの症状が既に出始めているのか、それとも考えすぎている所為か、ズキズキと頭が重く痛い。
ネコがだ。ホルマジオは昨晩まで夜を共に過ごした猫の姿を、先ほどのの姿に置き換えてみた。あの猫がだったということが何を意味するのか考えやすくなると思ってのことだったが、途端にそれは淫猥なただの妄想と化してしまう。自己嫌悪に陥ったホルマジオは頭を抱えた。
ネコは――つまりは――最初から酷く自分に懐いていた。元の姿で初めて挨拶を交わした時はひどく素っ気ない態度だったのに、その日の夜に猫の姿になって彼女は部屋に来た。それから毎晩はこの部屋を訪れた。執拗に額をすねや手のひら、顎に擦り付けながら喉を鳴らし、美しい双眼で見上げてきた。普段の彼女とは真逆の態度だ。まるで別人だ。二重人格なのか?
好きでなければしないことのはずだ。猫だろうが人間だろうが、自分の体なんて心を許した人間にしか触らせないはず。
……アイツは、オレのことが好きなのか?
そう考えると胸が熱くなった。
普段は口を全く開かないでもじもじしてるくせに、猫の姿になったら随分大胆じゃねーか。好きだと口で言えないから、人間の姿だと恥ずかしくてできないから、猫に化けてすりすりごろにゃんしてきてたってのか!?なん――って健気でカワイイやつなんだあいつはよォッ!!!たまんねーな!!!
ホルマジオはが期待したほど鈍感では無かった。そして彼は簡単にの捕獲計画を練った。
今すぐ部屋に行くのは良くねぇ。もっと殻に閉じこもっちまう。だから気が緩んだところで問い詰めてやるんだ。今度は絶対に放さねー。気も抜かねー。スタンド能力使ってきたらオレだって応戦してやるんだ。小さくなってふっさふさの毛皮に纏わりついてやる。
自室へ戻ったは四本の足で床を踏みしめた後すぐに能力を解除した。再び生まれたままの姿に戻った彼女は慌ててベッドに近寄り、畳んでおいた下着と寝間着に手を伸ばした。全て身に付けるとブランケットの中に潜り込んで頭を抱えて丸まった。涙がとめどなく溢れてきた。
どうしようどうしようどうしよう……!絶対嫌われた!!絶対、痴女だって思われたッ……!!
とんでもないヘマをしでかしてしまった。どうしてホルマジオのベッドで寝落ちしてしまったんだろう。いやそれ以前に、どうして彼の部屋に入ってしまったんだろう。いないと分かったその時に部屋に戻っていれば、こんなことにはならなかったのに!
後悔先に立たずとはまさにこのことである。
そもそも冷静になって考えてみると、会ったばかりの女が――例えそれが猫の姿であったとしても、今となってはその猫が自分だったと割れてしまっているのだ――会ったその日から夜這い紛いなことを毎晩しに来ていた、なんて知ってしまったら自分でも気持ちが悪い。当の本人は気持ちが悪いどころの話ではないだろう。恐らく一般人なら警察に相談するレベルのストーカー行為だ。
会ったばかり。ホルマジオにとってはそうでも、にとっては違った。彼の存在こそ、彼女が暗殺者チームに身を寄せるに至った主な要因だった。つまりは以前ホルマジオに会っている。彼もそんな過去に気づき始めているのだが、そのことをは知らなかった。
そして心配せずともホルマジオもまたに好意を寄せていた。さらに言えば男にとっては、酔って帰ってきたら裸の女が自分のベッドで寝ていたなんて状況は、本来なら狂喜乱舞すべき事象である。寝ている素っ裸の女がタイプで尚且つ全く知り合いでもなんでもない女なら、状況を把握しようという理性もろくに働かない内に股間が反応を示し始めていただろう。ホルマジオとはそういう男だ。
ただホルマジオにとってはあまりにも意外な光景が過ぎていたので度肝を抜かれてしまい、には疑問をぶつけることしかできなかったのだ。彼の中でという新入りは、しおらしく物静かで憶病な、そしていたいけで可愛らしい女でしかなかった。そんな女が自分のベッドで全裸で横たわるなんて、流石の彼でも夢ですら見なかった光景だ。嬉しさとか下心だとかの前に驚愕と疑問が彼の思考回路を支配するのも無理は無かった。
はブランケットの中でさめざめと泣きながらも外の気配を探っていた。ホルマジオの部屋を出て五分程度経過しているはず。未だに彼が部屋を出てこちらに向かって来る音はしない。
は一瞬安心したが、更に時間が経過するごとにどんどんマイナス思考に囚われていってしまった。
呆れて怒る気も失せてるんだ。とか、明日以降目が合った時にシカトとかされたらどうしよう。とか、さっきのことを皆に言いふらされたりしたらどうしよう。彼はきっとそんなこと面白がってやるような人じゃあないだろうけど、でも……。と、思いつく限りの良くない未来を思い浮かべては、ぽろぽろと瞳から涙を零してシーツを濡らした。
きっとが自身の気持ちをホルマジオにしっかりと伝えることができていれば、彼女は嗚咽しながら朝を迎えることはなかっただろう。何故ならふたりは、互いに知らない内に好意を寄せ合っている。彼女はホルマジオの部屋から逃げ出さずに、人間の姿で、人間の言葉で思いを伝えるべきだったのだ。